第3話:「こっちは人間か?」と黒衣の老魔法使いが言った。
「…………こっちは人間か?」
誰かが言った。
しゃがれた、くぐもったような声だった。
薄目を開ける。
ピントが合わない視界は全体がぼんやりと緑色で、光の粒が輝いている。空気には土のにおいが混じっていた。
『森だ』という冷静な観察と、『……ほんとに来ちゃったのか』という半信半疑が同居している。
異世界転生、記念すべき1秒目は、そうして幕をあけた。
瞬間、ぐわんと世界が揺れた。
も、持ち上げられた……!?
「丸い耳……。人間じゃの」
ごつくて温かい手が僕の腹と背中をつかんでいる。……って、なんだこれ、手、めちゃくちゃでかくない? お腹の側は、首元から下腹部まで温かい感触がある。つまり、この声の主の手のひらは、僕の上半身くらいの大きさだということだ。
「”識―2の法 対価は2つ”」
声の主がなにかをつぶやいた。
「ふむ。……いずれの赤子も、魔法の才は申し分ないようじゃ」
魔法、と言った。聞き間違いじゃない。
じゃあさっきのは呪文?
「だぁ」
声が出た。
自分の喉からだ。
「だ、ぁう……」
納得。声の主が大きいんじゃなくて、僕が小さいんだな。
神様は『受け皿』を用意すると言った。
どうやら僕は赤ちゃんになってしまったらしい。
「目が覚めたか」
ころん、と。
ごつい手のひらの間で、僕はひっくり返される。
視界がぐるんと回り――――
目の前に、ヒゲもじゃのおじさんが居た。
「わしはゲルフと言う。ピータ村に住む魔法使いじゃ。
お主は……魔法使いになるか?」
もともとは黒かったであろうボサボサの髪の毛には白髪がまじり、くたびれた黒いとんがり帽子をかぶっている。老魔法使い。その単語のもつイメージどおりの人だった。
ゲルフの瞳の光は優しい。
だが、すぐに表情を曇らせた。
「しかし、どういう事情か……。赤子が2人も……」
2人?
僕の他に、もう1人?
「手触りのよい布じゃ。やはり、貴族か騎士様の捨て子じゃろうか……」
老魔法使いゲルフは僕の身体に巻き付いていた布に触れ、その手で、僕の額を撫でた。ごつくて、乾燥していて、大きくて、温かい手のひらだった。
小さな黒の瞳が、優しい光をたたえてこちらを見ている。
「お主には魔法の才がある。我がピータ村はまあ、貧しく小さい。じゃが、赤子に布だけを与えて捨て置くようなことは、せぬ」
「……だぁ」
「お主はもう話を聞けるのか。大物になるやもしれんのぅ」
ふっふ、とゲルフは笑った。
「……ゎぁぁぁぁあああああんッ!」
不意に、別の声が聞こえた。
赤ちゃんの泣き声だ。
眉をぴくりと動かしたゲルフは、僕ではないもう1人に「寒かったか? すまぬな」と言った。ゆっくりとした手つきで、僕はカゴみたいなものに入れられる。
「お主、この子をあやしてやってくれぬか?」
「わあああああああああんッ!」
僕は見る。
同じカゴの中にいる、もう一人の赤ちゃんを。
上気した白い肌と、カゴのなかで暴れまわる四肢。ぷっくりとした頬は口を大きく開けたせいでしわくちゃだ。ふわふわとしたベージュ色の髪。透明にキラキラ光る涙の粒が、目元から耳のあたりに流れて――――
「兎人族の女の子じゃよ。少し待っておれ。グラシアを呼んでくる」
ゲルフの足音が遠ざかっていく。
僕は……
目の前の赤ん坊の……
耳があるはずの場所の、つるんとした皮膚を凝視していた。
「ああああぁぁぁぁ…………」
耳が、ない。
目はある。口もある。鼻もある。でも、耳はない。
ぞわぞわする。
……あ。
あった。
ふわふわとしたベージュ色の髪の中。頭部の後ろに、ぴこんと。
真上に伸びるこの感じは……え?
ウサギ?
「…………?」
赤ちゃんは、いつの間にか泣き止んでいた。
大きな青の瞳がこちらを見ている。赤ちゃんはベージュ色の髪を揺らして、首をかしげる。
「……!」
か、かかかか、かわいい……!
これってあれだ。擬人化だ。ウサギの。
ほんとに夢じゃないのか……?
僕は手を伸ばして、赤ちゃんの頭頂部にぴょこりと生えているうさみみをそっと触ってみた。柔らかくて、ふわふわしていて、まるで植物の新芽のようなのに、体温を感じる。
「……う?」と赤ちゃんが首をかしげた。
そうか、ごめんね、うるさいよね。僕は手を引いた。視界に映るのは妙にむちっとして小さい自分の腕。人差し指と親指をこすり合わせる。さっきまでのうさみみの感触、自分の皮膚がふれあう感触、――2つの触覚はどこまでもリアルだ。
「きゃぁぅ」
顔を上げると、うさみみの赤ちゃんはにっこりと笑っていた。
……ゲルフは2人とも拾い子だと言った。
つまり、僕たちは姉弟の関係になる。
こ、これは……ッ!
瞬間、僕の目の前に未来予測が一瞬で広がった。
一緒に勉強、一緒に食事、一緒に家事、一緒に睡眠、一緒に入浴――そんな幼少期を経て、互いの変化に気づく。美しく成長した擬人化娘。僕がうっかり耳を触っちゃうドジから「耳は、ダメ……」までの流れは10回くらいやりたい。そんなこんなで僕たちはいつしか次第に互いを意識するようになって、熱い想いを交換して、そして2人は――――
ああああ! いいよ! いいよこれ!
よし決めた。
この子は僕のメインヒロインです。
結婚します。
「さて。行こう」
大いなる決意を抱いた僕とその妄想の被害者となった少女の入ったカゴが、老魔法使いによって持ち上げられた。
ぶるっひぃぃ。鳴き声が聞こえる。グラシアは馬だったのか。
ぱかり、ぱかり、とグラシアが歩み始める。
天井のような森が視界を流れていく。
僕はもう1人の赤ちゃんを見た。赤ちゃんもまた青い大きな瞳で、こちらを凝視している。
「だ」
僕は、そう言った。
絶妙なアクセントで『結婚して下さい』という意味を表現した。
赤ちゃんは大きく目を見開いて――――
「きゃ、きゃっ」と、笑った。
「…………」
そのあまりに純粋な笑顔に心が洗われた僕は、異世界に転生してわずか30秒のうちに、自分の妄想を痛烈に恥じることになった。
「…………ラフィアじゃ」とゲルフが唐突に言った。「うむ、女の子はラフィアと名づけよう」
大きな腕が伸びてくる。老魔法使いの節くれだった人差し指が赤ちゃんの柔らかそうな頬をつついた。「……む」とラフィアは少しだけ不機嫌な表情を浮かべる。
「さて、お主は……」
カゴの中から老魔法使いを見上げると目があった。頼みますよ、ゲルフさん。僕の一生がかかってるんですからね。老魔法使いは「うむ」と力強く頷き返してくれる。いける。絶対いける。これはカッコいい名前をつけてくれるに違いない。
しばらく沈黙した老魔法使いは、重苦しい口調で「……タカハじゃ」と言った。
…………ちょっと待って。
なんだそのとってつけたような名前は。
「ううだぁ」と僕は言った。絶妙なアクセントで『タカハって語感がなんか微妙だし、前世の高橋っていう名前に似すぎているからちょっと嫌ですねぇ』という意味を表現した。
「おお、そうか。もうすぐじゃからな、揺れてしまってすまぬ」
違うんです。不満はそっちじゃなくて……。ああ。タカハかあ。なんだか締まらない……。
僕たちは馬の背に揺られ、門のようなものをくぐった。
――――そのときだった。
「ゲルフ様――ッ!」
老魔法使いは手綱を引いて馬の足を止めると真横に首を回した。その動きは素早かった。僕だって身構えている。そのくらい、ゲルフを呼び止めた声には緊張感が含まれていた。
「リリム。……何事じゃ?」
「今さっき騎士様がお見えになりました! 招集です!」
ゲルフの表情がゆっくりと、だが確実に曇っていくのを、僕はカゴの中から見上げている。
「すぐ行こう」
なんだ。なにがあったんだ。気になる。
けれど――眠い。めちゃくちゃ眠い。それから数秒も耐えられなかった。赤ちゃんの身体の睡眠欲は悪魔のように強力だった。僕の意識は、あっさりと暗闇に落ちていった。
――
「――――で、どうするんだい?」
ニコニコとソフィばあちゃんが言った。
粗末な木組みの家の中では、燭台の明かりが揺れている。窓の外はもうすぐ完全な闇に落ちようとしていた。
「育てる」
「どうやって?」
「……頑張って」
ゲルフは駄々っ子のような口調だ。
対照的に、ソフィばあちゃんは相変わらずニコニコとしている。
兎人族のソフィばあちゃんは、ゲルフが僕たちを拾ってきたときから手際よく僕たちを世話してくれていた。白髪から白いうさみみが小さく飛び出している。ティーガという名前の質素な服をこの世界の人は着ていて、ソフィばあちゃんのは白色。なめし皮のベルトに、裁縫道具をおさめたポーチをつけている。
「どう頑張るのさ?」とソフィばあちゃん。ニコニコ。
「飯を食わせて、服を変えて、あやしつけて眠らせる」
「今のこの子たちには何を食べさせるんだい?」
「ビムの実の汁くらいなら……」
「馬鹿言っちゃいけないよ。あれは甘い香りがするだけのただの水じゃないか。力が足りなくて死んじまうだろうねえ。……イエナの実を潰して、それを粥にして、食べさせるんだよ」
「し、知っておったわ。冗談を言ったのにすぎぬ」
ぷいん、とゲルフは顔を背けた。なんだか分かりやすい関係だな……。
「じゃあ、この子たちの服を変えてみておくれよ」
「……もちろんじゃ」
ゲルフがカゴの中の僕に目を合わせた。
「おとなしくしてておくれよ」
マジだった。ゲルフの目はかなりマジだった。節くれだった手がカゴの中に伸びてくる。むんず、と掴まれる。布が引っかかって……ちょ、苦しい。首が苦しいよ。状況は分かるからできるだけ協力したいけど。
「……だぅ、うぅ」と抗議の声をあげてしまった。
「ゲルフ、それじゃあ首のところが苦しいだろう?」
「おっと!」
慌てた様子でゲルフが布の絡みつきを解いた。
その反動で、僕はカゴに頭をぶつけてしまう。
「びゃあああああああああああああああああああああ――ッ!」
痛い。
と思った瞬間に、反射みたいに大声で泣いていた。
僕はまだ赤ん坊のこの身体を完全にコントロールできていなかった。
「す、すまん!」
戸惑うゲルフの横からソフィばあちゃんの手が伸びてくる。
しわの多いその手は、でも、絶妙なバランス感覚で僕の全身を支えている。そうそう、首の後ろのほう支えてもらうとすごく楽なんだよね。ソフィばあちゃんはあっという間に僕の服を変えてしまった。
「ピータ村のゲルフ様も赤ん坊の前では型なしだねえ」
「…………ソフィ」とゲルフが言った。
その声には――赤ん坊の僕には理解できない程度の、色んな感情が混ざっていた。
「いいよ。機織り以外することもないしね」と答えるばあちゃんの声にも。
「……ありがとう」
「あんたの口から感謝の言葉が出るとはねえ」
「負担にしかならぬじゃろうが。必ず、礼をする」
「くっくっく。あんたから礼をされるとはねえ。これは槍が降るね」
ゲルフはやっぱり重苦しい声で、すまぬ、と言った。
謝るんじゃないよ、とソフィばあちゃんがさっぱり切り捨てた。
「あんたの『子ども』にするのかい?」と、ばあちゃん。
「……他に手があるのか?」
「『子ども』にすれば、私たちと同じ魔法奴隷だろう?」
…………え?
「今からなら……隠して育てることが、できるんじゃないのかい?」
ばあちゃんは懇願するような口調だ。僕とラフィアのためを思ってくれているのだと分かる。そんな口調だった。
でも、僕はそれどころではなかった。
魔法、奴隷……?
僕の胸の中に、夕立のときみたいな暗い雲が広がる。今の僕は奴隷に拾われた赤ん坊ってこと? 想像もつかなかった。だって、普通の村に暮らしているように見えた。ゲルフもソフィばあちゃんも、食事は足りているみたいだし、しっかりとした服を着ているし。
「騎士様に報告しないという選択肢はわしも考えたよ。しかし、損のほうが大きい。もし発覚すれば、よくてピータ村からの追放。騎士様の気分によっては死罪じゃ。……リリムや何人かの村人たちにはすでに見られてしまった。騎士様に告げ口をされれば逃れようがあるまい」
「……そうだね」
「ソフィ?」
「大丈夫だ。気にしないでおくれ、最初から無理な話だった」
ソフィばあちゃんが近づいてきて、僕の額のあたりを指でなぞった。その指はしわくちゃだったけれど温かい。ゲルフとよく似た手だと思った。金色の瞳が穏やかな光をたたえて僕を見ている。
「……賢そうな子だねえ」
「どこか見透かしておるような感じがする」
僕はどきりとした。当然だ。僕の脳内では22歳の思考が走っている。
「……変えられれば、よかったんだがね」
ソフィばあちゃんは、僕の向こうに僕ではないなにかを見ながら、そう言った。ゲルフは窓の外を見ている。つられて僕も窓の外を見た。
「…………あぅぁ」
月があった。
月は2つあった。
これまでの経緯よりも何よりも、その2つの月が、ここが異世界なのだと僕に教えていた。
ゲルフは凪いだ瞳で僕を見る。
「足掻いた。抵抗した。公爵閣下にも直談判をした。それでも、無理じゃったろう。少なくともわしら2人では、な」
「……ああ。そうだったねえ」ばあちゃんはため息をついた。「だから、なのかもしれないね」
積み重ねてきた時間と、そのたびに失ってきたものを後悔するような、そんな口調だった。
「分かってる。でもね、村の子どもを見るたびに思ってしまうよ。――生まれたときから魔法奴隷としての未来が決まってるなんて、あんまりじゃあないか」
奴隷。
僕は奴隷。
人格を無視される、だれかの所有物――――
とくっ、とくっ、とくっ、と新しい心臓が速いペースで鼓動する音を、僕はただ聞いていた。