第29話:「……数学のおかげ、かな?」と猫人族の少女は首をかしげる。
一足先に家に帰った僕は、家事の中で唯一の分担である水汲みをこなした。土間に置かれた大樽に汲んできた水を移す。そこで気付いた。居間に人影があることに。
「おかえりなさいー。タカハ……兄さま」
「ただいま」
言葉の内容と声のトーンは裏腹だった。兄と言っておきながら敬う様子はまったくなく、それどころか、からかうような雰囲気が全部。
テーブルの羊皮紙から顔を上げて、眠そうな小悪魔といった感じの微笑を浮かべているのは――茶色の髪の、ねこみみ少女だった。
「……ニヤニヤしながら言うのをやめなさい」
「はーい。兄さまー」
言って、マルムは『にへら』という擬音が聞こえそうな不思議な笑みを浮かべる。
マルムもまた僕やラフィアと同じ13歳の少女だ。9歳の儀式のあと、すらっと背が伸びたせいで、スレンダーな印象を受ける。髪の毛と同じ茶色のしっぽをゆらゆらと揺らしながら、テーブルにひじをついて、その上にシャープなあごを乗せていた。
僕は汲んできた水を少し使って手を洗うと、居間に上がってマルムの向かいに座った。マルムは眠そうな目をいたずらっぽく細めて僕を見る。
「兄さまー、数学を教えてください」
「え? 昨日の課題、もう終わっちゃったの?」
「……簡単だったよー?」
テーブルに散らばる羊皮紙には、中学数学レベルの計算式がいくつも書かれてあった。17までの数字しかないのは不便だからということで、マルムにはアラビア数字と10進法を教えてある。方程式の問題は簡単にクリアされていた。やっぱりマルムは頭がいい。
たぶん、僕の前世に生まれていたら、ぶっちぎりの優等生キャラだっただろう。
きれいなリビングで『簡単だったよー?』と言って、満点をとった答案を両親に見せたのかもしれない。
「……どうしたのー?」
でも、マルムは――戦争で両親を失った孤児だ。
この世界には戦争がある。
マルムのお父さんは4年前、僕の目の前で命を落とした。
お母さんは病で亡くなっていて、お兄さんは都に出ているから、マルムの家はマルム1人になってしまった。
家長がマルム、となれば、家の管理や招集の持ち回りを1人でこなし、村人たちの会議にも出席しないといけなくなってしまう。9歳の女の子にそれは現実的じゃない。
だから、ピータ村では仲のいい家長同士によって血縁関係すらない家が統合されることがよくあった。
「タカハー?」
「……いや、かわいい妹ができて幸せだなと」
「でしょー?」
マルムが四つん這いでテーブルを回りこんできた。本当に猫みたいな仕草だなと思っているうちに、マルムはあぐらをかいている僕の太ももに頭を乗せて、目を閉じた。
「んー……」
茶色の髪の跳ね返るような感触と少女の体温を、僕はティーガの向こうに感じる。
「……汗くさくない?」
「そんなことないよー」
茶色のつやつやした髪の毛が乱れるのもかまわず、マルムは僕のお腹のあたりに顔を埋めてきた。くすぐったいし、少し気恥ずかしさもある。
でも、これは――マルムの癖だった。
僕はそっとマルムの頭に手を置く。
髪の毛を手ぐしで整えてあげるようにしながら、頭の後ろ寄りから生えているねこみみのつけ根に触れる。ぴくぴくっとねこみみが揺れる手触りは、なつかしいスマートフォンの振動によく似ていた。なんでも、ここには猫人族専用のツボみたいなのがあるんだとか。
「……ん……」
心地よさそうに、マルムが全身の力を抜いて、床に伸びた。
「…………」
僕はその様子をじっと見つめて、ただ、頭を撫で続ける。
マルムは、孤児だ。
9歳のとき、2人暮らしをしていた父親は戦場に招集されたきり、戻ってこなかった。そして、僕たちの家に迎え入れたのは10歳。
その間の、1年。
マルムは村人たちの助けを借りながら1人で暮らしていた。
マルムは頭がよくて、我慢強い女の子だ。だから、1年もの間、マルムは、強く、じっと、我慢をしてしまった。
大人たちも、友だちだった僕たちですら、その予兆を見つけることはできなかったくらい――マルムの我慢は上手だった。
あの日のことは、今でも思い出せる。
秋と冬の境目で空が悲鳴をあげているような、重苦しい曇りの日だった。
『マルムを知ってるかい?』とソフィばあちゃんが言った。それまで欠かしたことのなかったお手伝いをマルムが連絡なく休んだのだという。僕とラフィアは慌ててマルムの家に向かった。扉に鍵はかかっていなかった。居間にマルムの姿はなくて、気配を感じた寝室に、僕たちは踏みこんだ。
マルムはそこに居た。
亡くなったリリムさんの服にくるまって、
目の下にひどいくまを作って、
人形のように呆然とした目をして、
なにかに怯えるように体を震わせて、
マルムは僕たちを見ていた。
数日間、食事や水分をろくにとっていなかったと分かった。いろいろなタイミングが悪くて発見が遅れた。やつれ果てたマルムは、最初、僕たちを僕たちと認識することすらできなくて――――
「…………」
あの日から、マルムはだれかと手をつないでいないと眠れなくなった。
だれかに頭を撫でてもらわないと、落ち着くことができなくなった。
その人がそこに居る、という事実を、触れないと確かめることができなくなった。
9歳という幼さで家族を失った少女の中で成長を続けた残酷な呪いは、そういう癖となって、彼女に刻みつけられたのだ。
マルムは、本人が気を抜いていると、誰にでも触れたがり、誰にでも近づいてしまう。
……少し、あやうい感じだ。
でも、そのあやうさはつまり、マルムの心に刻まれた傷の深さや形とイコールで結べる。
「……タカハー」
「なに?」
「……」
「……ん? どうしたの?」
僕はかすかに笑いながら問いかける。
マルムはもうしばらく沈黙の海を泳いでから、言った。
「7日後から、領都へ行くんだよねー?」
「……そうだね。しばらくは、戻ってこれないかも」
マルムが僕のティーガに顔を埋めたまま、僕の右手を掴む。赤ちゃんが母親の居場所を探すような、頼りない手つきだ。
「……タカハ、いつも、ありがとう」
「どうしたのさ、急に」
「私……――もう少しで、ひとりでも、がんばれそうなんだー」
「…………そっか」
マルムの吐息の熱を、僕はたしかに感じる。
「今は、ゲルフ様や、タカハやラフィアに……迷惑をかけちゃってるけど……。もう少し……したらー、ちゃんとできるようになる……からー」
「僕たちはマルムのこと、迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないよ」
「…………うん……。私、商人になりたい……。騎士様にも、最近……名前を覚えてもらって……上手くいきそうなんだー……。だから……」
「無理はしないで。ゆっくりでいいよ」
マルムはかすかに鼻を鳴らした。
僕はただ小さな妹の頭を撫でる。
――
しばらくそうしていたら、唐突にマルムが体を起こした。
「タカハー」
「ん? ……て」
そのまま、僕の腕に手を絡めてきた。
「マルム、毛づくろいしてほしい」
「け、毛づくろい……?」
いつも眠そうにしているけど、マルムの目は大きくて深く澄んでいる。しかも、今はまつげが少しだけ濡れていて、かなり危ない魅力があった。
「どうしてもー、自分では手が届かないところがあって……」
「え、えっと……」
「この、背中の真ん中のあたりなんだけどー……」
「……」
小悪魔の微笑と茶色のしっぽがゆらゆら。
からかわれていると気付くのにそう時間はかからない。
もともとマルムにはこういう冗談をかましてくる傾向があったけれど、最近はますます加速している。
僕が軽く額を小突くと、マルムは「あう~」と大げさにのけぞった。
「そういうことはラフィアに頼みなさい」
大雑把な僕と違ってきっちりと長さをそろえてくれるだろう。
「あれ? いま呼んだ?」
ナイスすぎるタイミングで帰還する姉さま。
「ラフィアー! ……おかえりー!」
がばっ、と立ち上がったマルムは、靴をはくのもそこそこに、帰ってきたばかりのラフィアに飛びついた。
「ちょ、ちょっと、マルム」
幸せそうにラフィアに抱きつくマルムを見て、僕は苦笑する。
少女たちの賑やかな声を聞きながら……その苦笑は、ゆっくりと溶けていった。
僕は考える。
なぜ、マルムがこんな傷を負わなければならなかったのか。
リリムさんが死ななくちゃいけなかったのは、なぜ。
リリムさんの死にはたくさんの理由があった。
『鉄器の国』が攻めこんできたこと。騎士団の作戦の失敗。リリムさんが奴隷であったこと。僕が、弱い魔法使いだったこと。
そして、僕が知らない理由もきっとたくさんある。
僕はその理由のすべてを知りたい。
知りたくて知りたくてたまらない。
そして、見つけたその理由を1つでも取り除きたいと思う。
「……」
ゲルフとともに都に旅立つ日は、7日後にまで迫っていた。
――
「かー! 嬢ちゃんには歯が立たねえ!」
交換商の犬人族が犬耳を逆立たせて、広めの額をぺちりと打った。
「こうなったら仕方ねえ。そこのクレモンデの葉をもう二束もらって、代わりに嬢ちゃんの言う量の岩塩で手を打とう! どうだッ?」
僕の隣に立つマルムが、にへらと笑う。
「ありがとー。ジェルおじさま」
犬人族の交換商はくねくねと身体をよじらせた。
「おじさま……って、よせやい。俺はそんなガラじゃねえや」
「これ……私が織ったティーガです。いつもありがとう」
「おお! 上等な糸を使ってるじゃねえか! しかもこんなところにポケットまで……!」
「いつもお世話になってるからー」
「こっちは商売でやってるんだぜ……?」
「じゃあ、これも商売ってことでー」
「あっはっは! やられたなあ! これからも交換商ジェルをよろしく頼む!」
「こちらこそ。……じゃあ、失礼しまーす」
「おう! また寄ってくれ」
僕たちは荷物を背負うと、交換商の店をあとにした。
「~~♪ ~~♪」
マルムの鼻歌はずいぶんと気分の良い曲だった。
細い路地を抜け、馬車や人々が行き交う大通りに出る。
『魔法の国』の中には4つの領がある。
そのうちの1つが僕たちの暮らすムーンホーク領だ。
そして、ムーンホーク領も『域』という単位でさらに4分割され、僕の出身地であるピータ村が含まれるのは『北東域』だった。
つまり、僕の家の住所は、異世界『魔法の国』ムーンホーク領北東域ピータ村ゲルフ様方、ということになる。お手紙お待ちしております。
……まあ、奴隷である僕たちは村を越えて手紙を出すことすら許されていないわけだけど。
僕とマルムは、北東域で最大のブリズという名前の村に居た。
領を4分割した『域』でもっとも大きい村には、騎士団の駐屯地があったり、行政の機能の一部が振り分けられたりしている。そのせいもあって、ブリズ村は面積も人口もかなり多い。村というよりは小さな街くらいのイメージだ。
人が行き交う大通りは秋のこの季節が一番にぎわう。
各村の狩猟団が冬に備えた追い込みで限界まで稼働し、木の実や野草の収穫が多いからだ。
本来、奴隷である僕たちは自分の出身の村を離れることを禁じられているけれど、このブリズ村だけは別だった。生活に必要な塩なんかはどうしても交換しないと手に入らない。狩猟団が使う金属製の武具もそうだ。それを仕入れる、という特例で騎士様に外出証明書を発行してもらうことができるのだった。
というわけで。
僕たちの現在のミッションは冬に向けた各種アイテムの仕入れ、だった。
「マルム」
大通りに合流したところで、僕は思わず呟く。
「今日のこれ、かなり交換の比率がいいよね?」
「……」
マルムは笑顔を浮かべるだけで答えない。
このブリズ村への買い付けは狩猟団の手伝いの一環として何度か同行したことがある。買い付けもまた招集と同じように持ち回りで行われていて、そのたびに村人が使う交換商は違っていた。
この国にお金という仕組みはない。
だからこそ、交換商ごとのレートが微妙に違っている。
スィラシァ――イノシシの肋骨は優れた狩猟用の武具になるけれど、その1本に対して岩塩をどのくらい交換してくれるのかという比率が微妙に違う、というわけだ。
今日のマルムの戦略は徹底していた。
交換資材の1割を、まっさきに情報収集につぎ込んだのだ。
他の村から買い付けに来ている奴隷たちにピータ村の特産品を配り、各交換商のレートを徹底的に調べあげる。その上で手持ちの資材から最適な交換計画を立て、それを忠実に実行した。
結果、全体で2割は安く抑えることができたと言える。
「ぜんぶねー」
「うん」
「……………………」
「…………ええと?」
「……数学のおかげ、かな?」
マルムはティーガの内ポケットに隠していた羊皮紙を取り出した。
マルムの羊皮紙には何重にも計算を重ねた結果が示してある。
そこで使われているのは、他でもない――
「これー、教わった……数字と、方程式ー」
「――――」
「……だから、タカハのおかげー」
マルムは茶色の目元を緩めて、微笑を浮かべた。
先生冥利に尽きる!
僕もう死んでもいい……!
僕は思わず、マルムの頭を撫でる。
ぴくぴくっとねこみみが揺れて、「えへへー」とマルムは笑った。
「この仕事任されるようになったのは、いつからなの?」
「……あ、えっとねー……1年くらい前からかな。最初は少しの量から始めてー……でも、私のやり方が一番効率がいいってことになって……それで、任せてもらえるようになって」
「ほんとにすごいよ。マルム」
「た、タカハが……ていねいに教えてくれた、からー……」
「違う。だって、僕はここで使うことを思いつかなかった。それを思いついて応用しているのは、マルムだよ」
僕は猛烈に感動していた。そのせいで若干早口なくらいだった。僕の教えた数学を使ってマルムが立派に商売人として立ち回っているなんて……! 前世の義務教育、やるじゃん……!
「……」
眠そうなマルムの目が大きく見開かれている。
小さな少女の手のひらは、羽ペン用のインクで少し汚れていた。
ねこみみがそわそわと揺れて――――
「かっ、帰ろー……?」
マルムはさっと僕に背を向けて歩きだした。
「……話を、聞いたんだけどねー」
マルムは話題を逸らすように、それでいて少し真剣な口調で言った。
「ファロ村が、今度は村長争いで揉めてるらしいんだー」
ファロ村……。
その名称を思い出して、僕は顔をしかめた。
ファロ村はピータ村の隣村にあたる。ピータ村よりはずいぶんと標高が高く、貴重なファムの実が多く採れる村として有名だった。
だが、僕の記憶には別の文字が太字で刻みつけられている。
――――ラフィアの回路を破壊した脱走奴隷。
あいつの出身地が、ファロ村だった。あの頃は狩猟団の頭目争いをしていたはずだ。今もまた、村の中で争いをしているのだという。
「もしかしたらー……また、脱走奴隷が……」
「……」
マルムはねこみみを小さくたたんだ。
怒りは、ぜんぶ脇に置こう。
ファロ村でなぜそれほどまでに頭目争いが発生するのか。僕が気になるのはそこだ。
でも、僕の思考はそこで停止してしまう。考えるために必要なデータが足りない――――
僕たちは互いの足音だけを聞きながら、ゆっくりと大通りを歩いた。
賑やかな大通りの喧騒が一気に別世界のもののように感じられる。
「おーい! マルム~! タカハ~!」
ピータ村の村人たちが馬車停で手を振っていた。馬車係のグラッツさん、武具の調達を任されたアベルさん、護衛役のディルさん。3人とも屈託のない笑顔を浮かべて、僕とマルムにぶんぶんと手を振っている。
僕が拾われたのはとてもいい村だった。




