第28話:「……あと、7日だね」と兎人族の少女は言った。
「――――起きて、タカハ」
鈴を鳴らしたような、澄んだ声が聞こえた。
少女の声、それも僕がよく知る声だった。まぶたが重い。ピントが合わない視界には、ときおりベージュ色のぼんやりとしたシルエットが映りこむ。
「朝ご飯、できたよ」
「……はい」
僕は間延びした返事をして、のそのそと毛布の中から身を起こす。
「寝癖も」
からかうような声と同時に、頭に少女の手が触れる感覚。
「手じゃ直らない……かな?」
目をこする。目の前で少女が僕の毛布をたたんでいる。まばたきをして、目をこすって、もう1度まばたき。
僕の目の前にいたのは、そうでもして確かめなければならないくらいの美少女だった。
前世の記憶がある僕から見れば、少女の服装はひどくみすぼらしい。紡いだ糸を編んでつくる布は厚さが不規則でごわごわしているし、色もくすんでいる。でも、宝石の価値は台座では決まらないのだ。
「あ、ほつれてる……。直せばまだ使えるかな……?」
眉を寄せてもなお輝きを失わない大きな青の瞳。
柔らかそうな曲線を描いて、形のいい唇に収束する頬の曲線。
天使の輪が標準装備されているベージュ色の髪と、同じ色のうさみみ。
紹介します。
姉です。そして、メインヒロインです。
「……毎朝、僕はこれが夢なんじゃないかと思う」
もし、カミサマがもう1度転生するかどうかを問いかけてきたら、僕はイエスと即答するだろう。この目覚めのためだけに。
記憶の彼方にカミサマとの会話は薄らいでいるけれど、あのころから僕の本質は変わっていない。僕が望んでいるのはこういうささやかで穏やかな何かだ。
「もう……。寝ぼけてないで早く下りてきてね」
苦笑すらも絵になる少女が、兎人族らしい軽快な足取りで階段を下りていった。
この4年間、身長はそれほど伸びなかったけれど、ラフィアは本当に女の子らしく成長した。ちょっと目を閉じれば僕は4年前のラフィアの顔を思い出せる。要素はだいたい同じはずなのに、どうしてこれほど印象が違うのかと思うくらい、ラフィアは魅力的な女の子になった。……僕はその未来を13年前から見抜いていたわけだけど、と少し気分をよくする。
さて。
今日も今日とて狩猟団の手伝いだ。
ティーガを着替え、ベルトをとめて、1階へ。
手狭な居間のテーブルにはこの世界で一般的な朝食が並んでいた。焼いたり炒めたりした各種の木の実が主食で、スパイスを効かせたスープが添えられている。僕はスプーンを手に取って、ゆっくりとそれを口に運び始めた。
「うん。美味しい」
「とーぜんです」
エプロンをつけたラフィアが胸をはる。
「家事のことは文句をつけようがないからなあ……」
というより、この4年間で、いつの間にか僕はラフィアの欠点らしい欠点を見失ってしまった。かわいいし、性格が明るいし、優しいし、料理洗濯掃除と家事は完ぺきだし、狩猟団の手伝いもサボったりなんかしないし、要するに真面目だし、なのに冗談を言うべきタイミングではきっちり冗談を言うし、多くの村人とも仲がいいし――――うん。確信した。ただの女神だった。
強いて言うなら、算数や読み書きがちょっぴり苦手なことくらいだろうか。しかし、この異世界に受験なんてものがあるわけでもない。足し算と引き算ができれば生活に困ることはなくて、ラフィアもそのレベルは十分にクリアしている。
「あれ? ゲルフは?」
「おとーさんならもう出て行っちゃったよ。今日は魔法の『教え』の日だから」
ゲルフのあの授業を受けていたのは4年も前なのか……。
感慨深い。
「マルムは?」
「マルムは行商人さんたちのところ。……あ、シーハの実はちゃんと食べないとダメだからね」
「うー」
こっそり避けていた黒い小さな粒をすくいとり、一気にまとめて食べる。もひゃもひゃした食感とゴムのような味。腹持ちがハンパなくいいという利点を引き算しても、僕はシーハの実が苦手だった。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
「じゃあ、行こうか」
「うん」とラフィアはうなずいた。「タカハ、ちょっと待ってて、着替えるから」
「は……い?」
視界の中ほどに、引き締まった白いおなかが見えたときになってようやく、僕は状況認識に至った。
「まっ、待って――ッ!!」
「え?」
腕を胸の前で交差させ、ティーガの裾を胸のあたりまで引き上げたところで、彼女は律儀にも僕の言葉通り、動きを止めていた。腰から脇までの緩やかな曲線と、女の子らしい成長を始めた胸の膨らみがほんのわずかに見えている。
完っ全に覚醒した。
「あのさ」
「どうしたの……?」
弟くんの身にいったいなにがあったのだろう? と心の底から心配するようなトーンで、ラフィアは言う。お腹をぺろんと惜しげもなくさらした格好のまま。
いや。僕は別にいいよ。むしろありがとうって感じだ。ガン見してもたぶんラフィアは気にしないだろうしね。ずっと一緒に暮らしている姉弟なんてそういうものなのだろう。それに、ラフィアが外ではこんなことをしないっていのも確信している。要するに僕の問題、なんだけど。
見ちゃえよぉぉ意地はるなよぉぉと耳元で囁く悪魔の声を理性で封殺。僕は「――親しき仲にも礼儀ありだと僕は思う」と言って、ラフィアに背を向けた。
沈黙は、呼吸が数回分。
「ええと……タカハは私の前で着替えるのが恥ずかしいってこと?」
「どうしてそうなる!」
最近、ラフィアは僕に対してだけあんまりにも無防備だ。僕は同い年の異性ではなくて、手のかかるねぼすけな弟でしかないからだろう。
ラフィアの気持ちは分からないでもない。ある重大にして致命的な理由があった。
それは――――身長だ。
女の子の方が精神的な成長だけでなく、身体的な成長も少し早い。うさみみの分を足したら当然として、最近の僕はふつうに頭のてっぺんまでの身長で負けてしまっていた。その差は5センチほどなんだけれど、あまりに大きな5センチといえよう。成長期さん、さっさとカモン。そう念じ続ける日々を過ごしている。
そんなようなことを考えながら、狭い居間で僕は姉さんに背を向け続ける。しゅるしゅると布がこすれ合う音がして、こっちの方が生殺しで辛いと気付いたけど、後の祭り。
「お待たせ。……じゃあ、いこっか、タカハ」
僕たちは並んで粗末な木組みの家を出た。狩猟団で使うための槍や解体用のナイフといった各種の道具は、扱いに慣れてきたのか、背負っていてもずいぶんと軽く感じる。
ピータ村の広場へ続く坂道を下りていく。
からっとした夏の太陽が僕たちを照らしていた。
だが、そんな夏もまた、狩猟団の活躍の季節だ。
森の入り口のあたりに狩猟団の拠点がある。
「おう! タカハ! ラフィア!」
「「おはようございます!」」
狩猟用の軽鎧で武装した屈強な団員たちに挨拶をする。その中に、女性の狩猟団員の姿は……ない。僕の隣に居るこの少女以外は。
女の子が狩猟団の見習いとして参加することは異例だった。ピータ村ではじつに25年ぶりらしい。この世界風に言えば17と8年ぶり。
だが、団員たちはラフィアを優しく指導していた。それは決してラフィアが使えないからというわけではなくて、むしろ逆だったりする。身体能力の高いラフィアはそこんじょそこいらの男どもよりもよっぽど優秀な狩猟団見習いだった。
午前中は獣の解体の作業と木の実運びの仕事が与えられる。器用なラフィアはすいすいとそれをこなしてしまって、それどころか僕の分を少し手伝ってくれた。
幼いころから狩猟団員に仕込まれていた僕ももちろんそこそこできるんだけど、ラフィアはその上を行く。一般的に人族――ケモノっぽい見た目の人の方が僕のような人間よりも身体能力が高い傾向にあって、ラフィアは輪をかけて、だった。
休憩時間である今も――――
「踏み込みが浅い!」
「はいっ!」
カンカン……ッ! と木剣同士がぶつかる小気味のいい音が響く。
狩猟団拠点のそばの斜面に寝そべって、単位魔法と修飾節の組み合わせ表を復習してた僕は顔をあげる。
「お前は身体が小さいんだ! 受けようと思うな! 全部避けろ! 足さばきを思い出せ!」
「はいっ!」
一見しただけならば警察を呼びたくなるような光景だけれど、慣れた。
相手は、ピータ村長と狩猟団長を兼任するガーツさんだった。全身が筋肉の鎧で覆われているガーツさんは兎人族の壮年で、頬には大きな傷跡がある。白髪の中からぴょこりとうさみみが生えているせいで『試合をおちょくってるヒール役のプロレスラー』にしか見えない。
ラフィアと同じサイズの木剣を持っているはずなのに、体との対比でそれはまるでおもちゃだ。そんなガーツさんに立ち向かうのは、13歳の僕よりもたった5センチしか大きくない兎人族の少女。
ラフィアは武術の稽古をつけてもらっている。
ガーツさんの指導は実戦的だった。
剣術の型を教えるのは最低限、あとは打ち合いの中で絶妙に加減し、子どもたちを成長させる。そういうイメージ。
4年間、ガーツさんの指導を受け続けたラフィアは別人のように強くなっていた。
「うおっ……!」
ガーツさんが思わず身を逸らした。
僕も驚く。
鋭く踏み込んだラフィアがガーツさんの喉元に剣を突きつけている。その一瞬前のガーツさんのひねり込むような攻撃も、決して甘くはなかった。だが、ラフィアはそれを素早く潜りこんで回避し、カウンターを放ったのだ。
ガーツさんが構えを解いて、苦笑する。
「そろそろ本気の中剣で行かないとか? 俺もそんなに弱くはないんだがな……」
そんなに、というのはかなりの謙遜。この村の中ではガーツさんの武術はぶっちぎりだった。手加減をしてもらっているとはいえ、その予測を超えてラフィアは追い詰めたのだ。あの、ガーツさんを。
「ありがとうございます!」
「午後もある。このくらいにしておくか。タカハと飯を食ってきな」
豪快な笑みを浮かべたガーツさんがぽんっとラフィアの頭に手を置いた。
「小剣術に関しては自信を持っていいと思うぜ? ラフィア」
「はいっ!」
ラフィアは大きく礼をして、拠点の中へ消えていくガーツさんを見送った。
青の瞳がこちらを向いた。そのまま、とててっ、と駆け寄ってくる。軽い身のこなしなのに、僕の全力疾走よりもずいぶんと速そうだ。
「褒められちゃった」
「褒められてたね。ガーツさんが武術で人を褒めるの、珍しいんじゃない?」
「やっぱり? そうだよね」
ラフィアは表情をほころばせる。
「ご飯食べよう? お弁当もってきたから」
どこからか取り出した木の皮を編んだ弁当箱をラフィアが開封する。イエナの潰し餅は柔らかい野草に包まれていて、腐らせない生活の知恵か、漬け込んだクロッカの実のペーストが添えてある。形は均等で、甘い匂いが引き立てられている。相変わらずのお手並みだ。
「いただきます」
つまんで、口に運ぶ。前世で言うお餅よりもう少し弾力があって、歯ごたえもある。冷たくなってもなお美味しい。
僕たちは気心知れた沈黙の中でご飯を食べる。
僕は魔法の組み合わせ表を復習する。
ラフィアはぼんやりと秋空を見上げる。
「……あと、7日だね」
ぽつり、とラフィアが言った。
「半年くらい前はずっと先だなあと思ってたのに……あっという間だった」
「……うん」
そう、あと7日だ。
7日後に――僕はピータ村を出ることが決まっていた。
「ね。タカハはどうして騎士になろうと思ったの?」
僕はラフィアに顔を向けた。
どこか思い詰めたようなその表情を見て、僕は気付く。
この言葉を切り出すタイミングをずっと探していたのかもしれない。
「ラフィアは反対?」
「……正直に言うと、イヤ、かな」
ラフィアはうさみみをぴくぴくと揺らして、抜けるような秋空に視線を向けた。「タカハがどんなにがんばっても、騎士様になったら、恨まれちゃうと思うから……」
ラフィアの指摘は正しい。王族、貴族の直接的な実行力として奴隷たちを管理する騎士団は、奴隷たちの非難を一身に引き受けることになる。
もちろん、それは覚悟の上だった。
「それに、緑のコートも似合わないと思う」
「……そうかな?」
「そうだよ」ラフィアは、僕に視線を合わせず、言う。「ミスリルの剣も、きっちりした服も、ぜったい似合わないよ」
「ラフィア、――――」
僕は言葉を選ぶ。
「いつか、僕が王様になりたいって言ったの、覚えてる?」
こちらを向いた青い瞳が真ん丸になった。
……ま、そうだよね。
「まあ、王様は無茶でも、ある程度の地位につきたいのは変わってない」
「……どうして?」
「今だって、年に数回、ピータ村にも招集がある。帰ってこない人だっている。なのに、騎士たちはろくに今後のことを考えてないように、僕の目には見えるんだ」
この4年間で複数回、僕は招集に行った。閑古鳥が鳴いているような戦場、魔法を撃っていたらいつの間にか終わった戦い、結構厳しい戦線にも行った。
それぞれの場所で僕は騎士の行動をじっと観察し、数字をつけてきた。
この人ならムーンホーク領の未来を任せてもいいと思えるような騎士は――残念ながら1人として居なかった。
先陣を切って戦おうとしなかったり、作戦がめちゃくちゃだったり……。
「だから、僕はこの国の現状を知りたい。この国にどんな問題があって、騎士たちがそれにどう対処してるのか。僕なら、なにができるのか……。若いうちからそういうのを知るためには、騎士の道以外にないと思う」
「…………そっか」
しばらく沈黙したラフィアは、柔らかそうな頬に人差し指を当てて、少しだけ恥ずかしがるような苦笑を浮かべた。
「えっと、うん。正直に言うね。――たぶん、わたし、寂しいんだと思う」
「……え?」
「おとーさんが招集に行っているときも、9歳の儀式のときも、タカハはずっと一緒にいてくれたから」
「ラフィア……」
「――えいっ!」
気合いのかけ声とともにラフィアは自分の両頬を張った。
びたり、と結構大きな音がした。
「タカハがやりたいことなんだから、お姉ちゃんが応援しないでだれが応援するの? って話だよね」
「……」
何も言葉を返すことができなかった。
ただ、胸の底のあたりにじんわりとした熱が広がっていく。
僕が心の底から欲しいのは、穏やかな日常だ。
ラフィアが居て、ゲルフが居て、マルムが居て、ソフィばあちゃんが居て――この穏やかなピータ村で、獣を狩って、昼寝をして、本を読みながら、生きていけるなら、それが1番の幸せだと僕は思う。
でも、この世界は――ただ1つのそんな願いを、許してくれない。
僕たちは奴隷だ。
騎士が一言命じるだけで、僕たちの平穏はたやすく引き裂かれる。
そんなの、僕は認められない。
「っ、強すぎたかもー……ヒリヒリするー……」と自分の頬を少女が撫でている。
魔法使いになるための儀式に失敗したラフィアは、17歳で成人したその瞬間に、肉体奴隷となる。都に集められて労働に従事する身分だ。このピータ村で生きることは許されない。
「――あのね、タカハ」
ラフィアは赤くなってしまった頬をくしゃっとして笑った。
「わたし、やりたいことが見つかったの」
「やりたいこと?」
『9歳の儀式』の日まで、ラフィアはそれを持っていた。
でも、魔法を失ったことで――その夢は届かないものになってしまったはずだった。
「ガーツさんくらい狩猟術や武術が使えて、騎士様に認められれば、他の村に行って教えることができるんだ。わたし、そのくらい狩猟術を使えるようになりたい。いろんな村で狩猟術を教えて、そうすれば、食べ物に困る人が少なくなるでしょう?」
僕はうなずいた。
「食べ物に困る人が減れば、脱走する奴隷も減る。そうすれば、わたしみたいなことが理由で肉体奴隷になる人を減らせる。――だから、わたしは狩猟術と剣術をがんばるって決めたの」
「…………すごいな、ラフィアは」
あれほどの絶望の底に叩きこまれて。
どうして前を向くことができるのだろう。
しかもそれは、決して、実現不可能な夢ではないのかもしれない。
そういうふうにしてガーツさんが他の村に呼び出されたり、逆に他の村の使い手がピータ村に来ることはときどきある。
成人までにラフィアがその実力を身に着けていれば、肉体奴隷であったとしても特例のようなものが認められるかも。
その決意に負けないようにしよう。
僕は腹の底で決める。
「タカハ、ラフィア」
声に振り返ると、いつの間にか束にした槍を担いだガーツさんがにやりと笑いながら立っていた。
「お前さんたちは、あれか。こうして見てると姉弟というより、普通に恋人同士みたいだな」
「……いや。ガーツさん、なにを言ってるんですか」
「そうですよ」ふふっ、とラフィアが笑う。「私たち、姉弟ですから」
「…………」
一刀両断だった。すぱーん、と切り捨てられた。僕もなんとも思っていなかったけど、こういうの言われたらさ、普通、動揺しない? そっから個別ルートに入ったりしない? しないか。うん。僕の前で着替えちゃうくらいだもんね。
「1人いろいろとダメージを受けてるやつがいるみたいだぞ?」
「え……? ダメージ?」姉さんがぱたりと小首をかしげて僕を見た。「転んだの?」
「転んだね、確実に。……うーん、魔法の本ばっかり読んでるのやめようかな」
「はははっ、それが良いかもな」
「え? どこ? ケガ……?」
全身をチェックしようとするラフィアがほんとにいつも通りで、僕は苦笑した。




