第26話:僕の幼少期の終わり。
「――――逃げられるとでも、思ったか?」
僕の言葉を継いだのは、別の声だった。
きぃん、という甲高い音とともに、土の壁の一部から純白の光があふれる。
まただ。この光もマナを消費してできるものじゃないと直感する。
純白の光を浴びた土の壁の一箇所が爆発した。
もうもうと立ち込める土埃の中から飛び出してきたのは、男だった。
金髪、青い瞳――背は高く、その身体に神官のような白い法衣を纏っている。古代ギリシャの彫刻のように完璧な体つきと顔立ち。だが、その目にはなんの感情も宿っていない。
「なぜ……『ミシアの使徒』がこんな戦域に……!」
ゲルフが呆然と言う。
「『使徒』?」
「『鉄器の国』の有名人じゃ。『鉄器の国』の神秘使いたちは奇跡の業を使う。あやつは、危険すぎる。おそらく――当代最強の神秘使いじゃ」
森を切り倒し、音を消す――それが、神秘か。
「そんなに褒めるなって、『暁』」
100メートル程度の距離を隔ててなお、男の声はよく通った。拡声器のようにひび割れてもいない。まるで隣の人間と会話しているみたいに、声が届く。
魔法ではない。
じゃあこれも神秘なのか――?
「ぼくは、お前ほど他の国の人間を殺してないんだぜ?」
「ふん。ぬかせ。わしに逃げ惑う兵を殺す趣味はないわ。それに、殺した人数も、お前がわしの歳まで生きればどうなるかなど火を見るよりも明らかじゃ」
「そんなに長生きしたくないんだよな。ほら、生き恥って言葉あるだろ? 魔法を失ったお前みたいになるのはゴメンだね」
「くっ、若造が……!」
「と言うわけでさ。そろそろ死んでくんない? ぼくは枢機卿の座を狙ってるんだ。第四次戦争の英雄である『暁』を倒せば――枢機卿の席が、ぐんと近づく!」
彫像のような顔をした使徒は唇を不気味な笑みに歪めた。
「――『奇跡の剣』!」
しゃらん、と甲高い音が響き、使徒が手に持つ美しい片手剣に純白の光が宿る。その光は剣に纏わりついたかと思うと――巨大な剣を形成した。
純白の光の剣だ。
ひと目見ただけで、強烈に理解できる。
理解させられる。
これは神秘だ。奇跡の業だ。
これが神秘でなくてなんだというのだ。
光の剣を携えたミシアの使徒が一直線にこちらに走ってくる。
「みな下がれ! 半分の者はあいつに魔法を!」
「――『信仰の盾』」
純白の光が使徒の身体の正面に膜のように展開される。
だが、こちらには数で圧倒的に勝る。50人程度の魔法使いたちが一斉に使徒に魔法を放った。火球、水球、雷撃、土塊――僕の視界を埋め尽くすほどの魔法が一斉に使徒に迫り――炸裂した。
――――だが。
「……正面からではあの『盾』を、破れぬ」
黒衣の老魔法使いは苦い口調で吐き捨てた。
同時に、風が土煙を吹き飛ばしていく。もやの向こうに純白の光を見つけ、僕は思わず唾を飲みこんでいた。使徒は健在。襲いかかった無数の魔法は神秘の膜を打ち破ることができなかったのだ。
「あははっ! あんたらの魔法は、お粗末すぎるんだよ!」
唇を歪めて笑う使徒は再び疾走を始めた。使徒の光の剣が振るわれるたびに、逃げ遅れた魔法奴隷たちの身体が紙切れのように両断されていく。このままでは転移座へのマナ供給が間に合わない。
「くそっ……あいつ……」
僕は魔法を決める。土属性で行く。修飾節は――
「そうだ、『暁』!」
ミシアの使徒はじゃれあう小学生のように明るい口調で、言った。
「――――転生人って、お前の知り合いで居ない?」
僕の心臓がどくり、と大きく一拍を打った。
「転生人? 転生とはなんじゃ?」
「あー、なんていうの。前の世界の記憶がある人間のことだよ。ニホンって国だったらビンゴなんだけど」
ぶんぶん、と白い刃が踊るたびに、魔法奴隷たちの命が刈り取られていく。魔法使いたちの放つ魔法は冗談みたいに白い膜にかき消される。
「気が狂ったか? 前の世界の記憶がある人間など、居れば目立って仕方がな――――」
瞬間、ゲルフは息を止めた。
黒い小さな瞳が一瞬だけ僕に向けられる。
使徒は数十メートルの彼方からそんなゲルフを見た。
その瞳が――僕を捉えた。
形のよすぎる口元がぐにゃりと歪んで、道化を連想させるおぞましい笑みの形になる。
「そういうことか」
あははっ、と使徒が笑う。
「あんたはだれだ? あの店長? ヤンキーな兄さん? 高校生の女の子かな? それとも……ああ、高橋か?」
僕は確信した。
こいつは――――鈴木だ。
「ゲルフ」
僕は杖を握りしめる。僕の視線はミシアの使徒が振るう光刃に吸い寄せられる。
「僕が止める」
「……できるのか?」
「絶対に止める」
ゲルフの決断は素早かった。
「……2倍した17秒でいい。我らは転移座へのマナ注入に全力を注ぐ。……よいか、やつは同時に2つの神秘を操る。今は『剣』と『盾』じゃ。『靴』は加速、『瞳』は矢。忘れるな」
聞き終わるや否や僕は飛び出す。
転移座の枠をはみ出し、真っすぐに使徒へ――鈴木へ、向かっていく。
「ゲルフ様!」「行かせるのか!?」「無理だ! 1人なんて!」
「――全員、転移座にありったけのマナをこめよ!! 今すぐにじゃ!」
「はははっ! やっぱりお前なんだな! 高橋!」
使徒が頬を歪め、僕を笑う。
こめかみが熱く拍動する。
お前のその口を今すぐにふさいでやる。
「呑まれるなよ!」
とん、と肩を支えられたかのようだった。
「出自など知らぬ! 拾い子であることなど関係ない! 1つだけ言っておくぞ! お前の魔法はわしが教えた! お前の回路はわしのものじゃ! 勝手に失くすことは許さぬ!」
「あーあー、泣かせるねえ」
「――――」
ゲルフの言葉を聞いた僕の視界はクリアだった。
心は平静を保ったままに理性だけが加速していく。
今度こそ、僕がゲルフを助けるんだ。
これ以上、だれも死なせない。
だれひとりとして、お前にくれてやるものか。
ぐっと前のめりになった使徒が走り始めた。
そのためには冷静な計算が必要だ。
思考を研ぎ澄ませ。
勝つ必要はない。
守り切れば、それでいい。
敵の右手にはすべての物体を切断する『奇跡の剣』。刃渡りは2メートルを超えていて、しかも、重さもないようだ。あれはかなり危険。
敵の周囲に浮かぶ純白の膜が『信仰の盾』。さっき僕は見た。あの膜はすべての魔法攻撃を弾いていた。あれを突破しなければどうにもならないだろう。
僕の脳裏にゲルフの魔法書が広がる。
道筋は――――見えている。
回路を開く。
マナを知覚し、『対訳』のイメージを土属性の精霊言語へ。
「“土―2の法―待機―眼前に”」
単位魔法は『土の2番』。地面から鋭利な土の槍を突き上げる中量魔法、5マナ。
『待機』させ、発動位置は僕の真正面。
「“ゆえに対価は10”」
見た目の上で変化は起きない。
「失敗か? 怖気づいたか? ――『聖別の靴』!」
使徒は別の神秘を行使した。『剣』が純白の光を失う。ゲルフは同時に2個の神秘を使えると言っていた。つまり今は『盾』+『靴』という状態だ。
そして、『靴』は――加速する。
「――ッ」
瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだかと思った。
それほどに使徒の動きは現実離れしていた。足が移動した距離の2倍を使徒の身体が移動する。足の位置と地面がかみ合っていない。まるで氷の上を滑っているかのように、それでいて全力疾走の動きで、使徒が急速に迫る。
僕はその場で立ち止まり、次の詠唱をすぐに開始した。
「“土―7の法―今―眼前に”」
あと15メートル。
大丈夫だ。まだ許容範囲内。
「――『奇跡の剣』!」
『靴』を消しながら使徒は純白の光の剣を生み出した。
あと、10メートル。
そこで、僕の2番目の詠唱が完了した。「“――ゆえに対価は10”!」
単位魔法は『土の7番』。地面から岩塊を射出する中量級の攻撃魔法だ。
足下に生み出された岩塊は、僕のイメージに従って、ただちに解き放たれた。
「あのな、無駄だってば」
5メートルの距離に迫った使徒の正面には、魔法を防ぐ純白の『盾』が広がっている。
僕の岩石魔法はそれにぶつかった。
まるで爆破されたかのように岩塊は粉々に砕け散り、僕の視界を埋め尽くす。
受け止められている。
魔法は――『盾』を貫通していない。
「……じゃあな」
至近距離、だった。
使徒は振り上げた光刃を振り下ろす。
死の光にしては美しすぎる純白の光が、僕の網膜に焼き付いた。
ゲルフの絶叫を僕は聞く。
純白の光が僕の視界を埋め尽くしている。
そうして、僕はすべてを投げだした。
……なんてね。
「“待機解除”」
「――――づぅッ!?」
純白の『剣』が――僕にわずかに届かず、宙で静止している。
「お前!? 1人なのに!?」
使徒の身動きを封じたのはもちろん僕の魔法だ。
伏せておいた土の槍が、使徒の右腕を容赦なく貫いていた。
『信仰の盾』は移動させることが出来て、しかも、常に使徒の身体の正面に在った。移動する、ということは、全包囲をカバーすることが出来ないことの証明。
1撃目で『盾』を体の真正面に移動させ、真下から本命の魔法を通す。
それが僕の狙い。
打ち出される岩塊は『信仰の盾』を正面に縫い止めるためのブラフ、本命は初手の土の槍。
魔法を失敗……?
するわけないだろ。
次はでかいのをくれてやる。
「“土―7の法―巨大にして加速した1つ―”」
右腕を僕の魔法に貫かれている使徒の手は絞られる。
使徒は――『信仰の盾』は、次の一手として、自分の行動を封じている槍を破壊しようとするはずだ。
「――動け、『信仰の盾』」
読み通り。
素早い軟体動物のように動いた純白の膜が、戒めの槍を破壊する。接触した瞬間に魔法を崩壊させる『盾』の効果に僕は戦慄する――が、僕個人の動揺は状況に関係ない。
使徒は正面を守っていた神秘の膜を拘束を解除するために使った。
使ってしまった。
当然、使徒の真正面はがら空きになる。
「“―今―眼前に”」
単位魔法は『土の7番』。岩塊を射出する土属性の中量攻撃魔法、6マナ。
『巨大なる』に4マナ、威力を底上げする『加速』に3マナ。
発動時間指定『今』、2マナ。発動位置指定『眼前に』、2マナ。
6+4+3+2+2。
「“ゆえに対価は 17”!」
「くそ――ッ」
ばごん――と、自動販売機が缶を吐き出すときの音を数百倍に増幅したかのような大音量とともに、僕の身長を上回る大きさの岩塊が地面から撃ち出された。
防御膜を一時的に失った使徒の真正面に。
それが――叩きつけられた。
「がぁ……ッ!」
肉に固体が叩きつけられる容赦のない鈍い音。
弾け飛んでいく法衣。
吹き飛べ。吹っ飛べよ。トラックに突っこまれるような衝撃だ。ふたたび距離は30メートルくらいになるはずだ。距離さえあれば、僕は何発でも魔法を放てる。詠唱の時間を手に入れることが、で、き――――
「…………な」
僕は絶句した。
「――――やるじゃないか、魔法使い」
両腕をだらりと垂らし、法衣を血で汚しながら、使徒は立っていた。
逆さまで、宙に、立っていた。
まるでそこに地面があるかのように、一切の根拠も理由もなく、使徒の両足は宙を掴んでいた。
いや、茶色の靴がわずかに純白の光を放っている。
『聖別の靴』か。
くそっ。聞いてない。もし空に立つことができるのなら、数メートルも吹き飛ばすことだってできないのは道理だ。吹き飛ばして距離を稼ごうとした僕の目論見が潰える。
事実として攻撃に詠唱が必要な魔法使いの弱点は至近距離だ。
この距離は――マズい。
「……“土―7の法―巨大にして加速した1つ―今―眼前に――”」
宙に立つ使徒が唇の端を喜悦に歪めた。
「“ゆえに対価は”」
「『聖女の瞳』」
『瞳』は――矢!
咄嗟に僕は身体をひねった。そうしなかったら一撃で心臓を貫かれていたかもしれない。正体は細い純白の光の筋だった。レーザー光線のようなそれが一瞬で僕の右肩に鮮血の花を咲かせる。
「ぐぅ――ッ!」
崩れ落ちる。
今まで感じたどんな痛みよりもすさまじい痛み。
灼熱の火ごてが今もそこに突き刺さったまま、みたいな。
冷や汗が浮かび、喉が震える。
唇を噛み切りながら、僕は最終節を唱えきった。
「“……17”!」
僕の放った魔法はさきほどと同じ岩石魔法。だが、使徒は人間離れしたスピードで宙を走り、岩塊の砲撃を回避する。
あのスピードは脅威だ。
追い詰められない……!?
「その程度か? 『暁』と違って属性も1つだけのようだし、戦いにも慣れていない。――さあ、死んでくれ」
そのときだった。
僕の周囲のマナが何かを期待するかのように動き始める。
マナがこういうふうに動くのは、魔法を唱えるときだけだ。
……てことは。
僕は、寸前に詠唱の種類を変更した。
「“風―2の法―2つ―――”」
使徒は飛び道具の『瞳』でもう一撃くるだろう。『聖女の瞳』は素早い光線を放つ神秘。魔法での防御力に保証が持てない以上、今の僕には全力で避けるしか手はない。
僕は使徒の青い瞳を見る。
精悍な顔立ちに埋めこまれた一対のサファイアだった。
だが、その底にはゲームを楽しんでいるかのような気楽さと、愉悦と、じっとりとした仄暗い感情がぎちぎちと密集していた。
使徒が口を開く。
「『聖女の――』」
僕はうずくまって動けない。
今度こそ、やつは外さないだろう。
清らかな純白の光の矢が放たれる。
――――その寸前だった。
「な――――!?」
――――使徒に大量の魔法が襲いかかった。
炎が炸裂し、雷が割れ、岩塊が砕け、氷の槍がひっかく――そんな音によって、使徒の声はかき消される。
地震と雷と台風を一点に収束させたような破壊の連続。
腹の底に響く轟音の連鎖。
宙に立つ使徒の真正面に数え切れないほどの魔法が叩きつけられた。
魔法奴隷たちの魔法だ。
同時に、破壊の中心地点から純白の『瞳』が放たれ、僕の脇腹を貫いた。
「ぐあぁ……ッ!」
意識が寸断されるような痛みだったけれど、呪文の途中だ。
僕は歯を食いしばって詠唱を進める。
「戻れえええええ――ッ!!」と背中側からゲルフの声が届いた。
分かってる。
だって僕のこの魔法は――――
「“ゆえに対価は14”!」
単位魔法は突風を生み出す『風の2番』。
その2倍魔法。
僕は、それを自分に向けて放った。
身体の真正面から固体のような風が僕にぶつかる。右腕がちぎれ、脇腹が裂けたたのではないかと錯覚する。半分意識を飛ばしながら、僕の身体は宙を飛んだ。後ろへ――転移座の方向へ。
「タカハッ!」
ばさり、と僕の身体は受け止められた。
黒いローブが僕の視界をはためく。
視界の中央、使徒は地面に落ちていた。
『瞳』を放つ寸前でとっさに『盾』を展開した。
2つの神秘しか同時に行使できないのならば、『靴』の効果は強制終了し、使徒は地に墜ちる。
とっさに身を起こした使徒が僕たちを睨みつけた。
その瞬間――僕たちの足元から粉雪のような光が巻き上がった。
ついに転移座が起動したのだ。
「残念じゃ。まことに残念じゃのう。ううむ、残念じゃ。『ミシアの使徒』殿、お主の昇進に貢献するつもりで今日は出てきたのじゃが……」
ゲルフはもっともらしくため息をついた。
「――――あまりにお粗末じゃったからのう」
僕は吹き出す。
使徒が顔を真っ赤にして、汚い言葉を叫んだ。
「では、の」とゲルフはあっさり言った。
「『神罰の光』ッ!!」
使徒が別の神秘を解き放った。
巨大な光の柱のようなものが僕らを焼きつくす――――
寸前で、ぐるん、と世界が反転した。
僕の表が裏になって、外が中になる。
もう一度、反転した。
――
――――辺りは夜だった。
でも、明るい。いくつものかがり火が焚かれていたからだ。
僕は呆然と周囲を見渡す。翼を広げた鷹のようなムーンホーク城と、2つの月が、僕を見下ろしていた。
ムーンホーク城の門前。
僕は隣に立っているゲルフを見上げた。
ゲルフの黒い瞳が僕を見つめ返す。
「…………ふっ」
「…………くっ」
きっと。
どっちが先に笑った、と後でケンカするのだろう。
「ははははははははははっ!」
「はっはっはっはっはっは!」
僕たちはまるで幼なじみのように、
戦友のように、
そして、親子のように、心の底から笑う。
「帰ってきたぞおおおお!」
「うおおおおおおおおお!」
「いやっほうううッ!」
周囲の魔法奴隷たちもそれに続く。
月まで届きそうな熱気が、僕たちを包んでいた。
――
「……絶対、ゲルフのほうが先だった」
「馬鹿を言うな。タカハが先に笑ったじゃろうが」
隣を歩くゲルフに向かって、僕は肩をすくめる。
「あーもーあれだよね。歳。歳だよ歳。若者の記憶力と老人の記憶力、比べるまでもないじゃん。僕はそのときかがり火が近くに何個あったかまで覚えてるんだよ?」
「……かがり火の数と、どっちが先かは関係ないじゃろう」
「関係あるって。どっちが細かく覚えてるかっていう勝負でしょ? 僕の勝ちだってそれで分かるよ」
「よかろう」とゲルフは言った。「そこまで言うのなら、修飾節を多く言えたほうの記憶を採用するということでどうじゃ?」
「ず、ずるい!」
「なぜ? どっちが多く記憶できるかという勝負であろう? わしの勝ちだとそれで分かるではないか」
「年季が違うよ! 年季!」
「お前は『老人をいたわる』ということを覚えるべきじゃ。あのとき、わしが先に笑ったとしたら、みながどう思うか。お前が先に笑ったという事実なら、みながどう思うか。比べるまでもあるまい」
「だって……なんか騎士団長に怒られたしさ……」
「ロイダートは怒ってなどおらぬよ。あいつは生真面目すぎるのじゃ」
「怖かったなあ」
「わしも……あれは怖かった」
僕はこらえ切れずに吹き出した。
ゲルフは会心の一撃を決めたとばかりに、ニヤリと笑っている。
「…………あ」と声が聞こえた。
顔を上げる。
ずいぶんと懐かしいピータ村の門には、人影があった。
「おーい、ラフィア~!」と僕は手を振った。
うさみみ少女が全力でこちらに走ってくる。
転ぶんじゃないかと僕は心配する。
だって、ラフィアの目はもうすでに真っ赤なのだ。
ラフィアの向こう、見慣れた森の緑が眩しく見えた。
まるで使ったことのない心の部品が動き出したみたいで。
僕はこの感情の名前を知らない。
だから僕はきっとみっともない表情をしている。
でも、それでもいい、と思う。
「みっともない表情をするな、タカハ」
ゲルフは僕の弱点を攻撃して喜んでいるようだ。
「黙ってよ、父さん」と僕は言った。
「うお……」
ゲルフは驚いたみたいに体をよじる。
「うむ……あれじゃな。わしは、それに慣れておらぬ……」
「『それ』……?」
「いや、なんでもない」
僕は会話の流れを振り返って、言葉の順序を思い出した。
「…………父さん?」
「うお……」
「父さん」
僕はいつからこう呼んでいたのだろう……?
とても最近だった、ということに気付く。
「おとーさんっ! タカハっ!」
涙声で叫ぶラフィアが飛びついてきて、僕とゲルフはその体を受けとめた。ぶええええん、とラフィアは大声で泣き続けた。僕とゲルフは互いに目配せをして、苦笑する。
ゲルフに拾われたあのときから、僕たちは家族だったのかもしれない。
もしくは、ゲルフが騎士を前に親子の関係を宣言したあのときから。
でも。
すごく曖昧で、理由なんてなくて、つまり、なんとなくなんだけれど。
この瞬間から僕たちは家族になったんだ、って。
ラフィアを慰めながら僕は思った。
そしてそれは多分、幼少期の僕が手に入れた、いちばん大きなものだった。
――――――――幼少期編、了




