第20話:「目を覚ましたんだね?」と猫人族の少女はいつも通りに言う。
目を開けると、自分の家の天井が見えた。
においと光の加減で朝だと分かる。
雨の降っている湿度を肌で感じる。
空気がしっとりとしていて心地いい。
「う……ん」
身体を起こして伸びをした。完璧で気持ちのいい朝だ。
不意に、違和感をおぼえる。
――――僕はどうして気持ちのいい朝を迎えてるんだ?
でも、その疑問はおかしい。人間なら誰にだって気持ちのいい朝を迎える権利はあるでしょ? ああそうだな、うん、まあ、その通りなんだけどさ。
それでも。
どこか違和感が残って――――
がしゃん、という音がした。
「タカ、ハ……?」
部屋に入ってきたラフィアは信じられないものを見たかのように、僕を見ている。
けど、それはお互い様だ。
ラフィアの青い大きな目の下にはクマができていて、ふわふわだった髪はぐしゃぐしゃだ。髪と同じ色の大きな耳もくたりとしていて、毛並みを整えていないのが分かる。やつれている。
「ラフィア……?」
「タカハだ……。タカハが起きた。タカハぁッ!」
みるみるうちに、青い瞳にキラキラしたものが溜まっていく。
ラフィアは弾丸みたいに飛びこんできた。ばすん、と僕たちはぶつかって、受け止めきれない。
「ら、ラフィア……」
「みんな、ひっ、ボロボロで……っ。タカハもケガしててっ……。わたし、わたし……っ。もう、タカハっ、起きないんじゃないかと思って……っ」
僕を抱きしめながら、ラフィアは震えていた。
仰向けで天井を見ながら少女の体重と体温を感じる。
軽かった。
小さかった。
なのに、熱い。
すごく、熱い。
乱れてるけどふわふわの髪からはやっぱりいい匂いがする。
「ありがとう。ラフィア」
「もうイヤだよっ。招集なんてイヤっ。絶対……っ」
みんなボロボロで、とラフィアは言った。
招集、とラフィアは言った。
僕はすべて思い出した。最低な騎士たちや、転移するための陣、赤い光、そして始まったひどい戦いと、ゲルフやソフィばあちゃんの強さと、そして――――
「リリムさん」
その瞬間、ラフィアが息を呑みこんだ。
少女は腕をあっさりと解くと、後ずさって僕から離れた。瞳には怯えの色が混じっている。
ラフィアは分かってる。僕が聞きたいことを。
そして知ってるんだ。その答えを。
でも、僕には……問うことしかできない。
「リリムさんは、無事なの?」
ひっ、とラフィアの喉が鳴った。
ラフィアは小さな両手で顔を覆った。しゃくりあげる音だけが部屋に充満していく。その音はまるで固体みたいに部屋の中にどんどん溜まっていく。
戦場の記憶の、一番最後。
『ちょっと無理かな』と精霊は言った。
……本当に無理だった?
ふざけるなよ。
なにが精霊だ。なにが魔法だ。使えない。ほんと使えないな!
――――いや。
もっと悪いのは、騎士だ。
あいつらはあの赤い転移座に僕たちを乗せた時点で、僕たちを犠牲にするつもりだった。敵の奇襲すらもおびき寄せるためのエサにしたのかもしれない。
『わしらが騎士に勝つことはできない』とばあちゃんは言った。
なんで……ッ。
どうしてあいつらをぶっ倒せない?
あんな不条理が許されていいはずない。
そもそも僕たちの国はどうして『鉄器の国』に攻めこまれてたんだ?
分からない。
分からないことだらけだ。
魔法のことも、騎士の強さのことも、この世界のことも。
僕は――――知りたい。
これほど知識がほしいと思ったのは初めてだ。
「ラフィア」
声が鋭くなってしまった。びくり、と少女の肩が震える。僕は既にベッドから下りて立ち上がっている。
「行こう」
「どこへ……?」ラフィアは怯えている。「どこへ行くの?」
「決まってるよ。マルムのところ」
ラフィアが唇を噛んだ。
「マルムはずっと家にいるの。出てきてくれなくて」
「なら、乗りこむ」
「で、でもッ」
「1人にしていいの? 友だちなんだよ?」
その言葉で、ラフィアの目に光が戻ったように見えた。
「そうだよね……。行こう」とラフィアは言う。
僕たちは一緒に家を出た。雨が降っている。気にしないで僕たちは突き進む。
マルムの家はピータ村の反対側だ。遠い。
「あ」
ゲルフが道の向こうから歩いてくる。
「ん?」
老魔法使いが目を細めた。
僕たちは足を止めずに進む。むしろ加速する。ゲルフの目が大きく見開かれた。が、その隙に僕たちはゲルフのわきを通りすぎる。
「タカハ! 待ちなさい!」
「ごめん、後でいろいろ聞くから」
「待て! こら待たぬか!」
「待たぬ! ラフィア!」
僕はラフィアの手をとって走った。ラフィアは笑って「またあとでね! おとーさん!」と振り返って言う。ゲルフは最初は僕たちよりも速く走っていたが、すぐについてこなくなる。
「……逃げっ、きった?」
「あとでっ、お説教だ、ね」
息を切らせたラフィアはなぜか楽しそうだ。ラフィアは実際のゲルフの怖さを知らないんだよな。僕はあとで半殺しにされるだろう。
でも、そんなことは小さな問題だ。
マルム。
大丈夫かな……。
弱い子じゃないと思う。
でも、人の心には敏感な優しい女の子だ。
それに、どんな強い人間だって、耐えられないだろう。
早足で歩く。雨が髪の毛を重くして視界を狭めるかのようだった。
僕たちはマルムの家の前に着いた。
一瞬、絶句する。
「~~♪ ~~♪」
マルムがいた。雨の中、鼻歌を歌いながら、家の前を箒で掃いている。
ばしゃりばしゃりと泥が飛び散り、足元にかかるのも構わずに、マルムはそれを続ける。鼻歌を続ける。ばしゃり、ばしゃり。そもそも掃除ですらない。家の前の泥をかき回しているだけだ。
僕は、歯を食いしばる。
「マルム」
「ん?」
茶色の耳がぴくりと揺れて、マルムがこちらを見る。
いつものマルムだった。眠そうにまぶたが落ちていて、知り合いを見つけたことに少し驚く、いつもどおりのマルムだった。
「やー、タカハ。目を覚ましたんだねー……?」
具合はどう? とマルムは言う。
「……最悪だよ」
「休んでいたほうが……いいんじゃないかなー?」
僕はそれを無視する。マルムの目を見る。
「……つまり、私に用ー?」
マルムはいつもどおりだ。完璧だ。すごいよ。
僕がこれを言ったら冗談にもならないけどさ。
子どもがそんな背伸びをするな。
「渡すものがある」
これから僕がするのはすごく子どもっぽいことだ。そういう方法しか思いつかない。マルムの心を解き放つ手段を、それしか。……けど、知るもんか。
僕は服の中から白いものを取り出した。
リリムさんが最後に渡してくれたエゼリの卵だ。
マルムの表情が、凍りついた。
「茹でたエゼリの卵。プレゼントするから。食べて」
「……い、要らない」
「マルム」
びくり、と少女は身を縮ませた。
僕は家の壁で卵の端を割った。つるんとした半球が露出する。白い半球がびたびたと雨で濡れていく。
「ほら」僕はそれをマルムに突きつけた。「食べるだけだよ。出来ないの?」
マルムは恐る恐るだったが、それでもなお、いつもどおりの仕草でそれを受け取った。
小さく口を開いてマルムはそれを食べる。
白身が少女の喉を滑り落ちていくのが分かる。
「おいしい……」とマルムは言った。
「エゼリだからね。僕は……それをある人からもらったんだ」
「……ぁ」
「その人も、誰かにもらったんだよって自慢しててさ。『大切なものだから食べられない』って言ってた」
「…………嫌」
「その人が、僕に渡してくれたんだ」
マルムの目が大きく見開かれる。少女の肩が小刻みに震え始める。
「…………うううううううううううっ」
マルムは顔をぐちゃぐちゃにしながら、ばくばくと卵を食べた。ラフィアがマルムに抱きついた。
「うううああああああああああッ!!」
ざあざあという雨の音の中。
マルムは喉が裂けるほどの声で泣いた。
ラフィアが抱きしめ、その背中を優しく撫でる。
黒い影がマルムの家の門に姿を見せた。ゲルフだった。だが、ゲルフは僕たちの様子を見ると、何も言わずにその場を離れた。
髪の毛が重くなっていく。初めからそこにあったように、後悔が姿を見せた。
僕は――――あのとき。
奇襲されたことに気付いたあのとき。
『土の11番』の詠唱の対価の計算が遅れた。
その再計算による時間のロスとして2秒はかかっていたはずだ。僕は動揺していた。ひたすらに動揺していた。
その理由は分かりきっている。
僕は、怖かったんだ。
怯えきってた。
早く呪文を完成させなければ、あの矢で――自分が殺される。
そう、思ったから。
だから、その恐怖が考える速度を奪っていた。
2秒……いいや、1秒でもあれば、リリムさんをあの矢から守ることができたはずだったのに。
僕のせいだ。
僕が臆病だったから。
僕がとっさの判断を誤ったから。
だから――リリムさんはマルムのところに帰れなかったんだ。
「タカハ」
僕の手を、誰かが掴んだ。
ソフィばあちゃんだった。
黄金色の小さな瞳が僕を見ている。
ソフィばあちゃんはゆっくりと首を横に振って、僕の手をほどいた。自分の爪が親指の付け根に食い込んで、痛々しい痕が残っていた。なのに僕はその痛みを感じない。
「……みんな、家に入るよ」と、ばあちゃんが言った。




