第163話:「それはいいですけどー」と妖精は続けた。
「ああっ! 戦術魔法じゃないですかー!」
ロジックス。
これは固有名詞だから、直接伝えちゃっていいよな。
ニルヴァーナは小さな手のひらを頭に押し当てた。
そうするニルヴァーナは先ほどまでよりもずいぶんと真剣な表情をしていた。
「待ってくださいー。状況を整理しますねー。今度こそお手伝いができるかもしれませんからー。……ええと。本機は、呼び出しが激減してから合計すると約18万日をスリープしましたー」
1年は17日かける17月、289日。
約300日として、こいつは600年間眠っていたことになる。
600年前。
その先は、記録がすべて抹消された、歴史上の空白だ。
「その間に、シルフェンレート語は失われてしまった、というわけですよねー」
「君の唯一の機能もね」
「ご主人様は黙ってくださいー! ……その上で、ええと、さっきから思っていたのですがー、みなさんの普段の言語であるリームネイル語には、シルフェンレート語の音韻は伝承されていますねー?」
「肯定。……あなたの言うとおり……共通の音韻は……いくつかある」
そうなのか。僕には『対訳』の力があるから、意識したことはなかった。
「ですが、やはり、……その言葉ではなにも引き起こすことはできません。魔法を発動させるためにはシルフェンレート語の正確な発音が必要なのですー」
つまり、メルチータさんとナイアさんの仮説は正しかったのだ。魔法の仕組みを編み出した精霊民族、彼らが操った精霊言語――それは単に、その当時の標準語だったという事実があっさりと明らかになる。
「そして、戦術魔法は――」
ニルヴァーナは人差し指を立てた。
「――至上の陛下の大魔法軍団が高速化する戦闘に対応すべく編み出した戦闘用のショートカットのことです」
「ショートカット……?」
「はいー。単純ないくつかの文節だけで攻撃力を有するための共通コード、簡易版の魔法、といったところでしょうかー。たしかに必要な語彙数は圧倒的に少なくなりますから、長い時間を伝承されたことにも納得できますねー」
「本来の魔法はもっと複雑ってこと?」
「戦術魔法においては、共通通貨の処理が整数になるように調整されていますよねー? これは詠唱の高速化とミスを減らすことが目的ですからー」
戦闘する際に長時間の詠唱は足かせとなる。魔法を素早く行使するために編み出されたのが、戦術魔法ということか。
……まあ確かに、戦闘技能として魔法を追求しようとしたら、呪文は短ければ短いほどいいよな。詠唱破棄とか、その極限だろう。この世界では詠唱破棄できないっぽいのが本当に残念。
ちなみに、このへんはすごく通訳に苦労をした。ショートカット、コード。僕は前世でなんとなく触れていた横文字だから分かるけれど、『対訳』を使っても異世界の言語に落とし込むことはひどく難しかったのだ。
だが、ニュアンスを理解したメルチータさんとナイアさんはすぐに話についてきた。
「……もとは……7属性それぞれに、17の単位魔法で……いい?」
「17? なんでですかー? 識属性は数が少なかったですが、それでも28個の基本戦術呪文がありますよー? 最多は火属性で43個ですねー」
はっとした。
その可能性は以前、メルチータさんと考えてみたことがある。僕が『17の原則』を超えて魔法を使えるとわかったとき、対価だけではなく、魔法番号にも17以上の数字があるのではないかという疑問を、僕たちは検討した。
つまり、土の19番という魔法だったり、水の23番だったり、風の31番だったり……そういう魔法は存在するんだけど、僕たちが知らないだけではないか、と。
そのときは、可能性としてはあり得るけど確かめられない、というのが僕たちの結論だった。だって、対価を知りようがない。伝承されている知識を探し出すか、あるいは……失敗する覚悟で当てずっぽうな対価で詠唱をする『数試し』をするしかないのだ。『数試し』はもちろん誰かの回路を犠牲にしなければできないため、『魔法の国』における禁忌の1つとされている。騎士でさえそれはやらない。
だが、今のニルヴァーナの発言が事実なら、火属性の単位魔法は43個まであり、識属性の単位魔法は28個まである……らしい。
「おい妖精」
「なんですかご主人様」
「どれでもいいんだけど、対価は覚えてる?」
「……」
「……期待してなかったけどさ」
「まあまあ、タカハくん。そのくらいで。……ええと、私からも質問があるんだけど。ニルちゃんを呼び出したあの魔法は戦術魔法ではないよね?」
「はい! ニルヴァーナを呼び出すあの呪文は、正当な魔法文法、大系魔法に属していますよー! ちょっときっちりしすぎている呪文ですがー」
「きっちり……?」
それは、つまり。
「もう少し砕けた呪文もあるってこと……?」
「……うぅぅ……すみませんー。詳細を、忘れていますー……」
がっくりとうなだれたニルヴァーナは、だが、すぐに根性で顔を上げた。
「ええと、詳細は忘れていますがっ! 断片的なイメージはありますよー! すべてが統一された素晴らしい魔法体系ですー。7柱の精霊様が互いに手を取り合い行使される、楽園を実現するための大魔法体系、それが……ニルヴァーナを呼び出したあの魔法……なんですー……うぅ……」
「ニルちゃん、気にしないで」
「……あなたは……悪くない……」
しょんぼりと羽を落とすニルヴァーナを、メルチータさんとナイアさんが慰める。なかなかに微笑ましい光景だった。
「ニルヴァーナ、この詠唱は分かる?」
僕は、メルチータさんの魔法を奪った魔法を口にした。
――単独展開する――現象は想起変動9式――契機は共通通貨処理――強度は5――形状は付与弾丸――継続は自動で無制限――
「発音は識属性ですねー。ニルヴァーナを呼び出す呪文と同じく、分類上は大系魔法ですー」
言って。
ニルヴァーナは、これまでで一番イヤそうな表情をした。
「……呪いとか拷問ですよね。悪意を感じます。強度も最大だし、とても魔法を使えなくなってしまいますよ。……ご主人様が編み出したのですか。うっわー、ちょっとさすがに軽蔑しますー」
「そんなわけないでしょ。メルチータさんが、僕たちの敵にかけられたんだ」
「…………え?」
ニルヴァーナは打ちのめされたように数歩下がった。
「ま、待ってください! じゃ、じゃあ、今のメルチータは魔法を……っ」
「……」
「そうだね。マナそのものが怖くなっちゃって、使えない、って感じかな……?」
気にしていないと言わんばかりにきっぱりと笑うメルチータさん。
「……」
そんな彼女の方へ、銀色の妖精がゆっくりと飛んでいく。
こいつにしては真剣な表情をしながら、妖精は言った。
「ニルヴァーナは現状のデータ状況からでも2つ、対処法を提案できます」
「それは――!?」
思わず僕は前のめりになる。
こくりと頷いたニルヴァーナは小さな人差し指を立てた。
「1つ目。最後の文節に注目してください。『継続は自動で無制限』となっています。メルチータを呪ったその敵は、今もまだメルチータを呪い続けている、というわけです。つまり――」
「術者を倒せば――!」
「ええ。継続処理は終了しますから、メルチータは現状から脱出することができます」
黒仮面卿。
……あいつを、倒せば。
「もう1つ。こちらはあまり役に立たないかもしれませんが……2番目の文節に注目してください。『現象は想起変動9式』。恐怖や嫌悪感を人間の精神に与える効果です。それが、メルチータの『共通通貨処理』、つまりマナの知覚にかけられています。これはメルチータの精神状態を変化させただけに過ぎません」
メルチータさんは曖昧な微笑を浮かべて、「……うん」と言った。
「つまり、メルチータは魔法を唱えるために必要なものを失ったわけではありません。その恐怖や嫌悪感を自らの意思で乗りこえることさえできれば――魔法の詠唱は可能です」
自転車は壊れていない。
平衡感覚だって失ったわけじゃない。
――ただ、乗ることがどうしても怖い。
そういう状況だ。
トラウマのような、呪い。
たぶん、だけど、メルチータさんはその事実に薄々感づいていたのだと思う。その恐怖心に何度もチャレンジしたに違いない。
だが、魔法への圧倒的な愛をもつメルチータさんですら、それを乗りこえることはできなかった――――
強度は5。
強度……?
ふざけんなよ。
「え、えっと……お役に立てましたかー?」
「立ってないよ、全然」
「ご主人様には訊いてませんー! メルチータとナイアに訊いたんですー!」
「同じだと思うよ」
「ご主人様はいちいち言い方が嫌味ですー! 腹黒って言われませんかぁ? 絶対みなさん陰でご主人様のことそうやって悪口言ってますよー」
「ポンコツ妖精になにを言われたって痛くも痒くもないね」
「わかりました! もう思うがままに言います! やーい! 腹黒ー! 腹黒ー! ――ぷぎゃっ! な、なにするんですかー! 離してください! 暴力反対ですよー!」
「教えてほしいことがある」
「だ、ダメですよぉ……。この身体は至上の陛下の臣民のみなさまにお仕えする身……いかなる状況にあっても、に、ニルヴァーナは屈しませんからね……っ」
「メインサーバとかいうのにアクセスできれば、君は記憶を取り戻せるんだよね?」
「え? ……あ、はい」
僕の右手に羽を掴まれたニルヴァーナは身体の動きを止めて、きょとんとした顔で僕を見た。
「どこにあるの?」
「わ、分かりません……。地図データもないですし、そもそも稼働しているかすら……」
「見た目とか、大きさは?」
「そうですね……この部屋くらいの大きさの、とてつもなく頑丈な箱です。ただ……年月の経過を考えると、地下に埋まってしまっている可能性も……。そ、それに……」
「それに?」
「メインサーバは、全部で、4つ……ありますー……」
おい。
なんだその設定。
「ニルヴァーナは召喚頻度が多いため、4機の全てから分散型のバックアップを受けていました。ですから、4つに触れなければ完全には復元されません。……近くに行けば、接触連絡回路が回復すると思うのですがー……」
「……」
「も、もちろん1つにでも触れることができれば、今以上にお役立ちできると思いま――ひゃぁっ! い、いきなり投げないでくださいよー!」
ぽいっと空中に放り出したニルヴァーナはその場に滞空してぷんすか怒り続けている。もちろん僕は聞いていなかった。
ニルヴァーナは地図の情報を持っていない。これ以上を聞き出すことはできないだろう。逆に、それだけ分かれば十分だ。
『魔法の国』のどこかにある4つの遺跡。それにニルヴァーナを接触させる。そうすれば、彼女は記憶を取り戻すことが出来て――――
「……うーん」
冷静に考えれば、そんなにがんばることでもないのかもしれない。僕も領主として忙しいし、ニルヴァーナは性格がかなり悪いし……。
いや。
記憶を取り戻したこいつは――魔法に関する情報を多く教えてくれるはずだ。
それが理由。
そうしよう。
「もー! 返事してくださいよー! 聞いてるんですかー!? ご主人様――っ!」
――
1ヶ月間、この状況に進展はない。
絶賛、目覚ましアラームとして活躍してもらっている。
「”ご主人様はニルヴァーナのことを目覚まし時計かなにかと勘違いしているようですが、その待遇にニルヴァーナは強く抗議します。これは精霊様の権能の一端を付与された知性体に対する冒涜です”」
ぴとぴとと足音を響かせながら、裸足の少女が僕の机の上を往復する。
意外なことに、この妖精は時間になると確実に起こしてくれる。わざと起こさないっていう嫌がらせをしてくるんじゃないかと思っていた僕としては少し拍子抜けだ。
「”そもそも、ニルヴァーナを出しっぱなしにする必要はないんじゃないですかー?”」
銀色の妖精が首をかしげながら言った。
ニルヴァーナいわく。
干渉知性体は必要なときに出すのが普通で、僕のように1日中召喚状態をキープするのはあまり一般的ではなかったのだという。
スキンケアが、だとか、女の子には準備の時間が、とかいろいろ言っていたけれど、要するにこれも持続的にマナを消費する魔法。つけっぱなしはやめましょうというわけだ。言われてみれば、ときどき回路をマナが通り抜ける感覚がある。微々たる量だから、気にしていなかった。
「”夜とか暇なんですよねー。ニルヴァーナ別に眠らなくてもいいですしー”」
よく言うよ、と僕は思った。だって毎晩すごくウキウキしながら窓から飛び立っていくのだ。
ちなみに日中は、僕の公務についてきて「妖精様すげええ!」って言われるたびに、でれっでれの笑みを浮かべている。分かりやすい妖精だった。
「”だから言ってるでしょ? 外へ飛んでいって、地図を頭の中に入れてきてって”」
「”簡単に言ってくれますけどー、飛ぶのって疲れるんですよー? だいいち目視で地図を作成するだなんて非効率ですー。……それにしても、これが『魔法の国』のうちで5本の指に入る都ですかー? しょぼすぎですよー。見ていて悲しくなってきますー。都は主の鏡って言いますし、納得ですねー”」
「”ペットは飼い主に似る、なら聞いたことあるけど”」
「”ええっ? き、きもいですー! ニルヴァーナがご主人様に似るわけないじゃないですかー! そんな性格の悪いオトナにはなりませんー!”」
「”君が望もうと望むまいと似るんだよ。君が大っ嫌いな僕にね。格言ってのはそういうことなの”」
「”うわああああっ! いやだー! いやですー! 送還してくださいー! お願いしますからー! ……ねえご主人様ー、どうして送還してくれないんですかー?”」
……んー、まあ。
君のスペックをいろんな角度から知るため、と言うのはなんだか癪だった。
「”嫌がらせ”」
「”やっぱり性格わるすぎですよー!”」
はぁ、と盛大にため息をついたニルヴァーナは、銀色のまつげをかすかに持ち上げて僕を見つめた。
「”……それはいいですけどー、ご主人様ー”」
「”なに?”」
「”さすがに、ちょっとお仕事しすぎですよー?”」
ニルヴァーナの銀色の瞳はどこか確かめるような色を湛えていた。
「”……そんなことないよ”」
「”ありますよー。日中はずっと公務なのに、こんな時間まで起きてるんですからー”」
窓の外には、2つの月。
正確な時間は分からないけれど、深夜の12時を回っていることは間違いなさそうだ。まぶたは鋼鉄の扉のように重い。
でも、僕はやめるつもりはなかった。
机の上には羊皮紙の山が置かれている。文官たちに命じて集めさせた、領内の魔法に関するさまざまな情報だ。
僕はティルさんの歌を聞くことで、偶然とはいえ、ニルヴァーナにたどり着くことができた。同じように伝承されている魔法が領内にはきっとあるはず。それを、独学だけれど、調べている。
僕は――すべての奴隷と言われる人を救いたい。
それがゲルフの目指した理想郷。
僕がすべてを託した未来像。
貴族と騎士に抑圧された奴隷たちを開放し、本来の魔法を広めることで、魔法使いたちは可能性を手に入れる。
でも、それ以前に――僕は、手の届く範囲の人すら守ることができなかった。
『対訳』。僕に授けられた、絶対の反則。それがありながら、状況判断の甘さが理由で、メルチータさんはマナを呪われてしまった。
だから、もっと、もっと僕は力がほしい。
そのための方法はいくつもある。
まず第一に、僕がやっているこれ。ムーンホーク地方に伝わる魔法を徹底的に調べ上げ、断片を組み合わせ、新しい呪文を手に入れること。
もう一つはニルヴァーナの機能を取り戻すことだ。彼女の本来の記憶が格納されている場所――メインサーバ。それにたどり着くことは『魔法の国』そのものの歴史に触れるような事実であるかもしれない。そっちの情報も探してもらっている。
最後は、仮面の魔法使いたちに関する情報を集めることだ。この1ヶ月間、彼らは何一つとして独立領内にアクションを起こしてきていない。革命軍にかなり無理を言って捜索部隊を増員してもらったけれど、それでも手がかりすらなかった。ほとんど間違いなく、やつらは今、独立領を去ったのだ。アーム村のマナだけを枯らせて。
アーム村は、マナが枯れたということ以外、何一つ大きな問題が起こっていない。先日は、村娘たちが歌の実力を競うお祭りにも呼ばれたくらいだ。
だからこそ、もどかしい。
黒仮面卿を倒せば、メルチータさんの呪いは解ける。
そして、新たな精霊言語を聞き出せる。
そのはずなのに。
「”聞いてるんですかー? ご主人様ー? ほんとにほんとにお疲れって感じの顔ですよー?”」
「”これは僕の個人的な用件だから、いいの”」
「”……事情は分かりますけどー、メルチータはたぶん、気にしてないですよー?”」
分かってる。
メルチータさんは怒ってない。
それを、何度も言ってくれた。
だから、メルチータさんへの申し訳なさはたぶん、理由の半分。
これをやるのは、僕しかいないからだ。
『対訳』の力をもつ僕にしか、できないことだから。
「心配してくれてありがとう」
と、表情を変えずにリームネイル語で言った。
「”あー! ずるいですー! すぐそうやってそっちの言葉でー! また馬鹿にしてるんでしょー! ほんとサイテーですっ!”」
ぷんすか怒った銀色の妖精は僕の頭まで飛んできて、しばらく僕の髪を引っ張って遊んでいた。
ややあって、ゆっくりと僕の右肩に着陸する。
「”……しょうがないですねー。ニルヴァーナがそのお仕事、手伝ってあげますよー”」
「”ん。そしたら、こっちの羊皮紙の束を地域別にまとめなおしてくれる?”」
「”うわっ、通し番号とか決めてるんですかー? ご主人様って面倒くさいことが好きですよねー?”」
「”うっさいな。いいから仕事して。仕事”」
その日も。
領主の執務室から明かりが消えることはなかった。




