第162話:「誠意が足りないよねー」と妖精は言った。
「”えー、けふんけふん”」
声がした。
少女の声だった。
その声に、僕は深いまどろみから引き上げられていく。
自分が机に突っ伏していると気付くのにそう時間はかからない。
全身がこわばっているような感覚と、枕がわりにしていた右腕のしびれ。背中から毛布をかぶっていたけれど、足先が少し冷たい。暖炉で薪がはぜるぱちぱちという音が聞こえる。
薄目を開けると、机の上に置かれた燭台が、頼りない光を羊皮紙に落としていた。
「”仮眠の開始から15分が経過しましたー。起きやがってくださいー”」
僕を小馬鹿にしたようなその口調にイラッとした僕は、とりあえず無視することを決定した。
「”おーい。聞いてますかーご主人様ー。分かってますよー。起きてるの把握してますよー。起こせって言ったのご主人様ですよー。おーい”」
ぴとぴと、と足音が机の上を近づいてくるのが音で分かった。小さな――人間を20センチくらいのサイズに縮小したらちょうどなんじゃないかと思わせるサイズ感の手のひらが、僕の耳に触れる。
「”目を開けてー、身体を起こしてー、仕事しましょうよー。じりりりりんっ! 朝ですよー! あっ、夜だった。……ねえ、聞いてますよねー? ご主人様ー。領主様ー。タカハ様ー。――ぷぎゃっ!”」
僕はうるさい目覚まし時計を止めるテンションで右手を振るった。
結果、手のひらの中には丸めた紙のゴミをくしゃっと潰したときの、あの感触。
「”うわああー! やめてください放してください! 羽が! 羽! 変な風に折れ曲がっちゃってるからー! 伸ばすの大変なのー! 出勤前にいちばん時間かかるのここなのー! ニルヴァーナのアイデンティティなのー!”」
がしがしと両手や両足を駆使して反撃してくるその感触は、完全に、網からカゴに移すときのセミだった。そう言われてみれば、声もどこかセミの鳴き声のように聞こえてくる。声量としてはかなりうるさいけれど、完全無視、みたいな。
「”もう知りませんからー! 訴えてやるー! 母さまに告げ口してやるんだからー! そうしたらあなたは識属性の魔法が使えなくなってニルヴァーナのことも召喚できなくなって仮眠から起きられなくて仕事に遅刻して社会的な信用を失って破滅しちゃうんだからー! ばーか! ご主人様のばーか!”」
「ふぁ……」
僕はあくびを噛み殺しながら、顔を起こした。その隙に手のひらの中から素早く抜け出した存在が、僕の目の前にやってくる。
それは、銀色の妖精だった。
20センチくらいの身長の人型。流れる長髪と虹彩は銀色。それは灰色のような鈍い色ではなくて、白に近いような輝かしい銀色だ。
ぱっちりとした目元は少し目尻が持ち上がっていて、傲岸不遜、という四文字熟語がぴったり当てはまる。どこかビニールっぽい不思議な素材の服を身につけるその肢体は、成長の途中にある少女のもの。背中ではアゲハ蝶を透明にしたような羽が薄ぼんやりと発光していた。
名前は、ニルヴァーナ。
彼女の自己紹介によれば――攻性精霊第Ⅵ柱の司る機能のうち汎用論理演算システムを模倣した独立干渉知性体。
――あのアーム村の1件から、1ヶ月が過ぎていた。
1ヶ月も一緒にいれば、相手がどういうやつか、ということくらいはおおよそ見当がついてしまう。ニルヴァーナを1つの人格として見れば、まあ、ご想像のとおり、かなり子どもっぽいし、口は悪いし、相手をしていて疲れる性格をしていた。
でも、彼女の存在には、性格などどうでもいいと思わせるほどの価値があった。
単位魔法と修飾節で規定される『魔法の国』の魔法体系ではなく――太古の魔法によって呼び出された意思をもつ存在が、僕の目の前にいる銀色の妖精なのだ。
アーム村から領都へ帰還した僕、メルチータさん、ナイアさんの3人はこの銀色の妖精に対して、考えられるありとあらゆる質問をぶつけてみたのだった――――
――
僕が翻訳者として間に入っているので、メルチータさんとナイアさんがニルヴァーナに話しかけているっぽい描写は若干のフィクション。
「それで。率直に、君がどういう存在なのか教えてほしいんだけど」
場所は、『学舎』の中、メルチータさんの研究室。
ニルヴァーナは応接用のテーブルに置かれた羊皮紙の本に座り、すらっとした足を組んで、なぜか僕の見下すような視線を向けてきていた。
メルチータさんはそわそわと、ナイアさんはじっと、銀色の妖精を見つめる。2人の手元には羊皮紙と羽ペン。
「……」
僕の問いかけに答えなかったニルヴァーナは自分の手に視線を落とし、右手から左手まで、鉛筆の先端ほどの小さな指を順にチェックした。どうやら爪が気になっているらしい。
沈黙したまま待つこと1分弱。
「よしっ」
自分の爪の美しさに満足した様子で頷いた銀色の妖精は、ため息をつきながら僕に視線を戻した。
「ねえ、あのさ、質問してるんだけど――」
「誠意が足りないよねー」
「…………あ?」
「んー。分かんないかなー。誠意。真心。思いやり。人にものを頼むときはなにかあるんじゃないですかーってニルヴァーナは思ったり思わなかったり?」
……。
……僕、こいつ、嫌い。
相容れない。今すぐにでもブチ切れる自信がある。
だが、ニルヴァーナは不敵な笑みを崩そうとはしない。
この銀色の妖精さんはどうやらよーく分かっているらしい。僕たちが精霊言語に関しての情報を欲していて、自分がその情報を握っている、という優位性を。
息を吸いこんで、吐き出す。
僕はニルヴァーナを召喚した。召喚したってことは、使役できるんじゃないか。あるいは、ご主人様に逆らえないなんらかのペナルティがあるに違いない。
…………それを暴き出してやる。
「――ニルヴァーナ様」
「……!」
「先ほどは失礼を申し上げました。僕の名前はタカハと言います。わけあって、ニルヴァーナ様が降臨されたこのムーンホーク地方で、領主という立場をつとめさせていただいています。
恐れながら、この時代にニルヴァーナ様のような高貴なる存在をお呼びした経験のある人間はおらず……どのようなものが我らの誠意として認めていただけるのか、無知な我らにお教えいただけないでしょうか」
「えっ! えっと……く、苦しゅうないぞー!」
ニルヴァーナは胸を張ってふんぞり返った。大根すぎる僕の演技にまんまとのせられてる。……バカだ。僕はそう断じた。この独立干渉知性体、知性のかけらもない。
「そうですねー。ニルヴァーナは無知なる平民の食事を味わってみたいですねー」
「……そのようなものでよろしいのでしょうか」
「できるだけ甘いものがいいですねー」
真面目くさった顔をして言うニルヴァーナ。
お菓子を食べたいだけのようだ。
てか食べられるんだ……。
「承知しました。……メルチータさん、ニルヴァーナ様に甘いものを」
「ん。了解」
学舎の食堂へ行ったメルチータさんは、数粒のファムの実を持って戻ってきた。
ファムの実はしゅわしゅわする不思議な触感と甘酸っぱいフレーバーがおそらく僕の前世でも通じるであろうこの世界の嗜好品だ。ちゃんと殻から出して、器に盛ってある。
その瞬間、ニルヴァーナの目が大きく見開かれた。
「嘘……。やば……。パルックじゃん……。年に1つしか食べられなかったのに……」
…………。
「へ、平民にしてはっ、なかなか悪くない食事をとっているようですねー。まあ仕方ありません。それでいいでしょう。いただきま――――」
「なにをしているんですかメルチータさん」
ニルヴァーナの言葉を僕は遮った。
「それはファムの実じゃないですか。そのような下賤な食べ物、ニルヴァーナ様にお出しすることはできません」
ああそういうこと、とメルチータさんが片方の眉を持ち上げ、すぐに小さく一礼した。
「申し訳ありません、領主様。すぐに別のものをお持ちしますね」
「えぇ……っ!?」
すっと身を引いたメルチータさんを見送るニルヴァーナの目は、電車に乗ってしまった恋人を窓ガラス越しに見送るヒロインさながらに、切なげだった。
「え、えっと! ニルヴァーナはそれでもいいっていうか……!」
「ニルヴァーナ様、冗談はいけません。これは平民の中でもさらに身分の低い者のみが食す堕落の象徴。ニルヴァーナ様の高貴なお口にお運びすることなどとてもできません」
「うぅ……」
「……もしお召し上がりになりたいのでしたら」
「……」
「あなたがどういう存在なのか、無知な我らにお教えいただけないでしょうか」
「教えるよ! うん! いくらでも教える!」
「……」
こうして僕たちは、ファムの実1つ差し出すこともせず、聞きたかった情報の入り口にたどり着いたのだった。
「んんっ……」
椅子代わりにしていた羊皮紙の本から立ち上がり、わけもなく胸をはって、銀色の妖精は言った。
「独立干渉知性体は、7柱の精霊様の機能のうち、使用頻度が高い部分をコピーすることで、精霊様本体の負担を減らすべく開発されたサポートデバイスです」
コピー。
サポートデバイス。
……ううむ、横文字だ。
たぶん、『対訳』の力が僕にわかりやすく変換してくれているのだろう。
僕はニルヴァーナの言葉の意味をできるだけ殺さないように、この世界の言語で翻訳した。メルチータさんとナイアさんがものすごい勢いで羊皮紙に文字を書きつける。
「どうやら理解が追いつていないようですねー。ま、簡単に言ってしまえば、ニルヴァーナは識属性の精霊『ヴィジュニャーナ』様の娘だと思ってください」
識属性の精霊、『ヴィジュニャーナ』。
イントネーションは『ニルヴァーナ』に似ている。
精霊様には名前があったんだな。
「ニルヴァーナの仕事に関するたとえ話はこんな感じですー。
母さまは家事の全般をすべてこなすことができます。
一方、娘である私は、そのうち、洗濯の部分だけしかこなすことができません。
しかし、洗濯に関しては母さまに負けず劣らずの実力を発揮できます。私がその部分を担当することで、母さまにかかる負担を減らすことができる、というわけですね」
精霊様のお手伝い役。
「その『料理』で例えたのが、『汎用論理演算システム』ってこと?」
「平民にしては理解が早いですねー。褒めてあげましょうー」
論理演算っていえば……それこそ僕はパソコンのようなものをイメージしてしまう。
それがどういう働きなのか聞き出そうとしたとき、ニルヴァーナがちらっとファムの実に視線を送ったことに気付いた。
もうひと押し。
「メルチータさん、ナイアさん、……ニルヴァーナ様にファムの実を献上する前に、僕たちで毒味をしましょう」
ああそういうこと、とナイアさんが微笑とともに、右手の親指をぐっと立てた。
そのサインには全く気づかず、ニルヴァーナは組んでいた足を組んで前のめりになる。
「ど、毒味……っ!? だってそれは普段食べているものなのではっ!?」
「いえ。ニルヴァーナ様に万一のことがあってはいけませんから」
「ニルヴァーナのことはどうか気にしないでくださいー! 食あたりしても送還して再召喚すればリセットされ――」
「では、ニルヴァーナ様、御前で失礼して」
僕たち3人は同時にファムの実を食べた。
しゅわしゅわと炭酸のような食感に一拍遅れて、甘酸っぱい柑橘系の食感が口の中で広がる。
「うん。何度食べても堕落の味ですね」
「これは……危険」
「きっとニルヴァーナちゃんの口には合わないよ」
「……パルック……パルックぅ……」
ニルヴァーナは完全に涙目だった。
…………だが、慈悲はやらん。
「もしお召し上がりになりたいのでしたら――『汎用論理演算システム』とはどういうものなのか、無知な我らにお教えいただけないでしょうか」
「教えますっ! うん! いくらでも教えますからーっ!」
「……」
食欲に飼いならされた哀れな妖精さんだった……。
「母さまの司る性質は知っていますよねー?」
「……識属性が司るのは……人間の認識と精神、その混乱」
「おおむね正しいですねー。混乱、というのは負の側面が強調されすぎていてニルヴァーナは好きではありませんが……。母さまの力は、正しく使えば、使用者の知性を加速させ、さらなる次元に到達させることすら可能なのですよー?」
頭が良くなる。
ブレインクラッカー的な?
そういう単位魔法は、知らない。
「ニルヴァーナの機能もそこに分類されます。7属性21体の独立知性体のうち、ぶっちぎりで最多の召喚回数をほこるニルヴァーナの機能『汎用論理演算システム』、それは……――」
ぴたり、と。
ニルヴァーナはそこで足をとめた。
「…………あれ?」
小さな両手を、小さな頭に当てるニルヴァーナ。
「ない。なんで? 嘘。嘘でしょ? クラッシュしてるってこと?」
また、よく分からないことを口にした。
だが、ニルヴァーナの様子はそれどころではなさそうだった。必死の形相で「再召喚してください」と言う。
「再召喚?」
「『送還』とシルフェンレート語……ええと、違う、みなさんの言葉では『精霊言語』でしたか、それで言ってください。ニルヴァーナは消えます。その後、ニルヴァーナを呼んだ詠唱でふたたび呼び出してください。会話を忘れたりすることはありませんから」
指示に従う。
1度消えて、銀色の光に包まれて再登場したニルヴァーナは、予想通りというべきか、「うわあああ」と頭を抱えていた。
「データベースが完全に損傷してるんだ……! ヤバいよー! オフラインだし……! バックアップ受けられないし……! 物理的に接触するしかないけど……ああでもダメだ! 地図データもないじゃんー! ……うっわー。詰んだー。これマジ詰んだでしょー……」
データベース。
メタ情報。
オフライン。
バックアップ。
通訳者の僕の身にもなってほしい。
僕はだいたいニュアンスが分かるけどさ。
異世界の魔女2人に説明しないといけないんですよ?
……てか、前から思ってたけど、やっぱりこの世界の魔法って――――
「うーん、難しくて詳しくは分からないけど」
メルチータさんは少し困惑しつつ言った。
「つまり、記憶喪失?」
ニルヴァーナははっとした顔をした。
「あなたたち本当に平民ですか? 物分りがよすぎますねー!」
「……」
その一言が僕の我慢の限界だった。
「おい、妖精」
「なんですかー。ご主人様ー」
「話をまとめてみたんだけど」
「はいはい」
「君は識属性の精霊様の司る機能のうち、『汎用論理演算システム』を実行するために生み出された存在なんだよね」
識属性の精霊が引き起こす現象のすべてを『家事』にたとえるなら、その一部――『洗濯』の部分だけを切り出された存在。
「でも、今の君はその洗濯の仕方だって忘れてるってことでしょ?」
「……」
ぴたり、と。
銀色の妖精は動きをとめた。
「じゃあ、何ができるの?」
「…………あ、ぅ……その、……」
先ほどまでの不遜な態度はどこへ行ったのか、視線をあちこちに彷徨わせ、服の裾をきゅっと掴むニルヴァーナ。
見ようによってはかわいらしい仕草に見えないこともないのかもしれないけれど、これまでの振る舞いを考えれば…………慈悲はやらん。
ニルヴァーナは何を思ったのか、満面の笑みを浮かべた。
「無料のスマイルであなたを応援しますっ」
「……」
僕はあごで続きを要求した。
ニルヴァーナは羽をわずかに光らせると、ふわりと飛んだ。
「飛べますっ」
「……」
ぶんぶん飛んだ。
「結構速く飛べますっ」
「……」
「あ、あとはー……そ、そうですねー……」
「僕は飛ばせるの?」
「む、ムリですよぉ……! 人体を人体のまま飛行させるのは、信じられないほどに膨大で緻密な演算が必要なんですー! 至上の陛下にしか許されないことです!」
「『至上の陛下』って誰?」
「まさか知らないというのですか!? 至上の陛下は……――」
言いかけ、愕然とした表情になるニルヴァーナ。
僕はもうため息を隠さなかった。「君だって忘れてるじゃん……」
「平民と一緒にしないでください! データベースがクラッシュしてるだけなんです! メインサーバにアクセスできれば……!」
「はいはい。君がポンコツだっていうのはよく分かった」
「ま、待ってください……! 今のニルヴァーナにもできることがあります!」
「……へえ。なに?」
「内蔵時計は独立しています! ですから、時間ぴったりにご主人様を起こすことができますよ!」
「……」
小憎らしい会話機能つきの時計に成り下がった……!
「……うぅ……」
ニルヴァーナも自分の言葉の意味の無さに気づいたのか、先ほどまで座っていた羊皮紙の本に着陸し、ゆっくりと座る。羽もしょんぼりと垂れ下がっていた。
「ニルちゃん。いくつか聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
「……ん?」
メルチータさんは微笑をたたえて、ニルヴァーナにファムの実を手渡した。
「これ、食べて」
「…………え? でも、これ……」
「正直に言うと、私たちも戸惑っていたの。あなたがどういう存在か分からないから、警戒していたのね。それで、ちょっと打算的な振る舞いをしてしまったんだけど……うん、ニルちゃん、いい子みたいだから。さっきは意地悪を言ってごめんなさい」
「……め、メルチータぁぁ……っ!」
瞬間――だばーっとニルヴァーナは泣き出した。水道の蛇口をひねったみたいな、唐突で大量の落涙だった。
自分の頭より少し大きいファムの実を放り出し、銀色の妖精はメルチータさんの胸元に文字通り飛び込む。
「あら。意外と泣き虫だったの?」
「平民なんで言っでごめんなざい――!」
「うんうん。怖かったんだよね。知らない人たちに囲まれて。それに……自分の大切な力も無くしちゃって」
「うわああああああああああ――っ!」
その後、しばらくメルチータさんになぐさめてもらったニルヴァーナは、椅子代わりにしていた羊皮紙の本に戻った。転がっていたファムの実に目を止める。ぐずぐずと目元をこすりながらも、自分の頭より大きなファムの実を両手で抱え上げ――それに顔を埋めた。
数秒。
ぷはっと顔を上げた銀色の瞳は星空のように輝いていた。
「ちょーおいしいんですけどー! サイコー!」
「……」
その声のトーンは底抜けに明るく、数分前の自分の号泣は完全に忘れているらしかった。このポンコツ妖精、短期メモリにも問題があるんじゃないか……?
「ふふっ、喜んでるみたい」
「……食べたところ……少し、欠けてる……ネズミみたい……おもしろい……」
「それでー! メルチータ!」
「なにかしら?」
「さっき言ってた訊きたいことってなにー? パルックに免じてニルヴァーナが応えてあげるよー」
「お前な」
「ぷぎゃっ――!」
僕は思わず、銀色の妖精の後頭部を人差し指で弾いていた。手加減に手加減を重ねた一撃だったけれど、僕たちに変換すればぶん殴られるくらいのダメージはあるだろう。
「な、なにしやがるんですかー! 背後から不意打ちとは卑怯でしょう!?」
「正面から恩のある人に失礼なことを言うやつに言われる筋合いはないね」
「し、失礼――!? ニルヴァーナ失礼なんて言ってませんー!」
「長い間眠ってて言葉まで腐っちゃったんじゃないの? 『免じて』の使い方がおかしいでしょ」
「むっきー! 怒りましたよー! ニルヴァーナ、ほんとうに怒っちゃいますからねー! 今決めました! ご主人様の前では笑いません! 飛びません! 起こしてあげません!」
「勝手にしなよ」
僕は顔をそむけて、ソファに身体を沈めた。
「……タカハくん?」
メルチータさんはさすがに少し戸惑った口調だった。その隣からナイアさんもじっと僕を見つめている。その無表情の瞳は鏡のようで、子どもっぽく顔をそむけた僕が映っていた。
わーわーぎゃーぎゃーとニルヴァーナは文句を言っている。
飛んできて、僕の耳や髪の毛をひっぱり始めた。
子どもっぽい。
ガキみたいだ。
だから、僕は……許せない。
こいつに人間を模した人格を埋め込んだ、誰かを。
だって、見ていて、ニルヴァーナの姿はあんまりにも痛々しい。
魔法に関する技術を生み出した精霊民族の誰かがニルヴァーナを作り上げたのだろう。識属性の精霊をサポートするデバイスとして、生み出した。そして、人間とコミュニケーションをとる必要があるから、人格を付与した。
その結果がこれだ。
数百年の眠りにつかされ、たまに起こされたと思ったら自分の言葉が分からない人間の相手を延々とさせられ、何かの損傷で自分の本来の役割を忘れてしまって、それでも死ぬことすら許されず、ひたすら任務をまっとうすることしか出来ない。
人格が腐ってしまうくらい、当然。
あるいは――僕の前世にあった人工知能のように、このニルヴァーナの反応はすべてプログラムされているものなのだろうか。だとしたら僕の感じたこの虚しさにはなんて名前をつければいいんだろう。
……まあ、とても、プログラムには見えないけどさ。
「きゃー! 暴力! 暴力反対ですー!」
耳のあたりに貼りついた蛾のようになっていたニルヴァーナを掴み、テーブルの上に置く。ばさばさっと手のひらの中で暴れる感覚は、どちらかというとセミっぽい。
「おい妖精」
「なんですかご主人様」
「これからメルチータさんがお前を尋問する。質問には正しく答えろ」
「ご主人様に言われなくてもメルチータの言うことは聞きますよーっ。ご主人様は黙って翻訳係をやってくれればいいんですー」
「残念でしたー。黙って翻訳係なんてできませーん」
「むうううぅ……! 性悪屁理屈地味根暗ー!」
よくもまあこれだけの悪口をひねり出せるものだ。脱帽。
がるる、と喉をうならせて僕と睨み合っていたニルヴァーナは、唐突に、ぱっと表情を明るくしてメルチータさんを見上げた。
「さ、メルチータ、なんでも聞いてくださいー! ニルヴァーナがお役に立ちますよー!」
メルチータさんの気遣うような視線に「大丈夫です」と答え、僕は翻訳係に徹することにした。
「ええと、それじゃあニルちゃん、これはなにか分かる?」
「”識―8の法―今―眼前に ゆえに対価は 14”」
緑の魔女の隣で、紫の魔女が詠唱をした。人差し指のあたり。水銀で編んだマフラーのようなもやが生み出される。
『識の8番』。惑乱の霧。吸い込んだ者を混乱させる、識属性を代表する単位魔法だ。
「ああ――っ!」
ニルヴァーナは大きく目を見開いて、ナイアさんが生み出した銀色の霧を指差した。
「それ! 戦術魔法じゃないですかー!」




