第158話:魔法を忌むための魔法を、僕は知る。
緑色の魔女は、きっぱりと、いつもどおりの口調で、言い切った。
「私、魔法が使えなくなっちゃったみたいなんだ」
シンプルすぎるその説明は、かえって僕の理解を拒絶していた。その僕の1秒ほどの無言を説明不足と判断したらしいメルチータさんは、言葉を続ける。
「どっちかっていうと、マナが怖いっていう感覚かな。私はマナを光の粒として感覚するんだけど、それが――ものすごく怖いの」
「それは……どういう……」
「タカハくん、これだけは見たり触れたりするのがどうしても嫌いなもの、ってある?」
嫌いなもの。
僕は、同じ形状のものが集まっている状態に恐怖する。
蜂の巣なんかも写真によっては嫌悪感を覚える。
「あの魔法のせいで、私はマナにそれに類似する恐怖を感じるようになったみたいなの。恐怖を植え付けられた、ともいえるかな。回路を開くことまではできるんだけど、マナの存在を認識すると、気持ち悪い感覚に襲われちゃって」
あはは。
と、メルチータさんは乾いた笑い声を吐きだす。
「もうちょっと気合があればたぶん魔法は唱えられると思うんだよね。ただ、マナを嫌いになっちゃった、っていうだけで――」
それは、嘘だ。
魔法を愛するメルチータさんのことだ。すさまじい気合で魔法の詠唱を試そうとしたに違いない。だが、唱えることはできなかった。それほどの恐怖心をメルチータさんは植え付けられた、ということだ。
空元気が全部のその口調と、どこか腫れたような目元に気付いた僕は、いてもたってもいられなかった。
「……僕が、もっと正しい戦術を立てていれば」
黒仮面卿は、ずいぶんと前に目的を達成していた。あえて2ヶ月の間、あの地に居続けたのは、僕を待っていたからだ。
独立領主である僕と、言葉を交わすため。
おそらく、その言葉に嘘はないだろう。そして、僕はあの男に届かず、そして、圧倒的な優位から魔法を使われた。『マナを忌むための魔法』。僕の魔法を封じる、魔法。
完全にしてやられた。
メルチータさんの言葉どおりだ。僕たちは敵に翻弄されただけだ。すべてが、やつの手のひらの上で踊っていた。
「ううん。あの時点の判断に失敗はなかったわ、タカハくん」
メルチータさんは諭すようにゆっくりと言った。
「あの瞬間、私も勝てると思っていた。狩猟団員の人たちが来るまでの時間稼ぎはできたし、タカハくんと私とナイアの3人が詠唱をできる万全な状態にあった」
たしかに、あれがベストだったと思う。
でも――それは誰の目にも明らかなベストだった。
敵にも完全に見透かされるほどに。
単純な。
僕は唇を噛みしめる。
これはシミュレーションゲームじゃない。すべての状況が画面上に記載され、その上で十全の対策を練ることができるわけもない。敵には僕たちが想像もできないような魔法がある。そして――受けた傷はとりかえしがつかない。
メルチータさんは魔法を奪われた。
僕の、せいで。
「その上で、タカハくんにお願いがあるんだけど」
「……なんでしょう?」
「ダメでもともとなんだけどね」
メルチータさんは冗談っぽく笑って。
その笑みを消した。
「領主様、これからも『学舎』で働かせてください」
「――――」
「私は正しい意味での魔法使いではなくなってしまったけれど、研究では必ず役に立ちます。どうか、特例として、私を引き続き雇っていただけないでしょうか」
翡翠色の瞳は透き通っている。
底に、炎が揺れているように見えた。
そのくらい強い視線だった。
「単純なことなんだけどね。……あの人たちに返してもらいたいんだ。私の魔法」
「……」
「あれがどういう魔法なのか、ナイアと議論していたところなの」
「発音。……おそらく、識属性……。そのくらいしか……分からない、けど……」
識属性が司るのは、人間の認識と精神、あるいは、その混乱。『マナが怖い』『そのせいで魔法を詠唱できない』というメルチータさんの現状を説明するとしたら、精神操作とか、心理干渉とか、そういう言葉になるだろう。
「できれば、ナイアの部下っていう形にしてもらえると嬉しいかな。データの整理とか、フィールドワークとか、魔法がなくてもできることはたくさんあるし、……うん、それでもやっぱり、魔法のことが好きだから」
はにかんでそう言い切る緑色の魔女は――最後まで僕を責めなかった。
「……」
メルチータさんは優しい人だ。優しくて、強い魔女だ。言葉の全ては真実で、慈愛に満ちている。本当に、僕のことを恨んだり、怒ったりしていないのだと思う。『もう。しょうがないな』くらいには思っているかもしれないけど、孤児院の子どもたちがやってしまった失敗とたぶん同列くらいに感じているはずだ。
それが分かるから、伝わってしまうから。
僕は血が滲むほどに自分の両手を握りしめることしかできない。
「もちろんです。むしろこちらからもお願いしたい。あの場所で引き続き研究を続けてもらえますか、メルチータさん」
「はい、領主様」
メルチータさんは微笑む。強く、美しく。魔法がちょっと使えないことなんてなんでもない、と言わんばかりに。
…………だったら。
だったら、僕にできるのは、行動で返すことだけだ。
「領主様。……私からも、お願いが」
横からナイアさんがあまりに真剣な口調でいうものだから、かえって僕は身構えてしまった。
「永遠に眠ってくださいとかは勘弁ですよ?」
「……叶えて、くれるの……?」
「おい」
「ふふふっ」
メルチータさんが微笑を浮かべ、僕とナイアさんはどちらからともなくお互いの戦闘態勢を解く。
「領主様の権利に……介入する。そんな……願望、だから……達成困難、だということは……理解している。……それでも私には……どうしても、やらせてほしいことが……ある」
「やらせてほしいこと、ですか?」
「ん」
こくり、と紫色の魔女は顎を引いた。
黒いとんがり帽子の角度がずれ、影が落ちているばかりだった紫色の瞳に一瞬だけ光が差し込む。
「『学舎』の……初代総長の件――引き受けたい」
それは、僕が2人の魔女に依頼した案件だった。
独立領の魔法研究機関『学舎』を束ねる長。
少し前、2人の魔女はそれぞれの理由でそれを辞退した。
メルチータさんは、孤児院の魔女でしかなった自分には権利がない、と。
ナイアさんは、そういう風に人前に出ることがどうしても嫌だから、と。
「敵の魔法はやはり、未知……かつ、強大。……私たちにとって、魔法はあくまで……個人レベルの戦闘手段、行動手段でしか、なかった。でも、敵の使ってくる魔法は……戦略級。今の『学舎』は……優秀な魔法使いたちの……個人的な探求に依存している。……誰かが……その力を結集しないと……いけない」
「引き受けて、くれるのですか?」
「やらせて。……タカハ少年は、多忙。……『学舎』だけにかまけている時間はない。けど……同時に。独立領の研究機関の長は……大局的に、あの仮面に……対処できる人材が、必要。……適任は、私しか、いない」
ナイアさんはそこまで言って、自分の両手を胸に当てた。
「……人前でしゃべることも……やる。……他の部署と……交渉するのも……がんばる。そういうこと……私は、苦手……だと思うけれど……領主様に、援助を要請することも……あるだろうし……『学舎』のみんなに……助けてもらう、ことになるかもしれない……けど」
それでも……やらせてほしい。
ナイアさんは強く、はっきりと、そう言った。
「私は。私の大切な友人から……そのなによりも大切なものを奪った……あいつらを、決して許さない。すべて……暴き出して……謝罪と、断罪を」
「ナイア。……ありがとう」
「礼には……及ばない」
そう言って、ベッドで上半身を起こすメルチータさんの肩にナイアさんは手をかける。紫色の魔女はさっきと同じまっすぐな瞳を僕に向けた。
「領主様。……どうか、その大任を……この私に」
返答は、はなから決まっている。
「願ってもないことです。ナイアさん。よろしくお願いします」
「…………いぇす」
ぐっと手を握りしめたナイアさんは不敵に笑んだ。
「最初の仕事は……メルチータに……お給料……マシマシ」
「そういう個人的な権力行使はNGですから!」
「メルチータの研究にはその価値があると、私が判断している……。それでも……?」
「うっ、そういう理由を持ち出されると『たしかに』となってしまいそう、ですが」
「冗談。……あまり常識はずれのことは……しない。つもり。でも、できれば……そういうルールは……文章にしておいてくれると……助かる。……総長の裁量は……どのくらいあるのか、とか」
「分かりました」
結果的に、頼もしい助力を得ることに成功した。
ナイアさんのこの決意を無駄にはしない。
そこまで考えて、僕は1つ、重要なことを思い出した。
「早速なのですが、『学舎』の2人に相談があります」
「……相談……?」
「なにかしら?」
「先ほど、メルチータさんは完全にしてやられた、と言っていましたが、『完全に』ではありません。奪われただけでなく、僕が奪ったものもある」
「…………あ」
「もしかして――!?」
ティルさんが表情を変えずに話を聞いている一方で、2人の魔女はどこか興奮したように表情を輝かせた。
「はい。僕はメルチータさんに呪いをかけたあの詠唱を完全に聞き取りました。そして、覚えています。それを分析してほしい」
さっそく詠唱をすることにした。
「ティルさん、窓を開けてください」
「かしこまりました」
集会場の窓の向こうは、村の裏手の林が広がっている。美しい木立の上を曇天がおおっていた。人影はなさそうだ。僕は記憶を探りながら、息を吸い込む。
あの発音は――識属性だった。
「”単独展開する――現象は想起変動9式――”」
覚えている。
忘れるはずがない。
「”契機は共通通貨処理――強度は5――形状は付与弾丸――継続は自動で無制限――――”」
僕は右手を窓の外に向け、最終節を結んだ。
「”ゆえに対価は 14.315”」
僕の回路に流れ込んできたマナは14粒と半分弱。小数の対価が存在する――その理由について深く考える前に、僕の右手のあたりに熱のような感覚が宿った。
手のひらの中に卵の大きさの黒い塊が出現している。
それはまるで、雛になる途中で失敗してしまった蛋白質の汚泥のように、毛羽立っていた。それを窓の外に放つ。じぅ、と枝をあぶった黒い弾丸は枝の1つではじけて消失した。
その場にいる全員が、呆然と僕を見つめている。
「ティルさん、羊皮紙と羽ペン、ありますか」
「はい。こちらに」
僕はメルチータさんのベッドの隅っこを借りて、羊皮紙に文字を滑らせる。すでに研究者の顔つきに戻った2人の魔女がのぞき込んできた。
「属性は識属性。詠唱はこうです」
単独展開する。
現象は想起変動9式。
契機は共通通貨処理。
強度は5。
形状は付与弾丸。
継続は自動で無制限。
ゆえに対価は 14.――
そこで、僕の手は止まる。
「……うーん」
なんと説明したものか。おそらく、精霊言語は十進法で定義されている。新数記法として十進法は広めたけれど、小数という概念はこの世界には――――
「もしかして、その先は――割り切れないときの数字?」
メルチータさんの言葉に僕は驚愕した。
「小数っていう考え方は、……ええと、一般的ではない、ですよね?」
そもそも、生活必需品を物々交換しているようなこの『魔法の国』で、数学は発展していなかった。必要に迫られることがないからだ。
「……小数。小さい数……。うん、いい命名……」
「ナイアと話してたんだよ。倍数魔法で2倍にするでしょう? だったら、同じように半分にする魔法があってもいいんじゃないかな、って。でも、そうしたら割り切れない詠唱があって対価にできないね、って冗談話で終わってたんだけど……」
翡翠色の瞳が、輝く。
「じゃあ、やっぱり精霊言語にはそういう数字があるんだね?」
考えついていた、ってことか。
必要に迫られたから。
僕にとって、生まれたときから小数という概念はそこにあった。でも、2人にとっては違う。魔法、精霊言語――歴史も由来も定かではないこの力を理解するために、彼女たちは頭の中で創造していたのだ。存在しなかった算数を。
「新数記法……十進法は、こういうのにも応用をきかせることができます」
小数点。
小さな点を打つだけで、1よりも小さな数を表現することができる。
失ってはじめて気づく、なんてありふれた言葉だけれど、僕は前世の数字が信じられないほどにシンプルで、これ以上ないほどの合理性で構成されていたことを、改めて思い知らされた。
「なるほど。桁は増えていくだけじゃなくて、小さくする方向にも使えるのね。いくらでも小さい数字を扱える」
「1の半分は……0.5……?」
アラビア数字を使った小数の練習問題を初見でサクサクと解いた2人の魔女が、ふたたび僕の羊皮紙を覗き込む。
「僕がききとった対価は、こうでした」
ゆえに対価は 14.315。
「でも……さっぱり分からないわね。私たちが普段使っている魔法よりもずっと複雑だということしか」
「少なくとも。応用は……きかない……」
「小数まで指定する対価もある、ということが分かった。だとするなら、私たちの知っている単位魔法と修飾節みたいに、あの詠唱文の全部に対価が設定されているのかしら?」
「例えば――、『単独展開する』の対価は3.285で……、『現象は想起変動9式』の対価は7.610で……、『契機は共通通貨処理』の対価は1.345で……、ってことですよね?」
3人で顔を見合わせることしばし。
「無理だな」「無理ね」「……無理」
僕たちはいっせいに、肩を落とした。
「対価を覚えるのも大変だし、5桁の足し算ってことになってしまうわ」
「戦闘中……複雑すぎる計算は……詠唱失敗の……リスク」
電卓片手に魔法を詠唱している精霊民族のイメージが脳裏によぎる。人間の脳みそに秘められた能力なら、5桁の暗算も不可能ではないとは思うけれど……なんだか違う気がする。だって、この国において、魔法使いは大部分の割合を占める。かつての魔法の国の民の全員が5桁の暗算をしながら魔法を使っていたとは、ちょっと考えづらい。
「相当に、算術の鍛錬を積んだのかしら。それとも、そういう素養が、あったのか……」
「いずれにせよ。……私たちの、数体系では……その計算はそもそも実行不可能……」
「2人の仮説に1歩近づいた、とはいえるんじゃないでしょうか。単位魔法と修飾節はわかりやすく遺された形で、本来の魔法は言葉だった、という仮説」
「……とはいえ……詠唱の本体の方も……意味は、不明……」
「だね。私たちの魔法に反映できる事実はなさそう」
「少なくとも、黒仮面卿は発音を知っているだけで、この意味を解読しているとは思えないですが……」
そのとき、部屋をノックする音が響いた。
「失礼します。領主様はいらっしゃいますか」
聞き覚えのある声は……革命軍の士官のものだ。
「ガーツ将軍が到着されました。これより現地の調査に向かいたく思いますが、閣下はどうされますか」
「行きます」
僕はすぐに返事をした。足下が少しふらつくくらいで、体調に問題ない。マナが枯れているという現象も気になるし、同行しよう。
「私も。……行く」「準備をします」
ナイアさんとティルさんが次々と扉を出ていく。僕は2人に続く。
僕は、足を止めてはいけない。
メルチータさんの魔法を奪ったあいつらを必ず探し出す。
僕が手に入れたこの魔法。
『大魔法防護』、『大魔力爆縮』の秘密。
すべての知識を動員して、解読しなければ。
「タカハくん」
歩みだそうとした僕の肩に、ぽん、とメルチータさんの手が置かれた。
振り返――ろうとして、頬に引っかかるような感じがする。
「ふふふっ、引っかかったわね」
「なにを……?」
「んー? だってタカハくん」
ひとさし指を僕の頬に埋めたメルチータさんが軽やかに僕の横を通り過ぎる。踊るように僕の前に立ち、ぴたりと止まる。翡翠色の瞳が穏やかな光をたたえて、僕に注がれる。
「ちょっと怖い顔してる……かな?」
「メルチータさん、僕は――」
「笑って、タカハくん。領主様がそんな顔だったら、みんな不安になるわ」
メルチータさんは首をかしげ、微笑を僕に向けた。……ちょっとまぶしすぎて、直視できないほどの微笑だった。
そこで、颯爽と背を向けたメルチータさんは、金髪を揺らして、扉をくぐっていく。
1人残された僕は1人つぶやいた。
「……かなわないな、ほんと」
僕は自分の顔に両手を添えると、ぐにゃりとその形を笑みに作り変える。変顔だ。でも、メルチータさんの言うとおり。僕はこの表情をやり通さなければならない。
ぱしり、と自分の頬を張って、僕は廊下へ向かった。




