第14話:「その力をどうやって使うかだ」と僕は思う。
春先の夕暮れの気配を感じながら、ページを繰る。
ゲルフに手渡された魔法書は繰り返し繰り返し読み込んだせいで、端の方がぼろぼろになってしまっていた。それでも読み返すたびに発見があるから、狩猟団の手伝いがなくて、魔法の詠唱訓練を終えた日は、僕はこの魔法書を読むことにしていた。
『9歳の儀式』から数ヶ月。
修行という共通目的の中で、僕とゲルフの関係は少しずつよくなっていた。
そして、僕の魔法の実力は飛躍的に向上していた。
認めたくはないけれど、ゲルフの教え方は理屈がはっきりしていて、わかりやすい。そこに『対訳』の力が加わることで、――僕は10歳になる前に一般的な成人魔法使いをはるかに上回る実力を身につけていた。
問題は。
その力をどうやって使うかだ――――
「タカハー! 見て見て!」
家の扉が大きな音を立てて開き、うさみみ少女が飛び込んできた。太陽のような笑顔が一瞬で家の中を照らす。
ラフィアは両手に大きな布を持っていた。それは単なる布ではない。僕たちが普段着として着ているティーガという名前の服だった。白っぽくて柔らかそうなその生地には、三日月をモチーフにした飾り縫いが品よく施されている。
「わたしが作ったんだよ……!」
「え? ほんと?」
「すごいでしょー! 最初から最後まで全部やったんだから!」
ラフィアは靴を脱ぐと、僕のすぐ近くにぽふんと座り、ティーガを手渡した。
つまり、僕に。
「はい。プレゼント」
「……いいの?」
「うん。タカハにあげようと思って作ってたから。この前の狩りのとき1枚ダメにしちゃったでしょう?」
な、なんだこの天使。
ラフィアはいつもと変わらない笑顔を僕に向ける。
その笑顔を見るたびに、僕は決意を新たにする。
僕はラフィアを守るためにこの力を使う。
魔法を失った家族のために。
まずは、ラフィアが17歳になったときに、肉体奴隷としてどこかへ連れて行かれることを阻止して――と、そこまで考えたところで、僕は途方にくれる。
……なにをどうしたらいいのか。
それが分からない。
都に行ったプロパのように騎士を目指すべきなのだろうか。それとも、メルチータさんのように各地の魔法使いに学び、自分の実力を高めるべき?
これはいずれゲルフに相談しようと思う。
きっとあの老魔法使いは、なにかの答えを持っているはずだ。
「本当にうれしいよ。着てみてもいいかな?」
受け取ったティーガは見た目のとおり、柔らかい手触りをしていた。脇の下のあたりに縫い合わせがずれてしまっている箇所があったけれど、それはご愛敬だ。こっそりサイズを測っていたのか、そのティーガはいつも着ているみたいに馴染んだ。
「すごい! ぴったりだよ! 明日から毎日着る!」
「くさくなっちゃうからダメ。ちゃんとお洗濯に出してください」
ラフィアが鼻をつまむ仕草をして僕は笑う。9歳児にしてはなかなかのナイスツッコミだ。成長を感じる。
「じゃあ、今から夕ご飯つくるね。なに食べたい?」
「この前のスープがいいな。手伝うよ?」
「そしたら、干し肉を2つ……」
「2つでいい?」
「…………ええと」
一瞬、ラフィアは自分が入ってきた扉を見た。
「今日は、おとーさん帰ってくるかな……?」
「……約束していたのは、昨日だったもんね」
『9歳の儀式』から数ヶ月を経て。
もう1つ、ゆっくりと変化していることがあった。
ゲルフが家を空ける頻度が次第に多くなっていたのだ。
ここ最近のゲルフは村にいるときはラフィアと遊び、狩猟団に顔を出し、僕の修行を監督して――そして、息つく暇もなく都へ出て行く。
どうやら、招集に関連することらしい。
つまり戦争に関すること。
ゲルフは優秀な魔法使いとして、騎士団に助言をしているようだ。
僕とラフィアは無言の中で、同じような気持ちを交換する。
そのとき、「……こんにちはー」とどこか間延びした声が扉の方から響いた。
声とともに入ってきたのは、マルム。
「マルム。どうしたの?」
「今日のお手伝いが、おわってー……父さんが、狩猟団で宴会だからー、お邪魔しに来ましたー……」
「やったぁ!ねえマルム、ご飯つくるから食べていって!」
「いただくよー。……はい、お土産~」
僕は少しだけ想像力を働かせた。
マルムのお父さんが気を利かせてくれたのかもしれない、って。
「おやおや。賑やかだねぇ」
マルムに続いて木組みの扉に姿を見せたのは、全身真っ白なティーガに身を包んだソフィばあちゃんだった。その手には湯気をあげている鍋がある。
「ばあちゃんも! ……それに、おもちだ!」
「今日の作りたてさ。さあ、みんな、食べないうちに食べようか」
美味しい料理を食べ、賑やかに談笑しながら、老魔法使いの居ない夜は過ぎていった。
――
少しだけやつれたゲルフが都から帰ってきたのはその数日後だった。
帰ってくると予定していた日からは5日も過ぎていた。
だが、ゲルフは悪びれることなく、帰ってきたその日のうちに僕を修行に連れ出した。
「生きるために、まず水を欠かしてはならぬ。自然とわしらが向かい合ったとき、1番に命を奪われるのは水に関することじゃ」
どれほどの森の中でも、山があれば、標高の低い地点が生まれる。そこには必ず水がある。
説明し、行動し、納得させる。
魔法の授業もそうだけれど、ゲルフの教えてくれることは実戦的だ。
「ゲルフ」
森の中を歩きながら、僕は長年の疑問をぶつけてみた。
「どうして、ピータ村の人たちは普段の生活の中で魔法を使わないの?」
「……なぜじゃと思う?」
「うーん」
「もっともな疑問じゃ。タカハ、喉は渇くか?」
「……まあ、そこそこ」
「昨日教えた『水の1番』を唱えよ」
「あ……」
なぜ思い至らなかったのだろう。
あの呪文は水を生み出す呪文じゃないか。
「”水―1の法―1つ―今―眼前に ゆえに対価は5つ”」
僕の手元に水の塊が出現した。ある程度の大きさにまで成長したところで水の玉は撃ちだされる。僕は近くの大樹の幹を狙っていた。水の玉はそこに着弾し、水しぶきが飛び散る。ゲルフがその雫を空っぽの水筒に集めた。
「飲んでみよ」
ゲルフが差し出してくれた水筒には、僕の魔法が生み出した水が入っている。
僕はそれを飲んだ。
ひんやりした感触が喉を落ちて――――そして、消えた。
「……え?」
「そうじゃ。それで『渇き』は癒せぬ」
喉は『渇き』続けている。水を口につけたときとなにも変わらない。
ゲルフは歩き始めた。その横にあわてて並ぶ。
「これについては、おおよその結論が出ておる。魔法は『目的』までもが規定されておる、とな。その魔法は『水の塊を何かにぶつけて破壊すること』が目的なのじゃ。『渇き』が消えぬのはそのためよ」
納得した。そういう制限があるならば仕方ない。
だが、僕はいくつもの可能性を考えていた。
例えばこの『水の1番』だって水車を回すことは出来る。そうして取り出したエネルギーで井戸を使うのはどうだろう? それに火の魔法は『燃やす』ことがほとんどの場合目的になるだろうから、調理には使えるはず。
「魔法は、魔法使いの剣じゃ。ミスリルの剣で野菜を切る騎士はおらぬ。それと同じこと」
――――そういう価値観か。
だが、自分で決めたその殻が魔法使いの限界を決めているように思えるのは、僕が、僕だけが、『対訳』という反則な力を持っているからだろうか。
僕はゲルフに反論しない。
この考え方は、9歳児の思考の範疇を超えているだろう。
「ねえ、ゲルフ」
「む?」
「最近、家にいない時間が長いのはどうして?」
ゲルフは片目の眉だけ持ち上げて、黒い小さな瞳で僕をじっと見た。
「なんじゃ、タカハ。わしを心配しておるのか?」
「ち、違うって! なんで今のが心配することになるんだよ!」
「……む? 違うのか?」
ゲルフはあっさりと視線を僕から外した。
「いずれ話す。その前に、お前の魔法と生存術を急がねばならぬか」
老魔法使いはどこか遠くを見つめながら、僕の少し前を歩き始めた。
――
数日間の修行生活で僕はへとへとになって村に戻ってきた。
へとへと、という意味では、ピータ村狩猟団に見習いとして加入したラフィアも同じようだった。
「起き上がれなくなるまで走らされるの」と、ラフィアはため息混じりに言った。「足が痛くて、疲れてなかったら眠れないくらいで……」
「僕も……つかれた」
「タカハも?」
「野営地を決めるのは日が落ちてからなんだ。急がないと夜行性の獣に襲われるのに、テントと夕食の用意はぜんぶ僕がやるんだよ。その後はみっちり魔法の授業。朝は明るくなり始めたくらいに起こされて、魔法、生存術、魔法、生存術……」
「……おとーさん、タカハに厳しいんだ」
「2人ともすごいなー」とマルムが言った。「修行……って感じだねー」
――――僕たち3人は、村のそばの草原で川の字になって転がっていた。
ピータ村の周囲は深い森だ。けれど、裏手の山を少し登ると森が消えて、この草原が広がっている。さらに登っていけばごつごつとした岩がちな地形にたどり着く。
季節は第9月。別名『太陽の月』が示す通り、夏のど真ん中で1番暑い月だった。
春でも寒いこの草原は、夏の今こそ適温で、快適だった。
やわらかい薄緑の草原をなでるように、風がわたっていく。
「タカハ。マルムはね、ちょっと前にソフィばあちゃんから教わってる機織りの応用が終わったんだよ」
「え? じゃあ、ローブも編めるってこと?」
「……うん、できるよー」
「応用が終わるのって15歳くらいだよね、ふつう」
「そうかもー。ソフィばあさんに無理を言ってー……、教えてもらったんだ」
マルムがくすぐったそうに答える。
「ローブはー、金具がまだ上手に使えないからー、……練習中」
ゆっくりと流れていく雲を見ながら、マルムだって十分にすごいじゃないか、と思う。僕はああいう細かい作業、無理だから……。
そのとき、僕の手に温かい何かが触れた。
「へえ」と、言いながら僕の手を触っているのは――――マルムだった。
「タカハの手のひら、しっかりしてるんだね」
「……み、水汲みをしたり、重い木を運ばされたりしたからね」
マルムは眠そうだが真剣な目で僕の手を観察していた。気ままな子猫が猫じゃらしを見つけたような表情をしている。マルムの手は小さくて温かい。僕の感覚がぜんぶ手のひらの方に移動していく。
ぺた、ぺた、とマルムの手のひらが腕のほうへ上がってくる。
「腕も、がっしりしている」
「……そ、そうかな?」
マルムは興味津々といった様子だ。なんだろう、お互いに寝っ転がっているから、ムズムズする。テーブルに向かい合って手相を見せているのとは明らかに違う緊張感。
「だ、ダメ!」とラフィアが大声で言って、僕はびっくりした。
んんー? とマルムが首をかしげる。
その瞳にはからかうような色があった。
……なるほど。最初からマルムの狙いはラフィアだったのだ。
「ダメー? なにが?」
「……そ、それは」
「ラフィアはー……なにを考えちゃったのかなー?」
まるで女の子をいじめるオッサンだ。
「こら」と僕はマルムの額を小突く。ぺろり、とマルムは舌を見せた。まったく反省していない……。
「むー」とラフィアは頬を膨らませた。けれど、すぐにしぼんだ。
「……そういえば、マルム。タカハに相談することがあるって言ってなかった?」
「っと。そうだった。忘れていたよ」
マルムは眠そうな目に戻ってこちらを見る。
「タカハにお願いがあって……。水くみをー、協力しない?」
「水くみを、協力?」
「私たち、それぞれ自分の家の水くみをしているでしょー? その代わりー、1日交代でどちらかが両方の家の水くみをするのー。……1日は大変になっちゃうけど、1日は自由になるからー」
ほう……。
近くを流れる小川まで水をくみにいくあの作業は子どもの身体にはすごくきつい仕事だ。今日の分はまだ汲んできていなくて、それを思い出して少し憂鬱になる。
というか、マルムの家では水くみはマルムの担当なんだな。
「もっと機織りを教わりたくてー、……時間が、ほしいんだー」とマルムは言う。
「それなら、僕がマルムの家の分もやるよ? マルムの家は川のすぐ近くだよね?」
あの上り坂でムダな量の水を運ばされている僕からすれば、ついでのようなものだ。
「それはー、申し訳ないからー……」
ふむ。
マルムはしっかりしている。自分が他人に迷惑をかけちゃいけないと思っている節がある。今回の申し出だって、もしかしたら精一杯だったのかもしれない。
「じゃあ、交替でやろうか」
「ありがとー、タカハー」
「じゃあ、今日は僕が――」
「いや、言い出したのは、私だからー。……今日はー、私が行くよー」
このときの僕には想像することもできなかった。
この簡単な約束を、数時間後、ひどく後悔することになるなんて。




