第11話:そして僕は魔法使いになり、彼女は魔法を失う。
「――――みな、この3年間、よくついてきた」
重苦しい口調でゲルフが言った。
いつもより上等な黒いローブを着ている。
それは、『9歳の儀式』を受ける僕たち4人も同じだ。
夕方、僕たちはピータ村の裏手にある儀式場に集合していた。
「振り返ろう。お前たちはまず、マナを視ることができようになった。魔法を唱えるために必要な『精霊言語』の発音をこなせるようになった。魔法の仕組みを理解できるようになった。
今宵、わしが授けるのは『精霊言語』の語順じゃ。それを知ることで――お前たちは魔法を唱えることができるようになる」
プロパがごくりと唾を飲みこむ。
「復習から始める。魔法を理解するのに重要な3つの言葉を挙げよ。プロパ」
「はい。単位魔法、修飾節、そして、『17の原則』です!」
「ではマルム。呪文とはなんじゃ?」
「はい、呪文はー……精霊様への『願い』、です。……そして、その最後に『対価』の宣言をしてー……呪文は、完結します」
ゲルフは満足げに頷いた。
「別の言いかたをしよう。『願い』であると精霊様に伝われば、それだけで魔法は発動する。単位魔法は最低限の願い、呪文の骨格ということじゃ。……では、土属性の土の壁を起こす呪文を例とする。これを見よ」
ゲルフは懐から羊皮紙を取り出し、僕たちの前に差し出した。文字が描かれている。
土―11の法―1つ―今―眼前に ゆえに対価は7つ
「この語順をよく覚えなさい。
1節目は属性指定節、
2節目は魔法番号、
3節目以降は修飾節および個数の指定、時間の指定、位置の指定、
そして、最終節に代償となるマナの合計の宣言。
この順で、お前たちが知っている精霊言語を並べれば、魔法は発動する」
僕はこの世界に来てから最も集中していた。
ゲルフの言葉を頭の中で反復し、記憶に刻み付ける。
「では、単位魔法に話を戻そう。……次にわしのする詠唱は、これじゃ」
土―11の法 ゆえに対価は3つ
「ゆくぞ。――”土―11の法 ゆえに対価は3つ”」
呪文はすぐに終わった。
しばらく時間が経って、ぶちぶちぶち……、と草の根を断ち切る音が背後から聞こえた。僕は振り返る。僕たちから10歩くらい後ろに、忽然と土の壁が立ち上がっている。
ゲルフは肩をすくめた。
「これが単位魔法じゃ。第1節の属性、第2節の魔法番号、最終節の対価の宣言。これで完成する」
ええと。
3節目から5節目を省略した分、対価が軽い……?
「単位魔法は見てのとおり、発動の時間も、発動の場所も指定されていない。今回はたまたますぐじゃったが、しばらく発動しないこともある。場所も未確定。それでは不便じゃ。もっと願いを細かく、正確に精霊様にとどけたい」
「だから……修飾節があるんだ」とラフィアが呟いた。
「うむ。発動の時間と場所を定める修飾節はいずれも魔法使いにとって最重要のものじゃ。とくに、“今”、“眼前に”の2つはふだんの挨拶のように用いる。これらを加えることで、詠唱後『ただちに』『自分の体の真正面に』魔法を発動させることができる。……では、先ほどの紙を見なさい」
ゲルフはいったん言葉を切り、羊皮紙を僕たちに見せた。
土―11の法
ゆえに対価は3つ
土―11の法―1つ―今―眼前に
ゆえに対価は7つ
「3節目の『1つ』に大きな意味はない。“今”そして“眼前に”がそれぞれ2マナを必要とする修飾節と考えれば――」
その瞬間、僕の頭の中ですべてがつながった。
「『土の11番』の対価が3。……で、“今”と“眼前に”の対価がそれぞれ2」
「うむ」
「3+2+2だから、7マナ」
「正しい」
…………。
魔法という単語のミステリアスなイメージがガラガラと崩壊していく。呪文の味気のなさのせいだ。いや、だってほら、あるでしょ。魔法の詠唱だよ? 『我は汝と契約を結ぶッ』とか『其れは大地の意志、其れは堅牢なる防壁』とか『火の精霊よーーッ!』とか。そういう言葉がエネルギーを高めていくってのをイメージしてた。
「つまり、魔法の詠唱は数字を用いた計算――算数が必要になる」
この世界の呪文とは『なにを』『いつ』『どこに』に加えて、『お値段』だった。
……やっぱり魔法なんかじゃない、と思う。ただの命令じゃないか。単位魔法と修飾節の性質を極めれば極めるほどに、複雑で細かい魔法を操れるようになるはずだ。……あれ? ちょっとワクワクしてきたかもしれない。
「そして、『17の原則』を忘れてはならない」
教え込まれた魔法の性質は、単位魔法、修飾節に加えて、もう1つある。それが、『17の原則』――――
「1度の詠唱で使う消費マナの合計は17マナ以内にしなければならない、という大原則じゃ」
納得した。リームネイル語には17までの数字しかない。精霊言語の数字も17までしかないのだろう。18以上の対価の魔法は呪文を完結させることができない、ってわけか。
その後、ゲルフは子どもたちに語順に対する口頭試問を行った。
全員が語順を覚えたところで、ゲルフは穏やかな表情を浮かべる。
「これで、3年間続いたわしの『教え』はすべて終了となる。……以後、魔法の道を進むのも、魔法以外の道に進むのも、お前たちの自由じゃ。しかし、この基礎に立ち戻ることで、いつでも魔法は頼れる力となるじゃろう。この老人の教えをどうか覚えておいてほしい」
ゲルフはそれだけ言うと、すぐに表情を引き締めた。
「これより、『9歳の儀式』を開始する。初めての詠唱を許可しよう。好きな魔法を唱えてみせよ。では……誰からじゃ?」
ゲルフが子どもたちを見回す。
僕は、すっと手をあげた。
「タカハ」とゲルフが言う。「よかろう。やってみせよ」
僕はみんなの前に立った。
練習用の杖をゲルフから受け取る。
不安はなかった。
以前ほどに前のめりな期待も、ない。
ただ、僕は魔法使いになるんだ、という実感があるだけ。
周囲のマナを知覚する。僕には、マナが光の粒であるように感覚できる。触れられない光の粒が僕の視界いっぱいに散らばっていた。
マナを視ながら精霊言語を唱えることで、言葉は魔法になる。
『対訳』のスイッチを切り替え、精霊言語のモードへ。
……さあ、行こう。
「”火―1の法―”」
単位魔法は小火球を生み出す『火の1番』、3マナ。
時間を指定する修飾節、「”今―”」
単語を重ねるたびに、波紋のように、僕の周囲のマナが動く。
場所を指定する修飾節、「”眼前に――”」
マナが視界を踊る。
僕を中心に、渦を巻くように。
なにかに期待をするかのように。
3+2+2。
僕は最終節にたどり着いた。
「”ゆえに対価は 7”」
その瞬間――僕の周囲を飛び回っていた光の粒のうち7つが、ものすごい勢いで僕の身体にぶつかってきた。心臓のすぐ横のあたりをかすめたマナは、確かに僕の身体を貫通して、火属性の精霊様のもとへ。
「…………あ」
目の前。
瞬きの間に――ぼぅ、と熱を放つ火の玉が出現している。
人間の頭の大きさのその火の玉は、僕が掲げた両手の間で、じっと宙の1点に静止していた。現実の熱と、現実の光を放つ火の玉が、たしかに僕の身体のすぐ前にある。
僕のたった6節の言葉が呼び寄せたのだ。
この魔法を。
僕は魔法使いになった。
あっけなかった。笑えるほどに。
「よくやった。お前は今日から、魔法使いじゃ」とゲルフが言った。
穏やかな口調だった。僕が思わず顔を上げたときには、ゲルフは他の子どもたちに向き直っている。そのせいで、ゲルフの表情はよく分からなかった。
プロパとマルムが緊張しながらも、問題なく『儀式』をクリアしていく。
プロパは美しい霧を呼び出し、マルムは土の壁を地面から生み出した。
『儀式』はラフィアを残すのみとなった。
ラフィアは練習用の杖を持ち、ゲルフの前に立つ。うさみみが少しそわそわと揺れているけれど、表情は9歳の少女らしくないほどに、決然としていた。
「ラフィア、お前の回路は17秒あたり15マナ。呪文はそれ以下とせよ」
「はい。私は『風の2番』に”今”と”眼前に”を追加します」
「合計は」
「7です」
「よい。唱えよ」
こちらに向き直ったラフィアは、目を閉じて、すぅ、と小さく息を吸いこんだ。
「”風――2の法――1つ――”」
『風の2番』は突風を引き起こす風属性の最軽量呪文だ。倍化もしていない。無難な選択。だから、失敗はありえないと僕は安心する。
マルムが息を殺してラフィアを見ている。
「”――今――”」
プロパもラフィアを見ていた。
「”――眼前に――”」
目を閉じたまま、ラフィアは詠唱をする。魔法の予感に周囲のマナがラフィアの周りを踊り始めた。光の粒はまるで少女を祝福するかのよう。
ラフィアの発音に淀みはない。
大丈夫だ。
僕もまたラフィアを視る。目を閉じて、歌うように詠唱を続ける少女の姿を――――
――――そのとき、僕の全身に鳥肌が立った。
瞳が、茂みの中に見えた。
猪のように野蛮で、犬のように血走った、一対の瞳。
かがり火の光を反射し、ぎらつく残光を引いたその瞳は――いつかの脱走奴隷のものだった。
「”ゆえに”」
スローモーションのようにゆっくり流れる世界の中で、ラフィアの詠唱だけが、時間を刻む。
「”対価は――”」
僕に動ける時間はなかった。
がさっ! と大きな音ともに、脱走奴隷が茂みから飛び出す。茂みの草を全身に貼りつけた痩せこけた肉体。ボロ布のようになったティーガは皮膚のようだ。
脱走奴隷はなにかに怯えるように背後を振り返りながら、見た目からは想像も付かないスピードで、僕たちの儀式の場を横切った。
「ひぃぃぃッ! いいいぃぃぃッ!」
その奇声は、金属を引っかいたような不気味な音。
僕だって耳を覆いたくなるような、おぞましい声。
僕やマルムやプロパはもちろん、ゲルフですら反応できなかった。
彼女は、なおさらだった。
「ッ!!?」
兎人族のラフィアは音に敏感だ。ベージュ色の耳に生えた毛がびくりと逆立ち――――呪文の詠唱が止まる。
ラフィアの青い瞳が脱走奴隷の背中を凝視している。
その姿勢から、ラフィアはぴくりとも動かない。動けない。
「ラフィア、落ち着くのじゃ」とゲルフは早口で言う。
呪文の詠唱に失敗した魔法使いには、精霊様が噛みつく。
けれど、まだ時間はあるはずだ。
この場を取り仕切るゲルフは冷静だった。
「あと1節を唱えれば完成じゃ。呪文の合計は7マナ。ゆえに『精霊言語』で7と続ければよい。発音は”7”。できるな?」
だが、ラフィアは最後の一節を、言わない。
大きく開いたその瞳が宙の1点に釘づけになった。
「ラフィア!!」とゲルフが鋭い声を発した。
次の瞬間――兎人族の少女は悲鳴をあげた。
僕も知覚できた。マナが動いて、ラフィアの小さな体にぶつかり、貫通していく。7つのマナがラフィアの身体の中で何かを蹂躙し、破壊しながら、加速していく。細い回路を外れた光の粒がラフィアの体内で荒れ狂っているのが、手に取るように分かる。
詠唱、失敗。
精霊様が、ラフィアの『願い』の間違えに、罰を下した。
ほんの数秒だった。
荒れ狂う流れが過ぎ、周囲のマナは嵐の後のように穏やかだ。
どさり、と麻袋を投げつけたような音がした。
ラフィアが、地面に倒れていた。
額には汗がびっしりと張りついている。
「大人の魔法使いたちを呼んできなさいッ!!」とゲルフが叫んだ。
マルムが村のほうへ飛び出していく。
すぐにゲルフは呪文の詠唱をはじめた。
僕はそれをただ呆然と見ている。
あの脱走奴隷が、ラフィアの回路を、破壊した。
ラフィアの未来を――――破壊した。
「……私、手伝うよ」「……うん。一緒にがんばろうね!」「……『精霊言語』の復習を、手伝ってほしいの……」「……属性と数字は、ずっとやってるからかな。でも、やっぱり修飾節はまだ苦手で」「あわてると舌が回らないから、んんっ」「……ありがとう、タカハ!」――――
頭の中を、甲高い音が暴れまわっている。
どくり、どくり、と心臓の音が耳のあたりに聞こえる。
僕はたいまつを一本掴むと、脱走奴隷が逃げた森の中へ駆け出した。
第六感に従って獣道の一本を選び、疾走。
「タカハッ!」
足音が続く。僕はそれを無視する。
枝の間をすりぬけ、枯れ葉を巻き上げながら走り抜ける。
たいまつの明かりが照らす夜の森は、狼の群れのように、不気味で、恐ろしい。けれど、今の僕は夜の森に対する恐怖を少しも感じなかった。両方のこめかみの辺りに熱の塊がある。歯を食いしばっていないとその塊が爆発してしまいそうになる。
「待てよッ! どうするんだ! タカハ!!」
「プロパ」
足を止めた。どん、と背中に衝撃が走る。
僕は顔だけで振り返った。至近距離にある妖精種の少年の顔は、なにかに怯えている。
「ついてくるなら――――邪魔だけはしないで」
僕は全力疾走を再開した。プロパの足音は……1秒くらい遅れて続いてくる。次第にその距離が開いていく。
僕はプロパのことを忘却した。
徐々に前を走る音が近づいてくる。向こうは暗闇を進むための明かりがない。枝や葉に次々とぶつかっているようだ。僕の追跡にも当然気づいているだろう。そのせいで焦っているのかもしれない。
前を行く脱走奴隷の音が、不意に消えた。
――と思ったときには、森のなかの少し開けた空間に飛び出していた。
たいまつの明かりが照らし上げるのは直径約20歩の空間。
脱走奴隷のみすぼらしい身体を視界に捉えた。
瞬間。
呪文の詠唱が聞こえた。
「”水―6の法―”……!」
僕が持つたいまつの明かりが、ぎらつく瞳に反射する。
森の空白で僕を待ち受けていた脱走奴隷は、呪文の詠唱をしながら、ぞっとするほどに気味の悪い笑顔を、血色の悪い顔面に貼りつけている。追跡者である僕が子どもであることにようやく気づいたのだろう。魔法を使えば、勝てると確信しているのだ。
「”―今―眼前に ゆえに対価は10”ッ!」
『水の6番』は氷の槍を生み出す魔法だ。
脱走奴隷のすぐ近くに、9歳の僕の身長ほどの長さの氷の槍が一瞬で形成される。冷気を放つ氷の槍は鋭い穂先を僕に向けていた。僕と敵の距離は20歩。スピードはどのくらいだろう。分からないけど、動き出したのを見てから避ける。間に合うはずだ。
物理法則を無視した不気味な加速で、氷の槍が僕に向かってくる。
「…………え?」と間の抜けた声が真後ろから聞こえたのは、そのとき。
――――プロパだった。
「プロパ! 避けろッ!!」
僕の身体に遮られて、プロパの位置からは氷の槍が見えていなかったのだろう。
プロパは……その射線上から動いていない。
僕はたいまつを空中に放り出し、立ち尽くすプロパに飛びついた。
「ぐぅ……ッ!?」
冷たい痛みが僕の右腕を深く切り裂いた。
鋭い氷の穂先だ。氷の槍は僕のティーガを引っかけて、そのまま木にぶつかるまで直進した。僕は森の地面に引き倒される。枯れ葉に顔から突っこんで、視界を奪われる。
「っあぁ……ッ!」
僕は右腕の絶望的な痛みに歯を食いしばりながら、地面を転がってなんとか視界を確保した。
「”水―6の法―1つ―今―眼前に”」
脱走奴隷の詠唱だ。
「プロパ! 呪文を!」
僕は身体を起こしながら叫んだ。
だが、応える詠唱はない。
「”ゆえに対価は10”」
詠唱の終わりと、脱走奴隷の視線を見て、僕は地面を転がる。一瞬前まで僕が立っていた地点に氷の槍が突き刺さった。
背筋が凍えたのは、それが放つ冷気のせいではない。
体勢が悪かったせいで、ほんとうにギリギリだった。
けれど、ようやくこれで反撃できる。
敵が見えて、言葉を使うことができれば、魔法は放てるのだから。
「”水―6の法―1つ―今―眼前に ゆえに対価は10”」
脱走奴隷と、
「”火―1の法―回り込む1つ―今―眼前に ゆえに対価は11”……!」
身体を起こした僕の詠唱は同時。
学習能力のない脱走奴隷は、ふたたび『水の6番』を展開。
対する僕は”回り込む”の修飾節で軌道を曲げた『火の1番』を選択した。
僕の身体の正面に、大人の頭の大きさの火球が出現する。
『火の1番』は願った方向に撃ちだされる。
まっすぐ飛来する敵の魔法とすれ違った僕の火球は、空中でぐにゃりと軌道を変え――イメージ通りに脱走奴隷に着弾した。
「ぎいああああああああッ!」
僕は問題なく氷の槍を回避。炎にくるまれた脱走奴隷はのたうちまわってそれを消そうとしている。汚いティーガは焼け焦げ、さらに炎を増していく。
無様で、哀れで、醜い姿だ。
どくり、とこめかみのあたりが拍動する音が聞こえた。
僕は――――追撃の詠唱を唇に乗せた。
「”火―1の法――”」
「お、おいッ! タカハ!」
プロパが僕の前に立った。
…………邪魔だな、と思う。
「”――今―眼前に ゆえに対価は7つ”」
小火球が夜の森と、プロパの青い瞳と、地面を転げまわる脱走奴隷を照らし上げる。
1秒後。
小火球は脱走奴隷に向かって放たれた。
アーチェリーみたいだった。遠ざかっていく小火球は、僕のイメージ通りに、脱走奴隷の身体に着弾し、爆炎を押し広げる。
「ああああああああッ!」
脱走奴隷は激しく地面を転がる。
さらに無様に地面を転げまわる。
そんなことで許されるものか。ラフィアの未来にはどれほどの価値があったか、僕には想像することもできない。
右腕を左腕の手のひらで押さえ込む。
心臓が拍動するたびに、ぞっとするほどの血が、熱が、あふれてくる。早くこれを止めないとまずい気がする。……けど、かまわない。
僕はさらに詠唱をしようとした。
そのときだった。
「――――そこまでだ」
声とともに、僕の肩に腕が置かれた。
鎧に包まれた腕をたどって見ると、まず鞘に収められたミスリルの輝きが見えた。そして、緑のコート。
「また会ったな。タカハ」
そう言ったのは、犬人族の騎士、ジーク様だった。数カ月前、僕が脱走奴隷を追いかけていたときに衝突した騎士。騎士ジークは「あとは俺に任せてほしい」と言って、脱走奴隷に近づいていく。
「”水―12の法―1つ―今―眼前に ゆえに対価は10”」
呪文は大水球。騎士ジークの身長ほどもある巨大な水の塊が脱走奴隷の身体を焼いていた炎を押しつぶした。脱走奴隷はその衝撃で意識を失う。
騎士ジークはミスリル剣を抜き、その身体に近づく。脱走奴隷に手際よく猿ぐつわをかませた。これで、意識を取り戻したとしても、呪文を使うことはできない。
「タカハ、オレ……」と言ったプロパはうつむいている。
「なに?」
「…………邪魔した。タカハのこと」
「……」
僕はプロパを見る。
プロパはうつむいたまま、それ以上なにも言わない。
「君、このたいまつを持っていなさい」
意図しているのかわからないが、明るい口調で騎士ジークが言い、プロパにたいまつを握らせる。そのまま、有無を言わせず僕の右腕を掴んだ。
「うあッ!」
騎士は僕のティーガの裾をナイフで切り裂くと、切れ端で僕の右腕の付け根をきつく縛った。プロパが持つたいまつの明かりに照らされて、僕の右腕はぞっとするほどの赤に染まっていることがよく分かる。
意識が薄くなって、全身が凍えているような感じがすることに、僕はようやく気付いた。
「深いが、このくらいなら9番のほうがいいだろうな……。”水―9の法―1つ―今―眼前に ゆえに対価は12”」
傷口に指を突っ込まれているのに、痛みがない。
そんな、不思議な感覚がした。
うぞうぞと腕を構成する身体の部品が勝手に動く。筋肉が、血管が、互いに手を伸ばしてつながろうとしているようだった。その時間が5秒ほど続き、ざっくりとした傷跡は残っていたものの、血は完全に止まっていた。
「す、すごい……」とプロパが言った。
騎士は頷いた。
「…………さて」
立ち上がった騎士が、僕とプロパを見る。
「なぜこの脱走奴隷と戦っていた?」
ボロ雑巾のように転がる脱走奴隷を騎士は指差している。
「……騎士様。この奴隷は、ピータ村の『9歳の儀式』を邪魔したんです」
騎士の瞳が大きく見開かれる。「だれか失敗したのか?」
「彼のお姉さんが」と、プロパが言葉を継いだ。
「……なんということだ」
「…………なんということだ、じゃないですよ」
ぴくり、と騎士の犬耳が揺れた。
僕の声はそのくらいに冷え切っていた。
「なにやってるんですか……! こいつが何ヶ月前から逃げてたと思ってるんです!? その間、ずっと捕まえられなかったのはどうして!?」
「人手が、とても足りなかった。ファロ村の脱走奴隷を捕縛する任務についていたのは、私と従騎士2人だけだった」
「だったら脱走させないように手を打てばよかったでしょう!? ファロ村の徴税が厳しかったのなら減らしてあげるとか! 出来ることはあったはずだ! こいつがいなければ、ラフィアは――ッ!」
「タカハ!」
鋭く僕の耳元で叫んだのは――プロパだった。そのまま、僕の腹を殴るような勢いで、プロパは僕の頭を下げさせる。力が抜けて抵抗できなかった。「殺されたいのか……!」と鋭く耳元で囁かれ、僕は動きを止める。
「騎士ジーク様、どうか、どうか無礼なお言葉をお許しください……! こいつはお姉さんが回路を失って動転しているんです! どうか!」
「…………構わない。タカハの言葉は間違ってはいない」
僕は荒い息をつく。感情を静める。
騎士ジークはこれでも信じられないくらい奴隷に寛容な騎士だ。
だが、これ以上の言葉は許されないだろう。
「お前たちは奴隷だ。そして、奴隷が魔法を用いて他の奴隷を傷つけることは重罪となる。脱走奴隷であってもそれは変わらない。だが……今回は、私が戦った。お前たちはたまたま居合わせただけで、加勢もしていない。いいな?」
「はい。えっと……この奴隷をつかまえたのはジーク様です」
「それでいい。では、タカハを連れていってあげなさい。姉のもとへ」
…………あ。
ラフィア。
ラフィアは今どうしている。
「……ッ!」
僕はピータ村へ向けて、森のなかへ飛びこんだ。
「き、騎士さま、失礼します!」プロパの声は慌てている。
「気をつけて行け」
背中からの声は、空気みたいに、僕を貫通して通り過ぎていった。
――
大人たちがラフィアを取り囲んでいて、よく見えない。ゲルフがラフィアのすぐ脇に立って、一心不乱に詠唱しているのが見える。
村の大人たちが次々に魔法を唱える。呪文はどれも似ていて、羽虫の大群の中にいるみたいだ。ゲルフ1人のときとは比べものにならないくらいのマナが、辺りから失われていく。
「……! タカハ! そのケガ!」
駆け寄ってきたマルムが僕の腕を掴んだ。
「大丈夫。騎士様に治してもらったから」
「とりあえず座って。深いな……。血は止まってるみたいだけれど……。私は、包帯を持ってくるから!」
マルムがふたたびピータ村の中心のほうへ駆け出していく。
「くそ……ラフィア……そんな……」
足元で泣きじゃくるプロパに僕はイラつく。
僕は大人たちの輪を見た。
大人たちの魔法は不気味な儀式のようにいつまでも続いた。
……どれくらいの時間、そうしていただろう。
僕は呆然とラフィアがいるはずの場所を見ていた。
プロパの言葉も、マルムの手当ても、僕の意識には届かない。
大人たちの輪がゆっくりと崩れる。
みんなが声をかけてくる。
「……? …………。…………」プロパのお母さんの声は柔らかい。
「……」プロパは俯いたまま、なにかを言った。
「…………? ……」
マルムのお父さんは、反応がないことに気付くと、僕の肩に優しく手をおいてから、マルムの手をとって村のほうへ帰っていく。
「……ッ」マルムが言った。
僕は、輪の中心へ歩く。
「…………」プロパのことが好きなエルフの少女。
「……」ソフィばあちゃん。
何人も通りすぎて。
僕は寝かされたラフィアのすぐそばに立っていた。
「――――タカハ」
そう言って、少女は微笑んだ。額には汗に濡れたベージュ色の髪が貼りついている。耳は力なく地面に投げ出されていた。
「魔法は、ダメみたい」
呟きが聞こえて――――世界がガラガラと崩壊していくもっと大きな音を僕は幻聴した。
「もう、マナがね……視えないの」
ラフィアは透き通った青い瞳で、2つの月を見上げて、そう言った。
マナが視えることは回路の存在証明だ。
ぼわん、という光が1つ、ラフィアのすぐ近くにある。
僕には回路があるから、すぐに分かった。
「ここだよ、ラフィア」
僕は少女の手をとって、その位置まで運んだ。「ラフィアの手のひらの真下に1つ――――」
ふるふる、と。
少女は首を横に振る。
湖のようなラフィアの瞳が、次第に光の粒に埋もれていく。
「……わた、し……強い、魔女になって……タカハの、お手伝いをしたかったの…………」
「――――」
「算数も、精霊言語も……全部……タカハに、教わったから……。だから、魔法は、タカハといっしょに……って、決めてた、のに……ぃ……」
うわああ、とラフィアが泣いた。
9歳の女の子なら当然だと思えるくらい、感情を表に出して。
漂うマナはラフィアの手のひらから泳ぎ出て、どこかへゆっくりと飛んで行く。
ラフィアが鼻をすするかすかな音だけが、いつまでも聞こえる。
僕は、ぺたりとラフィアのそばに座りこんだ。
「……………………誰だ」
僕の声は、かすれていた。
「……ラフィアをこんな目に会わせたのは、どこのどいつだ」
唇の端から、震える息がこぼれ落ちる。
こめかみのあたりに爆発寸前の熱の塊が生まれた。
血の巡りがよくなって、じくり、と奴隷印が痛む。
ああ、痛い。
9年という時を経てもなお、右肩の奴隷印はときどき、痛む。
でも、ラフィアの苦しみは、こんなものじゃない。
許さない。
僕は、この世界を許さない。
あの奴隷を許さない。
あの奴隷を追い詰めた騎士団を許さない。
徴税をし、招集をかけるこの国を僕は許さない。
その頂点に君臨する貴族たちを、公爵を、許さない。
この国を、国王陛下を、僕は許さない。
泣き疲れて気絶するように眠ってしまったラフィアを、僕はそっと抱き起こす。
「見つけたよ、ラフィア」
折れてしまいそうなその小さな身体を、僕はそっと抱きしめる。
「――――僕が魔法使いになったら、やりたいこと」




