第110話:その日、緑の領に火の手があがる。
僕は再び1人で駐屯任務へ向かった。
任務が始まってしまえば、魔法書をばら撒くという活動を続けてさえいれば、その忙しさが僕から考えるという選択肢を削りとってくれた。
だから、その日はあっという間にやってきた。
六国の時代、第3巡年、9年目。
第12月、12日目。
数年後にだれかが作るであろう歴史書に、間違いなく太字で刻まれるその日を、僕は駐屯先の南西域、イコン村で過ごしていた――――
――
イコン村は乾燥したミッドクロウ領に近く、周囲を取り囲む森は少なめ。王都から流れてくる北部大河の支流が近くにあり、ミッドクロウから教わったオール麦の栽培技術が確立されていて、食料は豊かだ。人間が多く、ミッドクロウ領に見られる大ざっぱで明るい気質の人が多い。
「……以上から、招集での攻撃魔法は『火の3番』、もしくは、『土の7番』を選択してください。それぞれの対価を…………ディアン君」
はっ、と顔を上げ、口の周りのヨダレをぬぐった人間の少年が慌てて言った。
「ね、寝てないです! 騎士様!」
村人たちがどっと笑う。
「たしかに寝てないようですね」僕は表情を変えずに言った。
「は、はい……」と答えるディアン君は完全に萎縮している。
「『火の3番』、『土の7番』の対価は?」
「うー、えっと……7?」
「6」
村人たちの笑い声に包まれ、少年は首をすくめる。
「忘れないようにしましょう」
「……はーい」
「では、今日はここまでで。……皆さん、仕事の後にお疲れさまでした」
村人たちがゆっくりと立ち上がり、雑談を交えながら、集会所を後にする。
僕は羊皮紙を束ねた魔法の教科書をテーブルの上で閉じた。
「騎士様!」「教科書を写させてください!」
「お願いしますっ!」
若い村人たちが寄ってきて、魔法の教科書の複写を申し出てきた。快く応じる。
ぜひとも広めていただきたいものだ。魔法の授業で相手にできるのはせいぜいが50人。本が広まれば、その何百倍もの影響力を与えることができる。僕より頭のいい人は僕の授業よりスムーズに魔法のことを知るだろう。そう考えると、魔法の授業というのは雲をつかむような話のように思えてくる。
テーブルをにぎやかに取り囲む彼らは、エサを求めるひな鳥のように純粋な目で僕の魔法書を読み、自分の羽ペンを使って羊皮紙に文字を写し取っていく。
僕は集会所のすみに座って、若い村人たちがにぎやかに本を写す様子を眺めていた。
南西域の駐屯任務も、これで6村目。
任務そのものに大きな問題はほとんどなかった。まず、魔法、狩猟、農業、教育を評価し、パラメータ化。不足している部分を重点的に補えば、その村が回り出す。あとは、村人たちの雰囲気にあわせた対応を柔軟に加えればいいのだ。
いや、もうね。駐屯任務のカリスマ、と呼んでいただきたい。
…………気を取り直して。
僕のまとめた教科書も確実に広まっている。騎士団のだれもが気付かないうちに、南西域の魔法奴隷たちの戦闘力はぐいぐいと上昇を続けている、というわけだ。
そして、今日。
第12月、12日目。
――――最初の炎が上がる手はずになっている。
「あっ!」という若い村人の声で、僕は思考の海から引っ張りあげられた。
会話の中で、彼らの1人が素早く体を動かしていた。
じゃれあいのような、なんでもない動きの1つ。
そのひじが、当たる。
黒いインク壺に。
スローモーションだった。
インク壺はゆっくりと倒れる。
黒いインクのしずくが宙を踊る。
壺の肩の部分がテーブルにぶつかり、中から黒い液体が飛び出す。
別の1人がとっさに僕の『原本』に手を伸ばした。
けれど――――少し間に合わなかった。
時間がもとのペースに戻り、世界が音を取り戻す。
「ジアル! なにしてんだよ!」
「あ、ああっ……!」
「大丈夫?」
僕はジアルと呼ばれた少年に近づく。その瞳は怯えていた。
「……騎士様、申し訳ありませんっ……本当に……っ」
隣の少年が、慌てて羊皮紙の切れ端で拭っている。僕の『原本』は、その表紙がべったりと黒いインクに汚れていた。受け取り、中をパラパラとめくる。
うん。問題ない。
「中身は無事です。ほら」
とっさに別の誰かがかばってくれたおかげで、汚れたのは表紙だけのようだった。
「で、でも……」
「読めればいいんですから、気にしないで」
「ご、ごめんなさいっ!」
僕は教科書を見る。使い込まれてくたびれていた羊皮紙の表紙は、飛び散った黒いインクがまだら模様になっていた。
どくり、と僕の心臓が揺れる。
一瞬、ほんの一瞬だけ、まだら模様のインクが別のものに見えたのだ。
こびりつき、酸化して、黒々とした色へと変わった――――人間の血。
僕は首を振って暗いイメージを追い払う。縁起でもない。最近考えることが暗いな、と自分に呟いた。
その瞬間だった。
「――――騎士様ッ!!」
集会所の扉がものすごい勢いで開かれる。
飛びこんできたのは、まだ若いイコン村の村長だった。
額に汗する人間の村長は、息を切らせながらも、僕を見つけて叫ぶ。
「反乱です! 奴隷たちの反乱が……ッ!」
周囲に居た若い村人たちがどよめく。
僕は対照的に無言だった。
来たか、と思う。
目を細める。
「南西域と南東域で、魔法奴隷たちの大規模な反乱が発生しました!」
南東域は先月、南西域は今月、僕が駐屯任務をこなした地。僕が魔法の教科書と知識を広め続けた場所だ。テーブルにこぼれたインクを拭いていた若者たちが手を止め、呆然とした表情を浮かべている。その手は真っ黒に汚れていた。
「どのくらいの規模ですか」と僕は村長に言った。
「正確には分かりません。ですが……数十の村が時期を合わせて反乱を行ったようで……」
5つ、6つの村が結託して反乱を実行すれば、騎士団としては大事件となる。
すでにこの時点で、騎士団の手に余るような事件となったのは間違いない。
「村人たちを集めたほうがいいでしょう」
「はい。……その、……騎士様」
若い村長は躊躇うように僕を見ている。
「どうしましたか?」
「小さな情報です。正しい保証もない。ですが……騎士様にもお知らせしておかなければならないと思いまして……」
「……なんでしょう?」
村長はゆっくりと僕に近づいてきて、言った。
「今回の反乱を起こした魔法奴隷たちは、こう名乗っているそうです」
「……」
「『暁の革命軍』」
若い村人たちが、一斉に僕を振り返った。
「それが、騎士様の父上、『暁の大魔法使い』ゲルフ様の2つ名からとったものなのか、現在の騎士様の2つ名である『暁の騎士』からとったものなのか、分かりかねますが」
「両方でしょうね」と僕は言う。
理念を打ち立て、『軍団』を大きくしたのは、ゲルフ。
そして、教科書を広めたのは僕だ。
「な……っ!?」
ムーンホーク領の正騎士である僕が、魔法奴隷たちの反乱に自分の称号が使われている事実を認める。正義も悪も、白も黒も、すべてがひっくり返るような僕の言葉に、村人たちは完全に言葉を失った。
「僕はイコン村を出ます。みなさんの迷惑になる」
「騎士様……ッ」
僕は村長を無視するように素早く集会所を出た。夕日の残光が斜めに僕の目に差し込む。秋口の風がどこか肌寒さを運んでくる。
集会所の外には、ほとんどの村人たちが集まっていた。
「騎士様……ッ」「俺たちはどうすれば……ッ」
そこにあったのは、怯えの声だけではない。じっと僕の真意を問うような瞳や僕を睨みつけるようにする顔も見える。
「もし、みなさんが騎士と奴隷という身分に不満をいだいているのなら――どうか、手を貸してください。これは、魔法奴隷たちが騎士に対して挑んだ反乱です。……この反乱は、ムーンホーク領全域に拡大していくでしょう。他人事ではなくなります」
僕は続ける。
「みなさんには、魔法の知識がある。この教科書を読めば、僕たち騎士が知っているほとんどの単位魔法を知ることができます。魔法はそういうものです。僕は――魔法を使えるすべての人の力を信じています」
「騎士、様……」
「数日でしたが、お世話になりました。僕がここにいては、まだ迷っているみなさんの迷惑になる。僕は領都へ戻ります」
集会所から、一歩、踏み出す。
村人たちの海が割れ、道ができる。
もう一歩、僕は進んだ。
けれど、そこで動けなくなった。
「――――その必要はない」
押し込め、押し潰した、低い声が、壁のように僕の足を止めていた。
視線を上げる。
夕日の残光の中に、騎乗した人影が複数。
だれよりも多い金色の徽章が、じゃらり、と鳴った。巨大な鷹を背負った唯一の緑コートが冷たい秋口の風に踊り、鋭すぎる光を宿した金色の瞳が僕を貫くようだった。
喉が震える。「ロイダート、団長……」
「……かかれ」と団長は低い声で言った。
「「「はっ」」」
緑色騎士団長の背後から飛び出した3人の騎士が、瞬く間に村人たちとの距離を詰める。騎士たちは荒っぽい手つきで村人の手にある魔法書の複製を次々と奪い取っていく。広場に、悲鳴と怒号が連鎖する。
「魔法に関する知識を書いた書物、これをすべて集めろ。村の中から。すべてだ。提出を拒んだ奴隷には、死罪が適応される」
「た、タカハ様……ッ」
村人たちが僕にすがりついてくる。
僕は拳を握りしめ、ほどいた。
「応じてください。こんなことで死んではいけません」
数分後、イコン村の広場で積み上げられた数十冊の羊皮紙の束が、飴色の炎を上げていた。皮が燃える異臭が広がる。黒インクで書かれた文字が、知識が、炎の中でねじれ、よじれ――やがて炭となっていく。
「騎士タカハ」
「はい」
団長の言葉は、死刑の宣告以外のなにものでもなかった。
「――――君を、拘束する」




