第10話:「はやく明日にならないかなぁ」と少女は目を輝かせる。
明日はついに、魔法を初めて唱える『9歳の儀式』の日だった。
魔法を唱えられれば、晴れて『ふつうの奴隷』から『魔法奴隷』になれる、というわけだ。もうほんとにね。嬉しすぎて涙が出るよ。
「……ぜぇ……はっ、ぜぇ……」
とはいえ、いろいろと思うことはあった。
僕はこの9年間を振り返る。
「……はっ……はぁっ、はっ、ぜぇ……」
魔法奴隷の義務である『招集』についてもう少し詳しいことが分かった。
この世界には6つの国があって、『魔法の国』は現在、隣国の『鉄器の国』『火炎の国』との小競り合いが絶えないらしい。その前線に送りこまれる魔法軍を構成する戦力が、国中から招集された魔法奴隷、というわけだ。
つまり、僕らの国は戦争状態にある。
ピータ村は国境から遠くて、あまり実感できないけれど。
「……はぁっ、はっ……ぜぇ……」
ピータ村は『魔法の国』の中では北寄りにある小さな村だ。
村人はたぶん全部で80人くらい。なのに、子どもは多い。僕の同い年だって3人いるから、小学校くらいの年齢層だけで20人近くを占める計算になる。そして、そんな子どもが本当に労働力だ。平均寿命も50歳くらいと短い。僕の前世はすごかった。
「……はぁっ、はっ……ぜぇ、はぁっ……!」
そして――僕は現在、水くみという過酷な任務の最中にある。
肩にかついでいる木の棒の両端には、水をいっぱいにした樽が結び付けられていて、印象としては自分の体重なみの重さが右肩にかかっている。
しかも、我が家はピータ村の1番奥の、1番高い場所にある。川に近い家だったら50メートルほど道を歩くだけで済むけど、僕はその数倍の距離を――しかも上り坂を――歩かなければならない。これがキツい。本当に。
もちろんこれも、ゲルフが命じる『お手伝い』の1つだ。
森の中のこじんまりとした木組みの家がようやく見えてくる。
僕は扉を開けた。
「おかえりなさい。タカハ」
鈴を転がしたような声がした。
それだけで、僕の全身から疲労感が吹き飛んでいく。
ラフィアはかまどの前に立って鍋をかき回していた。ソフィばあちゃんに作ってもらったという赤いエプロンが最近のお気に入りで、今日もそれをつけている。僕もゲルフも狩猟団に居る時間の方が長いから、いつの間にかラフィアが家の家事を一手に引き受けてくれていた。本当に、この小さな姉さんには頭が上がらない。
「ただいま、ラフィア」
布を紐でしばりつけただけの靴とも言えないような靴を脱ぐと、僕は自分の汲んできた水で軽く手を洗い、居間に上がる。居間と言っても本当にごく狭い。4人が囲んだら精一杯という大きさのテーブルがあって、座るための獣の毛皮が置かれている。
「タカハ、また手を洗ったの? ……おとーさんに怒られるよ?」
「いいって。僕が汲んできたんだから」
癖だった。家に入ったら手を洗う。それは僕の魂に刻まれている。
ラフィアは少し心配そうに僕のことを見ていた。その頭にぽんっと触れる。「もう……」とラフィアは言う。残念なことに、うさみみがものすごく敏感、というのは幻想だった。
後で手伝うよ、と言い残し、僕は2階への階段を登る。
2階は全員の寝室になっている。
その真ん中に、黒い影のようにゲルフが居た。
相変わらずの黒ローブの背中をこちらに向けている。
しゃ、しゃ、しゃ、と規則正しい音が響いている。
「ゲルフ、終わったよ」と僕は声をかける。
規則正しい音が途切れることはない。ゲルフはこれから始まる狩りの季節に向けて、槍の手入れをしているのだ。
そんなことは分かる。重要なのはそこじゃない。
この老いた魔法使いは決して耳が遠くない。
森の中で遠くの鳥の羽ばたきを聞き漏らすこともほとんどない。
僕はゲルフの前に回り込む。磨き上げられた金属の穂先は鋭い。ゲルフの狩りの腕は一流だが、道具の手入れも一流なのだとはっきり分かる。
ゲルフは一瞬、顔をあげた。
――――無言のまま、すぐに戻した。
それは当然のことだから報告する必要はない、と態度が語っていた。
その態度に、僕の声は、震えた。
「…………教えてよ。ゲルフ」
「……」
「なんで、僕は毎日、普通の5倍の量の水くみをしなくちゃいけないのさ?」
僕が汲んできたあの量は、3人ならば数日もたせるつもりでちょうどくらいの量になる。
だが、ゲルフは僕に毎日水汲みをさせる。前の日に余った分は朝に捨てる。そして、ゲルフは僕に命令する。「樽の両方をいっぱいまで水汲みをしてきなさい」と。
8歳のある日、僕の身長を唐突に測ったゲルフが「もうよいか」と言って、自分の仕事だったこれを僕に押しつけてきたのだった。これで1年以上になる。
腹が立つ段階はとっくに過ぎた。
水の大切さを教えたいのだろうか。
それにしたって、合理的じゃない。
「我が家ではこの量が普通じゃ」
頑ななその態度に、僕は呆れる。
――――この9年間で1番大きく変わってしまったのは、この老魔法使いとの関係だ。
転生した当初、ゲルフは僕にもデレデレだった。ソフィばあちゃんや、ピータ村のおばさま方の力を借りつつも、独り身であるらしいゲルフは僕たちをしっかり育ててくれていた。この穏やかな雰囲気がずっと続くと、僕は疑いもしなかった。
予想は外れた。
ゲルフの僕への態度は真冬そのものへ変わっていった。
『ラフィアが女の子で僕が男だから』とか『ゲルフも過去に厳しく育てられたんだ』とか僕は必死にゲルフへ共感するための理由を探したけれど、結果、ムリだった。子どもの仕事が多いのは我慢できる。ゲルフが採ってきてくれた獲物の肉で僕とラフィアは暮らしているからだ。
でも、冷たくされるのは違う。
一個人として大切にしてくれないのは、違う。
きっかけは多分、1歳のときだ。
幼い僕が『対訳』の力の性質を完全に把握する前。僕は無意識のうちに、発音が極めて難しい精霊言語を、実にあっさりと唱えてしまった。
あの日から……な気がする。
でも、それにしたって、褒めてくれるべきことで、理由も言わずに冷たくするのは間違っているはずだ。
かわいい子どもじゃなくなっちゃったんだろう。
それはゲルフの側の、勝手な都合だと思うけど。
「……」
僕はゲルフに背を向けた。
ゲルフの大きな背中もまた、僕に向けられていた。
――
階下に下りて、僕はラフィアの木の実仕事を手伝うことにした。
ラフィアは手際よく保存用の加工を施しながら、ご機嫌な様子で鼻歌を歌っていた。やや調子外れな感じだけれど、幸せそうにしているラフィアのおかげで、粗末な木組みの家がずいぶんと明るく見える。
「楽しそうだね?」
「だってたのしみだから……ふふっ」
パキ、パキ、と木の実の殻が砕かれていく。
「明日、私たち、魔法使いになるんだよ! おとーさんや、ソフィばあちゃんとおんなじ、魔法使いになって、それで……ああ、はやく明日にならないかなぁ……」
プロパもそうだけど、魔法を唱えるのは大人になることとイコール、と思っているようだ。守りたい、この笑顔。
「ちなみに、ラフィアは魔女になったら何をしたいんだっけ?」
「ええと、わたしは――――あっ!」
なにかを言いかけて、ラフィアは顔を赤くした。
何気ない流れで聞き出す作戦、失敗。
「ひ、秘密なの! ……えっと、そのためには、つよい魔女にならないといけないんだけど……」
「きっとなれるよ、僕もその夢、応援してるから」
ラフィアは真面目だし、器用だ。風属性を選んだラフィアはソフィばあちゃんに魔法を教わっているけれど、ばあちゃんもその頑張りを褒めていた。
太陽くらい眩しい満面の笑みを浮かべて、ラフィアは「うんっ」とうなずいた。
明日、僕たちは魔法使いになる。




