第9章:「やるじゃないか。タカハ」と狩猟団長が僕の頭に手を置く。
心臓が張り裂けそうだった。
どっ、どっ、どっ、と外に聞こえそうな音が、僕の胸から鳴り響いている。転生してすぐのときの可愛らしい心臓の音を僕は覚えているから、それと比べてしまう。荒々しく、野生的な音だと思う。
僕は茂みの中に身を隠していた。
右手には、木から削りだした真っ直ぐな柄とずっしり重い金属製の穂先で作られた槍が握られている。ぬるり、と手のひらが汗で滑って、僕は自分に苦笑する。『仕留め役』は数え切れないくらい繰り返してきた。……なのに慣れない。だから暗示をかける。大丈夫だ。いつものようにやれる。
「行ったぞおおおお――――ッ!!」
男の声が弾けた。
僕は腰をわずかに浮かせる。汗で滑る右手をティーガの裾でぬぐい、槍を構え直す。前を見る。
壁だ、と僕は思った。
茶色の壁が獣道を押し寄せてくる。大人の狩猟団員たちに追い立てられ、獣道を爆走してくるのは、イノシシによく似た生き物だった。『対訳』なしの純粋な発音だとスィラシァがこいつの名前。
ほとんど黒に近い褐色の毛皮の下で、筋肉が躍動している。荒い息をつきながら疾走してくるその様は前世の自動車に匹敵するくらいの迫力があった。
つぶらな瞳が――茂みに潜む僕をとらえた。
僕はイノシシと一瞬だけにらみ合う。
やつの中でどういう判断があったのか分からない。
――――僕めがけて真っ直ぐに突っ込んできた。
「タカハ――ッ!」
狩猟団員の中でも中堅のゼルトさんの鋭い声。
それよりも早く僕は動いていた。
「うああああああああああああああ――ッ!!!」
僕は大声で叫びながら茂みから飛び出し、獣の視線に体をさらす。自分を鼓舞しなければ腰が引けてしまうのだ。その失敗の経験は3回くらいある。だから、叫ぶ。
僕は獣道に躍り出た。当然、やつはまっすぐに僕に向かってくる。僕も負けじと槍を低く構えながら突っこんでいく――――
…………そろそろぶっちゃけてもいい?
そう思ったら止まらなかった。
内心の僕は半泣きの声だった。
やばい。やばいよぉ。なんだよこいつ。体重が違いすぎるだろ。僕の何人分? 6人分くらい? もっと多いのか。分かんないよ。あ、じゃあ計算すればいいのか。断面積を求め――いやそれ以前に僕はなんでこんなやつ相手に細い槍一本で突撃してるんだよ。自殺したいのかな。ほんとにワケが分からない……!
これが僕の仕事だ。
『仕留め役』の仕事の1つ目は誘導すること。
ふしゅる、とやつが大きな息を吐き出した。距離は20メートルを切った。激突まで2秒もない。そして目の前のイノシシは勝利を確信しているのだろう。1対1なら、人間は小さいし、牙も爪も、身を守る毛皮すらない、脆弱な生き物なのだ。
だが。
あえて言わせてもらう。
「お前の負けだああああああああ――ッ!」
ばぁおぅ、と咆哮した――――次の瞬間。
ものすごい音を上げながらイノシシは転倒した。
実際は違う。やつの右前足が格子状に組まれた板を踏み抜いたのだ。あとは早い。落ち葉で偽装された板がずぼっと内側に折れ、巨体が引きずり込まれる。奈落。
全力疾走していた巨体が落とし穴の底にぶつかる鈍い音と、中に仕込まれていた木の杭に体を貫かれた獣の苦悶の鳴き声が連鎖する。
「――――ッ!!」
『仕留め役』の仕事は、もう1つある。
――――仕留めることだ。
僕は急いで落とし穴のへりに駆け寄る。ぬるりと手汗で滑る槍を持ち直す。穂先を下に。イノシシは踊り狂っていた。その体からは血にまみれた木の杭が三本飛び出している。剣で切りつけることが有効ではない頑丈な毛皮も、自重で杭に迎えられては防ぎきれないだろう。
つぶらな黒い瞳が一瞬だけ僕を見た。
その瞬間には――僕はその喉笛から頭蓋まで槍を通している。
手応えは完ぺきだった。上手くいった。
それはこいつの死を意味する。
ばぅはっ、とイノシシが鋭く吼えた。手のひらの中で槍が暴れ回る。振動。強烈な振動だった。僕がよく知る小型のモーターが生み出す振動とは全然違っている。この振動は荒々しく、無秩序だ。そして、いつまでも続くことはない。徐々にその手応えが弱まってくる。収束する。
僕は息をつき、血に塗れた槍を引き抜いた。
勝ったぁぁぁ……、という情けない声は胸の中でとどめておくことにしよう。
「よし! よくやったぞ! ……大物だな」
茂みの向こうから、大人の狩猟団員たちが姿を見せた。
先頭を切るのはピータ村長と狩猟団長を兼任するガーツさんだった。後ろに続く狩猟団の男たちも、ガーツさんのように屈強。
罠が『仕留め役』の僕の側にある分、『追い立て役』の大人たちの仕事の方が危険度は高い。追い立てに失敗してイノシシが突っ込んできたら、自分の腕と武器だけで対処しなければいけないのだ。僕にまだその自信はなかった。
「一突きとは……やるじゃないか。タカハ」
ガーツさんの大きな手が僕の頭をぐしゃぐしゃにした。
「タカハも立派なピータ村の男になってきたな」
ゲルフの命じる過酷なお手伝いをこなしているうちに、いつの間にか、僕は『見習い狩猟団員』から『ほぼ正規の狩猟団員』にクラスチェンジしていた。魔法の知識を得ることをゲルフに禁じられていたため、狩猟団に通い詰めるしかすることがなかったのだ。
今の僕はたぶん、数時間の単位で野山を走り回ることができるし、樹海に放り出されたとしても問題なく生存することができるだろう。
「なんだ? 腰が抜けちまったのか……?」
「ち、違いますよ!」
大人の狩猟団員たちが笑う。
がむしゃらに獣を追いかけて、ピータ村の大人たちにもまれ続けた3年間だった。けれど、振り返ってみれば――僕は前世で知らなかった戦いの感覚や、雲の読み方や、効率のいい走り方を、自然と身につけていた。
――――僕は9歳になった。
――
今は第12月。別名は『黄葉の月』。ピータ村を囲む森の木々は次第に葉の色を赤くしていく。景色が綺麗な季節だった。
今年の初め、ゲルフはついに僕に『精霊言語』を教えてくれた。56個の単語だった。そのすべての発音を1度聞いただけで言えるようになった僕。ゲルフもまたそれが当然だと思っていたようで、それ以降は狩猟団のお手伝いに戻ることになった。わずか15分ほどの教えだった。
これで僕は魔法が使えるようになった……わけではない。
魔法の発動に必要なのは単語だけではない。
語順だ。
語順は僕たちが魔法使いになる『9歳の儀式』の直前に授ける、とゲルフは言った。これは嫌がらせとかではなく、みんなそうらしい。
その『9歳の儀式』までは約半年。
このころになると、月に1度の魔法の教えはほとんど復習がメインになる。マナは視えるようになっているし、『精霊言語』は覚えているし、魔法の発動に必要な呪文の仕組みは『9歳の儀式』の直前に教えられる。むしろ、年下の子どもたちに発音を教える時間のほうが長いくらいだった。
裏手の草原で行われたその日の授業が終わり、ゲルフは狩猟団の用事があるのか、慌てて村の方へ引き返していった。
僕たち4人はひとかたまりになって、ゲルフの走り去った小道をゆっくりと歩き始める。
「脱走奴隷って……知ってるー?」と唐突にマルムが言った。
この2年間でマルムはすっと背が伸びた。4人の中では1番背が高い。眠そうな目と、にへら、という擬音が聞こえそうなあの微笑は相変わらず。猫耳も、ボブカットのように見える髪型も、シャープな輪郭も相変わらず……なんだけれど、ちょっと大人っぽくなった。
6歳の頃から、僕とマルムはときどき算数の勉強会をしていた。といっても、すぐにこの世界の数字で理解できる部分が終わってしまったため、僕はアラビア数字と十進法の知識を授けた。それすらもあっさり理解して、今は小学6年生くらいの算数に挑戦中。マルムはやっぱり頭がいい。
「ふん、脱走奴隷か……」とプロパは鼻を鳴らす。
当然のようにプロパ様はご存知のようだ。
一方のプロパは少し落ち着いたけれど、成長の方向性を間違えた。他人の言葉にいちいち鼻を鳴らす不機嫌な皮肉屋になってしまったのだ。意思疎通がいちいちやりづらい。
見た目は6歳のころからさらに磨きがかかって、金色のつやつやした短髪とくりくりした大きな瞳は『エルフの王子様』という単語を強力に連想させる。ただ、いつも唇を不機嫌そうに曲げているから、せっかくの整った顔立ちが台無しになっていた。
「え? 脱走……奴隷? なに? それ」
ラフィアが首をかしげる。それに合わせて、ふわふわしたベージュ色の髪と同じ色のうさみみが揺れた。青い瞳は好奇心にキラキラと輝いている。
たしかに……。毎日一緒にいるから気付きにくいけれど、よく見てみれば、ラフィアもいつの間にか少し女の子っぽい顔立ちになってきたかもしれない。
「脱走奴隷のことはオレが説明するよ。ラフィア」
先ほどとは打って変わってプロパが歌うように言った。
「オレたちは17歳で大人になるよね? そうしたら、公爵様の持ち物であるオレたちは2つのことを命令されるんだ」
「あ……えっと、徴税と、招集、だよね?」
「正解」とプロパは言ってそこから先は声をひそめた。「脱走奴隷っていうのは、その2つがイヤになって決められた住む場所から逃げ出した卑怯者のことさ。卑怯者で、臆病者」
「それってどうなるの?」と僕は訊いた。プロパは『お前にはしゃべってない』と言わんばかりの視線で僕を見たけれど、律儀に答えてくれる。
「脱走奴隷は騎士様がつかまえる。たぶん、招集につづけて参加させられたり、きつい仕事をさせられたりする。……魔法を奪われることもある、っておじさまが言ってた」
「魔法を、うばう……?」と、ラフィアが不安げな表情で言った。
「1番ひどい罰だよ。無理やり呪文を間違えさせるんだ」
「精霊様が、噛みついて……」
「回路がズタボロになる、ってことか……」
この3年間で、魔法の重要な仕組みをもう1つ教わった。
それは魔法発動に関するペナルティの部分だ。
呪文は精霊言語によって編まれる精霊様への願い。
だから、精霊様はそれを間違えることを許さない。
発音を少しでも間違えてしまったり、対価として必要なマナの計算を間違えたり――そういう詠唱失敗には代償が要求される。
マナの通り道である回路が一定の量、削られてしまうのだ。
回路の太さは使える魔法の量に影響してくるから、きついペナルティと言えるだろう。これを精霊様が『噛みつく』、という。
逆に、自分の回路の太さを超えた量の魔法を発動すると、今度はオーバーロードを迎えることになる。回路が『焼きつき』、減少してしまうのだ。
精霊言語も発音はかなり難しいし、発動に関してもいろいろと注意事項がある。
この世界の魔法は、単なる奇跡ではなかった。
それにしても……精霊様も心が狭い。
ちょっとくらいの計算間違い、どーんと許してほしいものだ。
「ううぅ……怖いなあ……」
ラフィアは俯いて長い耳をくたりとさせた。
回路が失われる恐怖は、魔法使いとその見習いの全員が持っている感覚と言えるかもしれない。僕たちはもう魔法を唱えるのに必要な条件を揃えているから、『9歳の儀式』はその恐怖心との戦いになる。
「あ! そうだ!」
顔を上げたときには、ラフィアは明るい表情を取り戻していた。
「ねえみんな、魔法が使えるようになったらどうしたい?」
「夢、ということか?」
「そう! 夢!」
「んー……私はー、ピータ村を出てみたいかなー」
マルムがいつもどおり、にへら、と笑いながら言う。
え? 村を出る……?
表情のわりには大きな決意だ。
「魔女になれば……成人するまでの間はねー、別の村や、領都で、勉強できるらしいんだー」
「ふん。『交換』の制度のことか」
プロパは腕を組んで傲慢に言い放つ。
「わかっているのか? マルム。あれは騎士様の推薦状が必要だ。魔法使いとして実力があるか、なにか特技がなければ、認められない」
「私はー」
マルムがちらりと僕を見て言った。「算術があるからー」
「そうだよ! タカハとマルム、ずっと勉強してるもんね!」
「私はー……商人になりたいんだー。それで、いつか……異国の品物を、ピータ村に持って帰ってくるのー。それがー、私の……夢かなー」
言われてみれば、ときおり来る交換商の老人とマルムが話し込んでいたのを何度か目撃した気がする。
でも、僕たちは奴隷だ。
その夢は叶うのかな……?
……。
……。
分からない。
データが不足していた。
「オレは――騎士になる」
「えっ? 騎士様ってなれるの?」
満足げに言い切ったプロパに、ラフィアが青い瞳をキラキラとさせて少し近づいた。それだけでプロパの顔が一瞬で真っ赤になる。
「なっ、なれるんだよ……! 13歳になればだれでも領都で従騎士試験を受けられる。そこで成績が優秀なら従騎士になって、騎士団の中で認められれば正騎士。その次は騎士団長になって、最後は王都の騎士総長まで、オレは上りつめる」
「ふーん」
ラフィアはさらりと相槌を打ってから、僕に眩しいほどの笑顔を向けた。
「ね。タカハは魔法使いになったらどうしたい?」
「僕? そうだな、僕は……」
僕は。
僕は……どうしたいのだろう。
「タカハ?」
「そう、だね……」
なかった。
何も。
今は狩猟団の手伝いが楽しい。野山を駆け獣を仕留めるあの瞬間の快感は、前世では味わえなかったものだろう。このままピータ村の狩猟団員になるのも、まあ、悪くない。
同じくらい魔法も気になる。僕には『対訳』の力がある。魔法を習ったら、僕はすさまじい魔法使いになれるはずだ。その力を使って何かを手に入れるのも、まあ、悪くない。
どっちも『悪くない』だった。
僕には別段、夢と語れるようなものはない。
だってここは奴隷の村なのだから。
……時間切れになる前に、僕はとりあえず、子どもっぽい簡単な思いつきを口にすることにした。
「…………王様かな」
「王様っ!?」
「そう。強い魔法使いになって、奴隷たちが苦しまなくて済むような、そんな国を僕は作るんだ。だって、徴税も招集も、おかしいでしょ? なんで僕たちだけこんな思いしなくちゃいけないのさ」
完全にでまかせだったけれど、こいつはなかなかいいな。
「それは王家への反逆罪だな、タカハ。騎士になったら、オレがお前を倒す」
ふふん、と鼻で笑ったプロパの声に、僕は笑みで返す。
「やれるもんならどうぞ。ま、一生かかったって無理だろうけど」
「なっ、なにぃ?」
「じゃあ、ラフィアは?」
前のめりになった王子様をあっさりと受け流し、僕は問いかける。
「わたし? わたしはね、――――」
なにかを言いかけて、ラフィアは顔を赤くした。
もじもじと僕を見るばかりで、なにも言わない。
「え? なにそれ?」
「ひ、秘密なの! でも、そのためには強い魔女にならないといけないんだけど……」
ラフィアらしくない歯切れの悪さだ。気になる。
「教えてよ、ラフィア」
「ダメ~。秘密なの」
その帰り道、いろんな手をつくして聞き出そうとしたけど、結局、ラフィアは自分の夢を教えてくれなかった。
まあ、9歳だもんね。
いろんなことを考え始める年頃なんだろう。
以前のように根掘り葉掘り訊くのはやめた方がいいかもしれない。
「じゃあ、一緒に強い魔法使いになろうよ。そうしたら、教えて?」
「うんっ!」
ラフィアは満面の笑みを見ながら思う。
やっぱり僕の対応ってパパだよな、と。
――
ある日、僕はソフィばあちゃんに、ラフィアを呼んできてほしいと頼まれた。
ラフィアはマルムと遊びに行ったはず。
あそこだろうな、と推測する。
子どもたちの間で『花畑』と名前が付けられている場所だ。村のはずれのほうにある美しい花の群生地。僕はあまり行かないけれど、女の子たちの間では大人気らしい。
ポケットに入っていたビムの実を放り投げたり、マナを視たりしながら歩いているうちに、花畑を取り囲む茂みに僕はたどり着いた。
群生しているのはイーリの花という白くて美しい花だ。美しい見た目に反して、イーリの花にはわずかな睡眠作用がある。匂いもないようで、獣を捕らえる罠に使えるらしい。
――――『花畑』には3人の先客が居た。
まず、少女が2人。そのどちらも顔見知りだ。ラフィアとマルム。
そして、もう1人はプロパだった。
今日のプロパは妙な格好をしていた。シンプルなピータ村の普段着、ティーガに比べると、布をふんだんに、ゆったりと使った不思議な色合いの服を着ている。しかも、その手にはきれいな花束まで。
プロパは呆然とするラフィアのそばで膝をつくと、花束を差し出し、言った――――
「オレはかならずこの村に帰ってくる。だから――――オレと、婚約してほしい」
…………。
僕は冷静に確認した。僕は9歳だ。ラフィアも9歳、マルムも9歳で、プロパもたぶん9歳。みんな、もうすぐ魔法をはじめて唱える4人だから、間違いない。
今、目の前で行われているのは、プロポーズというやつで。
どうやらすごい現場に出くわしてしまったようだ。
だって、ねえ……。
「オレたちはもう少しで魔法使いになる。オレはそこから数年間ムーンホーク領都のおじさまのところで魔法を学ぶことになった。その間、ラフィアとは会えなくなっちゃうんだ。それだとラフィア、さみしいよね?」
「……え、えと」
「だから、オレと婚約してほしい。そうしたらさみしくないと思うから」
え、えと。
僕も小さい頃はこういうことを言っていたのだろうか。
言っててもおかしくないよなぁ……。
近くの茂みがかさり、と揺れる音がした。僕は胸をかきむしりたい衝動をなんとか抑えこんで、音がしたあたりにこっそり近づく。
茂みの中にいたのは、妖精種の少女だった。
名前は、たしか――――
「シリア?」
「……」
「……あ、ごめん……」
僕よりも少し年上な少女エルフは、緑の視線で僕を切り裂いた。
シリアは目を赤く腫らしていたのだ。尖った耳の先も真っ赤だった。
そういえばプロパとシリアが遊んでいるのはよく見かけた。妖精種同士、家ぐるみの付き合いがあると聞いていたからそんなに注目していなかったけれど、シリアのほうから誘っていたのだろう。
こうして考えると、9歳って結構オトナ……なのかな?
「……タカハ」
シリアの声は、涙声の、しかも、ささやき声なのに、ツンツンとしていた。
「あんた、ほうっておいていいの?」
「……じゃましろってこと?」と僕は訊く。
「ほ、他にどういう意味になるのよ? ラフィアは、強くお願いされたらなんでも『うん』って言っちゃうんだから。お、弟として、それでもいいの?」
たしかに、ラフィアは断るのが下手かもしれない。
ラフィアはいつもにこにこ笑っていて、お姉ちゃんぶりたくて、ちょっとお節介焼きで、人に頼られるのが大好きな女の子だ。『お願い、ラフィア』と言えば、ラフィアは何でもやってくれる。
それはよく知ってる。シリアの数百倍よく知っている。
でも。
プロパは本気だ。
ラフィアだって本気で答えるべきことだ。
「僕は、いかないよ」
「……なんで?」とシリアは不機嫌そうに言った。
「たぶん、シリアがいかないのと同じ理由」
「……ッ。……あんたのこと、キライ」
僕は茂みの向こうに視線を投げる。
「……プロパ、あのね?」
ずっと沈黙していたラフィアが、言った。
「わたしたち、まだ、9歳だから、そういうの、決められないとおもう」
「オレが帰ってきたら結婚してくれるってこと?」
「ううん」とラフィアは首を横に振った。「そんな約束は……しないよ」
「どうして?」プロパは低い声で言った。「オレは領都にいく。おじさまは『瀑布の大魔法使い』だ。魔法を数えきれないほど覚えてる。ピータ村の人は招集を怖がってるけどさ、それは魔法に自信がないからだ。おじさまは招集を怖いと思ったことはないってずっと言ってる。オレもいつかそうなる。だから――――」
「……だから?」
「オレはすごい魔法使いになる」
プロパ、もうちょっと修行しよう。
なにが言いたいのかすら分からないぞ。
「ごめんなさい」
はっきりと、ラフィアは言った。
「ら、ラフィア……?」
「――――ごめんなさい」
プロパは停止ボタンを押されたみたいに動きを止めた。
「くっ」
10秒くらいして、プロパはラフィアに背を向けて走りだした。茂みを突きぬけ、ピータ村の方へ小さな背中が消えていく。シリアがその後を追った。
僕が追う必要はないだろう。……とも思ったけど、熱しやすいプロパのことだ。プロポーズを断られて、何をしでかすか分からない。
僕も慌てて2人に続いた。
――
「来るなぁ!」
案の定だった。
ピータ村のそばを流れる川には、崖のようになっているところがある。増水して、どどどどど……と水しぶきをあげる滝を背景に、両目を充血させたプロパが叫んでいる。
「来たら飛び込むぞ! そしたら、オレは泳げないんだ! だから溺れて死んじゃうぞ!」
……なんてダサいセリフなんだ。
子どもたちが飛びこんで遊ぶことを許されている滝だ。全然危険じゃないのだ。なのに、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしてそんなことを叫んでいるから、見るに耐えない。
「プロパ、考えなおして! 女の子は他にもたくさんいるでしょう!?」
僕の隣からシリアが叫ぶ。
「イヤだぁ! オレは、オレは、ラフィアと結婚できないなら死んでやる!」
女の子の方が精神的な成長が早いっていうのを僕は再確認した。
今のプロパは赤ん坊に近いが、シリアの言葉はすごく大人っぽい。
「シリア」と僕は囁いた。
「何よ?」
「どういう手でいくの? ほうっておく?」
「……それが1番いいかもね」
エルフの少女はため息をついた。うん。やっぱり大人だ。
「な、なにヒソヒソ話してるんだよ!? ……わ、分かったぞ! 2人でバカにしてるんだな! もういいよ! し、死んでやる!」
「あ」
反論する間もなかった。
プロパの身体がカカシのように滝壺に落ちていった。
落ちたと言っても、3メートルくらいだけれど。ばしゃん、と水しぶきが跳ねる。
「ああもう! あの悪ガキエルフ!」思わず悪態をつく。
僕はプロパの後を追った。春先の冷たい川に僕は飛び込む。水中で目を開けると……本当に両手両足をバタつかせているプロパが見えた。僕は水面で大きく息を吸い込んで、プロパに近寄っていく。
救出は本当に大変だった。途中からシリアも加わってくれたから良かったものの、僕1人だったら助けられなかったかもしれない。
プロパは、これっぽっちも泳げなかったのだ。
川岸に3人分の荒い呼吸音が響く。
僕は身体を起こし、プロパを見た。プロパは目をそらした。
「なんで、助けたんだよ……?」
プロパの泣きそうな声を聞いて、さすがの僕も堪忍袋の緒が切れた。どこをぶん殴ろうか一瞬考えて――その必要はなくなった。
ぱん! と乾いたいい音が滝の音よりも大きく周囲に響く。
シリアだった。
「――――お礼」と低い声でシリアは言った。「タカハに、お礼、言いなさい」
プロパは顔を向けることすらしない。
「くっ……」
「お礼」
「…………あり、がとう……」
僕は改めて感心した。
女の子、すごい。
「シリア、あとお願いしてもいい?」
シリアは顔を背けた。
「あたし、あんたのこと嫌いだから」
「そっか」僕は微笑む。「でも、僕はシリアみたいな人は嫌いじゃないから」
「な――っ!?」
返事を待たずに僕は川を離れる。
もしラフィアが気に病んでいたりするならフォローをしてあげよう。
茂みを進み、花畑まであと少しというところまでたどり着いた。
――――その瞬間だった。
「きゃあああああああ――――ッ!!」
2人の少女の悲鳴が森に響きわたった。
考えるよりも先に足が出ていた。大慌てで駆け戻ったイーリの花畑の中でラフィアとマルムが座り込んでいる。抱き合った2人はぺたんと花畑に座り込んで、1点を凝視していた。
2人の視線の先。
イーリの花畑を取り囲む茂みの中に。
僕は一対の瞳を見つけた。
がさがさっ! と大きな音がして、瞳が茂みの向こうに消える。
獣のように森へ疾走する影はボロ布のようなものをまとっていた。
――人間だ。
その意味を深く考える前に僕は走り出していた。
「2人は村に戻ってッ!!」
茂みを突き破り、森のなかに飛びこむ。
「タカハッ!?」「行っちゃダメだ!!」
2人の声はすぐに背中側にフェードアウトしていった。
森は深いけれど、僕は地形を知っている。狩猟団での豊富な経験もある。雑に残していく逃走者の痕跡を追うのに苦労はなかった。
枝の下を潜り、ぬかるみを飛び越え、僕は鹿のように走り抜ける。逃走者は30メートルほど先を、たくさんの痕跡を撒き散らしながら走っている。踏み折られた枝、飛び散った落ち葉、ぬかるみの足あと……僕はそれを追い続ける。
あの野蛮な視線はなにを見ていた?
僕の頭のなかはその疑問でいっぱいだった。
だから――右手から不意に現れた人影に、僕はもろに突っ込んでしまった。
「うわっ」
「なにっ!?」
9歳の僕の突進を受けたのは大人の男だったけれど、僕は森の中で出せる最高速で追跡をしていた。衝撃はなかなかにすさまじかった。体の前面全部が痛い。人影と一緒に倒れこむ。――が、すぐに僕は弾き飛ばされた。僕が受け身をとって立ち上がるのと、緑のコートの人影が剣を抜くのは同時だった。
「何者だッ!」
白銀。
僕の視線は、緑のコートの騎士の剣に吸い寄せられる。
――そこでようやく、僕も、その騎士も、気付いた。
「少年……タカハではないか」
肩の力を抜いた騎士は、顔なじみだった。
「騎士ジーク様……」
犬人族の騎士ジークはミスリル剣を腰の鞘に収める。重々しい金属音が響いて、騎士ジークは少しだけ表情を険しくした。
「脱走奴隷の件で森へは出るなと言われていただろう?」
「はい。ですが……不審な人影を見かけたので、追いかけてきたのです」
「なにッ! どっちだッ!?」
僕は先ほどまでの進行方向を指差す。騎士ジークは慌てて一歩を踏み出そうとしたが、動かない僕を見てそれをやめた。
「くそッ。読みが外れた」
「ジーク様、あれは……?」
犬人族の騎士は視線だけをこちらに向けた。
「……タカハももうすぐ9歳だったな」
「……?」
「あれは、隣のファロ村に居なければならない脱走奴隷だ。4人のうちの、最後の1人。脱走した者には厳しい処罰が待っている。大人になるときまで、その事実を覚えておくことだ」
「……騎士様、残りの3人はどうなったのですか」
「知りたいか?」
「大人になるまで、覚えておきます」
「――死んだよ。我々が、処断した」
分かっていた。
確認のつもりで訊いたのだ。
けれど、犬人族の騎士の淡々とした視線に、口調に、僕は震えた。
――
僕は森の中の小道に戻る。泣いているラフィアをマルムが慰めていた。マルムは僕を認めると、心底ほっとしたというように息を吐き出した。
「タカハ、大丈夫だった?」
「うん。僕は。……マルムは?」
「だい、じょうぶー」
マルムの話を要約すると、あの脱走奴隷はじっと花畑を覗きこんでいたのだという。どれほど前から見ていたのか分からないけれど、気付かなったマルムは至近距離であの獣のような男を見た、と。
「なにもされてない?」
こくり、とマルムが頷く。
「騎士様に会ったよ。あいつは脱走奴隷だったらしい」
「だからー、あんなに……ボロボロの服を着てたのかな……」
マルムは真っ赤に泣きはらした目をぐしぐしと強く拭った。その隣で、ラフィアが悲痛な視線を森の方に向けていた。
「きっと、お腹が空いてて、食べ物を探してたんだよ」
「ラフィア、――」
僕は言葉を切った。あの奴隷が処刑されることはもう決まっている、と騎士ジークは言っていた。でも、今のラフィアに告げるべきことではないだろう。
「かわいそう……」
目を閉じる。
脱走奴隷は騎士の定めた徴税と招集の厳しさから逃げ出して……それを理由に殺されるんだ。
その瞬間、たしかに僕も、ぼろきれしか着るものがない脱走奴隷に同情していた。




