<番外編> 恋無き甘味。。。
「岸さん。チョコレートはたくさん貰えましたか?」
臨時の午前学習だった今日。彼女の家に招待された僕──岸 凛斗は、その道中、そんな質問をされた。
質問の意味ははっきりと理解できる。
今日はバレンタインデーなのだ。
かつて製菓業界が販売促進のために打ち出した『主に女性が、想いを寄せる男性にチョコレートを渡す』というイベントは、日本独自の風習、文化として定着してしまい、現在に至ってもなお健在である。
まぁ、最近はそれも少しずつ変わりつつあり、『友チョコ』とかいう女性の友人同士で渡し合うのが増えてきているらしいが。男性たちにとっては何だか残念なのだろう。
この時期になると、自分は貰えないと分かっていて、開き直って周囲におどけて見せている男子というのは、毎年かなりと言っていいほどよく見かける。
しかし、そんな奴らも、たいてい心の中ではそわそわして浮わついているに違いない。間違いない。だって、人の感情というのは、無意識に周囲の空気に流されてしまうものなのだから。
それに、突然あまり関わったことがない女子から、義理のを渡されるという可能性は、小数点はついてもゼロではないのだ。それだけでも、そわそわする要因には十分になる。
まぁ、結局これも僕の持論なのだが。裏付ける事象は何もない。
ただ、クラスの浮わついた雰囲気を見て、自然とそんなことを思ったのだ。
だがしかし。絶対に親しくない人からは貰えないと確信していて、尚且つ平静としていられる人間というのも、実はいる。
というか、僕だった。
「一個も貰ってないよ」
当たり前だろ? って顔をして、僕は、隣を歩く彼女に向かって、先ほどの質問に答えた。
すると、彼女は、何だか不快そうな表情を浮かべた。何が悪かったのだろうか?
彼女は、残念そうに肩を落として溜め息混じりに、言う。
「わたくしの彼氏は……バレンタインにチョコレートのひとつも貰えないくらい、他人と関わらない、コミュニケーション能力の低い人間なんですね……」
「……別にコミュニケーション能力は低くないよ。僕は」
なんかボロクソ言われた。とっくに慣れているはずなのだが、心にグサグサと突き刺さるような言葉にひどい痛みを感じる。
そう、彼女──水華ヶ美姫花と僕は、付き合っているのだ。
彼女の性格は氷だ。氷の本質のような性格を持っている。それに触れた話は、以前にしているので、省略する。
ちなみに僕は水だ。真水。そう姫花ちゃんに言われた。理由は訊いても答えてくれなかったが、いずれ話して欲しいものだ。
「なら、なぜ友達が少ないのですか。何かやらかして嫌われているとか?」
……こう見えても、僕の彼女なのである。……だよね?
「嫌われてはいないさ。好かれてもいないけど。なんかさ、話が合うっていうか、馬が合う人がいないんだよね」
まぁ、だからと言って自分が良い性格だとは思わないが。
姫花ちゃんは納得がいかないとでも言いたげな顔で、僕をじろじろ見てくる。そして、言葉を続けた。
「それは、岸さんが周囲にも自分にも無関心なだけで、皆さんのことを何も分かっていないからではありませんか?」
「……そもそも、君のことを分かろうともしないで『氷女-ヒメ-』なんて呼んでる奴らとなんか、仲良くしたくないんだけどね」
僕がそう言うと、彼女はそっぽを向き、黙って口を閉ざした。
ん。何かまずかったかな……?
僕はそんな彼女の顔を、覗き込むように、頭を動かした。
すると彼女は、やや頬を紅く染めて、口を尖らせていた。どうやら照れているらしい。
やがて僕の視線に気づいた姫花ちゃんは、その照れをごまかすかのように、軽く咳払いをして、言った。
「しかしですね。それはチョコレートを貰えない要因にはなりません。岸さんはどうやら部活などで、後輩にとても人気があるとか、聞きましたよ」
ああ……。確かに。
僕は吹奏楽……愛好会に所属している。部ではない。ちなみにトランペットを担当している。上手くはないが。活動は週四日。月・水・金・土曜日だ。
吹奏楽愛好会は女子が多い。しかも、同学年が少ない上に、先輩後輩が多いのだ。義理でもチョコレートを貰える確率は、確かに高いはず。
でも、まぁ……。ね。
僕は苦い顔を浮かべた。
「僕には姫花ちゃんがいるって、皆は知ってるから、さ」
僕がそう言うと、今度は彼女が苦笑いを浮かべた。
「……それに、わたくしですもんね……」
……うん。まぁ。否定はできない。
学校の中でとはいえ、有名人の彼氏は、有名人になってしまうのだ。仕方がないことだった。
彼女の評判の悪さというか、冷たい性格というのは、学校中に知れ渡っている。
有名人の御令嬢である彼女は、ちやほやされない為に普段は人との関わりを拒絶してクールに振る舞っている。
しかし、さすがにその彼氏である僕にチョコなど渡して気を引こうとでもしたら、きっとあの手この手で制裁を下しに来るに違いない、とか思われているのだろう。
だから後輩たちも、僕に義理でもチョコをあげられなかったのだろう。
……本当のところを言うと、その話は実際に後輩たちに聞かされたのだが、しっかりと話は着けておいた。その結果、来年はくれるってさ。
とにかく、そんなに彼女を悪く言う奴らに、僕は腹を立てている。
思い違いも甚だしい限りだ。
実際の彼女を見てみろ! むしろ自分以外の女子からチョコを貰っていないのを見て、残念がっているじゃないか!
って、何故?
「まぁ、そうですね。バレンタインデーに限らず、わたくしから岸さんを奪おうとする人がいたら、わたくしはきっと制裁を下すでしょうね」
顎に細い人差し指の先端を当てて、上を見ながら淡々と話す姫花ちゃん。
僕は恐る恐る、「……どんな風に?」と、どうやって制裁を下すつもりなのか訊いてみる。
すると彼女は、悪意に満ちた黒く深い微笑みを浮かべ、言った。
「マグロなどを凍らせる為の業務用冷凍庫で芯まで凍り付かせてから、かき氷にします。人間かき氷ですね♪」
そして舌舐めずり。
……恐ろしくて声も出なかった。ツッコミ失格だ。
「しかし、可能らしいですよ? 人間に限らず、動物とは体を構成する成分の大半が水、水分ですからね」
「だけど……食べたくはないな」
どう味付けしても気持ち悪そうだ。鉄分は豊富っぽいが。
そして姫花ちゃんは、なにやら微笑みながらちらりとこちらを見てきた。
「もし、岸さんがわたくしとは別の女の子に気が行ってしまった場合は、その女の子と同様に岸さんも人間かき氷の該当になります♪」
「や、やだよっ!! 絶対に浮気なんてするものかっ!!」
やばい。とんでもない量の冷や汗が吹き出た。凄いね人体。本当にほとんど水分なんだ。ちょっぴり感動した。
「ふふっ♪ 心配要りません。岸さんのかき氷は、ちゃんと完食して差し上げますよ♪」
「カニバリストなのか君はっっっ!!」
ど、どんどん姫花ちゃんが悪いテンションになっていく……!
自分の彼女が人食い趣味なんて嫌だよ助けて神様……!
僕は肝どころか、内臓の殆どを冷やしてしまっていた。寒い。心が寒い!
すると突然、彼女が悪い顔を止めて正面を向いた。表情は落ち着いていて、いつもの彼女そのものだった。
おお……! 相変わらず、気持ちの切り替え、感情のコントロールが得意だ。
僕はほっと深く息を吐いた。
「……まぁ、あながち冗談ではありませんが……」
「肯定するために落ち着いたのっ!?」
僕は自分の目玉が飛び出るかと思った。
さて、話題を変えよう。
先ほど思い付いた疑問を話してみようかな。
僕は何の躊躇もせず、ストレートに姫花ちゃんに質問した。
「そういえば、何で僕がチョコを貰ってなくて、がっかりしたんだい? 普通、自分の彼氏が他の女の子からチョコ貰ってたら、嫌じゃないか? たとえ義理でもさ」
僕の質問に対し、彼女は「そうでしたね」と呟いてから溜め息をついた。僕が思っているより、がっかりしているらしい。
やがて、姫花ちゃんはその理由を口にした。
「もし岸さんが、他の子からチョコレートをたくさん貰ってきていたら、それを湯煎して生クリームと混ぜて、チョコレートケーキに使えたんですけど……」
僕は自らの耳を疑った。
……え? それってつまり……?
「えぇ、他の子の想いを踏みにじりながら、自分の欲を満たすつもりでしたけど……?」
「なんて残忍で斬新な発想なんだ……!」
僕は、目の前の、素で悪なことを考えている彼女に、戦慄を覚えた。
「踏みにじるのはさすがに冗談ですが」
「実行はするんだねっ!!」
せめて全部冗談であって欲しかった!
「そして自分で食べます」
「僕は!? 僕は後輩たちから貰ったチョコはおろか、君からのも食べられないのかい!?」
君がそこまで非道な人間だとは、僕は思ってはいなかったぞ!?
君はなんだ、悪女か? 悪魔か? 魔王なのか?
「魔王って……岸さん馬鹿ですか?」
「以心伝心!?」
「馬鹿の考えはすぐに分かります」
「君から見たら馬鹿かもしれないけど、一応僕だって成績優秀者だよ」
第四回考査は学年二十位以内だった。数学が良かったらもっと上だったかもしれない。彼女は五位だが。
彼女はふんっと鼻を鳴らした。顎を上げて、少しムッとした顔で見下してくる。
「……なんだか最近、岸さん、わたくしに対していい度胸を働いていますね。慣れきってしまったんでしょうか」
それを聞いた僕は、また苦笑いを浮かべる。なんだか今日は苦笑いが多い日だ。甘いものを貰う日なはずなのに。
「それは多分……姫花ちゃんが変わってきているんだよ。角が取れて来たんじゃないかな」
なっ……、と彼女は言葉を詰まらせる。
そして何やらぶつぶつ呟きながらしばらく歩き、やがて顔を歪めてこう言った。
「……不思議のダンジョンでしくじって、今まで積み上げてきたものが一気になくなった主人公の気持ちですね、まるで」
……ああ。言いたいことは分かるが、なぜそんなのを彼女が知っているのかが謎だ。
「……風来のシレン? それともトルネコの大冒険?」
取り敢えず訊いてみる。
すると彼女は首を横に振った。違うらしい。
「チョコボの不思議なダンジョンです」
「ああ、そっちか」
意外にゲームをたしなむ趣味をお持ちの、お嬢様だった。
「しかもPS1でプレイしています」
「君の家は金持ちじゃないのか!?」
案外、もうレトロなゲームに分類されていると思うよ? 初代プレイステーションって。
よくわからないお家柄だ……。漫画もライトノベルも読んで、さらにゲーム(しかも初代プレステ)とは……。
彼女は溜め息を吐いた。彼女にしては珍しい光景だ。
「どうやらわたくしは、レベルが一に戻ってしまったみたいですね」
「あ、え? 今の状態で、もうデフォルトなの?」
どうやら、全然やりこんでいなかったようだった。
彼女を毒舌から更正させるには、レベルをかなりのマイナス値にまで落とし込まなければならないらしい。
まだまだ、先は長いようだ。というか、不可能なのではないだろうか。
でもやっぱり、彼女はずいぶんと変わったような気がする。表情が穏やかで、毎日がたのしそうだ。
以前なら、もっと冷たい目線を周囲に振り撒いていたのだが、今の彼女はすっかりと暖かみをもった視線で、人を見るようになった。
それに伴い、彼女に対する悪口も、かなり減ったように感じる。本当にいい傾向だと思う。ついでに僕への冷やかしも減ってくれたら、さらにありがたいのだが……。
彼女はふわりと、歩道と車道を分ける縁石に飛び乗った。両手を広げ伸ばし、バランスを保ちながら、軽快な足取りで前へと進む。
そして僕よりどんどん前に行き、やがて縁石が途切れるところで、飛び降りた。そのまま足を止めて、そこからふいに、こちらに正面を向けるように、スカートを翻して旋回した。
「まぁ、でも、そのおかげで今こうやって岸さんと帰路を共にできていると考えると、全く悪い気はしませんね」
そう言って彼女は、僕にしか見せてくれないであろう、最上級の微笑みを浮かべる。
とても優雅で、とても無邪気なその表情に、僕の瞳はたちまち虜になった。
ああ、可愛いな。綺麗だな。
付き合う前と、付き合ってしばらくは、全くそんなことを思わなかったのに。彼女はいつの間にか、僕にそう思わせてしまうほど変わった。
どんな人間でも、恋をすれば変わるんだな、と僕は彼女を見つめてそんなことを思った。
「悪い気どころか、良い気分だよ、僕は」
僕は彼女のいる位置に到達する。彼女はまた僕と歩調を合わせて、歩き始めた。
先ほどの僕の返事に満足したらしく、やたらと上機嫌な表情になっている。
あ、そうだそうだ。うっかり、提起された問題をほったらかしにするところだった。
僕は、上機嫌なまま僕の左手に指を絡めてきた姫花ちゃんに、訊く。
「でさ、姫花ちゃん。結局僕は、君からチョコを貰えるのかな?」
……余談なのだが、普通、歩道をカップルが歩く場合、男性は車道側にこなければならないはずなのだが、今の僕たちの位置はそれとは正反対である。これは、彼女が、、僕を守る側になりたいと、主張してきた結果だ。まぁ、それはあくまで精神的な面でなので、実際危ない場面になったら、真っ先に僕は彼女を庇うけれど。
「差し上げません」
きっぱりと、表情は上機嫌なまま、瞳を閉じて彼女は答えた。
またまた、そんな。
僕は困り笑いを浮かべざるを得ない。
「そんなまさか。今日は、恋する乙女が、チョコでその気持ちを伝える日じゃあ、ないのかい? 姫花ちゃんは、そんな風潮には乗らないと?」
すると彼女は、繋いだ手とは逆の、左手の人差し指を立て、冷静にこう言った。
「何を言っているのですか? 岸さん。わたくしは今、恋なんてしていませんよ?」
……なんだって!?
彼女のその言葉に、僕は驚愕とした。多分僕は今、とてつもなく馬鹿な顔をしているに違いない。僕は焦りに焦り、その言葉の意味を追及する。
「……え? ええ!? じゃあ何の感情をもって、君は僕と付き合っているんだ!?」
姫花ちゃんは不思議そうに首を傾げた。そして当たり前だと言わんばかりの表情で、言った。
「それはもちろん、愛ですけど」
……愛? あれ、でもそれじゃあ……?
「同じもののような気が……」
僕は顔をしかめる。何が何だか、わからなくなってきている。好きってことには変わり無さそうだが……。
姫花ちゃんは、いまだに立てていた人差し指を、空中でくるくると回し始めた。あ、この癖、見覚えがある。彼女が何かを、説明するときの癖だ。
「ふふっ♪ これはあくまでわたくしの持論なのですが……恋と愛は、全く別物なんですよ」
何だかパクられた気が……あ、いえ、なんでも。
「そ、そうなの?」
「はい。そーです」
彼女はくるくると指を回したまま、目線を上に上げて何やら考え始めた。考えながら、それを口にする。
「そうですね……例えばです。わたくしはかつて、確かにあの図書室で、岸さんに恋をしていました。しかし、付き合っている今、わたくしは岸さんを愛しています」
「……何が、違うんだい? わからないなぁ……」
僕は頭を掻く。
からかわれているのだろうか……?
彼女は調子良く、悪戯っぽい笑みを浮かべながら続ける。
「つまりですね。恋は、想うものなんです。一方通行なんですね。両想いでも、互いがそれを理解していなければ、一方通行です」
一方通行……? んん。なんとなく分かってきたかも。
「恋は一方通行……。あ、そうか。なら、愛は……」
姫花ちゃんは、僕が何か掴んだことを悟ったようで、流し目でこちらを見た。うわぁ……色っぽい。僕は思わずどきっとした。
彼女は答え合わせをするように言った。
「そうです。愛は、与えて、与えられるもの。つまり、共有するものなのですよ」
そして彼女は、指のくるくるを逆回転に変え、付け加える。
「わたくしは、自分が恋をしていたことを、岸さんに伝えました。付き合って欲しいと、お願いました。そして、岸さんがYESと答えたその瞬間から、わたくしの恋は、愛に変わったのです!」
「姫花ちゃん。声が大きいよ。場所的に恥ずかしいから抑えて欲しいな……」
現在地は商店街。人も多く、何人も擦れ違っている。ちなみに、彼女の家この商店街を抜けてすぐの住宅街の中だ。
僕の言葉はあえなく無視され、彼女はその続きを楽しそうに語る。
「よって、わたくしが言いたいことはですね、岸さん。『恋愛』は『恋を伝えて愛に変えること』の略語だということです♪」
姫花ちゃんが……!
浮かれている……!
僕は初めて、案外彼女にも馬鹿な一面があるのか、と思った。思ってしまった。
もしかしたら、彼女は友達にのろけ話をするようなタイプなのかもしれない。友達が少ない分、余計に。
しかし、今さらまた不機嫌になって貰っても困るので仕方なく乗ってあげることにした。
まぁ、本音を言うと、僕は今、かなり楽しいんだけどね。
「成る程。納得しました。お見事です、我が主君」
大袈裟に、リアクションしてみた。
すると、彼女は、くるくる回していた左手を、自らの頬に当てた。そして目線を少し下に向ける。
「およしなさい。褒められると照れちゃいます……」
少し赤くなっている。本当に照れているらしい。
僕は何だかどきどきしてしまい、ついつい本音を漏らしてしまう。
「照れてる姫花ちゃんが一番可愛いや」
わぁ、何言ってんだ、僕。
ちょー恥ずかしい。
「もう、岸さんったら……。怒りますよ?」
「なんでいきなりマジなトーン!?」
度肝抜かれた!
いきなり刺すようなジト目を送らないでくれっ! 心臓に悪い!
話が少し逸れてしまったが、僕の疑問はまだ完全には拭えていない。
まだ君に反論しなければ気が済まないようだ。
めいっぱい息を吸い込み、僕は落ち着いてしっかりとした口調で彼女に言った。
「でもね、姫花ちゃん。いつかのお言葉を返すようだけれど、それは僕が姫花ちゃんからチョコを貰えない理由にはならないよ?」
そうだそうだ!
愛でもチョコは貰えるはずだっ。
……僕のチョコへの執着は、ここまで異常であっただろうかという疑問はとりあえず置いておこう。
すると、不意に左手に刺されたような痛みが生じた。
見ると、絡み付いている姫花ちゃんの右手の、爪が僕の左手に食い込んでいた。
恐る恐る、目線を上げて、彼女の表情を確認する。
……笑っていた。
……いや、これは怒っている。ムカツキマークが付いた笑顔だ。眩しいっ!
「ごめんなさいでした……」
結局、僕は悪くないのに謝ってしまった。いや、言葉の選択肢は誤ったか……。
姫花ちゃんは、恐ろしい笑顔を止めて、溜め息を吐いた。やれやれといった表情を浮かべている。
「……全く。人の話をちゃんと聞いていましたか? 恋は一方通行。愛は共有するもの、ですよ? よって、わたくしは岸さんには何も差し上げません」
彼女が、絡ませた右手で、僕の左手を引く。引っ張る。
やや早歩きで、僕を牽引する。
そして彼女は、僕を近くの店に連れ込んだ。
彼女はこちらを、振り向き……。
照れ笑いを幸せそうに、僕だけに向けて、こう言ったのだった。
「その代わり……ケーキを作る時間を、食べるひとときを、余さず共有しましょうね♪」
…………。
僕は幸せ過ぎて、何も言葉が返せなくなっていた。
ああ。僕も。
何も欲しいものなんかなくなったよ。
───君の愛以外は、ですけれど。
──────
ちなみに、共有したのは、店で買った大量のチョコの代金もだ。
───つまり、割り勘だった。
幸せの対価……ということだろうか?