彼女は氷のように弱かった?
姫花ちゃんは、強い。
人に何か悪口を言われても澄まして軽く受け流したり、落ち着いた冷たい声のまま何倍にもして言い返したり、とにかく僕の助けなど全く必要とはしないのだ。
しかし、もしそれが全て強がりだったとしたら。弱さを見せないために意地になっているだけなのだとしたら。
僕は助けてあげられるのだろうか?
力になってあげられるのだろうか?
支えてあげられるのだろうか?
たまに、そんなことを考えてしまう。
なんせ氷という物質は、固い。固い物質は、脆いのだ。弱いのだ。
簡単に壊れるし削れる。かき氷がいい例だろう。
彼女が本当に、氷の本質ばかりもっているというなら……。
その可能性は、極めて大きいのではないか……?
気になって仕方がない。
姫花ちゃんは今日も、変わらず強かったのだから。
ただ、あの一時は、はたしてどうだったのだろう?
初めて弱さを見せてくれた……のだろうか?
─────
鮮やかで美しい青に囲まれたトンネル。多くの命あるものたちが、弧を成して僕たちの頭上を飛び交っている。
群れで隊列を成し、あるいは単体で力強くとばして、自分たちの命の輝きを惜しみもなく僕たちに見せつけている。
壮大で、壮麗で、壮烈。本物の自然に生きるものたちの命の素晴らしさに、僕たち独自の社会を生きる人間の小ささを感じてしまう。
そして、そんな素晴らしい光景を目の前にして、僕の彼女、姫花ちゃんはこう言うのだった。
「どれも美味しそうですね。わたくしは鯖の味噌煮が大好物なんですよ」
…………。
「姫花ちゃんさ……。いや、良いんだよ? これを見て、なお食べることを考えられるふてぶてしさは、本当に凄いとは思う」
僕はひとつ呼吸を置き、やがて顔を真上に向けて諭すように言う。
「でも、こんなに綺麗な命の輝きを放っている彼らを、敬おうという気持ちは起きないのかい? 謙遜しようとは思わないのかい?」
それを聞いた彼女は、首を傾げた。傾げるのか。傾げなさるのか。
でも、反応して首を傾げてくれたということは、考えてくれてもいるのかも知れない。
どうか、伝わってくれっ!
「……あ、鰯の梅煮も好きですね」
「全然理解してもらえなかった!」
もういいやっ!
鰯の梅煮は僕も好きだ!唾が出てきた!
やっぱり人間は愚かでした! そして僕たちはその人間でした! すみませんねお魚さん!
そう。僕たちは今、水族館に訪れているのだった。
─────
トンネルを抜けると、そこは雪国……じゃなくて、見上げるほど巨大な水槽で囲まれた、広い空間でした。
さっきのトンネルと比べると、魚の大きさも段違いだ。エイとかサメとかいるよ。
いつも水族館に来ると、つい思ってしまうのだが……。食物ピラミッドはどうなっているんだろう? ちゃんと共生できる組み合わせで水槽に入れているのだろうか?
絶対にタコとかアナゴとか危ないだろ。肉食なのに。
ふと、気付いた。隣に姫花ちゃんがいない。
水槽を意識から外し、周囲を見渡すと、水槽の前のベンチに座って、こちらを手招きしている彼女を見つけた。
「少し歩き疲れました。休みましょう。あ、いや、一緒に休みなさい」
「なんで提案を命令に直したの……?」
ひとつ会話を挟み、僕は隣に腰かけた。
正面に広がる水槽は、遠目に見たよりさらに迫力が増し、普段よくみる魚さえ、巨魚にみえるほどだ。
「青色が眩しいね」
僕がそう言うと、姫花ちゃんはすっと目蓋を閉じた。横顔が綺麗で、ついつい見とれてしまった。やがて、目蓋の代わりに唇が開かれた。
「青もブルーです」
…………?
言葉の意図が掴めない。僕の頭が残念なつくりだからだろうか……?
だって、まさか今突然ブルーな気持ちになったとかいう意味合いではないだろうし。ついさっきまで楽しくデートしていたのにそれだったらびっくりだ。目玉飛び出るよ。ばりに。
彼女は閉じた目蓋を開こうとしない。目の前の青を見たくないからだろうか。と思っていたら、すっと開いた。
なにか決心したかのような、強い瞳を携えた目を、水槽に向ける。
一体何を話そうというのだろうか。
僕は緊張しながら、それを待つ。
やがて、彼女は言葉を溢した。
「せっかく、こんなに大きな水槽が目の前にあるのですから、お魚のお話をしましょう」
至って普通の、会話の振りだった。
緊張して損した気分を味わってしまう。僕は溜め息をつきながら言った。
「さっきからしてるような気がするけど……」
姫花ちゃんが、横目で僕を一瞥した。ピンと伸びた背筋は僕の座高よりも高く、若干見下されいる感じがする。
「いいじゃないですか。それでは岸さん。鮪って、泳ぎ続けなければ死んでしまうんですよ」
「目の前の水槽に鮪なんて見当たらないぞ……?」
「ですから、鮪は泳ぎながら眠るんです」
いきなりの豆知識披露。僕は戸惑いを覚えてしまう。どうしちゃったのだろう。
でもそれ……。
「悪いけど、それってもはや一般常識の範囲じゃないか?」
「いちいち突っ掛かりますね。私のこと、嫌いなんですか?」
えっ!?
いやいやいやいや! そんなことないよ! 何でそれだけでそうなる(?)。
「え、いや、すみませんでした!?」
「……岸さんは、どうなんですか? 鮪ではありませんか?」
僕が……鮪だって?
「ま、まさか!? 僕は受けだけじゃないよ!?」
「怒ります……」
「え、宣げ……イデデデ……何でもありませんっすみませんでしたっっっ!!」
静かに告げられ、思い切り耳をつままれる僕。
ああ、なんか、姫花ちゃんがいつもの意地悪さを取り戻してしまったような気がするっ!
今日は可愛くいるんじゃなかったの!?
「まったく……」
「で、なんで僕が鮪なんだって?」
今度は姫花ちゃんが、溜め息をつきながら、言った。
「岸さんは、目を瞑ったまま泳いでいて、出逢うべき人に出逢わないで、擦れ違っているのではないのですか、と」
「う……ん? いまいちよく解らないな」
出逢うべき人って誰だ?
僕が、一体何を見落としているって?
考えていると、彼女がぬっと身を乗り出してきた。顔と顔との距離が一気に詰められた。
「私より良い人なんていくらでもいるのに、損な日々を送っているのではないですかと言っているんです」
「ああ、成る程」
―――納得。
―――でも、納得できない。
今まで君は、幾度となく周囲にそんなことを言われても、澄ました顔で振り払って来たじゃないか……?
唇に右人差し指を当て、斜め上を見上げて考える仕草をすると、やがて彼女は呟いた。
「あなたが鮪だったら、私はあれですね。……大きな魚にくっついて泳ぐ魚ですかね」
コバンザメ……だっけ? 他の魚や鯨にくっついて泳ぐことで、外敵に襲われるのを防ぐ魚。違うか? おこぼれをもらうんだっけ?
取り敢えず、姫花ちゃんが言いたいことは大体理解した。僕は少し考えて、自分の意見を口にした。
「……僕は、姫花ちゃんはそんな卑しい魚だとは思わないな。それと、僕を鮪に例えるのは止めてくれ。虫酸が走る」
「どうしてです?」
きょとんとして首を傾げる彼女に、僕は苦笑いを浮かべて答える。
「僕は鮪が嫌いなんだ。特に赤身がね。血の味が強くて気持ち悪い」
姫花ちゃんが「あら」と意外そうな声を漏らした。僕は、迷いなく言葉を続ける。
「それに、常に泳ぎ続けるっていうのも、僕とは正反対の性質だ。僕は、やらなくていいことならやらない、怠惰的な性格なんだよ」
と、ここまで言って、ふと自分で思った。
「ダメ人間、ですか」
みなまで言わないでっ! 悲しい!
僕は頭の後ろで指を組み、深くベンチの背もたれに落ち着くと、自嘲気味な口調で言った。
「僕が自身を魚に例えるなら……鮃かな。隠れて何もせず、獲物が来たときだけ全力を尽くす、都合のいい魚だよ」
姫花ちゃんが『ほうほう』と納得したように頷く。しかし、まだ何か疑問でもあるのか、こう言った。
「そうですか。それは確かに納得できますね。では、あなたが鮃なら、それに対して私は何になるのですか?」
姫花ちゃんを魚に例えること自体、恐怖イベントのような気がしてならない。冷や汗をかきながら、慎重に言葉を選び、僕は言う。
「なんでもいい。取り敢えず、大きな魚。僕は、食い意地を張って大きな魚にかぶりついて、そのまま引き摺られているんだよ」
「そんなの、すぐに離してしまえばいいではありませんか」
う~ん。試されている。
正念場だ。
しかし、なぜこんな回りくどいやり取りをしなければならないのだろう。いつも正直な……オーバーな言い方をすれば、愚直ともいえる彼女が……。
確かに、僕は彼女に告白された側であって、自分から好きなったわけではない。
しかし、僕は彼女といままで付き合ってきて、後悔したことなど一度もない。
好きになられて、好きになった。
それに間違いはない。有り得ない。
今日の男子Aの悪口を今さら気にしているのかどうか分からないけど、この関係を疑っているのなら、思い違いも甚だしい。
僕は、会話の流れに身を任せるようにして、自分の偽り無き気持ちを、出来るだけ自然に伝えようと心がけた。
表情も穏やかに、声も何も不自然がないように。
「ところがしかし、そのかぶりついた魚が、あまりにも美味くて美味くて、ずっとやみつきになってしまい、離れたくないんだよ」
―――うわっ!
何も考えないで自然に言ったら、何か気持ちの悪い言葉になった!
僕は心の中で頭を抱えた。
……どうか伝わってくれっ!
そう願うと、意外にも届いたのか、彼女は柔らかな表情を浮かべた。
「あらら。一転して、嬉しいことを言ってくれますね」
……ん。ちょっと馬鹿にされてる。
ここでちゃんと言わなければ、きっと話を終わられてしまう、と僕は思い、魚に関係ない文章を頭の中から捻りだし、口にした。
「僕にとって姫花ちゃんは、そういう存在なんだよ。僕は、関わりたくない人間には、あからさまにそういう態度をとってしまう人間だ。だから、別れる心配とか、浮気の心配なんか、要らない」
一旦ひと呼吸おき、僕は笑顔になって言う。
「僕には、かぶりつくための口がひとつしかないからね」
最後はやっぱり魚にした。彼女も、ぷっと小さく吹き出した。
僕は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。
「さて、変な話もこのくらいにして、次へ進もうか。イルカにラッコにペンギン! 魚より、可愛い動物のほうが好きでしょ?」
姫花ちゃんは頷き、上品に手を重ねてきた。
「そうですね。私はカピバラが大好きです」
「僕の予想の斜め上を行った……!」
水族館にカピバラいるかなぁ? 修学旅行のときの大阪の水族館にはいたけど。
「ふふふっ♪」
立ち上がったとたんに、姫花ちゃんが上機嫌に微笑んだ。
「どうかしたの?」
「思わぬ共通点が見つかって、少し嬉しくなっただけですよ」
共通点……?
「私も、鮪の赤身は大嫌いなんです」