彼女は氷のように美しかった。
不味い。遅刻だ。
僕は、手袋でもかじかむ指先をひたすら我慢しながら、大急ぎで待ち合わせ場所へと向かう。
いや、違う。
『待ち合わせ』なんて選択肢は、僕らにはない。いつでも、僕は待たせ、彼女は待っているのだ。きっと今頃、暖かい部屋で大判の文庫本のページでもめくっているに違いない。そりゃあもう、のうのうと。
そう。僕は今、彼女の家に迎えに行くところなのだ。
何とか時間ぎりぎりに玄関先に辿り着き、インターホンを押すことができた。
それにしても、何時見ても大きくて立派な家だ。白を基調としたヨーロッパ風の外観で、テラスと広い庭まで付いている。これだけでも、良い家柄だということが分かるが、はたして中は一体どうなっているんやら。
未だに入れてもらったことはない。
切れた白い息を整えながら、そんなことを考えているうちに、インターホンのスピーカーから、声が聞こえてきた。
聞き覚えのある女性の声だった。
「はいはい。そのうち出ますのでそれくらいお待ちを」
「なにその『気が向いたら』みたいな言い回し……。今出てきてよ」
……相変わらずの自己中心的な性格。絶対に彼女だ。断言できる。
「寒いから、嫌です」
「こっちのほうが寒い思いしてるんだよっっっ!!」
彼女は、冷たい口調で僕をいじめる。
僕はその言葉にかっと熱くなって訴える。体は寒いままだが。雪国の冬の朝の寒さは人の常識を超えていると言っても過言ではない。
君は自分さえ良ければそれでいいという人間の典型か。いいか。僕を凍えさせているのは君なんだぞ。僕が凍死したら加害者は君だ。このかじかんだ人差し指を噛みちぎってでも、最後の力を振り絞ってダイイングメッセージを残してやるっ。
……いけないいけない。あまりの寒さから、僕は愚かにも自分の彼女を憎んでしまっていた。反省反省。
寒さによるきんきんとした頭痛で思考回路が乱れてきたところで、玄関のドアがゆっくり開いた。閉まった。
「いやいやいや、閉めないでくれっ!」
僕がそう叫ぶと、ドアがまた開き、爪の先ほどの隙間を残して止まった。そして、彼女の声が聞こえた。
「あ、いえ。思っていたよりもずっと寒くて……。こんな寒いなかに人を待たせていたことに気づいて、罪悪感に襲われてしまいました。わたくしは今更どのような顔をして出られましょう? 只今、自己嫌悪中です。ぅぅぅ……」
「どんな顔しててもいいからっ! そんなことを思っているのなら、まず凍えている僕をどうにかしてくれっ!」
まだそれだけで取り返しがつくよ!? 諦めないで!!
というか、絶対、僕をいじめて楽しんでいるだけだろ君はっ!
ドアのむこうで嘲笑している君の顔がはっきりと浮かぶよ!
やっとドアがしっかりと開く。今度はさすがに閉じない。
そうして、開いたドアから出てきたのは、やはり彼女だった。
腰の辺りまである、キューティクルの光る黒髪。前髪は右分け。雪の結晶をあしらった季節感溢れるヘアピン。
落ち着いた印象を与える深い瞳。
すっきりとした顔立ちと、色の薄い唇。
スレンダーな体型で、身長は女性としては高めなほう。
家柄通りの、美しい容姿をした女性だ。
服装は──おしゃれに無頓着な僕はうまく説明することができないので、大雑把に言うと──首まですっぽりの真っ赤なセーターに、下は青色にチェック柄のロングスカートだった。
彼女は、僕を上は顔から下は靴までひととおり眺め見ると、言った。
「あら、岸さんだったのですか」
「なっ……! もしや、君は僕だからというわけでもなく、誰にでも先ほどまでの対応の仕方をしていたというのか!?」
だとしたら大問題だぞ!? 君の家柄的に、お偉い方々が訪問してくる場合もあるだろうに……! それでは両親の教育方針を疑われるぞ……。
「ああ、それなら心配には及びません。私は、馬鹿にして良い人間と、そうでない人間をしっかり区別することが出来ますから」
「馬鹿にって……。ちなみに? 区別する方法って?」
彼女は、不敵な微笑みを見せると、首に人差し指を当てた。
「声です」
「だろうね!」
僕は苦笑いで声を上げた。
インターホンだもんねっ! ちょっと考えればわかるよ!
というか、馬鹿にして良い声て。
声の可笑しなお偉方もいらっしゃる可能性はなきにしもあらずだよ。
「ちなみに言うと、そんな声の持ち主には、わたくしは今まで生きてきて一人にしか出会っていませんよ」
「確信犯がいたよおまわりさんっ!」
─────
さて、紹介が申し遅れた。僕の名前は岸凛斗。僕のプロフィールは、全く需要がないと思うので割愛させて頂く。誰だ、ガムとか歯みがき粉とか言った奴。正直に出てこい。
そして、僕の目の前にいるこの女性こそ、僕の彼女である水華ヶ美 姫花だ。ちなみにこの苗字、彼女の家系以外には絶対に存在しないものだ。つまり、比較的最近の年代につくられたものらしい。
彼女はとある有名な出版社の、テレビにも出演する名物社長の娘であり、それに端麗な容姿も重なって学校でもかなりの有名人だ。しかし、他人にあまり心を開かず、冷たい言動が目立つ性格であるため、友達は少なめらしい。そうして、冷たく周囲に流されない性格を見せる彼女には、ある渾名がつけられた。
『氷女様』。
『こおりおんなさま』ではない。こう書いて、『ひめさま』と読む。
言葉の響きは悪くないが……意味が良くない。完全にからかい目的だ。
しかし、以前は、僕もその渾名で呼んでいた。付き合いを始めてから、そう呼ぶのを止めたのは、彼女が持っているのは氷の『本質』の方であって、皆が考えている氷の女性の印象とは異なっていたからだ。
ちなみに、姫花ちゃんと付き合い始めてから、僕にも渾名がついていた。
最初は『騎士様』だったのだが、そんなの似合わないとか、ただの駄洒落にしてはたいそう過ぎるとか言われたあげく、最終的に……。
……『執事』に落ち着いたのだった。
─────
取り敢えず、僕は玄関の中には入れてもらうことが出来た。決して暖かいとは言えないが、風がないだけありがたい。
玄関とはいえ、初めて、彼女の家の中に入ったことになるのだが、その光景は僕の期待を裏切らなかった。
壁には金色の薔薇の花の模様がいくつも散らばっており、カーペットは我が家のものよりつやつやしている気がする。やっぱり質が違うのかな?
高級そうな壺やら、彫刻品やら、僕にはよくわからない芸術品がいくつもガラスケースの中に並んでいたり、今は明るいので灯っていないが、頭上には小さなシャンデリアなんかも吊り下げられている。きっとこれは玄関用とかで、リビングにはもっと立派なものがあるに違いない。
やっぱり、社長って凄いんだなぁ。本当に金持ちなんだなぁ。そう思った。
「しかし、随分と時間ぎりぎりでしたね。女性を待たせるのは、デートの礼儀としてはありえませんよ?」
準備を済ませた姫花ちゃんが、玄関に現れた。ふわふわしたショートブーツに足を通し、コンコンと爪先で床のタイルを叩く。
「そんなこといわれても……」
僕は、彼女のその言葉を受けて目を逸らす。人の苦労を知らないでよく言うもんだ。
この町の駅から彼女の家までの結構な距離を、全力で走ってきたのだ。
はっきり言って、時間に余裕をもって到着することなど、不可能だった。
むしろ、ぎりぎりで間にあったことが奇跡的ですらある。
言っておくけど、雪道だよ? 道路凍ってたよ? つるっつるだったよ? 何度か転んだよ?
褒められてもいいくらいの努力だと思う。
しかし、彼女に対するそんな願望など、粉々に打ち砕かれてしまうのがいつもの僕のパターンだ。
「えい」
不意に、そんな声とともに姫花ちゃんが僕の顔に何かを押し当てた。
否、突きぶつけてきた。鼻にクリーンヒット。僕は仰け反る。ひどい痛みが生じる。固いよ痛いよ何すんだよ。
鼻血が出ていないか確認しつつ、僕は姫花ちゃんの表情を窺った。
唐突に僕に暴力を振るった彼女は、晴れやかに微笑んでいた。両手で顔の横に、今さっき鈍器に使った『何か』を持ち上げている。
厚い型紙で形作られた箱で、赤と緑のクリスマスカラーのきらびやかなラッピングが施されていた。黄色のリボンも綺麗に巻かれていて、よりらしい見た目になっている。
ああ、これは、あれか。
「ふふ♪クリスマスプレゼントです♪」
「わぁ、ありがとう! でも、随分早くに渡すんだね」
まさか、朝から渡されるとは思っていなかったので、僕は驚いていた。
姫花ちゃんは後ろで手を組むと、上目遣いで僕を見つめてきた。頬がやや紅潮している。
「寒かったでしょうから、いますぐに身につけてもらおうかなと。開けてみて下さい」
言われた通りに、僕はリボンをほどいて箱を開き、中を覗いた。
「あ、帽子だね。暖かそうなニットだ」
僕は、心の底から喜びに喜んだ。まさか、ここまでもて遊ばれて、体も心も冷えきったところで、こんなに暖かいプレゼントを貰えるとは、思いもしなかったからだ。
ニットの帽子は、サンタクロースの帽子を被ったパンプキンのお化けが口を大きく開けている、可愛らしいデザインだった。
帽子を被ったお化けパンプキンを被るという、マトリョーシカ的なちょっと面白可笑しい見た目になるのが、彼女は気に入ったらしい。
「よく似合っていますよ♪」
と、上機嫌で微笑む姫花ちゃんに、僕は照れ臭くなって、目を逸らして痒くもないうなじを掻いた。非常にユーモラスな帽子だが、嫌いじゃない。
「暖かいよ。良いプレゼントを貰った」
「わたくしには? プレゼントは用意していますか?」
彼女の問いに対して、僕はそのまま照れ笑いを浮かべて言った。
「もちろん。でも、僕みたいな一般庶民のはした金で買えるようなものじゃあ、姫花ちゃんは満足しないと思ってさ」
それを聞いた姫花ちゃんは、怪訝そうな表情で僕を見つめた。口を尖らせて、言う。
「プレゼントは気持ちの問題ですよ? はした金しか持ってない一般庶民なら特に」
「……ですよで止めて欲しかったな」
やっぱり、自分と一般庶民は違うって考えてるんだなぁ。ちょっぴり悲しくなった。
「物がどれだけ安っぽくても、わたくしの心を満たしてくださるのなら、それで十分ですよ」
ああ。
この言葉を貰ったなら、もう心配はいらないな。
僕は人差し指を立てて、それを合図に声の調子を上げて言った。
「姫花ちゃんならそう言うと思った。だから、そういうプレゼントにしました」
物で満たしてあげられないのなら、気持ちで満たしてあげればいい。
なら……。
「いっそのこと、物のことは考えずに、心を溢れるくらい満たしてあげようかなって。最っ高のプレゼントを用意してるよ」
わぁっと、彼女がみるみる表情を輝かせていく。やや興奮混じりに、僕の顔に自らの顔を近づけてきた。
「それは、面白そうですね! 大いに期待しちゃっても、よろしいのでしょうか!」
「もちろん。任せて」
すると突然、彼女が駆け出し、玄関の大きなドアを開け放った。
そして、冷たい冬の風に綺麗な黒髪をなびかせながら、純白の光を背にこちらを振り向く。
「それじゃあ、行きましょう♪」
そう言う彼女の顔は、好奇心や希望に満ち溢れていて、とてもお嬢様とは思えないような麗らかな眩しさを放っていた。
僕は、思った。
彼女は、透明で眩しく、純粋な氷のように美しかった、と。