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理不尽な人生

「なぁレオンー。もうすぐ八時だぜ。一葉ちゃん()っかなー?」

「さぁな……」


 来るわけないだろう、と思いつつ俺は適当に相槌をうつ。来ようが来まいが、俺にとっては結局は暇つぶしだ。

 あの月宮一葉という女が、あんな紙切れ一枚でほいほいつられるような頭の軽い女なら適当に遊ばせてもらうつもりだが、とてもそんなふうには見えなかった。恐らく今回は空振りに終わるはずだ。


 じゃあなんで、あんな頭の悪い手紙を使って呼び出したのかと言えば、実は回数を重ねればあの程度の仕掛けでも、自分たちのテリトリーへ女を呼び出すことができるからだ。


 俺も人の事は言えないが、この学園は何かしら〝ワケアリ〟な人間たちが集まる場所だ。そのためか、付き合いは表面上のものばかりで、何か問題が起きても相談しあえるほどの仲にはならない。踏み込んでほしくないから、踏み込まない。一人一人の心の距離が果てしなく遠い。


 親にも相談などできない。元々、この学園に我が子を送り込んで厄介払いするような親だ。当てにする方がどうかしている。


 笑顔が張り付いた教師たちもそうだ。奴らはここが学園という体裁を保つためだけに存在している。俺たちがどれだけ騒いでも何も言わないくらいだ。生徒に何かを相談されても、取り合う事すらしないだろう。


 だから、自分の身に降りかかった火の粉は自分で払うか、縮こまって耐えるしかない。そして自力で解決しようとするならば、誰にも頼れない奴は自らの身体一つで立ち向かわなければならない。だからこんなくだらねぇ手紙一つでも、回数をこなせばいずれは誰にも邪魔されないこのヤリ場に呼び出せるって訳だ。


 まったく世知辛ぇーよなぁーとは思うけど、俺だって同じ立場だ。だったら別にいいじゃねぇか。楽しんだもの勝ちだ。ほいほい釣られて喰われる方が悪ぃーんだよ。


 それによ、人生なんていつどこで終わるか解ったもんじゃねぇんだ。どんなに真面目に生きてたって、終わる時には理不尽に終わるもんだ。俺はその事をよーく知っている。


 だからいいんだ。どうでも。

 人生なんて、所詮は死ぬまでの暇つぶしだ。


 読み込み過ぎて味のしねぇガムみたいになった漫画本を放り投げて、天井を見上げる。ヤニで黄色く変色した蛍光灯カバー越しの光に照らされた用具室は、どこか時間に取り残されたような気配があった。なんかよく解んねぇーけど、退廃的? っていうのか、こういうの。


 空気が淀んで、うっすらと靄がかかったようにみえる。誰かが動くたびに舞い上がった塵が薄汚れた蛍光灯の光に反射して、きらきらと輝いている。


 視線を落とせば積み上がった漫画本に散乱した缶チューハイの空き缶。用具室らしい物は古ぼけた運動マットくらいのものだ。しかしそれもベットの代わりに残しているだけで、それ以外は別の部屋に移させてもらった。そのせいでこの部屋はすっかり不精な独身男性のボロアパートといった感じだ。


 何もかもが淀んでいる。滞っている。行き場を失っている。

 ここはそういう場所だ。俺達にそっくりすぎて反吐が出る。


 けれども、他に行く場所なんてありゃしねぇ。ここで腐っているしかねぇ。

 これだけ好き勝手やっても何も言われないのは、やっぱりここが〝白藤学園〟だからだろう。他じゃこうはいかないはずだ。そして、この部屋で行われてきた様々な事も、自己責任という魔法の言葉で黙殺され、放置されてきた。非情にも野獣の牙に掛った子ウサギたちは、自主退学という形で何も言わずに去っていった。

 なんだよ、子ウサギって。キザ過ぎんだろう。


 不意に扉の向こうで、通路を靴底が擦る音が響いた。


 どこか眠たそうにしていた俺たち三人は顔を跳ね上げ、見えるはずもないのに壁の向こう側へ視線を向かわせる。

 先日持ち込んだ目覚まし時計を見遣る。時刻は夜の七時四十分。ほかの生徒はとっくに帰っているはずだ。見回りもここへは来ないし、教師に至っては近寄りもしない。


 あの女、まさか来たのか? そんな阿呆には見えなかったけどな。それとも、真面目さが過ぎて、交渉という短絡的な手段に出たのか。聞くわけねぇーだろそんなもん。

 ややあって、予想通りに扉が叩かれた。


「ったく、待たせんなよなぁ」


 愚痴りながらもどこか楽しそうに、ノブアキのやつが扉へ駆け寄る。


「よぅ、遅かっ……あ?」

「んだよ、変な声出して。どうした」


 素っ頓狂な声を上げるノブアキに、イズルが声をかける。


「いや……、誰も居なくてよ……」

「あぁ? なんだそりゃ」


 ノブアキの言葉にイズルが怪訝そうな声を上げる。無理もない。部室棟は階段が片側だけについた細いアパートの様な作りで、この準備室はその最奥だ。身を隠すようなスペースは無いし、走り去るような音も聞こえなかった。誰も居ない、なんて事があるはずがない。


 外の様子を確認しようと踏み出したノブアキの足もとで、不意に水を踏んだような音が鳴った。


「あ? なんだ水浸しじゃね……」


 愚痴りながら足もとを見ていたノブアキの動きが、ピタリと止まった。


「……うん? おいノブアキ、どうした。おい」


 様子のおかしいノブアキにイズルが声をかけるが、全く反応しない。やがて、まるでロボットのような不自然な動きで、のろのろとノブアキが歩き出した。


「おい、おいなんだよ! ふざけてんのか!? おいって!」


 出来の悪い操り人形のようになったノブアキの背中を、イズルが追いかける。

 呆気にとられて部屋に一人取り残された俺は、たっぷり三分ほど迷った。

一向に帰ってくる気配がない。俺は仕方なしに、舌打ちをしながら二人を追って部屋を出た。


 二人の姿は既に廊下にはなく、部室棟の階段を降り切ってどこかへと向かって歩いている。イズルが必死にノブアキに声をかけるが、まるで熱にうかされたかのようにまるで耳に入っていない様子だった。


「まさか、操られてんのか……?」


 そんな考えが脳裏を過る。普通なら笑われておしまいだが、俺はそういった事態をもたらす存在に心当たりがある。

 振り返り、用具室前の水たまりに目をやる。


 水、か……。


「たしか、貯水槽に誘い込んで落とす白い女っつー怪談話があったよな……」


 一人呟く。誰かに聞かれれば頭がおかしいと思われかねない発言だが、そういったものは本当に存在するのだと、俺は知っている。


 俺の人生を狂わせた、憎い化け物ども。

 しかしガキの頃に一度出会っただけで、その後は影も見かけなかった。こんな突然に出会う事が……。いや、ありうる。あの時だって突然だった。

 突然現れて、俺の全てを奪った。


 フェンスにしがみつき、身を乗り出すように周囲を見渡す。


「……っ!」


 あった。いや、居た。

 教員棟の影から、人の形をした白い靄のようなものがノブアキに向かって手招きをしている。それらに目や口といったはっきりしたものは存在しないが、間違いなくあいつらを視ている。


 心臓が冷たい手で掴まれたように縮み上がる。胃も急激に収縮し、内容物が食道を駆けあがろうとしている。膝からは力が抜け、腰が砕けそうになる。


 ……ビビってんのか。俺……。


 駄目だ。ビビってる場合じゃねぇ。なんか解らねぇけど、明らかにヤバいだろアレ。

 不意にガキの頃の忌まわしい記憶が蘇る。目の前で逆さ吊りにされた大勢の人間が、少しづつ刻まれていくあの光景が湧き上がる。


 口の中まで込み上げてきたものを抑えようとして、堪えきれずに吐き出した。

しかしかえってそのおかげで、少しは意識がハッキリしてきた。

 あの時は何の力もねぇ糞ガキだった。けど今は違ぇ。ノブアキは人間のクズだし、最低な野郎だけど、それでも俺のダチだ。ダチは見捨てねぇ。ぜってぇーに。


「ま、クズは俺も一緒だけどな……」


 反吐を吐くように言葉を吐き捨て、俺は二人の背中を追いかけた。

 しかしなぁ。人生に二度もこんなものに絡まれるなんて、どんな運の悪さだよ。




 二人にはすぐに追いついた。まごついているイズルに向かって声を投げつける。


「おいなにやってんだよ! ちゃんと止めろ!」

「レオン! 手伝ってくれ、こいつおかしいんだよ!」


 んなもん見りゃ解る。テンパりやがって。

 俺はまた舌打ちをひとつして、歩き続けるノブアキの肩を掴む。しかしその肩は小揺るぎもせずに前へ進み続けた。


「なっ! ちょ、おい!」


 なんて力だ。腰に腕を回してみるが、まるで止められる気配がない。しかも二人がかりだぞ、どうなってるんだ。


「くそっ! 止まれってんだよ馬鹿野郎!」


 俺は仕方なしに前へ出てノブアキの顔を思い切り殴りつけた。一発では止まらない。二発、三発と殴り続け、四発目を叩き込もうとしたところでノブアキの膝が折れた。


「……あ? 俺、あれ?」


 座り込んだノブアキがすっとぼけた声を出す。


「大丈夫かおい。俺が解るか」

「レ、オン? 俺、どうして外に居るんだ」

「んな事はどうでもいい。寮に帰るぞ、ここはなんかヤバい」


 言いながら、教員棟の影へ恐る恐る視線を這わせる。幸いにして白い靄は消えていたが、とても安心できるような気分じゃない。一刻も早くここを立ち去ろう。

 イズルと手分けをしてノブアキの肩を担いで歩き出す。しかし、その行く手に人影が立ちはだかった。


「お前ら、こんな時間に何をしてるんだ」


 顔に懐中電灯を向けられ、目を細める。眩んだ目が慣れてくると、その人影の正体はどうやら用務員のようだった。


「うるせぇ、関係ねぇだろ。どけよ」

「関係ないわけあるか! とっくに下校時間は過ぎてるんだぞ、ちょっとこっちに来い!」

「うるせぇって言ってんだろ! 用務員風情が――」

「いいから来い!」


 くそ、何だこいつ。人の話を聞きやしねぇ。教師ですら俺たちのやる事はスルーなのに、何なんだこいつは。この学園のルールを知らない新人か? 


 無視して立ち去る事もできたが、ノブアキは未だに腰が立たない状態だし、これ以上絡まれても面倒だと判断した俺達は、仕方なしにその用務員についていくことにした。寮に帰りたいのはやまやまだが、ノブアキがある程度回復するまでどこかで休めたかったのもある。


 しかし、こいつもこいつでこんな時間に何をしているんだ。

 俺が目の前の奴を用務員だと思ったのは、作業着に掃除用具というその出で立ちのせいだが、掃除ってのはこんな暗くなる前に終わらせるものだろう。


 漠然とした違和感を覚えながら、それでも言われるがままにその作業着姿の背中についていく。

 やがて妙な場所に行き着いた。って、ここは校舎の中庭じゃねぇか。


「おい用務員。一体どこに連れて行くつも――」


 俺はその言葉を言い切る事ができなかった。

 蝋燭の炎を風が吹き消すように、用務員の姿が突然掻き消えたからだ。


 あたりを静寂が包み込む。

 虫の声も無く、風の音もしない。自分の荒い呼吸と心音ばかりがやけに大きく耳に響く。


「は、はぁ? なんだよ。なんだよ今の」


 ややあって、イズルが震える声で絞り出すように呟く。そうだ。なんだよ今の。

 まるでB級ホラーのような展開だ。傍観者の立場なら鼻で笑うような事態だが、自分が当事者となるとまるで笑えない。声も出せない。


 誘い込まれた――。そう思った。

 ガタン、と窓ガラスの揺れる音で心臓が跳ね上がった。慌てて周囲を見渡すが、中庭には自分達三人以外には何も居ない。


 ――居ない、はずだ。居てほしくない。


 またもガタン、とガラスの揺れる音がした。ノブアキは状況が理解できていないのか、寝ぼけた様な顔であたりを見回すばかりだが……イズルは駄目だ。目を見開き、根の合わない歯を打ち鳴らしている。完全にこの空気に呑まれている。


「おい。イズル。……おいって」


 怯えきった表情のイズルに向かって、顎で中庭の出口を示す。ここから出ようという合図だ。一瞬の間の後、イズルが痙攣したように細かく何度も頷く。


 少しずつ、後ずさりをしながら出口を目指す。またガタリ、とガラスが鳴る。

 警戒心に水を差すその騒音に眉をしかめながら、しかし俺はある異常に気が付いた。


 ……風もないのに、どうしてガラスが揺れるんだ。


 その異常に気が付いた瞬間、まるでこちらの心を見透かしていたかのように窓ガラスが一斉にガタガタと揺れ始めた。

 まるで地震でも起きたかのようにガラスが揺れる。揺れる。揺れる。

何十枚もの窓ガラスが、もはや割れそうな程に激しく打ち鳴らされている。


 ガタガタガタガタ

 ガタガタガタガタガタガタ

 ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ


 ヤバい。

 ヤバいヤバいヤバい。


 何がなんだか解らないけど、とにかくヤバい。ここにいるのはまずい。


「おいイズル!」

「あ、あぁあ、あぁ!」


 正気を失いかけながらも、イズルはこちらの意図を察したようだった。困惑した表情を浮かべるノブアキの肩を支えたまま方向転換をし、出口へ向かおうとした。


 しかしその瞬間。

 突然、音が止んだ。


 出鼻をくじかれ、足が凍りつく。

 異様な静寂に、俺達は息を呑んであたりを見回す。その時


 バン! と全ての窓ガラスに白い手形が浮かび上がった。

 一度では収まらない。まるで闇の中から亡者が外へ出ようとするように、無数の白い手が何度も何度も窓ガラスを叩いている。


 頭を抱えたくなるほどの騒音の中、恐怖に捕らわれた身体は身じろぎもできず、なんとか呼吸をするので精一杯だった。


 しかし、異変はそれだけに留まらなかった。地の底から響くような呻き声と共に、何本もの白い腕が地面から生えた。


 ぼこり。ぼこり。ぼこり。と、少しずつこちらへ向かって来るようだった。

 もう、限界だった。


「うあぁぁあぁあ!」「何だよ何だよ何だよ!?」「うおぉあぁ! ざっけんなマジざっけんな!」


 恐怖が爆発した俺達は中庭から逃げ出そうと、無理やりに声をあげながら足のもたつくノブアキを引っ張ってがむしゃらに走り出した。



            ■



 ……ぷっ。

 くふっ、くふふふふ。


「あーっはっははははは!」


 屋上のフェンスを背に、縁のギリギリに腰かけて奴らを見下ろしていた私は、その後ろ姿が見えなくなるのを待ってお腹を抱えて大笑いした。


 あぁー面白かった。スッキリしたわー。あの慌てっぷり、ほんと最高。

 精霊を使ったドッキリかぁ。これ、映像作品にしたら商売にならないかしらね。

それにしても少しやりすぎたような気もするけれど、今まで奴らの犠牲になった女の子の事を考えれば、まぁ(ぬる)いくらいよね。


 カツン、という音に視線を上げると、フェンスに一羽のカラスが降り立っていた。黒真珠のような二つの瞳とは別に、その額にはまるで人間のような瞳が追加で一つ備えられている。


「精霊たちの監督、お疲れ様。タイミングばっちりだったわよ」


 親指を立てて三つ目のカラスの労をねぎらう。鋭い鳴き声が夜空に響いた。


 このカラスは人の言葉を話せないようだが、他の精霊から聞いた話によれば、このカラスは白藤学園が建てられる前、元々この場所にあった山の主をしていたそうだ。

 山が切り崩され、この土地に学園が作られてからはこれも自然の摂理と受け入れ、大空から生徒たちを見守る役目を自ら負ったらしい。

 それゆえ、立場の弱い女生徒を食い物にする奴らには何かしらの制裁を与えたいと、常々思っていたと言う事だった。


 そう、とっくに問題は起きていたのだ。この学園はそんなものですら飲み込んでしまうようだ。どうやら、あらゆる意味で掃き溜めであるらしい。


「じゃあこれ、約束の報酬ね」


 ポケットから小瓶を取り出し、その中から紅い飴玉を一つ取り出して投げてよこすと、三つ目のカラスは器用にそれを空中でキャッチした。そのまま丸呑みにし、満足そうにまた一つ鳴いて見せる。


 それを見届けた私は右手をすぼめ、その窪みに飴玉を注ぎ込む。溢れそうになったところで小瓶を置き、紅い飴玉を両手に乗せて空中へ放った。

 月明かりに煌めく無数の紅い飴玉は、ほの暗い校舎の中庭に咲く一輪の花火のような光景を作り出す。


 そのまま地表へ落ちていくかと思われた飴玉だが、そうはならなかった。すっと溶ける様に、闇の中へと沈んでいった。協力してくれた精霊たちが持ち去ったのだ。


 あの飴玉はもちろん普通の代物ではない。色は紅いがイチゴ味でもリンゴ味でも無い。しいていうなら、ワタシ味というところかな。

 あの紅さの正体は、私の血液だからだ。


 なぜそんなものが精霊たちへの報酬になるのかというと、ずばり私が憑物、しかも大精霊である〝古狼〟の力を持つ者であるからに他ならない。その強大な力を内包した血液は、精霊たちにとってこれ以上ない甘露であるらしい。


 飴玉の形を取っているのは、単純に持ち運びしやすいようにするためと、万が一他人に持ち物を見られた時にごまかしが効きやすいからだ。小瓶に自分の血液を入れて持ち歩くとかどんな変質者だって話よ。


 望みの報酬を受け取った精霊たちがざわめき、人気(ひとけ)のない夜の校舎に気配が満ちる。

 今回は利害が一致しているので報酬を渡す必要も本当は無いのだけど、まぁこれは私の気持ちという事で。


 一応断っておくが、この精霊たちは人を多少脅かしたりはするものの、危害をくわえるような者たちではない。様々な噂が立ってはいるが、どれも背びれ尾びれが付いただけの話だ。異世界だとか不幸が訪れるとか、どこから出てきた話なんだか。


「じゃあ満足したし、私もそろそろ帰ろうかしらねー」


 混乱に乗じてちゃっかり回収した定期券を手に、私は帰路につくべく歩き出した。



            ■



「はぁっ! はぁ、はぁ、はぁ――」


 命からがら学園から逃げ出した俺達は、まばらな街灯に照らされた道路に身を投げ出していた。

 どうせ車なんぞ通りゃしねぇ。今はそんな事より、呼吸を整えるほうが優先だ。


「な、なんだったんだよ、あれはぁ!」

「し、知らねぇよ! お、おぉ、俺だって解んねぇよ!」


 同じように身を投げ出して天を仰いでいたノブアキとイズルが言い合っている。


 しっかし、これからどうすっかな……。

 少し首を巡らせれば、呆れるほど高く長い学園の壁が聳え立っている。俺たちの寮はあの壁の内側だ。寮の部屋へ帰り着くには、また校舎の近くを通らなければならない。冗談じゃない、と思った。少なくとも今夜はもう勘弁願いたい。となれば――。


「とりあえずここに居ても仕方ねぇ。駅前の漫画喫茶にでも行って朝まで時間つぶさねぇか」

「で、でもよレオン」

「あ? なんだイズル。お前だって、少なくとも今日は学園に戻りたくはねぇだろ」

「いや、そうじゃなくてよ。その、財布……おいてきた……」


 ……あー、マジか。言われてみりゃ俺もこいつらも手ぶらだ。荷物は全部あの用具室に置いてきちまった。


「んだよちくしょう……。まぁいいや、とりあえず駅前まで行こう。一時間もありゃ着くだろう。んで適当にリーマンぶん殴って金借りりゃーいいんだよ」


 ま、返さねぇーけどな。いつものこった。


 それにしても困ったことになった。最悪の気分だ。

 今夜はどうするか、で話は済まない。あの学園には〝そういったもの〟が存在することを俺は知ってしまった。


 もう昨日までのように呑気になどしていられない。

 どれだけ意識しないようにと思っても水を踏む音がするたびに、窓ガラスが揺れるたびに、あらゆる場面であの中庭での光景が脳裏に蘇り、俺はそのたびに怯えてしまうだろう。ようやく過去の記憶に震える日が減って来たと思ったら、またこれだ。腹の立つ話だが、またしばらくは尾を引きそうだ。


 それにしても、田舎の夜ってのはどうしてもこうも暗いんだ。

まだお茶の間はゴールデンタイムにもなっていない。だというのに目の前に広がる、粘度すら感じさせる闇の塊はどうだ。


 ただでさえまばらな街灯は学園から遠ざかるほどにその数を減らし、眼前にはただ暗い穴のような空間が広がっている。くそ、ここを歩いて行かなきゃならないのか。


 腕を伸ばせば己の指先すら見えなくなりそうなほどに暗い。本当にこの道は人の世に続いているのか、などと言う馬鹿げた考えさえ浮かんできてしまう。


 闇に対する根源的な恐怖が胸に満ちる。しかし、後戻りするのも……。ちくしょう、今日はなんて酷い日なんだ。用具室の黄ばんだ蛍光灯の光を恋しく思う日が来るだなんて、夢にも思っていなかった。


 更に不快なのはこの臭いだ。汚水が更に腐ったような、身体が内側から腐食してゆくような臭いが辺りに満ちている。

 最近暖かい日が続いたからな。きっと水路に溜まった泥や水が腐っちまったんだろう。


 俺達三人はろくに会話も交わさず、無言のままに連れ立って歩く。


 道の行く手にやけに明るい一角がある。どうやら飲料の自販機のようだ。

 暗く沈んだ田舎道に、その明かりは目に眩しかった。まるでそこだけが世界から切り取られた別世界のようにすら感じられた。耳鳴りがするほどの静寂の中で、自販機の唸る音だけが周囲に満ちている。


 俺はどこかぼうっとして、その光を見つめていた。そのとき、不意に背後で小さな悲鳴が湧き上がった。なんだ、ノブアキの奴が(つまず)きでもしたか。


「んだよ、何やって――」


 振り返ったその先には、誰もいなかった。

 ノブアキはおろか、なぜかイズルの姿もない。


「はっ!? んだよ、どこに行ったんだ!? ふざけてんのか!?」


 そう言いながら、俺はその言葉には全く意味が無いという事も解っていた。


 どこにも行けるはずが、ない。


 この田舎道はどこまでも一本道で、脇道もない。

 光を見すぎて目が眩んだだけだ、とどこか祈るような気持ちで闇を睨むが、いくら待ってもそこに二人の姿が浮かび上がってくることはなかった。


 ざり、と背後で砂を踏む音が鳴った。


 俺は弾かれたように振り向き、そして目を見開いた。

 ついさっきまでそこにあったはずの光が、自販機が――無い。


 いや、違う。そうじゃない。

 何か大きな影が、ぬらりと立って視界を埋め尽くしていた。


 それは人のように見えた。あくまで形だけは。しかしそれは人間ではありえなかった。

 なぜなら、本来ならば頭部があるべき場所に――三本目の腕が生えていたからだ。


 ゆらり、と〝三本〟の腕が迫ってくるのを、俺はなぜか他人事のような気持ちで見ていた。


 こんなはずじゃなかった。差し迫った脅威に直面した時、俺はもっと行動できる人間のはずだ。しかし喉は引きつり、腕や足もまるで鉛になったかのように重い。

 四年前の、ただ怯えるばかりだったガキの頃とは違う。俺は強くなった。そう思っていた。だが、実際は何も変わってなどいなかったのか。


 理不尽な死を見せつけられ、人生に絶望し、世の中に拗ねて駄々をこねて。

 そうしているうちに、いずれ答えを見つけ出せると根拠も無く漠然と思っていた。いつか誰かが助けてくれると勝手に信じていた。いつかこの気持ちに折り合いをつけて、値の張る酒を傾けながら「若いころは俺も――」なんて苦笑いしながら語る日が来ると甘い考えを抱いていた。


 しかし、それももはや遠い。

 理不尽は、もう一度俺の前に現れた。


 二つの腕が俺の両腕をつかみ、完全に動きを封じられた。そして三本目の腕が俺の首をゆっくりと、しかし明らかな殺意をもって締め上げる。

 頚椎が軋む音が頭蓋に響く。酸素の足りない脳が痺れたように熱くなり、そして次第に冷めていく。視界は徐々に霞み、ついに身体と意識が切り離される。


 くそ。苦しいだろうが。なんだよこれ。いくらなんでも酷過ぎるだろう。これが最後かよ。



 俺の人生は一体何のためにあったんだ――。



            ■



 世を染め上げんばかりに咲き誇っていた桜もすっかり散り、僅かな桃色を残して若々しい緑が顔をだしている。根元の下草も日ごと背を伸ばし、色合いを増していた。


 柔らかな朝日の中、私はすっかり見慣れた通学路をのんびりと歩いていく。

初日に降りるバス停を間違えて以来、私はむしろそれが朝の散歩代わりに丁度良いのではないかと思うようになり、こうしてバス停一つ分を徒歩で通学するのがすっかり日課になっていた。元々散歩は好きな方だ。犬っぽいな、とは自分でも思うけど。


 パステルカラーの季節が過ぎ、輪郭のはっきりしたこの時期が私は一番好きだ。葉桜などは特に素晴らしいと思う。僅かに残った桃色と若葉の緑、そして幹の茶が相まって飾らない自然の美を桜木一本で全て表現しているように思えるのだ。中々他人には解ってもらえないのが寂しい所だが。


 やがて白藤学園の呆れるほど長い壁が見える頃、周囲の空気がいつもと違う事を感じた。

 いくつかの警察車両と、数台のワゴン車が停まって正門前を塞いでいる。そこへやってきた生徒の送迎車が道を開けろとクラクションを鳴らしていた。


 大抵の問題は自らでもみ消すこの白藤学園に警察とはね。もっとも無縁な組織だと思っていたけど。しかもあのワゴン車はどうやらマスコミのようだ。何かよほどの事でも起きたのだろうか。


 暫くしてたどり着いた正門前は、酷く混乱していた。

 俯いて足早に登校する生徒にマイクを向けるマスコミに、それを阻止しようとするお付きの運転手に学園の教師たち。中には学園の内部に無理やり侵入しようとする記者もおり、それを学園の警備員や制服警官たちが必死に押しとどめていた。


 にわかに殺気立った人ごみの中をするりと抜けて、正門内へと滑り込む。

 いやー、撮影用のカメラなんて生で見たのは初めてだ。かなり重たそうね、あれ。


 私は首を傾げつつ、教室へと向かう。まさか昨日の一件が問題になったわけではあるまい。何も壊してなどはいないから通報される事は無いはずだし、万が一あの光景を第三者に見られていたとしても、とても通報できるような内容ではないはずだ。


 校舎内は更に異様な雰囲気に包まれていた。


 窓から差し込む日差しはいつもより暖かいくらいなのに、空気は影が差したようにどんよりと沈んでいる。

 あちこちから囁きあうような細い声が聞こえ、中には何故かすすり泣いている者までいる。


 いよいよもってただ事じゃないな、と教室の扉を開いた私の目に見慣れぬものが飛び込んできた。

 窓際の一番後ろ、席順を無視して占領したあの三馬鹿下衆野郎たちの机の上にちょこんと花が置かれていた。しかもわざわざ花瓶に入れられている。

 へぇ。あいつらに花を愛でる趣味があるとは知らなかった。


「あ、あの月宮さん……」


 声のする方に視線を向けると、クラスメイトの女の子が居心地悪そうに佇んでいた。


「あぁ、おはよう。ねぇ、何があったのかしら。よほどの事みたいだけど」


 そう私が問いかけると、そのクラスメイトはちらりと例の花瓶を見遣り、うつむいた。

 ややあって、重たそうに口を開く。


「あのね、嘉手納(かでな)くんたちが……」


 嘉手納? あぁ、確かあの三馬鹿の一人が〝嘉手納麗音〟なんて今時な名前だったかしらね。あいつら、あの後に懲りずにまた何か問題でも起こしたのかな。


 呑気にそんな事を考えながら続きを待っていた私に向けられた言葉は、はるかに予想を超えるものだった。



「三人とも、今朝、変死体で発見されたって……」


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