影の刃
走り続けて十数分。目の前に永遠に続くのでは、と思えるほど地平線の彼方まで続く高い壁が現れていた。遠くに何台もの高級車が路肩に駐車され、そこから学園の制服に身を包んだ者たちがその壁の中へ消えていく。
あそこが正門かしらとあたりを付け、足をゆるめて呼吸と髪を整えた。思っていたよりも早くたどり着いた。道がまっすぐで、かつ信号などが一つも無かったのが幸いしたのだろうか。
私は遅刻の危機に瀕していた事など、結果が悪い時の朝の占いと同じように無かった事にし、涼しい顔で高くそびえる正門の前へと歩を進めた。
随分な威圧感だ。五メートルはあるだろうか。
開け放たれた正門は、精緻に作り上げられた白いアラベスク模様の透かし門で、その巨大さも相まって荘厳な雰囲気を漂わせていた。まるで神の御座へと続いているかのようだ。
私は少々気圧されてしまったのか、抵抗を感じて数瞬立ち止まってしまった。しかし他の生徒たちが何食わぬ顔で正門を通り抜けるのを見て、覚悟を決めて境界の向こう側へと踏み出した。
正門の向こう側には赤いレンガが敷き詰められていた。道の両側には様々な季節の花々が咲き誇り、朝日に煌めいている。その輝きは、光を透かした聖堂のステンドグラスを思わせた。
立ち並ぶ木々も良く手入れがなされていて、よほど腕の良い多数の庭師が日々その維持に励んでいる事が伺われた。
所々にそびえ立つ照明の支柱にすら精巧な細工が施され、そのありようはまるで宮殿の前庭を彷彿とさせる。
もちろん、そんな物の実物をお目にかかったことは無いが。
どこかのアミューズメントパークのように作り物めいたレンガ道をしばらく進んでいくと、やがて大きな建造物が見えてきた。
「ここ、本当に日本よね……」
口元を引きつらせながら呻く。校舎の昇降口と思われるその建造物は柱の一つ一つにまで緻密に彫刻を施され、一見すると西洋のオペラ劇場のようだった。
私は頭痛を覚え始めていた。何と言うか、もう帰りたい。
学園の入り口だけでこの有様だ。ここまで来ると流石にやり過ぎではなかろうか。何もかも不自然なほどに装飾過多だ。それとも富める者にはこれくらいは当たり前の事で、この程度で気圧されている私は貧乏人根性のしみついた小市民という事だろうか。
なんにせよ、この学園に万事まともな感性を期待してはいけないのだろう。馴染めるかは正直自信を持てないが、こちらが合わせて慣れていくしかない。他にゆく当てもないのだし。
次々と学生たちが楽しそうに談笑をしながら、あるいは目覚めきらない頭を重そうに抱えながらオペラ劇場……ではなくて、昇降口へと吸い込まれていく。
しかし私はその流れに乗らず、右に折れる。
事前に渡されていた見取り図を頼りに学生課の受付へと向かう。
少し道を外れただけで、煌びやかな空間は思い出したかのように田舎町の一角へと立ち返った。
過度な装飾が施されているのは人目に触れる所ばかりで、ほんの少し裏に回れば教育機関らしい無機質で真っ平らなコンクリート壁がそびえ立つばかりだ。その急激な温度差もどこかアミューズメントパークのような雰囲気を漂わせていた。みんな大好きネズミの王国も、少し裏に入れば「あぁ、やっぱりここも商業施設なんだな」と思わせる光景が広がっているものだ。
人気のない歩道を歩いていくと、やがて建物の陰に入った。
校舎と事務棟の境目、両脇に高いコンクリートの壁がそびえ立つ細い道だ。日光は遮られ、道の七割以上が日陰になっている。私はそれを陰気だと思うどころか、ほっとしてしまった。煌びやかなのも決して嫌いではないが、あまり過剰でも気おくれしてしまう。どちらかと言えば私は静かな空間のほうが好みなのだ。
だがひと時の安息は長くは続かなかった。ある異常に気が付いたからだ。
あまりに静か過ぎる。
つい先ほどまでやかましいほどに歌っていた鳥たちの声がぱたりとやんでいた。それにいくら人通りの無い道を歩いているとはいえ、今は登校時間中。人の気配が一切しないというのは流石におかしい。
耳鳴りがするほどの静寂のなか、視界の端で不意に影が〝走った〟。
私は足を止め、気を巡らす。
周囲を取り囲む日陰の中に、無数の気配が蠢いている。
もちろん昆虫の類などではない。いやまぁ、私としてはそちらの方が恐ろしいのだが、それは置いておいて――〝精霊〟だ。
だが肌に突き刺さるような敵意と害意を感じる。この気配は――
「禍津神……」
どうしてこんなところで。なぜ狙われる?
気が付かぬうちに、禍津神のテリトリーに入ってしまったか?
だがそれは考えにくい。ここは学園の敷地内で、人の領域。むしろ部外者は禍津神のほうだろう。そもそも禍津神のテリトリーなどは、山奥の廃屋や深い洞窟などの到底人間の寄りつかぬ場所に構えられているものだ。
だとすればこの禍津神が何者かの手によって操られているという可能性はどうだ。契約か召喚によるものかは不明だが、そちらの方がいくらかは納得できる理由ではある。
だとすれば、先ほど無遠慮な視線を寄越した黒いセダンの人物か。
いや……。流石に早計だろうか。もし本当に私をどうにかしようというなら、これでは温すぎる。
だとすれば、単純に腹を空かせて迷い出て来たか。
なんにせよ、どうやらあちらは完全にやる気のようだ。無益な戦闘は避けるに越したことはないが、背中を見せるのはかえって危険だと判断した。
「日常生活圏内での禍津神討伐、か。依頼人がいれば二百万は取れる仕事だけど……」
もったいないなぁ。まぁ身を守るためだ、我慢しよう。
突然、影の一部が弾かれたように千切れて飛び掛かってきた。眉間へと迫るそれを人差し指と中指で挟むようにして受け止める。
それは小さな黒い刃だった。阻まれた刃は粘土のように形を変え、指の間をするりと抜けて影の中へ帰っていく。
笑い声が湧きあがる。男女とも、子供とも大人ともつかぬ、あるいはそれらが混ざり合ったような吐き気を覚える笑い声だった。
蔑み、あるいは嘲笑するような神経を逆撫でする音のうねり。それは周囲の影の中から沸き起こっていた。獲物を前に歓喜する禍津神の声だ。
「ああもう、煩いわね」
実に耳障りだ。そう時間もないし、早い所済ませてしまおう。
鞄を細い日向に放り投げ、両手をだらりと下げる。
私は〝古狼〟の力の一部を全身に巡らせる。
爪が僅かに、しかし研ぎ澄まされたナイフのように鋭く伸びた。この程度で十分だ。
背後の影が音もなく鋭く伸び、細い体を貫こうと迫ってくる。振り向きざまに棘のようなそれを力任せに爪で切り裂いた。甲高い悲鳴と共に影は崩れ去り、気配が一つ掻き消える。
それを合図とばかりに、影の中から黒い刃や細い杭のような棘が私に向けて殺到した。
次々に迫る影を、踊るように避けながらへし折り、叩き落とし、あるいは爪で切り裂く。脳髄を痺れさせるような甲高い断末魔を上げながら、次々に影が散ってゆく。
朝の運動にはちょうど良いが、そろそろ飽きてきた。
こういった集団で襲撃するタイプは、どこかに〝核〟となる存在が居るはずだ。それを倒せば蜘蛛の子を散らすようにこの禍津神は去ってゆくだろう。
力の一部を瞳に移すと、さっと瞳が紅く染まった。影の奥底を見透かす様に目を細め、周囲を見回す。
――居た。前方約五メートル、高さ約三メートルの地点の壁に、微かに異質な気配が張り付いている。
赤外線カメラの映像のように、霊力高いその一点だけが白く浮かび上がって見える。
爪が届かない。そう判断した私は唇の端を犬歯で噛み切ると、口元に紅く細い筋が走った。
紅い血液の煌めきに、禍津神が興奮してガラスを引っ掻いたような声を上げる。
「そんなに私の血が欲しいの? じゃ、くれてやっても良いわよ」
おもむろに髪を一本だけ引き抜き、自らの血で湿らせた唇の上を滑らせた。見る間に私の黒曜石のように美しい髪は〝白く〟染まり、まるで針のように硬く、鋭くなる。その白く血に濡れた髪を指に挟み、禍津神の〝核〟へと向かって思い切り投げつけた。
一瞬の間の後、耳障りな悲鳴を上げながら核の気配が消え去ると、それを目の当たりにした影の禍津神たちは、予想通りに四散して逃げ去った。
「……ま、こんなものかしらね」
周囲から気配が消え去った事を確認し、口元をハンカチで拭った。爪と瞳を戻し、鞄を取ろうと日向へと踏み出す。
「うん?」
ふと見上げた日向側の壁に、巨大な沁みの様にぽっかりと影が張り付いていた。
――こちらを、見ている……?
しかしなんというか、妙に〝遠い〟印象だ。まるで液晶画面に映し出された映像を見ているかのような……。どこか〝こちらの世界には存在していない〟といった感じだ。
あれは精霊? 禍津神? いや、どちらでもない……と思う。あまりに気配が薄い。まるで水面に映る月のように現実感が無い。
私は我に返って身構えた。あれが何かは解らないが、少なくとも呆けて眺めている場合ではない。
しかし、その心配は杞憂に終わった。不意に沁みのような影がふっと消え去ったのだ。
私は念のためにしばらく警戒していたが、それ以上は何も異常な事は起こらなかった。
息をつき、肩から力を抜くために首を回す。
「なんだかなぁ……」
初日の朝からこの有様だ。これではこの先も思いやられる。まぁ、退屈なよりはよほどマシだと思うけれども。
鞄を手に取り、時間を確認する。
ギリギリだが、何とか遅刻は免れそうだ。初日から時間に遅れてしまってはルーズな奴との印象を持たれかねない。急ごう。
私は小さく溜息をつき、早足で歩きだした。