明日の景色
白い壁、白い天井。白いリノリウムの床に、白いカーテン。目の前にあるのは白いベット。そこに眠るのは白銀の髪に白い肌を持つ少女。その瞳が開き、鮮やかに透き通った緑の色彩が加えられるのを、私は四日ほど見ていない。
色彩を失った空間を、広い窓から差し込む光が陰と陽に塗り分ける。その境目に、粗末なパイプ椅子に腰かけて文庫本のページを捲る一人の美少女。そう、私だ。月宮一葉だ。
あとがきの端まで読み終わり、そっと閉じる。花瓶の隣に積まれた文庫本たちに、新たな仲間を加えてやった。これで八冊目だ。
物語の終わりはいつも寂しい。心躍る冒険は終わりを告げ、後に残るのは少しの心地よい余韻と、大きな喪失感。その穴を埋める為に、私は新たな物語を求めて本を手に取るのだろう。
さぁ、次はどんな物語が良いだろうか。たまにはベタベタな恋愛もの……なんてのも良いかもしれない。私の理解が及ぶかは難しい所だけど。
細く深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。緩やかに漂う消毒液の香りにもだいぶ慣れた。
「良い所、無かったなぁ……」
もう何度目か解らないその呟きを零す。
今しがた読み終わった本の感想ではない。土蜘蛛にまつわる一連の事件。それらに対する、私の働きぶりの客観的な評価だ。
アレだけ意気込んでおいて、結局の所は土蜘蛛を倒せていないし、鍵森にも勝てていない。街も救っていないし、何も結果を残していない。どこかの甘ちゃんと違って全ての責任は自分にあるだなんて事は思わないが、流石にこれでは立つ瀬がない。
「あんたのせいだからね……。良い所を持って行っちゃって……」
白く柔らかい頬を指でつつく。健康的な寝息を立てるその可愛らしい顔がぐに、と歪む。
あ、何これ。ちょっと楽しいかも。
柔らかくてすべすべで、サラサラでフワフワだ。何と言う心地よさだろう。なんだか、胸がポワンと暖かくなるような感覚だ。これは癖になりそう。
ぐにぐに、ふにふに。ぐいぐ――
「んっ――。……んぅ?」
十夜雪咲が細く呻き、ゆっくりと瞳を開く。私は何食わぬ顔で、頬をつついていた指を腰の後ろに隠した。
十夜雪咲がゆっくりと上体を起し、辺りを見回す。眼つきは鋭く、何かを警戒しているような仕草だった。
そうか。そっちが起きたか。
「おはよう、十夜雪咲。……いや、土蜘蛛のほうかしらね」
緑の瞳が鋭く私を射抜いた。口元をにぃ、と歪め「おはよう。狼娘」と声を零す。
「……十夜雪咲は?」
くつくつと白い喉が揺れる。
「随分とお寝坊な小娘よ。まだぐっすりと眠っておるわ」
細い腕を胸に当て、どこか優しさを感じさせる口調で言う。あの〝大禍津神土蜘蛛〟の口から発せられたとは到底思えないほどの穏やかさであった。
「あの時、何が起きたのかはおおよそ把握しているわ。十夜雪咲の魂にあんた……土蜘蛛の魂が融合。そして土蜘蛛の魂から分離、独立した五坂敬祐の魂がそれらを支えている。間違いないわね?」
「相違ない。流石は魂を嗅ぎ分けられる古狼の鼻といった所かの」
涼やかな銀髪を揺らしながら、土蜘蛛が静かに笑う。
「聞かせてほしい。なぜ十夜雪咲の魂を喰らってしまわない? いくらあんたが弱っているとはいえ、簡単な事のはずよ。だと言うのにあんたはそうしないばかりか、自身の中に内包する荒ぶる魂達を抑えて、魂の融合に協力しているようにすら見える。何が狙いなの?」
「あぁ、そんな事を考えておったのか。だからこんなにも厳重な結界を敷いているのだな」
土蜘蛛が首を巡らせて周囲を見渡す。
「これは二扇の結界陣か。一体、どれだけ重ねているのだ? 現当主の力量は相当な――」
「質問に答えなさい」
ぬらりと話を逸らそうとする土蜘蛛を、苛立ちを隠さずに睨みつける。
「そう噛みつくでないわ、狼娘よ。企みなぞ一つもありゃせんわ。ただ……そうじゃなぁ。わらわの役目も、そろそろ仕舞にして良いのかと思うてな」
あまりにも意外なその言葉に、一瞬呆気にとられた。しかし相手が相手だ、気を抜けない。
居住まいを正し、軽く顎を突きだして続きを促す。
「肉体を失って数百年。わらわはこの国の趨勢を見守ってきた。迷走した時もあったが、この国は豊かになった。法が整備され、夜の闇に怯える必要はもはや無い。圧制に苦しんだり、集落の古い因習に殺される事も少なくなった」
今の日本がどれほど平和的であるのか、現代に生きる私には正直な所ピンとこない。土蜘蛛の生きていた刀と弓の時代には、今よりも圧倒的に命が軽んじられており、常に理不尽に対しての警戒を怠れない世の中であったと伝え聞く程度だ。
「理不尽な不幸は未だ世に蔓延しており、人の恨みや憎しみは消える事が無い。しかし、わらわの知る時代の物とは、まるでその性質が変わっておった」
「性質……ですって?」
土蜘蛛が胸に当てた手に力を込め、小さく頷く。
「この小娘の中に入った時、今回の件でわらわが喰ろうた者たちの魂も一緒に入り込んだ。そして、わらわはその者達を解き放った。きっとこの小娘を恨んでいるだろう、憎んでいるだろう。このか細い首など、すぐにへし折ってしまうだろう。そう思っていた」
「けれど、そうはならなかった?」
土蜘蛛はどこか遠い目で「そうじゃ」と呟いた。
「初めは予想通りに荒ぶっておった。しかし小娘の魂の記憶を覗き見ると徐々に態度を変えていった。恨み言の一つくらいは零せど、同じ苦しみを与えてやる、などと考える者は一人もおらなくなった。それどころか、貶められ、利用され、大切な者を失い、それでも責任を負おうとするこの小娘に、同情的ですらあったのだ」
小さく息をつき、薄く微笑む。その土蜘蛛の姿は、どこか憑物が落ちたかのようだった。
「わらわは驚いた。叫びだしそうな程であった。これほど理性的な憎しみがあろうか。そして悟ったのだ。もう、わらわの出る幕は無い。荒れ狂う事で世の理不尽さを訴え、虐げられし者共の魂を救済する、もうそんな時代ではないのだ。人の世は、人の手に委ねられるべきであるのだ」
人々の果たせぬ復讐、晴れぬ恨み、募る憎しみ。それらを取りまとめ、世に対して如何と問う。それが土蜘蛛と言う名の大禍津神、その役目であった。
確かに、そのような存在は必要だったのかも知れない。誰もがただ生きる事に必死だった弱肉強食の時代。虐げられし力なき者達の行き場のない嘆きを、聞く者も伝える者も居はしなかった。
しかし現代は違う。もちろん完璧とは言い難い。未だ理不尽も少なくない。だがそれでも、人はそれを乗り越える術を知っている。土蜘蛛という概念的存在を世が必要とするほど、理性を持たぬ時代ではもはやないのだ。
「さて、わらわがこの小娘に協力する理由、これで満足して貰えたかのう?」
私は頷く。土蜘蛛の言葉に嘘も含みもありはしない。信用に足るだけの誠実さがあった。
「それは重畳。そろそろ小娘が目を覚ますようだ。では……またな、狼娘」
「月宮一葉よ。名前くらい憶えてよね」
「それはすまぬのぅ。狼娘」
肩を竦め、大精霊と大禍津神が苦笑いを交わしあう。
ふいに土蜘蛛がそっと瞳を閉じる。数瞬の後、その瞳が驚いたように大きく開かれた。
肩が上がるほど頭を跳ね上げ、忙しなく周囲を見渡す。まるで小動物の様なその仕草。今度は間違いなさそうだ。
「寝起きは悪くなさそうね。十夜雪咲」
「月宮……さん」
微笑みながら言葉を掛ける。対する十夜雪咲は目を伏せ、唇を引き結ぶ。何を考えているのはすぐに察しがついた。
「覚悟はできているみたいね。寝起きの所悪いけれど、早速説教よ」
自分からでは言い出しにくいだろう。こちらから話を切り出してやるのが情というものだ。
「数々の突拍子の無い無茶にも、色々と言いたいことはあるけれど……。何よりも、失敗した時の介錯を私に押し付けるって、ちょっと酷いんじゃない?」
「そ、それは、その……。ごめんなさい」
十夜雪咲が申し訳なさそうに身を小さくする。
「まったく。友達殺しなんて、札束を月まで積まないと話も聞かないわよ?」
ピクリと肩を震わせ、十夜雪咲が何かを期待する子犬の様におずおずと上目使いでこちらの様子を伺う。私は何となく気恥ずかしくなって視線を背けてしまった。何の含みも無くこんな仕草をしてくるのだから、相当に性質が悪い。
くすり、とどちらかの口から微かな笑いが零れ落ちた。それを皮切りに、密やかな笑い声が真っ白な病室を満たしていく。
「そうだ。五坂の葬儀、終わったわよ。母親から伝言を預かってる」
十夜雪咲の笑みが凍りつき、鋭く息を呑む。唇を微かに振るわせながら拳を強く握りしめて、裁きを待つ罪人のように言葉の続きを待っていた。
「ただ一言だけ。〝ありがとう〟と」
少し目を見開き、困惑したように俯く。やがて小さな嗚咽を鳴らしながら、涙の滴を零し始めた。白いシーツに染みが広がっていく。
十夜雪咲は思い至ったのだろう。〝ありがとう〟と言う言葉に込められた、大切な一人息子を失った母親の万感の思いに。
それは哀しみと嘆きと、少しの憎しみ。そしてそれ以上の感謝であり、愛情であり、赦しであった。
「私……。私、敬祐に沢山助けてもらって、感謝してもしきれないくらいなのに、それなのに。死なせてしまって……。でも今も助けてくれてて。それなのに。それなのにどうして」
こほん、と一つ咳払いをして、沈んで行ってしまいそうだった十夜雪咲の意識を引っ張り上げる。
「そんなあんただから、なのでしょう。早く元気になって、お線香の一本もあげに行かないとね。ま、肝心の五坂はそこに居るんでしょうけど」
十夜雪咲の豊満な胸に指を向ける。意識せずぶっきらぼうな口調になってしまったのはなぜだろう。
「……はい」
涙で瞳を潤ませながら、十夜雪咲が華やかに微笑んだ。まるで本物の妖精のようだ。
私もこんなふうに笑えたら……。ってあれ? 最近は割と、笑えているような……。
「月宮さん」
不意に現れた思索の波に足を取られている私に、十夜雪咲が声をかける。妙に声が近い。
「うん? っ……んぐ!?」
何が起きているのか、いや、何をされているのか、すぐには理解できなかった。私の瞳と十夜雪咲の閉じられた瞼が触れそうな程に近い。それにこの感触……。
十夜雪咲の唇が、私の唇と重なり合っていた。
……。えっ? えぇと、これってキスな訳で。という事はつまり。あー、うーん。
甘い香りを残して、十夜雪咲の唇がそっと離れる。耳元に心臓があるかのように、鼓動が激しく響いていた。
あまりにも突然の出来事に硬直する私に、十夜雪咲がふわりと笑顔を見せる。
「私、自分の感情には素直であろうって決めたんです。そう思えるようになったのは、きっと土蜘蛛さんのおかげかも知れないですね」
「あ、えーと。あの……。――えぇ!?」
感情に素直になってキスって。それってつまり……、そっちの方って事ですか!?
あぁもう、顔が熱くて仕方がない。えぇと、私は一体どうすれば良いんだ。って言うか何だこれ。
「あ、あの、えと。私――」
「これはまた、随分と良い物を拝見させて頂きました」
相手を小馬鹿にするような、軽薄な声が響く。眉を潜めて振り向くと、いつ間にか開いていた部屋の入り口に寄りかかって、鍵森四凪が薄ら笑いを浮かべていた。
その顔は半分が包帯に隠れており、露出した部分も殆どが赤く爛れていた。重度の火傷だ。左腕は折れているのか、肩から三角巾で吊るされている。そんな状態にあってもきっちりスーツと帽子を身に着けているのだから、大したものと言える。
「貴方のお見舞いはお受け致しません。どうぞお引き取りください」
目にきっ、と力を込め、十夜雪咲が気丈に言葉を放つ。
「それは残念。まぁ私もご覧の有様でしてね、すぐにお暇させていただきますよ。それにしても……、本当に土蜘蛛の魂と融合しているのですね」
鍵森が興味深そうに、そして怒りと嫌悪感を隠さずに十夜雪咲を睨みつける。
「残念だったわね、鍵森。土蜘蛛と言う名の〝禍津神〟はもはや存在しない。あんたの計画は全てご破算よ」
鍵森は泥を混ぜる様な笑い声を上げる。
「ご破算? とんでもない。人間と精霊の完全なる融合、その実例を目の当たりにできたのです。十分な収穫と言えるでしょう。それと、雪咲さん」
不意に名を呼ばれ、十夜雪咲が身を固くする。
「私は土蜘蛛を諦めない。その力、その魂、必ず手中に収めて見せます。たとえ貴方の魂が道連れになろうも――」
私が思わず腰を浮かしかけた所で、鍵森の言葉が無理やり中断させられる。ぼす、という間抜けな音と共に、鍵森ご自慢の帽子が背後からチョップで潰された。
「いい大人が、年端もいかぬ女子に脅しを掛けるんじゃない。別件で引っ張るぞ」
「……怪我人の帽子を潰すなんて、酷いじゃないですか。二扇白烙警視」
鍵森の背後から、片眉を上げた二扇警視が顔をだす。
「聴取は日を改めてやる。さっさと帰って少しでも火傷を癒すが良い」
「そうさせて頂きますよ」
不機嫌そうに口端を歪め、鍵森が背を向ける。そこへ二扇警視が「ああ、ちょっと待て」と声をかける。
訝しげな表情で振り向く鍵森の手を取り、そっと顔を近づけた。
「お前、良い匂いがするな」
「――っ!?!?」
全身の毛が逆立ったかのように身を震わせ、「し、失礼する!」と逃げるように鍵森が去っていく。その背中を見送って、二扇警視は満足そうに微笑んだ。
「ふっ。意外と可愛い奴かもしれんな」
「死ね。今死ね。ここで死ね」
なにドヤ顔してやがりますかこの腐れ警視は。私に周りはアブノーマルの見本市か。ストライクゾーン銀河級か。
「ま、とりあえずそれは置いておいてさ。あいつ、逮捕とかできないの?」
「今はまだ証拠固めの段階だ。地下の魔法陣に使われた遺体の身元確認も進んでいないしな」
学園での一件の跡、特災の主導で街の地下に広がる防空壕の徹底的な調査が行われた。その結果、地下魔法陣に使用されたと思われる比較的新しい遺体が多数発見されるに至った。
恐らく、鍵森や虎洞会が葬儀屋と言う立場を利用して集めた物だろう。一人分の遺骨を、二人ないし三人分として使用し、余った遺体に処理を施して呪物として利用したのだ。当然遺族はあまりに少ない遺骨を疑問に思うだろうが、『骨が高温に耐えられずに砕けてしまった』と言えば深く疑うものは居ない。元々、ここが骨の脆くなった高齢者の多い土地である事も、疑われなかった理由の一つだろう。
「とはいえ、また何をしでかすか解ったものではないからな。監視を付ける。それと放置できないのは君も一緒だ、十夜雪咲」
水を向けられた銀髪の妖精が小さく頷く。
「土蜘蛛の件もあるしな。協力的であるようだが、何が起こるか予想がつかん。他から横やりが入る可能性もある。有事の際に対処できるほどの手練れを付けたいが、そう居る物でもない。さて、どうしたものか……」
二扇警視が腕を組んで首を捻る。と、そこで私の仕事用携帯電話が電子音を発した。
知らない番号だ。しかし、発信者に心当たりはある。
「ごめん。ちょっと外に出るわね」
そう一言残して、私は病室を抜け出した。
春の気配はもはや去り、人々は衣替えを終えて久しい。大地に根差す草花も日増しに色味を強くし、その陰で小さな地精霊、小鬼が落ちた葉を振り回しあって遊んでいる。きっと普通の人間には木の葉が風に舞っているように見えるのだろう。
日を追うごとに強くなる日差しを受けながら、病院の中庭でベンチに座る。特に今日は太陽が元気だ。世界は輝いて、白く霞んでいる。今年の梅雨はきっと短いだろう。
仄かに立ち昇る陽炎の向こうから、まさにオールドグレーと言った風貌の身なりの良い老年の男性が一人やってきて、私の隣に静かに腰かけた。
「直接お会いするのは初めてございますね。十夜家当主、十夜光雲と申します」
言いながら帽子を脱ぎ、膝の上に置く。視線は真っ直ぐ前を向いたままに。
「まずはご挨拶を。此度は突然の御呼びたてにも関わらず、お越しいただきまして――」
私の言葉を遮って、十夜光雲が笑う。長年の皺が刻まれた様な、穏やかで深い笑い声だった。
「細かい挨拶は無しにしましょう。貴方に呼ばれるまでもなく、私はもっと早くここに来なければならなかった。孫娘に……雪咲に、会いに」
そう。その通りだ。本家が十夜雪咲を見放さず、鍵森から脅しを掛けられた時点で正しく対処をしていれば、ここまでの事にはならなかったはずなのだ。
「言い訳をするわけではありませんが、私が事態を把握したのはつい先日です。全てを知った時には、既に何もかもが手遅れで御座いました」
十夜光雲が静かに語る。
十夜家は一枚岩ではなく、必ずしも全ての問題に当主である十夜光雲が当たる訳ではない。鍵森の脅しを撥ね退け、私をこの地に送り込んだ者が誰なのかは解らない。しかしそれでも、事がここまでに至った責任の一端が十夜光雲にもあるのは間違いない。
「今回の件うんぬんと言う問題ではありません。このような片田舎に金と家だけを与えて子供を押し込んだ。その異常がそもそもの事の発端です。なぜ――。なぜ、もっと」
重く、苦い声だった。それが自分の中から発せられたのだとは信じられないほどに。だからだろうか。〝なぜ、もっと愛してやれなかったのか〟という、たった一つの問いですら、満足に口にする事ができなかった。
十夜光雲は白髪を手のひらでゆっくりと撫でつけ、口を開く。
「大きすぎる力とは、呪いです」
「……呪い」
枯れ木のような首を前に傾けて、十夜光雲が頷く。
「確かに、我々は衣食住に不便することはありません。しかし、それ以外の全てが不自由だ。私の息子が……、あの娘の父親が愛した人が偶然に外国の女性であった。そして雪咲にその血が色濃く受け継がれた。ただ、それだけの事なのです。ですが、たったそれだけの事ですら、十夜家という力の前では不純物であり、矛盾であり、許されない事なのです。貴方には気狂いの妄言に聞こえるのでしょう。しかし、それこそが我々に課せられた呪いなのです」
十夜光雲が一言発するごとに、皺が一つずつ刻まれていくようだった。
「我々の周りには、その力を少しでも削がんとする敵が常におります。雪咲の存在などは格好の獲物でしょう。大切だから。守りたいから。だから、遠ざけた。事実、あの子は日々吹き荒れる権力争いの嵐に巻き込まれずに済んだ。これであの娘の幸せは守られる。そう、考えておりました」
権力。財力。腕力。知力。統率力。競争力。闘争力。
力とは呪いだ。この世の遍く生物が、力に翻弄されている。
十夜光雲の言っている事は、多分正しい。家族と共に暮らす事が、十夜雪咲の幸せに繋がる事だとは考えにくい。
でも。それでも。
「確かに、貴方はあの娘の……雪咲の幸せを願ったのでしょう。でも、貴方はあの子自身を視てはいなかった。雪咲の強さに期待して、放置していただけです。その結果として引き起こされた悲劇に対する貴方の答えが……っ」
ぎり、と奥歯が軋んだ。悔しさが、悲しみが、激情となって噴き出した。
「勘当って、雪咲を勘当するってどういう事ですか! 遠ざけて守る? ふざけないで! 捨て子当然に放置して、問題を起したら勘当って、縁を切るって、どういう事よ!」
様々な力に翻弄され、大人の都合で勝手に捨てられる。
はらわたが煮えくり返るようだった。悔しくて悲しくて気が狂ってしまいそうだった。いっそ狂えてしまえれば、どれだけ楽だろうと思えるほどに。
それほどまでに、二人の姿は重なっていた。
出会った時から感じていた。この娘と私は似たような存在なのだと。
私の悲劇をなぞるような事にならなければ良いと思っていた。そうなる可能性から目を背け続けていた。だが、悲劇は再生されてしまった。それもほぼ完璧な形で。私にはそれが悔しくてたまらない。
「外人の血、それだけならまだ守りようもあります。しかし十夜家を禍津神、しかもあの土蜘蛛の憑物筋にするわけにはいかず、またそう思われるだけでも問題なのです。あの娘自身が苦しめられるのもそうですが、十夜財閥に万が一のことがあれば、数え切れぬほどの人々が路頭に迷う。それだけは避けなければなりません」
実に苦々しく、十夜光雲が言葉をひり出す。魂を絞ればこんな声になるのかも知れなかった。
「だからって、他にやりようは――」
「これまで通り学費はもちろん、金銭面で苦労はさせません。あの屋敷もそのまま雪咲に譲りましょう。それと……月宮一葉さん。貴方に、折り入ってお願いが御座います」
そう言って長年の労苦が刻まれたしわくちゃの手で差し出されたのは、一枚の小切手。そこに書かれた金額は――二億円。
「あの娘を、雪咲をどうか、どうかよろしくお願い致します」
どこか呆けた様な気持ちで小切手を受け取った。少し前なら跳んで喜んでいたかもしれないその金額。しかし今この胸に満ちる感情は、ただの虚しさだった。
「私には、あの娘にこれくらいの事しかしてやれません。この枯れた腕では、雪咲を抱きしめる資格も――」
「何が資格よ!!」
小切手を持つ手を強く握りしめる。そこへ落ちる雫が、自分の涙だと気が付くまでに数瞬の時を必要とした。
「守りたいだとか! 幸せになって欲しいとか! 誰も彼もが難しく考え過ぎて、結局何もできていやしない! 愛しているって一言伝えてやれれば、それで良かったのに! 一人じゃないんだって、見捨てられていやしないんだって、ただ抱きしめてやれればそれで良かったのに!! こんな、こんなお金なんかで――」
自分の言葉に、自分で驚いた。
お金なんか――。お金なんか、なんだ。一体私は、後にどんな言葉を繋げようとしていたのだろう。
お金を稼ぐ。その行為を〝人間の野生〟だとし、それこそが人間性の証明であると、そう思っているはずではなかったのか。
十夜光雲が静かに立ち上がり、拳を握りしめたまま俯く私へ深く頭を下げ「よろしくお願い致します」と言い残し、立ち去った。
項垂れたまま動けないでいる私の横に、また別の誰かが腰かける。
「お金なんか……ですか」
声へ視線を向けると、身体のあちこちに白い包帯を巻き付けた七尾亀子の姿がそこにあった。
「前に月宮さんに言われた言葉を、ずっと考えていたんです。ほら、車の中でしたお金の話ですよ。確かに貴方の言うとおり、世の中の八割か九割はお金に支配されているのかもしれません。しかし、やはり私は残り一割を……と言う話をしたかったのですが」
亀子さんの柔らかくて暖かな手のひらが、私の背中にそっと触れた。
「どうやら、その必要は無いようですね」
優しく、慈しむような声だった。
私は鼻をすすり、目端の涙を指で弾いて「私の涙を見たわね? 高くつくわよ」と、なるべくおどけて言って見せる。
亀子さんがくすりと笑い、私も同じように笑顔を浮かべた。まるで春が帰ってきたようだった。
「虎洞会、追いかけるおつもりですね」
不意に亀子さんがそんな言葉を口にする。
「……お見透しとは、恐れ入るわね」
雪咲の手前、二扇警視は何も言わなかったが、鍵森四凪の逮捕は難しいだろう。用意周到なあいつが直接繋がる証拠を残しているとは考えづらい。それにあれほどの大規模魔術、一人で行使したわけがない。虎洞会そのものが関与しているのだろう。
今や祓い屋業界に多大な影響力を持つ最大手の祓い屋集団、虎洞会。それを相手にしてすんなりいくはずが無い。鍵森に負けず劣らず、他の構成員たちも相当な曲者揃いだと言う話だし。
私は虎洞会を許さない。今回の件だって、うやむやなんかにさせやしない。必ず尻尾を掴んで見せる。
そもそも、二扇警視たち特災だけでは限界がある。任せきりにはできない。奴らの罪を白日の下に晒すには、私のような自由に動ける者の手が必要なはずだ。
「とはいえ、やっぱり一人だと色々限界あるなぁ。かといって、どこかの祓い屋組合に所属すると言うのも……」
今回の件で私は力不足を痛感した。一人で何でも出来る気になっていたが、やはり、人一人の力など大したことは無い。しかし、今更他の祓い屋組合に入り込んで馴染める自信が無かった。第一、虎洞会と正面から事を構えようとする気概のある祓い屋一族や組合が、一体どれほどあるだろうか。
「そうだ。良い考えがあります」
ぱん、と手を合わせ、亀子さんが突然そんな事を言い出す。
「い、良い考え?」
「私に任せてください」
花が咲くように、亀子さんがふわりと笑う。この人、こんな顔もできるんだなぁ。
「本当に、うちで良かったんですか?」
今日も元気に呪力を立ち昇らせる屋敷の前で、そう言葉を発したのは二日前に退院を果たした十夜雪咲だった。
「通うのも面倒だしね。それに、マンションの一室よりは見栄えが良いでしょう。祓い屋の事務所としては、ね」
得も言われぬおぞましさを醸し出す屋敷に、亀子さんの手配した作業員たちが鳥肌を立てながらスチール製の机や椅子などのオフィス用品を運び入れていく。
そう、亀子さんの案とは、私と雪咲で精霊絡みのトラブルに対応する、祓い屋の個人事務所を設立するというものだった。
祓い屋は歴史だけは古い業界だ。新たに〝祓い屋の組合〟を作るには、それこそ山のように書類を積み上げなければならず、なんだかんだと時間もかかる。その点、〝民間の個人事務所〟であれば手間もたいしてかからず、また特災としても仕事を依頼しやすいという利点がある。
もちろん他の祓い屋からは異端扱いされるのだが、そんな物は最初からだし、別に私は祓い屋としての地位が欲しい訳でもない。
オフィス家具の次に、私の家財道具たちが運び込まれ始めた。その様子を雪咲は今にもとろけそうな満面の笑みで見つめている。
「うふふふふ。今日から一つ屋根の下ですね。これって同棲ですよね? いつの間にかフルネームじゃなくて下の名前で呼んでくれるようになっているし、この間の返事はOKって事で良いんですよね!?」
雪咲が喰らい掛らんばかりの勢いで私ににじり寄る。やっぱりキャラ変わってないか、この娘。
その白くて綺麗な額にデコピンをかましてやると、あう、と呻いて雪咲が後ずさる。
「それとこれとは話が別なんだからね。一緒に暮らすのは、土蜘蛛の力との付き合い方を教え込むためよ。第一、土蜘蛛以外にも無数の亡者が融合しているんだから、油断もできないし」
雪咲は土蜘蛛の霊力を受け継ぎ、霊糸を操る力を得た。しかし得たからと言って、直ちに使いこなせるわけではない。むやみに乱用すれば身体を蝕む。未だに疲れが抜けきらない私のこの身体の様に。
だから、雪咲は学ばなければならない。人の身に余る力との付き合い方というものを。別に先輩面しようと言う訳でもないが、それを教えられるのは恐らく私くらいだろう。
「いかんぞ十夜雪咲。一葉の生涯の伴侶である俺を差し置いて、何をいうか」
どっこから湧き出てきた、この変態は。
しかも二扇警視の奴、何気に私の事を下の名前で呼んでいるし。まぁ別に嫌って訳でもないけれど。
「雪咲。ちょっとあの変態で霊糸の使い方を練習しましょうか」
「おやめください、お二方とも。この馬鹿の始末は私の役目です」
うげ、と呻く二扇警……ド級変態の背後から、いつも通りに凛とした気配を纏った亀子さんが現れた。
「いやまてよ? 美少女に糸で縛られると言うのも、中々……」
「「黙れド変態」」
私と亀子さんが声を重ねる。この空気にまだ付いてこられない雪咲は、困ったように苦笑いを浮かべている。
不意に、頭上で一羽のカラスが鳴いた。顔を上げると、三つの瞳を持つ異形の黒鳥がゆっくりと旋回をして、こちらに向かってきていた。
反射的に頭部を手で守る。しかし、シャックスが降り立ったのは、あろうことか亀子さんの頭の上だった。
「んなっ……!?」
なんて馬鹿な事をするんだこのカラスは! 焼き鳥にされるぞ!? ……と思っていたのだが、当の亀子さんはまるで気にした風も無い。それどころか、指で首を撫でてやっている始末だ。
呆気にとられてその光景を見つめていると、その視線に気が付いた亀子さんが「あぁ」と言葉を放つ。
「こいつは私のカラスです。まぁ使い魔みたいなものだと考えてください」
「はぃ!?」
シャックスが亀子さんの使い魔という事は、私の行動は筒抜けだったと言う訳で。つまり、シャックスは……
『マぁそウ言う訳ダ。すマんナ、狼の嬢ちゃン』
悪びれた様子も無く、シャックスがそんな事を言う。
「こんの馬鹿カラス! よくも私に対してスパイの真似事なんかを――」
「わぁ! 私、喋るカラスなんて初めて見ました!」
私の言葉を遮って、雪咲が目を輝かせてシャックスに駆け寄る。
『おォ、蜘蛛の嬢ちゃン。お話をするのは初めテだよナ』
「はい。十夜雪咲といいます」
ご丁寧に「よろしくお願い致します」と雪咲が頭を下げる。育ちの良さ故か、単純にちょっと足りてないのか……。そう言えばこの娘、天使に悪魔に妖精とか、オカルトチックな物が好きだったかしらね。ともあれ、すっかり毒気を抜かれた私は、大きく一つ溜息をついたのだった。
「まぁ良いわ。今日中に荷物を片付けて、明日からバリバリ祓い屋の仕事を頑張らないとね」
「いえ、無理ですよ? まだ手続きが済んでいませんから」
決意も新たに拳を握りしめる私に、亀子さんが水を差す。
「えっ!? 手続きがまだって、どうして」
「あっ、私解っちゃいました。一葉さん名前ですよ、名前」
そう言って雪咲が手を叩く。はて、名前? 一体何の名前……って、あぁ。なるほど。
「そうです。事業所名を決めて頂かないと、手続きのしようがありません」
亀子さんが頷く。
「うーん、名前かぁ。そうだなぁ」
そう言えば、自分で何かを生み出すのは初めてだ。今まではただ周囲に流されるだけだった。この状況だって、正確に言えば亀子さんの計らいによるものだろう。
しかしこれからは違う。これから先は、私自身が歩む道を決めるのだ。
これから始める、私と雪咲と奇妙な仲間たちとの物語。その第一歩を、今踏み出す。
「そうだ! 私と雪咲の名前から、一文字づつとって――」
完