その魂に花束を
学園に近づくにつれ、霧の中に混ざり始めた物がある。意志を持たぬ、浮遊するだけの雑多な精霊達だ。その意思も感情も持たない雑精霊達が、何かに慄き、逃げ惑うように天へ昇っていく。
何から逃げているのか。言うまでもない、この地に顕現しつつある大禍津神、土蜘蛛からだ。
精霊とは純粋な力だ。精霊の寵愛を受ける土地は肥え、肥沃な大地となる。逆に精霊の去った土地は荒廃し、草の一本も生えぬ不毛の土地と成り果てる。
木々は枯れ、水は腐り、獣は去る。そこは人の住めぬ土地となる。ただそこにあるだけで、全ての生物に対する脅威となる存在。それが大禍津神というものだ。
霧の向こうに学園の正門がぼんやりと見えてきた。五メートルは越えようかという、精緻なアラベスク模様の透かし門の威圧感は相当なものであった。日中は荘厳に感じられるこの巨大門も、夜霧の中にあっては地獄への入り口のようだ。
門には僅かな隙間が空いていた。指を入れて引いてみると意外なほど軽く門が開く。鉄が軋む音も一切しない。門の向こうはもはや現世ではないのだと、言外に語っているようだった。
ひとつ息を呑み、門境の向こうへと足を踏み入れる。
学園の敷地内に広がる霧は一層深く、敷き詰められたレンガも霞んで見えない。淡く光る電灯のおかげでようやく道が解る、と言った具合だ。
それにしても瘴気の匂いが酷い。鼻が良いのも考え物ね。もう嗅覚は意味をなさない。
軽い足音が掛けてくる。一瞬緊張が走るが、霧の向こうから現れたのは同い年くらいの少女だった。白藤学園の制服を身に着けている。
「た、助けてください! 誰か呼んで!」
鬼気迫るその様子に思わず身を硬くする。取り残された生徒でも居たのだろうか。
「落ち着いて。どうかしたの?」
「と、友達が忘れ物したって! 私、止めたんですけれど聞かなくて、そしたら悲鳴が……!」
なるほど、良く解らないけど事態は大体把握した。土蜘蛛の眷属にでも襲われたかな。可哀想に。
「その友達はどこに?」
私がそう言うと、少女は「こっちです!」と駆けだしてしまった。仕方なくその背中を追う。
行き着いた先は学園本校舎の中庭だった。はて、こんな所に一体何の忘れ物が?
「ねぇちょっと、なんでこんな場所――」
私が言い終わるより早く、少女の姿が煙の様にふわりと掻き消える。あ、なんか最近こんな光景を見た様な……。
嫌な予感で肌がざわつく。とりあえずこの場を離れようとしたところで、足元で水音が鳴った。足が縫い付けられたように固まる。
「こ、れはっ……、足が動かな……!」
ガタリ、と中庭を取り囲む校舎の窓ガラスが揺れる。振動は次第に大きくなる。手だ。無数の白い手が窓ガラスを叩いて揺らしている。
ぼこり、と粘土の高い液体が沸騰するような音が耳に届いた。視線を下げると、白い腕が次々に地面から生え、次第にこちらへ迫ってきていた。
「……嘉手納達の気持ちが良くわかるわ」
やがて白い腕が私の腕を掴み、四肢の動きを完全に封じられてしまった。
『なンじゃ、〝チョロイ〟ノぅ』
頭上から妖艶な声が降り注ぐ。
校舎の壁を這って巨大な影が降りてくる。デカい。一軒家くらいの大きさはありそうだ。
「お早いお目覚めね……、土蜘蛛」
『ンむ、贄が豊富ジゃからのぅ。ソれにシてモお主、自分デ仕掛けタ物と同じ悪戯にアっさり掛かるデなイわ』
白い霧を抜け、土蜘蛛がはっきりとその姿を晒す。丈夫そうな体毛がびっしりと生えている。あまり蜘蛛には詳しくないが、タランチュラとかいう蜘蛛をそのまま巨大化させたらあんな感じだろうか。とりあえず、背筋が寒くて仕方がない。
「この精霊たち、あんたの眷属だったの? だとしたら悪かったわね、勝手に借りて」
『イや、喰ろウて従エたダけジャ、お主のマネをしテみタくての。存外に愉快じゃ』
土蜘蛛が喉を鳴らす。どこが喉なのかは解らないが、とにかく嗤っている。甲高い声が校舎の壁に何度も反射して空間を満たしていく。
「……一応だけど、一つだけ聞きたい。人を襲うのはあんたの意志なの? それとも鍵森にやされて?」
『はン、鍵森? ……あァ、あの糸目の小童か。舐メるでナいわ小娘。確カに贄を用意しタのはアヤツじゃガ、喰ロうたノはワらわの意志よ。貴様ノ友モな』
そうか。それなら良い。それなら、解った。
無理矢理呼び出され、従わされているだけなら交渉の余地もあると思った。
しかし解った。何もかもが土蜘蛛本人の意志であると言うのなら。
「じゃあ、あんたは私の敵で良いんだね」
『応よ。ワらわは貴様の敵だ。いヤ、貴様だケでハない。わらワは人に対する悪意、害意、敵意その物だ。そウあルべき存在なノだ』
土蜘蛛は歩く災厄。狂気の権化。歌う厄種。現世に存在するだけで害になる。
「じゃあ、倒さなくちゃね。……人として」
強く腕を振り、絡みついた白い指を引きはがす。
「ごめん、ちょっと貰うわね」
言いながら白い腕の一本を掴みとり、歯を立てる。悪食も極まれりだと自分でも思う。
粘土のような歯触り。腐った水のような腐臭。それでも無理に飲み込んだ。そうして取り入れた他者の霊力を起爆剤として、魂の奥に眠る古狼の力を呼び覚ます。
瞳に朱が走り、髪が白く染まっていく。爪と犬歯が鋭く伸び、獲物を求めて激しく疼く。
斬り裂け、刻め、喰らえ。胸の奥から、古狼の声が湧き上がってくる。
『そうダ、そレで良イ』
土蜘蛛が声を弾ませる。
『久方ぶりノ闘争ダ。相手ガ半端者ノ狼娘と言ウのガ気にナるが、街一つを喰らウ前の準備運動にハ丁度ヨい』
霧に濡れて光る物がある。糸だ。
霊力を漲らせた瞳で見渡すと、周囲を無数の細い糸が立体的に囲んでいる。あの時と同じだ。いや、それより遥かに密度が濃い。
土蜘蛛は基本的に〝受け〟の戦闘スタイルだ。罠を張り、待ち構え、迎撃する。一方で古狼は〝攻め〟である。スピードとパワーで圧倒し、引き裂く。たとえ芸が無いと揶揄されようが、己の爪を信じて突っ込むほかない。
足元の水たまりと白い腕達が、地面に浸みこむようにして消えていく。次いで、代わりとばかりにいつかの子蜘蛛がわらわらと影から這い出てきて、辺りに広がっていく。
流れるような動作で足を踏みだした。糸の隙間はこの紅い瞳にくっきりと映っている。
土蜘蛛までの最短ルートを選んで突き進む。子蜘蛛が糸を張ってそれを阻止する。
「邪魔くさい……っ!」
胸元の炎符に手を伸ばしかけた所で、ふと手を止めた。この期に及んで節約という訳でもないが、一つ試してみたい事がある。
目を細めて子蜘蛛達を睨む。居た。多分あれだ。
他よりも霊力が強く、また自身は殆ど動いていない子蜘蛛が数匹いる。恐らく子蜘蛛は数匹のグループに別れており、それぞれを指揮する者が居るのだ。そして、土蜘蛛はそいつらを指揮している。
髪を数本引き抜き、唇を噛みきって血で濡らす。針のように鋭くなった髪を、その子蜘蛛リーダー達に向かって投げつけた。七つの気配が短い悲鳴と共に消え去る。昔から投擲は得意なのだ。
果たして子蜘蛛達は統率を失い、目に見えて迷走し始めた。逃げ出そうとする者まで居る。
やはり、土蜘蛛は一度に大量の精霊や禍津神を操れる訳ではないようだ。先ほど子蜘蛛と入れ替えに、わざわざ白い腕達を下げたのはそういう訳か。
周囲に張りつめていた糸が力なく垂れる。土蜘蛛へと続く道が開かれた。
中庭に置かれているベンチに足をかけ、土蜘蛛を目掛けて一息に跳躍し、爪を突きだす。
『おのレ!』
土蜘蛛の前脚と私の爪がぶつかり合い、鈍い衝撃音が響き渡る。その前脚を足場にして再度跳躍し、追撃を躱す。跳んだ先の壁に爪を喰い込ませ、窓ガラスのサッシに足を掛ける。まるで空中戦だ。
爪先に濡れた感触。見れば黒い液体が僅かに付着している。コールタールの様にも見えるが、おそらくは土蜘蛛の血液なのだろう。
「(イケる……!)」
土蜘蛛の甲殻は硬い。しかしハンズマンの胴体ほどではないようだ。攻撃を繰り返せば、いつかは破れる。
壁を蹴り、再び土蜘蛛に飛び掛かる。しかし突然、目の前に張りつめた細い糸が現れた。
「のぉぉぅわ!?」
咄嗟に糸に爪を掛け、鉄棒の大車輪の様にして勢いを殺す。糸に足を置き、後方に跳んで距離を取る。
『……器用ナ奴ジゃナ』
何今の動き。自分でもびっくりよ。もう一度同じ事をやれと言われても絶対に無理だ。
土蜘蛛の腹から次々に子蜘蛛が湧き出て、周囲に糸を張り巡らせていく。中々に状況回復が早い。とはいえこれも咄嗟の事。先ほどよりも子蜘蛛の数はずっと少ない。
壁から壁へと飛び移りながら土蜘蛛へと接近し、攻撃を重ねる。合間に呪力を漲らせた髪を投げつけて子蜘蛛を処理し、動けなくなる前に道を作っていく。
いくら土蜘蛛が十重二十重に罠を巡らそうとも、全て見えているのなら意味は無い。それを掻い潜れるのは、人間の小さな身体と古狼の霊力に常識外れの身体能力を兼ね備えた、私ならではと言えなくもないが。
『ちょコまカと小うルサい白犬メ……! しカし、いつまデ持つカのゥ? 人の身でハ辛かろウ。力尽キ、地に落ちタ時こソが貴様ノ――』
軽く掲げた私の手を見て、土蜘蛛が言葉を詰まらせる。
「先に落ちるのはあんただ。穢れた蜘蛛は地面を這いつくばるのがお似合いよ」
ハッとした様子で土蜘蛛が自身の前脚を持ち上げる。そこには私の爪による傷跡があり、そこへ紙のような物がねじ込まれている。
『炎符……!? 貴様、イつの間』
言い終わるのを待たず、指を鳴らす。土蜘蛛の身体に仕掛けた十二枚の炎符が、次々に轟音を響かせて炸裂する。
『ヌおぉォぁア!?』
土蜘蛛の身体が浮き上がり、地面へ向けて落下していく。途中、自身で仕掛けた糸に体中を刻まれた。黒い血液が糸を伝う。黒い華が宙に咲いたようだった。
「炎符十二枚で税別二十一万六千円……か。さて、どこに請求したものかしらね」
紫炎に包まれながら落ちて行く土蜘蛛を見つめて呟く。虎洞会の事務所にでも請求書を送りつけてみようかしら。
重い落下音と激しい地響きで校舎の窓ガラスが打ち鳴らされた。残響が収まるのを待って地面に降り立ち、土蜘蛛の様子を観察する。
下手に空中で体勢を立て直そうとしたせいで頭から地面に落下し、頭部の半分がひしゃげている。普通の生物ならまず致命傷だ。
『う、ヌ、がぁあァ……』
呻きながら土蜘蛛が起き上がる。全身から黒い血液が吹き出し、紫炎は未だくすぶいている。見た目は満身創痍と言うところだが、地面に突き立てた脚からは力強さを感じた。
「驚いた。丈夫な奴ね」
『ふ、フふふ……。ワらわこソ驚いタ。意外と小技ヲ効かセるでハ無いカ。あの男かラ聞いタ話トは、少シ違うナ』
黒い血液にまみれながら、しかし土蜘蛛はどこか楽しそうだった。まるで戦いこそが存在の証明だと言わんばかりに。その気持ちは解る。魂の半分を共有している古狼も似たような存在だ。戦うことでしか自己の存在を定義できない。
『どレ、少シばかリ本気ヲ出してミようカ』
明日の天気を占うような気軽さで、土蜘蛛がそんな事を言い出した。
「……。えっ?」
思わず、聞き返す。だが答えは返ってこない。
熟れ過ぎた果実が落ちるように、土蜘蛛の頭部が湿った音を立てて地面に転がった。
「ひっ……!?」
あまりのおぞましさに後退りしてしまった。土蜘蛛の頭部があった場所の肉がぼこり、と液体が沸騰するように音を立てる。
そこから先は、地獄の底に迷い込んだような光景だった。ぼこぼこと盛り上がる肉が次第に人間の上半身を思わせる形を取っていく。
やがて現れたその姿は、すらりとした女性の半身だった。どこか妖艶さを醸し出すその姿は実に美しかった。下半身の蜘蛛と八つの黒真珠のような眼を見なければ。
『ふぅ。この姿も数百年振り、といった所かのう。どうかえ? 中々の美しさであろう』
「……私ほどじゃないけれどね」
こめかみに冷汗が伝う。肌がヒリつく。土蜘蛛から発せられる、この溢れんばかりの霊力はなんだ。先ほどまでとは段違いにもほどがある。ちゃっかり言葉使いまで人間のそれと変わらなくなっているし。
土蜘蛛の傷が見る間に塞がっていく。黒い血に濡れた部分はそのままだが、ほぼ完全に復活したと思って良いだろう。
さて、どうする。正面から挑んで敵うだろうか。玉砕覚悟なら、あるいは……といった所か。
死。その言葉が脳裏を過る。
私が死んだら、悲しんでくれる人は居るのだろうか。
お師様はもういない。二扇警視はどうだ。涙の一つでも流してくれるだろうか。亀子さんは「残念です」の一言で済ませそうよね。
五坂は、きっと怒るだろうな。きっとあの世でこっぴどく叱られるに違いない。十夜雪咲は……、どうだろう。ちょっと心配だ。要らぬ責任を抱え込んで病んでしまわなければ良いが。
戦いの最中に死を意識したのは久方ぶりだ。流石は伝説の大禍津神といった所だろうか。
『楽しそうじゃな、狼娘よ』
不意にそんな言葉を投げかけられ、思考が停止する。
楽し、そう? 私が?
「……何を言ってるのか、解らないわね」
『緩んだ口元で言うても、説得力に欠けるぞえ。素直に認めたらどうじゃ。わらわは楽しいぞ』
土蜘蛛が人間のような腕を大きく広げ、糸のように言葉を紡ぐ。
『自由に動く手足があるというのは素晴らしい。実に爽快よ。やはり我らの本分は闘争、それのみじゃ』
陶酔したような表情で土蜘蛛が言う。
「やっぱり解らないわね。戦いなんて、あくまで手段でしかない。楽しむものではないわ」
『あくまで認めぬか。ならば、こんなのはどうかえ?』
地面から腕が生えた。またあの白い腕かと思ったが、どうも様子が違う。手のひらを地面に押し付け、身体を持ち上げる。見覚えがあるなんてものじゃない。
「まさか……!?」
人間の様な姿。頭部があるべき個所から生えた三本目の腕。奇形と言えるほどに張った逆三角形の上半身。
冗談の様な服こそ着込んではいないが、間違いない。鍵森四凪の作り出した人工精霊、ハンズマンだ。土蜘蛛め、取り込んでいたとは。
『糸目の小僧から聞いたぞ。こっちも因縁があるのだろう?』
土蜘蛛がそう言うと、今度は鋭い鎌が地中から突き出された。どいつもこいつも、人の嫌いな物ばかり並べてくれちゃって……!!
姿を現した逆釣り蟷螂が「ギギギ」と声を漏らす。笑っているのだろうか。
辺りの影の中から滲み出すようにして、ハンズマンや逆吊り蟷螂が次々に現れる。ざっと見た所では特出した者は居ない。全てが土蜘蛛の支配下にあるようだ。霊力が膨らんだ分、支配力も増したという事のようね。
ハンズマンが身体に左右の腕を突き入れ、引き抜く。その手には錆びて朽ちた刃物が握られていた。腰を落として私に迫り、おぞましく穢れた刃を私に向かって振り下ろした。上体を右に流してそれを躱し、爪で腹部から左肩にかけて切り上げた。
膝を地に付け、崩れ落ちるハンズマン。それを合図として次々に禍津神共が私に群がってくる。
「どうせ群がられるなら、子犬とかのほうが嬉しいんだけど……ねっ!!」
飛び込んできた逆吊り蟷螂の首を切り飛ばす。その背後から別の逆吊り蟷螂が、同族の肉体ごと私を両断しようと鎌を振り下ろした。その脇をすり抜け、すれ違いざまに胴を横に二分割してやる。
やはり、四年間の逆吊り蟷螂が特別過ぎたのだ。ここに居る奴らはそう強くもない。
「でも、この数はちょっとね……」
思わず弱気が口から零れ出る。
その隙に付け入るようにハンズマンが私を取り囲み、刃を振り下ろす。地を這うように身体を低くし、その足元をすり抜け、指を鳴らす。輪の中に残した炎符が炸裂し、ハンズマン七体を纏めて吹き飛ばす。
『中々やるではないか。どうじゃ、楽しかろう?』
腕を組んで優雅に観戦していた土蜘蛛が口を開く。腹立だしい奴め。
「楽しい訳あるか! 臭いし怖いしで最悪よ!!」
五枚の炎符を取り出し、上空に向けて放り投げる。地上六メートルほどの高さに停止し、炎符が輝きを放つ。光の線で炎符同士が繋がれ、五芒星が白く煙る夜空に描き出される。その中心へ手のひらを掲げ、叫ぶ。
「燃え尽きろ! 紫炎呪爆――」
炎符の一枚が、空中で突然細切れになった。五芒は崩れ、光が消えていく。
「なっ……!」
土蜘蛛がくい、と指を動かすと、残りの炎符もバラバラにされて風に舞った。宙にきらりと光る物がある。あれは、糸か……!!
『すまんのぅ。熱いのは嫌いじゃ』
くつくつと土蜘蛛が喉を鳴らす。
ならば直接捻じ込んでやる、と胸に手を入れ符に指が触れた所で、とん、と軽い衝撃が走る。視線を下げると、黒くて細い針のような物が私の腹部から生えていた。背中から貫かれている。
見覚えのある針だ。初登校の朝、校舎の陰。そして学園地下の闇の中。影の刃のような、名も無き禍津神。
「このっ!」
振り向きながら爪を振るい、針をへし折る。しかしまた別の針が影の中から伸び、脹脛、太腿、腹部を貫く。
痛みに顔が歪む。「驚いたか?」とでも言いたそうに影の刃が耳障りな笑い声をあげる。
下半身を縫い付けられ、動きの止まった私を他の禍津神が見逃すはずも無かった。錆びた刃が私の肌を舐め、穢れた鎌が振り下ろされる。
針を無理やりへし折り、応戦する。だが取り囲んだ相手の数が多すぎた。ハンズマンと逆吊り蟷螂の大群に加えて、足もとの影にも気を配らなくてはいけない。間隙を縫って土蜘蛛の糸も飛んでくる。
逆吊り蟷螂の鎌に背後から横薙ぎにされ、弾き飛ばされる。すぐに立ち上がろうとするが、まるで力が入らなかった。脇腹の傷が背骨にまで達していた。飛ばされた衝撃で左膝も砕けている。回復には時間が掛る。
『一匹狼を気取るから、こんな事になる』
土蜘蛛が地面を揺らしながら私の前に歩み出る。
『どれ程の強者であろうと、単独で成せる事などたかが知れておろう。一人で来た時点で貴様の負けじゃ、狼娘』
土蜘蛛が人の手の届かぬ存在と恐れられる理由。それはまつろわぬ精霊たちを一纏めにする〝群れの主〟であるという点だ。
単独では多少強力な禍津神と言った所だが、それは霊力の大半が〝扇動と統率〟に向いている為だ。
最大数万に及ぶ禍津神の軍勢を従え、蹂躙し、人々の心に不和をもたらす。内と外の両面から人の世を脅かす〝世崩し〟という存在。それが大禍津神、土蜘蛛である。
口内に溜まった血を吐き捨て、土蜘蛛を強く睨みつける。
「昆虫風情が、説教くれてるんじゃないわよ」
まるで人間の様に肩を竦め、土蜘蛛が短く息を漏らす。
『まぁよい。そんな事より貴様、まだ本気を出さぬのか?』
「……だいぶ前から本気なんだけど」
白い髪がはらり、と顔に掛る。
『聞こえるぞ。闘争を求める古狼の声が。いつまで眠らせておるつもりだ。引き出せ。呼び起こせ。人間性など、さっさと捨ててしまえ。わらわをもっと楽しませろ』
そうだ、と声がする。俺を出せ、と声がする。座して死すつもりかと声がする。
解っている。何とかなるかもと思っていたけれど、私では土蜘蛛には勝てないようだ。このままでは殺される。喰われる。
「……私は」
怖い。身体中が痛い。血が足りなくて気分も悪い。喉がひり付いて息も苦しい。
でも。それでも。これだけはハッキリと言わなければいけない。声にしなければならない。
「私は人間よ。か弱くて、いつも悩んで。愚かで矮小で……。でも解った。結局私は人間が好きなんだ。私は、人間でありたい。人間なんだ」
土蜘蛛が顎を引き。私の言葉を吟味するように黙り込む。そして。
『……何を言っているのか、解らんな。貴様の野生は失われたのか』
ゆっくりと前足を振りかざす。その鋭い先端が鈍く光った。
『眠れ。牙の折れた狼は土へ還るがよい』
土蜘蛛の前足が眼前に迫る。単純で単調な、止めを刺す為の一直線な攻撃。甲殻の隙間、関節裏が丸見えだ。足の一本くらいは道連れにしてやる――!!
『ちョっト待っタぁ――!!』
『ぬぐ!?』
爪を閃かせ、叩き込もうとしたところで土蜘蛛の前足が大きく逸れた。何事かと見遣ると、土蜘蛛の顔に黒い鳥が張り付いていた。
「シャックス!?」
大きく旋回したシャックスが私の頭の上に降り立つ。だからそこに乗るなと何度も……。
『街の掃除ハ終ワったゾ。祓い屋達が一掃しタ。それト風蛇の奴、すゲぇ強いのナ。流石ハ龍に連なル者と言った所カね。手伝って貰えテ良かっタ』
それは朗報だ。やられっぱなしというのも気分が悪いものね。
『今は残党処理をしテいる所だガ、戦況は落ち着いタ。だかラ、援軍に来タ』
『援軍、だと? ご自慢の魔軍を率いぬ貴様に何ができる』
顔を拭いながら、忌々しそうに土蜘蛛が呻く。その意見には私も同感だ。しかしシャックスは「カカッ」と喉を鳴らす。
『俺じゃアねぇヨ』
凛、と音がした。高く澄んだ鈴の音が夜空を切り裂いて、場に満ちた邪な力に亀裂を走らせる。
また一つ凛、と音がする。また更に鈴の音が鳴り響く。幾重にも重なった清浄な音色が、白い瘴気の霧を天に昇らせていく。
『この気配――』
土蜘蛛が戸惑うように辺りを見回す。
ざぁ、と小波の様な音が響く。多数の祓串が一斉に振るわれる音だ。穢れを祓わんとそさざめくの音に、逆吊り蟷螂やハンズマンが落ち着きを失う。まるで怯えているかのようだ。
『高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万の神達を神集へに集へ給ひ』
天から落ちてくるように、声が降り注ぐ。大勢の神職が一斉に祝詞を唱えている。その言葉は校舎の壁に反射してうねり、空間を満たしていく。
『これは、二扇家の最大祓かっ……!』
頭を抱えながら、土蜘蛛が苦しそうに言葉を吐き出す。他の禍津神たちは力を失い、地に伏してのた打ち回っている。
『国内に荒振神等をば 神問はしに問はし給ひ神掃ひに掃ひ給ひて 言問ひし磐根木根立草の片葉をも事止めて』
降り注ぐ祓いの祝詞に、もはや耐えられなくなった逆吊り蟷螂やハンズマンが、次々に土くれに変わり果てていく。土蜘蛛も人間のそれと同じような両の腕を付いて、地面に突っ伏している。げぇ、と土蜘蛛が汚物をまき散らす。いや、あれは……霊力、か。
『くそっ……! いつの時代も忌々しい奴らよ……っ!!』
湧き上がる吐き気を抑えられない土蜘蛛が、げぇげぇと嘔吐を繰り返す。風船が萎んでいくように、徐々にその身体から覇気が失われていく。
最大祓の儀。平安時代以前に成立した「祓」の行事の一つであり、現代も行われている「大祓」と元を同じくする。儀式の際に詠まれる祝詞も大きく違いは無い。違いがあるとすれば、それは「大祓」が神の神威によって天下万民の罪や穢れをによって祓うものであり、対する「最大祓」は、日ノ本国を脅かす大禍津神などの大災厄を祓うために執り行われる儀であるという点だ。
そして二扇家は古来よりその最大祓の儀を一手に引き受け、幾度となく日ノ本国を大霊災から守り抜いてきた鎮護国家の家系である。
「凄い……」
思わず、そんな言葉が喉の奥から溢れ出て来た。まるで魔女窯の底のようだったこの中庭が、あっという間に浄化されていく。
半ば呆けたように状況を見つめていた私の元へ、一枚の紙切れが飛んできた。それは白く、人の形をしていた。紙人形だ。
〈間に合ったようだな。何よりだ〉
紙人形から発せられた声は、二扇警視のそれだった。こんな芸当ができるとは。
「直接に中で見るのは初めてだけど、本当に凄いわね。二扇家の〝祓の儀〟は。準備、間に合ってたの?」
紙人形が困ったように揺れ動く。
〈いや、準備不足だ。このまま校舎を社に見立てて土蜘蛛を封印するが、あくまで一時的なものだ、三日と持つまい。その間に討伐隊を組織する。事ここに至っては、もはや挑むしかないからな。お前はその旗印だ。今は退け〉
一息に告げる二扇警視の言葉を受けて、しかし私は首を振る。
「ごめん。ちょっと動けないんだ。それに……あちらも逃がす気は無いみたいだし」
よろめきながら立ち上がった土蜘蛛がにじり寄ってくる。私を喰らって霊力を回復しようという腹積もりなのだろう。
「歩くのもままならないけれど、手傷くらいは負わせてやる。たとえ取り込まれたって抵抗して見せる。奴の糧にも思い通りにもならないわ。だから、後は頼んだわよ」
〈馬鹿な事を言うな、お前らしくもない! おいカラス! 月宮を連れて退け!〉
焦ったような二扇警視の声が響く。
『悪ぃナ、二扇のダンナ。そレは無理ナ頼みダ。ま、乗りかカっタ船だしナ。俺も目玉の一つくらいハ……』
カカッ、と声を上げてシャックスが器用に肩を竦める。
『なんデぇ、八つもあンのかイ。あんマり役に立てソうにハ無ぇナ』
膝と脇腹の様子を確かめる。古狼の力を使っているのに回復が遅すぎる。土蜘蛛の霊力に阻害されているのだろうか。
笑う膝を拳で叩き、無理やりに立ち上がる。爪を煌めかせ、牙を覗かせて一つ笑って見せる。
「さぁ来い。無駄に多いその脚と目玉を、一つでも多く減らしてやる」
鈍い雄叫びを上げながら土蜘蛛の前足が振り下ろされる。どうやら糸を使う余裕もないらしい。無事な右足で地面を蹴り、攻撃を掻い潜って土蜘蛛の懐へと飛び込んだ。
蜘蛛部分の甲殻は硬いが、肉が露出している人間の様な上半身部分なら爪が通るはずだ。渾身の力を込め、右腕の爪を叩き込もうとした瞬間。
とん、と言う軽い音と共に、土蜘蛛の胸から銀色の刃が突き出て来た。
土蜘蛛を背中から貫き、私の眉間ギリギリで止まったその刃に一人と一匹と一羽の視線が集まる。
『……。はっ……!?』
最初に声を上げたのは土蜘蛛だった。気の抜けた様なその言葉を切っ掛けにして刃が捻じられ、真横に土蜘蛛の上半身を切り裂いた。
『おおおぉぉおあああぁアァオぉア!!』
おぞましい叫び声を轟かせながら、土蜘蛛が痛みに暴れもがく。その背中から何者かが跳び、私の目の前に着地した。
月明かりを受けて新雪のように輝く銀髪。宝石の様に美しい、透き通った緑の瞳。
「十夜、雪咲……? なんで、あんたが」
銀罰の妖精は深く腰を落とし、ピンと伸ばした左足を前に、刀を持つ腕を低く降ろし刀身を後方へ下げる。脇構えの変形型か。鈍く光る刃が微かに震え、蛇のように鳴いた。
「責任を、取りに来ました。終わらせるために。そして、始めるために」
星の囁きの様な清らかな声で、十夜雪咲が言う。
「月宮さん。ここまで巻き込んでしまって、本当に申し訳無く思っております。それと、もう一つ……ごめんなさい」
言い終わると同時に、十夜雪咲の姿が消えた。瞬きよりも短い刹那に土蜘蛛との間合いを詰め、鋭い踏み込みと同時にその左前足を下段から右上へ切り飛ばした。次いで左側面に回り込み、刀を振り下ろして別の脚先を叩き斬る。
たまらず崩れる土蜘蛛が苦悶の表情を浮かべる。
『その刀、蜘蛛切か! なぜ貴様の様な小娘がそれを手にしている!?』
「私の家系は、代々こういった曰くつきの品々の蒐集家でして。大覚寺が所蔵しているのは私の祖父が作らせたレプリカです」
横合いから迫る土蜘蛛の糸を、すっと身を引いて避けながら十夜雪咲が言う。攻撃を見切った完璧な動きだった。まるで剣術の達人の様だ。
『あの刀、銀髪ノ嬢ちゃンを操ってルな。妖刀ノ類か』
シャックスが三つの目を細める。確かに、見れば蜘蛛切から只ならぬ呪力が発せられ、十夜雪咲の身体を包み込んでいた。しかし憑いているといった様子ではない。むしろ、旧知の友に協力しているような……。
凛、と鈴の音が鳴る。土蜘蛛の身体がびくりと震え、動きが止まる。十夜雪咲はそれを見逃さず、蜘蛛部分の腹へ深々と刃を突き立て、切り上げる。黒い血が噴水のように吹き出し、ついに土蜘蛛は抵抗する力を失い、重い地響きを立てて倒れこんだ。
『や……っタんじゃ、ネぇか? これ』
「そ、そうね……」
後は、首を跳ねてとどめを刺すだけ。十夜雪咲は土蜘蛛の正面に立ち、刀を持ち上げる。
ついに決着かと思われた。不意に十夜雪咲が私に視線を寄越し、申し訳なさそうな微笑みを向ける。
「もし失敗したら、これで私ごと斬り伏せてください」
そう言って十夜雪咲は、あろうことか蜘蛛切を投げて寄越してきた。
「ちょっ、なっ。え、何を」
狼狽する私をよそに十夜雪咲は土蜘蛛へ向き直り、まるで迎え入れるように両腕を広げて見せる。
『……何のつもりだ、小娘』
妖刀の呪力が剥がれ、ただの少女に戻った十夜雪咲が肩を震わせる。
「わ……、私は」
喉をひくつかせ、それでも声を絞り出す。
「私は、貴方に向き合わなくちゃいけない。全ては私の弱さが引き起こした事。その責任を、全て貴方に押し付けて、終わらせる事なんてできない。しちゃいけない」
恐怖で潤んだ瞳に力を漲らせ、言葉を紡ぐ。
「土蜘蛛よ。私が貴方を受け止められるか、貴方が私を喰らい尽くすか……。最後の勝負をしましょう」
花が歌うように、土蜘蛛が微かな笑い声を上げる。
『……面白い小娘だ』
黒い血に濡れた土蜘蛛の身体から、靄の様な魂が昇る。そして、十夜雪咲の身体を包み込み、染み込むようにして消え去った。
□
薄ぼんやりとした意識が、徐々に輪郭を取り戻す。
十夜雪咲は暗く、深い闇の中を漂っていた。地を踏む感触は無く、前後も天地も無い。
不意に一筋の光が走る。
ノイズで割れるスクリーンのように目の前に浮かび上がったのは、奇妙な微笑みを浮かべた肖像画や、曲がりくねった文字の書かれた掛け軸に見守られながら、錆びた短剣や鋭い輝きを放つ刀剣を振るって一人で遊ぶ、幼い銀髪の少女だった。
あれは、私だろうか。間違いない。幼いころの私の姿だ。雪咲はそう思った。
そんなもので遊ぶと怪我する、と少女を叱るものは誰も居ない。事実、数々の呪物たちは少女を傷つける事は無かった。
場面が切り替わる。少し大人びた少女は西日に埃が輝く書斎で、黴臭い辞書を片手に古臭い書物を一心不乱に読んでいた。
そこへ一人の少年が現れる。幼い頃の五坂敬祐だ。
少年はしきりに少女を連れ出そうとする。頑なにそれを拒む少女に不貞腐れ、少年は立ち去った。やがて階下から叱責の声が響く。先ほどの少年が叱られているのであろうことは容易に察しがついた。
私に関わるからそんな目に合う。大人だって誰も私に近づこうとしない。優しいのはお母さんだけだ、と少女は小さく呟いた。
また場面が切り替わる。場所は先ほどと同じ書斎。時の流れを証明するのは、更にほんの少し大人びた少女の顔つきと、肩まで伸びた美しい銀髪だった。
ぎぃ、と音を立てて扉が開く。少女が顔を上げる。しかし一瞬で興味を無くしたかのようにすぐさま視線を本へ戻した。
「また来たの」少女が言う。「また来たよ」少年が言う。
そしてまた別の場面。今度は時の流れは僅かな様だった。
「飽きもせずに良く来るわね」少女の言葉に少年が肩を竦める。「だって、友達だろう?」
少女はちらりと視線を少年に投げかけ、一つため息をついて首を振る。
「ろくにお話もしてないのに友達ですって? おめでたいのね、あなた」
にべもないその言葉に、しかし少年は照れくさそうな笑みを返す。
「解るんだ、何となく。僕も一人だからさ」
スクリーンにノイズが走り、今度は学生服に身を包んだ少女と先ほどの少年が並んで歩いている。
その次も。その次も。
二人はいつも一緒だった。肌を焼く夏の日差しの下でも。穏やかな秋の木漏れ日の中でも。身を切る冷気に震えながらも。花びら舞う風の中でも。母親が亡くなり、遺体にすがり付いてむせび泣く少女の傍らにも、変わらず少年はそこに居た。
『……つまらん。平地ばかりで山も谷もないではないか』
いつの間にか隣に浮かんでいた、一抱えほどもある淡く光る黒い球体が言葉を放つ。いや、最初からそこに〝居た〟ようだ。初めは走馬灯かとも思っていたが、十夜雪咲の魂と一体化した土蜘蛛が、その記憶を遡って再生しているようだと理解した。
「こうやって見ていると、なんだが気恥ずかしいですね。私ってあんなにツンツンしていたかなぁ」
『人間は流転する生き物だ。まぁ、こんなものであろうよ』
ぐにゃり、と土蜘蛛の魂が蠢く。
『十夜雪咲と言ったか。貴様の様な小娘が思い切ったことをしたものだ。わらわに少しでも敵うと思うたか』
「今でも思っていますよ? だって貴方、現に凄く弱っているじゃないですか。……それに、覚悟もあります」
『…………』
宝石のように美しく透き通った緑色の瞳には、強い光が宿っていた。
『ほんに愉快な奴じゃな、小娘』
妖艶な声はそのままに、土蜘蛛の魂が囁くように笑う。
『しかし酷い女だな、貴様は。あの小僧はこんなにも解りやすく貴様を好いているというのに、全く応えようとは……あぁ、なるほど。人の好みをとやかく言うつもりもないが、何とも報われん話じゃのう』
十夜雪咲は恥ずかしさで身を固くする。誰にだって、他人には知られたくない秘密の一つや二つはある物だ。それがアブノーマル、またはマイノリティなものであればなおさら。魂が同化している土蜘蛛には、その全てが筒抜けだった。
『酷いと言えば、あやつに対してもそうじゃ』
闇の一部が切り取られ、息を呑むほどの美貌を湛えた黒髪の少女が映し出される。十夜雪咲から託された蜘蛛切をしっかりと抱え込み、不安そうな表情でじっとこちらを覗き込んでいる。
「月宮さん……」
『貴様にとっては、納得の選択なのであろうよ。しかしあやつにとっては悪夢でしかない。友の首を刎ねろと言うのだからな』
戸惑うように銀髪が揺れる。
「友達だなんて、そんな。私が一方的に好いているだけです。出会って日も浅いし、ろくにお話もした事も無いのに」
僅かに目を伏せる十夜雪咲に土蜘蛛が言う。
『小娘。出会ったばかりの犬に懐かれた事はあるか。まぁ猫でも良いが』
突然の問いかけに緑色の瞳を瞬かせる。
「え、えぇ何度か。私、犬好きですし」
『その時、言葉を交わしたか? その犬との思い出は? 性格、物の好み、日常的な癖。なんでも良い、少しでも互いに互いを理解し合っていたか?』
「それは……」
そんな事は無い。出会って数分。目が合って数秒。それだけだ。
『出会いなぞ、そんな物だ。気の合う奴は数秒で済むし、合わん奴は千年掛っても解りあえぬ。まぁ付き合い方にも色々あるがな。あの小僧もそうじゃろう。一目で貴様を一人寂しい同類と見抜いた。あの狼娘も同様だ』
十夜雪咲には返す言葉が無かった。確かに、動物に対して似たような事が何度もあるのに、それを不思議と思ったことは無い。相手が人間でも同じ事、と言われれば頷くしかないのかも知れない。
『交わした言葉の数ではない。共に過ごした時の長さも関係ない。聞けばあの狼娘は相当に排他的な性格のようだが、それは臆病さが故だ。ようやっと巡り会えた同類同族には心を開こうという物。ま、あちらもあちらで不器用じゃがなぁ』
くつくつと声を漏らしながら土蜘蛛の魂が揺らめく。
『で、だ。貴様、わらわを受け止めるなどと申しておったな。どういう意味じゃ』
十夜雪咲は小さく深呼吸をする。この土蜘蛛、予想以上に舌が回る。すっかりあちらのペースだ。話はようやく本題に入った。これ以上は主導権を握られまいと気を張らせる。
「言葉通りの意味です。貴方の魂、そして貴方が今までに取り込んだ魂の全てを受け入れます」
『……正気か?』
底冷えのするような低い声で土蜘蛛が呟く。
『貴様の呪力や霊力に対する耐性は、それは相当なものなのだろう。それは解る。しかしそれとこれとでは話は別だ。……見よ』
そう土蜘蛛が言うと、周囲に広がる闇から白い煙のような物が立ち昇り、人の形を取った。白い人影は増え続け、やがて見渡す限りを埋め尽くす。
「うっ……く」
思わず喉が引きつる。
白い影はそれぞれが声にならぬ声で呻き、嘆き、苦しんでいる。その響きが共鳴し、混ざり合い、うねり、空間を満たしている。
『見えるか。聞こえるか。途方もない数の嘆きや哀しみを、ひとつ残らずその身に引き受けようと言うのか』
ふわり、と黒い球体が飛び、十夜雪咲の耳元で囁く。
『何をどう考えたら、そのような突飛な発想になるのだ。もし貴様が今回の一件での責任を感じ、その重責に耐えられないと言うのであれば、その細い首でも括れば良い。死してなお責められるほどの罪ではなかろう』
死。自ら命を絶つという事。
それは、確かにもっとも解りやすい責任の取り方であるかもしれない。
『そうだ。このまま貴様もわらわに喰われるというのはどうじゃ。さすれば貴様も犠牲者の一人、憐れみこそすれ恨む者などおるまい』
甘い囁きが銀髪の妖精を包み込む。
土蜘蛛のいう事は間違ってはいない。十夜雪咲の罪は、言うなればパンドラの箱に鍵を差し込んだという程度の事。それを開いたのは鍵森四凪であり、最終的に犠牲者たちの魂を捕えているのは土蜘蛛だ。
しかし、それでも責任を感じてやまないというのであれば、自らも犠牲者の一人になれば良い。死者にまで鞭を打つものなど、そう居はしない。
されども、少女は首を横に振る。
「……自死は、逃げです」
首周りをゆらゆらと飛んでいた黒い球体の動きが、ぴたりと止まる。
『逃げ、だと?』
「貴方の言う通り、命を絶てばきっと楽になれるのでしょう。でも、それでは誰も救われない」
震える声で、囁くように。しかし意思を込めてはっきりと少女が言葉を紡ぐ。
「私が死んでも、ご遺族の哀しみは晴れるどころか、ただ行き場を失うだけ。犠牲者の魂も貴方に取り込まれたまま、擦り切れて消えゆくまでただ苦しみ続けるのみ。それではいけないと思ったんです」
たとえ大切な人を奪った犯人が逮捕、あるいは死亡したとしても遺族の哀しみが晴れる事は無い。事件に一応の区切りがつき、気持ちの整理を付けられる切っ掛けになるだけだ。
ましてや今回の様な精霊や禍津神絡みの事件は、基本的に遺族に対してきちんとした説明はなされない。よしんば全てを打ち明けたとて、精霊などに何の関わりもない一般人には理解できようもないからだ。
更に言えば、十夜雪咲が責任を取ったつもりで自ら命投げ捨てたとしても、それは〝過剰に責任を感じた一人の関係者が、勝手に命を絶った〟だけに過ぎず、それで何かが救われる訳でもない。
「初めは貴方を倒すつもりでした。そして倉庫から蜘蛛切を探し出し、弱点の一つでもみつけられればと様々な文献を読み漁りました」
そうだろう、と土蜘蛛の魂が言葉を零す。
『わらわが憎いはずだ。狂おしいほどに。仇を取ろうとは思わんのか』
「思いません。今は、もう」
きっぱりと十夜雪咲が言い切る。少し驚いたかのように、黒い球体の表面が僅かに震える。
「私は貴方を知りました。雲が空にあるように、川が大地を流れるように。貴方はただ〝そうあるべき存在〟なのだと。人の……いえ、全ての生物の心に宿る怒り、恐怖、恨み、妬み、嫉み。行き場のない、あらゆる負の感情が寄り集まって形創られた存在であるのだと。とても」
少女は胸に手を当て、痛みに耐えるようにきつく握りしめる。
「とても――、悲しい存在なのだと」
黒い球体の形を取っていた土蜘蛛の魂がぐりゃり、と歪む。激しく動揺しているようだった。
『……妙な事を言う小娘だ。やはり正気では――』
「私は貴方を、貴方の中に宿る全ての魂を救いたい」
透き通った緑の瞳で、少女は土蜘蛛の魂を真っ直ぐに見つめる。
「ここで貴方を倒しても、何も変わらない。土蜘蛛という存在は消えず、数多の魂を巻き込んで世を漂うだけ。それでは誰の魂も救われない。だから、私は貴方を……貴方たちを受け入れる。怒りも、恨みも、哀しみも。全てを受け止める。受け止めて、救って見せる」
『ふざけるな!!』
土蜘蛛の魂が裂け、鋭い牙を露わにして叫ぶ。
『ふざけるなよ小娘!! 貴様の様な世間知らずのおなご風情が大きな口を叩きおって! 舐めるでないわ!! 悲しい存在? 救いたい? 思春期の一時の夢想で何とかできるほどか弱い存在ではないぞ!』
逆巻く怒気が暴風となって吹き荒れる。白い人影たちが怯え逃げるように掻き消えた。
『気のふれた老人に目の前で赤子を食い殺された母親の気持ちが解るか! 愛を誓い合った女を犯され、殺され、その肉を喰わされた男の嘆きは!! 言葉で表せられるほど単純ではないのだ! 貴様の霊力や呪力対する才能がどれほどだろうが関係ないわ! その糸の様に細い心なぞ、すぐに折れて塵になるぞ!』
土蜘蛛の怒りが十夜雪咲を飲み込む。しかし少女は小動もせずに真っ黒な魂を見つている。
「正直なところを言えば、確かに不安です。でも、私にできそうな事と言えばこれくらいです。だから――勝負です」
『まだ戯言を言うか……! はなから勝負になぞならぬわ!』
『いや、そうでもないさ』
少女の横に、一つの白い影が降り立つ。しかし先ほどの荒ぶる者たちとは違い、静謐な気配を漂わせていた。
『まったく、昔っから変な所で思い切った事をするよね。まだまだ目を離せないな』
白い影が言葉を放つ。聞き慣れた声。いつもの少し疲れた様な口調。もう二度と会えないと思っていた。
「け、敬祐……!?」
先立つのは驚き。次いで嬉しさに瞳が潤み、後から湧き上がってきたのは、巻き込んでしまった事への後悔と懺悔の念。
伝えたいことは沢山ある。しかし、そのどれもがいざ言葉にしようとすると、まるで形を成してくれない。
『小僧……! まだ自我を保っておったのか……!? しつこ過ぎるぞ!』
五坂の魂が土蜘蛛と向き合う。
『どれだけの時間が掛かるかは解らない。もしかしたら、寿命が尽きるまでには全てを救えないかもしれない。でも、それでも、手は伸ばさなければならない』
土蜘蛛の魂が更に牙を剝く。
『くだらぬわ! 餓鬼が二人に増えたところで何も変わらぬぞ! この世は物語のように上手くは行かぬ、つまらん茶番を見せおって……!』
『二人じゃないさ。あんたもだ。土蜘蛛』
五坂のその言葉に、世界よ砕けんとばかりに吹き荒れていた暴風がぴたりと止んだ。
『……。何……? わらわも、じゃと』
五坂の魂が小さく、しかし力強く頷く。
『あんたの中に渦巻く、荒ぶる御霊たちを混ざり合って解った。確かに彼らは禍つ者だ。どうしようもなく、人類の敵だ。しかし、その誰もが救いを求めている。そしてそれを与えられるかどうかは、結局の所はあんた次第だ』
そうだろう、と五坂は土蜘蛛に語り掛ける。
『長い年月をかけて恨みや怒りが降り積もって、もはや何を憎んでいるのかも解らなくなっているな。もういい加減疲れているはずだろう。後は、自分で手を伸ばすんだ』
ぎり、と土蜘蛛の歯ぎしりが響く。
『知ったようなことを言いおって! 誇大妄想も大概に――』
ゆっくりと伸ばされた十夜雪咲の手のひらに、土蜘蛛の視線が釘づけになる。
「私たちは貴方を……貴方たちを救いたい。救わせて欲しい。だからお願い、この手を取って。それに――」
可憐な花が咲くように、十夜雪咲が微笑む。
「いつまでも燻っているより、私たちと居たほうが楽しいわよ?」
沈黙が下りる。誰一人として言葉を発さず、身じろぎもせず、まるで時が止まったかのようだった。
『……つまらぬ。白けてもうたわ』
長い沈黙の後、土蜘蛛が呆れた様に声を上げた。その言葉に二人の表情が緊張で強張る。
『待て、土蜘蛛! 話を――』
『好きにせい』
焦る五坂の言葉に、土蜘蛛が声を重ねる。
『まったく。貴様の魂を喰ろうて狼娘ともう一戦交えようと思っておったのだが……。もう色々と、どうでも良くなってしもうたわ。まぁ、せっかくの肉体も貴様のせいでボロボロであるしな、小娘』
土蜘蛛の魂がふわり、と十夜雪咲に近づく。
『勘違いするでないぞ。しばし貴様の中で休ませてもらうだけじゃ。不甲斐ないところを見せれば、いつでも内側から喰ろうてやるから覚悟せい』
少女はくすりと笑い、ゆっくりと、迎え入れるように腕を広げる。
「あら怖い。じゃあ怒られないように、精いっぱい頑張らないとね」
『……ふん。ほんに喰えぬ小娘じゃ』
土蜘蛛の魂が十夜雪咲の胸にすっ、と染み込む。
『せいぜい、わらわを楽しませておくれ』
胸に響く土蜘蛛の言葉を聞きながら、意識が再び闇の中へと落ちて行く。
瞳が閉じられる刹那。その眼に映ったのは、五坂敬祐の変わらぬ優しい笑顔だった。