表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/30

蜘蛛の餌

「駄目だ。土蜘蛛討伐は許可できない」


 土蜘蛛の影とやりあった翌日。夕方を超えてようやく事後処理を終えた二扇警視達と話をする事ができた。場所は通いなれたログハウス風の喫茶店。その最奥の席で二扇警視の冷たい声が上がる。


「どうして!? 顕現が不完全な今なら叩ける!」


 思わずテーブルに手をついて声を荒げてしまった。カウンターの中からこちらを窺い見る店主の視線がちくりと刺さる。


「落ち着け月宮。相手が本当にあの大禍津神〝土蜘蛛〟であるなら、あまりにリスクが高すぎる。俺達がするべきことは正面から立ち向かう事では無く、奴の顕現をこのまま阻止し続ける事だ」


 大禍津神〝土蜘蛛〟。

 天皇の支配に逆らう〝まつろわぬ者〟としての土蜘蛛に関する文献は日本各地に数多あるが。妖怪としての土蜘蛛は十四世紀頃に書かれた絵巻物〝土蜘蛛草紙〟に端を発する。


 多くの禍津神を従え、時に人に化け、その糸で絡め取り、そして喰らう。物語の中では源頼光により退治されたとあるが、それで土蜘蛛の存在が消えたわけではない。

 この世に、強大な力により虐げられた人々の恨みの念が存在し続ける限り、大禍津神としての土蜘蛛が消え去ることは無い。


 人間に土蜘蛛を完全に調伏する事はできない。それは天災を完璧に制するという事と同義である。つまり、不可能なのだ。

 人間にできる事は土蜘蛛という存在を避け続ける事である。決して立ち向かうべきではない。


「陣の解呪は既に始まっている。目立った妨害も無く、だ。既にこちらの勝利は決まっているんだ。仇を取りたいお前の気持ちも理解できるが、ここは抑えろ」

「それが大人のやり方って訳!? そうやって問題から目を背けて、敵わなそうなら見逃して! なんてズルい! それで、奪われた人たちの気持ちはどうなるっていうの? 被害者の無念は、遺族の悲しみはどうなる? ただ目を伏せて、歯を食いしばって耐えろとでも言うの!?」


 怒りの暴風が収まるのを待つように、二扇警視はゆっくりとコーヒーを傾ける。そうしてたっぷりと間を置き、そして口を開く。


「もう一度言う。土蜘蛛討伐は許可しない。誰もがお前のように戦える訳じゃないんだ」


 血液が沸騰したような感覚に襲われた。目の前が真っ白になる。この状況にはかなり腹を立てていたが、消極的な二扇警視の態度は更に頭に血を昇らせた。


「もういい! 勝手にやらせてもらうわ!」


 テーブルに千円札を叩きつけ、早足で店の扉をくぐる。戸惑うような店主の「ありがとうございました」を背中に聞きながら、街へ飛び出した。


 何もかもが腹立たしい。携帯電話を弄りながら歩く若者。自販機の陰に固まって携帯ゲームを突き合わせる子供たち。牛よりものんびり歩く老人。横に四人並んで道を占領する女学生の群れ。


 平和な日常。昨日と同じ今日。なんて事ない一日。

 彼らは今日に何も感じない。過ぎ去った昨日はもう記憶にもない。そうして眠れば代わり映えの無い明日が来て、欠伸をしながら歩いていく。

 腹立たしい! 自分達の足もとで何が起きているかも知らないで!


 ……でも、本当に腹が立つのは自分自身だ。


 特災の協力が得られない。ただそれだけの事で、もう私は手詰まりになってしまった。

 学園地下に眠る土蜘蛛の繭。それを守る結界を力技で打ち破り、叩く。恐らく私には可能だ。しかしそれをすれば、成就せずにあぶれた呪力の反動で、術者に仕立て上げられた十夜雪咲の命は無い。


 人間一人と街一つ。本来なら比べるまでもない。少し前の私なら、こんなに悩む事も無かった。


 そうだ、なぜ私は悩んでいるのだ。人の命なんて、結局のところはただの〝数字〟でしかない。数多く救える方を選ぶのは当然の事だし、選び取る力のある者が背負うべき責任だとも思う。


 それでも、私は迷っている。なぜだろう。何が引っかかっているのか。


 ……あぁ、そうか。このまま十夜雪咲を死なせれば、この事件を仕組んだ〝魔術師〟の思うつぼだからか。術の反動を十夜雪咲一人に全て押し付け、真実は闇に消え、魔術師は逃げ果せる。私にはそれが許せないのだ。きっとそうだ。


 では、魔術師を見つけ出して直接叩くか?

 いや、それができるならとっくに二扇警視と亀子さんがそれをしている。特災にできない人探しが、私個人にできるとは到底思えない。

 そもそも、土蜘蛛を倒したいと思うのは私の我儘だ。倒す必要など全くない。悔しいが、二扇警視の言うとおりだ。


 でも、納得なんてできない。何もかもが許せない。大人しくしているなんて不可能だ。

 しかし、私一人ではどうしようもない。たとえ古狼の力を持とうとも、武力だけでは解決できない事柄が人間には多すぎる。


「……くそっ! どうすれば良い……!!」


 行き場のない憤りは、胸に渦巻いて私の心を炙り続ける。



            ◆



「良かったんですか? 怒っていましたよ、月宮さん」


 ひたすらに黙って二人のやり取りを聞いていた七尾が、陽光へ消える月宮の黒髪を見送ってぽつりと声を零す。それを受ける二扇の顔は酷く渋かった。

「不要なリスクを背負う事はできない。たとえあいつの頼みでも、だ。言わせるなよ」

「ま、しゃーねーですよね」


 七尾がカフェオレに口をつけながら肩を竦める。


「で、まさか土蜘蛛の召喚陣を解呪して封印して……、それで終わりって訳じゃねーですよね」


 当然だ、と二扇が拳を握る。そうしなければ、渦巻く炎のような憤りが爆発してしまいそうだった。


「しかし、相手は実に巧妙です。影も見せねーですし、どうやって探したものやら」

「何年かかっても見つけ出すさ。それに――」


 短く鼻を鳴らし、二扇が背もたれに身体を預ける。中指で銀縁の眼鏡を押し上げ、再び開かれたその眼が刃のように鋭く光る。


「そのためにお前が居るんだろうが。〝精霊遣い〟」


 水を向けられた七尾が自嘲気味にくすり、と笑う。


「結局、何の助けにもなりませんでしたけどね」

「それでも土蜘蛛の術に気が付けたのはお前のおかげだろう。どのみち五坂は助からなかった。月宮に大事が無かっただけでも大手柄だ。まさか影だけであれほど強いとはな」

「そういって貰えると助かりますね。偵察能力は高くて扱いやすいのですが、戦闘能力はからっきしですからねぇ。それに、報告をサボる癖までありますし。私の――シャックスは」


 全ての祓い屋を束ねる警視庁特殊災害対策室、通称〝特災〟の室長補佐、七尾亀子警部補の使用術系統は〝使役〟。

 精霊と意思を交わし、契約し、時には捻じ伏せ、そして分身として操る〝精霊遣い〟。それこそが七尾亀子の能力である。


「学園に居た精霊たちはどうした? やはり……喰われたか?」

「ええ、土蜘蛛の仕業でしょうね。自分で餌を集める程度には成長しているみてーです。……可哀想に」


 舌打ちをしながら、七尾が最後に小さくつぶやく。精霊遣いにとって精霊たちと心を通わせる術は何よりも重要である。そのため、輪郭のはっきりしない概念的な存在である精霊たちに対しても、七尾は親愛の情を深く抱いていた。


「ま、そのおかげで学園の主との入れ替わりがスムーズに行ったんだからな。結果オーライだ」

「……やめてくれませんかね、そんな言い方。ってかやめろ」


 刺すような七尾の視線を受け流しながら、二扇はコーヒーを傾ける。


「十夜雪咲はどうしている。まだ引きこもっているのか?」

「五坂の死を受けて、更に縮こまっちまいました。色々話を聞きたいところですが、まだしばらくは無理じゃねーですかね」

「十夜家の忌子……か。不憫な娘だ。下手に才能があったが為に踏み台にされるとは」


 月宮は二扇達に十夜雪咲との関係を一言も話してはいない。しかし、特災の二人は月宮一葉、十夜雪咲、五坂敬祐の関係性を把握していた。そしてこの事件にどう関わっているのかも。


 強大な力を持ちながら自分勝手に動き回る狼娘、月宮一葉に首輪を付けないはずは無いのだ。もっとも、そのチャンスに恵まれたのは月宮達が十夜雪咲の屋敷で食事会を行った後からであったが。

 そして月宮に〝シャックス〟という首輪を付け、事態の全容を把握するに至った。


「事情を知らねーふりってのも大変ですが、ともかく十夜雪咲の保護を優先しねーとですね。あの才能は危険です、これ以上悪意に利用されることは避けませんと」


 そうだな、と二扇が小さく頷く。


「なぁ七尾。あいつと……月宮と五坂は、友達……だったのかな」

「さぁ? 知らねーですけど、なんですか突然」

「初めてなんだ。月宮が金銭トラブル以外であれほど怒る所を見るのは」


 それはまた、と七尾が苦笑いで返す。しかし二扇は神妙な表情を崩さない。


「あいつにとって、お金に拘るという事は〝自分は人間だ〟という事の証明に他ならない。だから執着する。金を必要とするのは人間だけだからな」

「まぁ、そうですね」


 なんでも無いというような顔をして、実のところ月宮一葉は誰よりも気にしている。自分が人間とも精霊ともつかぬ半端者だという事を。昔から傍で見て来た二扇には、痛いほどそれが解る。


 人の領域を遥かに超えた力を持ち、しかし誰の協力も必要ないほどに無敵ではない。人の世に身を置きながら、しかし心は精霊の、古狼の精神に引っ張られる。

人にも精霊にも成り切れない半端者。その事実に戸惑い、狼狽え、だが誰に相談することもできず、得体のしれない不安に身を焦がす狼少女。


「あいつには感情の機微と言うものが理解できない。どれだけ人間社会の中に居ようとも、あいつはただ一匹の狼なんだ。他人の事なんてどうだって良い……はずだった」


 そんな月宮一葉が、奪われた者の心情を察して怒っている。いや、そうではない。

 今、彼女の心中に渦巻く憤怒の炎。それは彼女自身が、大切な〝何か〟を奪われた事に対する憤りに他ならない。


「精霊や禍津神の事を知っていて、しかし特災とも祓い屋とも関係のない同年代……。それがどれほど得難いものか……。きっと、初めて〝友達になれるかも知れない〟と思ったんだろうな」

「しかし、目の前でそれを奪われた。自らの手でその胸を貫かなければならないというおまけ付で。ひでー話ですね」


 学園の地下に広がる十夜家の地下蔵。そこで五坂を一目見た段階で月宮は気が付いたはずだった。


 もう、生きてはいないと。もう、返らないのだと。


 しかし彼女はその事実を否定した。そして自らの嘘を信じ込もうとして、五坂の母親と契約を交わした。決して果たすことのできない契約を。その事実が、更に彼女の胸を焼いている。


 たとえ土蜘蛛を倒しても、この一件を仕組んだ魔術師を断罪しても、五坂は決して還らない。一瞬で過ぎ去ってしまった、また迎えることができたかも知れない、三人で笑い合う日々はもう来ない。


「起きたことはどうしようもない。失ったものは返らない。そうあいつに言った所でなんになる。俺には慰める言葉もない。せめて、気持ちに区切りを付けられる何かがあれば良いが……」


 二扇がすっかりぬるくなったコーヒーを一気に呷る。舌に纏わりつくような酸味が広がる。

 きっとそのせいだ。胸がこんなに苦しいのは。


「せめて……泣けると、良いですね」


絞り出すように呟いた七尾の言葉は、果たして誰に向けられたものだろうか。



            ■



 行く当ても無く街を歩く。

 如何にして土蜘蛛を倒すか、いくらその事を考えようとしても思考は霧散するばかりで、まるで形を成さない。

 認めたくはないが、やはり自分でも理解しているのだ。戦う事に意味は無いと。


 戦って、仮に勝てたとして、それでどうなる。


 どうにもならない。失われた者は返らない。


 ふと足が止まる。辺りの景色には見覚えがあった。


「あれ。ここは……」


 目の前にあるのは、五坂が母親と二人で暮らしていた小さなアパート。

 部屋の間取りは1LDK。二人では少々手狭なあの部屋も、今では持て余すほどに広く感じているに違いない。


 あの小さくて華奢な五坂の母親は、今どうしているのだろう。

 小さい体を更に丸めて、泣いているだろうか。それとも、突然全てを奪い去った理不尽な暴力に憤っているだろうか。

 あるいは、私のように途方に暮れているのだろうか。


 それにしても、無意識とはいえ何て場所に来ているんだ、私は。仮に五坂の母親と出くわしてしまったら、どんな顔をすれば良いのか解らない。

 どうしようもない後ろめたさで背を向ける。その時、背後でドアノブを回す音と、二つの声が上がった。


「それでは、また伺います」

「よろしく、お願いします」


 反射的に電柱に身を隠す。野良犬か私は。

 しかし、二つとも聞き覚えのある声だった。一つは五坂の母親のもの。もう一つは……。


「あれは確か虎洞会の……鍵森四凪?」


 上等なスーツに帽子、そして磨きこまれた革靴。糸のような細目に、口元に張り付いた胡散臭い微笑み。見間違いようもない、私にハンズマンから手を引けと戯言を言ってきた虎洞会の手先だ。こんな場所に、一体何の用だと言うのか。


 玄関のドアが閉まるのを待って、電柱から身を晒す。鍵森は特に驚いた風もなく、丁寧にお辞儀などをして見せた。いちいち気障ったらしい。


「これはこれは。奇遇ですね、月宮さん」

「何が奇遇なもんですか。五坂の母親にちょっかい出そうったって、そうはいかないわよ」


 虎洞会がどういうつもりなのかは知らないが、不必要に事態を掻きまわすつもりなら無視はできない。確認しておく必要がある。


「心外ですねぇ、もちろん仕事ですよ。表の方の、ね」


 祓い屋の仕事というのは人間社会の深い闇、更にその裏側で行われるものである。堂々と「僕たち祓い屋です」などと名乗れはしないのだ。

 ゆえに、多くの祓い屋は外向きの看板を持っている。神社や寺。時に占い師や探偵。そして一番多いのは〝葬儀屋〟だ。

 そして虎洞会もその例に漏れず、葬儀屋としての看板を外向けに掲げていた。


「……まったく、抜け目ないというかなんというか」

「それこそ心外ですね。死者の成仏の為に、遺族の心の整理の為に、葬儀は絶対に必要です。しかし多くの人はそれをどう行うべきか解らないし、粛々と行えるほど冷静でもいられない。これは言わば人助け、ですよ」


 相変わらず良く口の回る男だ。確かに言っていることは正しいのかも知れないが、この男が言うと性質の悪い冗談を言っているようにしか聞こえない。


「それにしたって気が早すぎでしょう。五坂の身体が帰ってくるのは、三日は先になるはずよ」


 そう、五坂の身体は警察署内の遺体安置所で厳重に封印されている。というのも、禍津神に憑かれた遺体というのは魂の器に穴が開いているような状態だからだ。そこへ〝死霊〟と呼ばれる類の禍津神が新たに入り込むと、それは曰くゾンビと呼ばれるような代物に成り果てる。

 ゆえに禍津神に憑かれた果てに死に至った遺体は、すぐさま焼き払うか禍津神が新たに入り込む隙を埋める必要があり、その作業にはしばしの時間が必要なのだった。


「もちろん存じておりますよ。それでもあの日本を代表する大財閥である十夜家の関係者ですからね。準備は万全に致しませんと」


 大仰に腕を広げて見せる鍵森に冷たい視線をくれてやり、背を向ける。やはり、話をしていて気持ちの良い人種ではない。有体に言えば、生理的に受け付けない。


「十夜家と言えば、十夜雪咲さんはお元気ですかねぇ」


 背中を撫でるような声が投げかけられた。本来なら無視する所だが、しかし鍵森が口にした名前は聞き逃せないものだった。

 たまらず振り返った私に、鍵森は満足そうに微笑んで見せる。


「お一人になってしまい、さぞ悲しんでおられるでしょうね。貴方がお友達になられて差し上げては如何ですか」

「……あんたにとやかく言われる事じゃないわよ」


 それはそうですがね、と鍵森が嫌らしく喉をひくつかせる。


「十夜家と言えば……、少し前までこの土地に十夜家の本邸があったことはご存知ですか」

「ご存知ですとも。それが何よ」

「それは話が早くて助かりますね。では、十夜家が何で財を成したかはご存じで?」


 私はかぶりを振る。知るかそんな事。


「過去の大戦中、このあたり一帯には戦闘機のエンジンを作る工場が立ち並んでいましてね。その中でも一際技術に秀でていたのが、十夜財閥の前身である十夜重工です。たちまちに十夜家は力をつけ、この街は十夜家のお膝元として一大工業地帯になりました」


 突然歴史の講釈が始まった。一体この男は何がしたいのか。

 首を傾げる私を無視して、鍵森は言葉を続ける。


「さて、そんなこの街がなぜ発展できずに廃れてしまったのか。解りますか」

「知らないし、興味ない。何なのよ、まったく」


 不機嫌を隠さず歯を剝いて見せる。しかし鍵森はまるで動じる様子が無い。


「背の高い建物を建てられないんですよ。地面の下に広がる〝あるもの〟のせいでね」

「あるもの?」


 思わず聞き返してしまう。何普通に会話しているんだ、私は。そうは思っても、なぜか耳を離せない。


「防空壕ですよ。この街の地下全体に張り巡らされています。それはもう、政府も把握しきれないほどあちこちに、広大に」


 なるほど、軍事工場が密集する地域となればさぞ頻繁に空爆に見舞われた事だろう。大規模な工場を稼働させるには多くの人間が必要であり、故にそれらの工員とその家族、そして資材や完成品などを隠すために大規模な防空壕が必要だったに違いない。

 思えば学園の地下に広がる空間も、ただの蔵と言うには異様なほどに広大であった。おそらくは蔵と言うよりも、有事の際の避難場所であったのだろう。


 それにしても、解らないことが一つある。


「……で? だからなに。一体何が言いたいの」


 鍵森がくつくつと肩を揺らす。


「いいえ別に? 美しい貴方と少しばかりお話をしたくなりましてね。僭越ながら、この土地の歴史を語らせて頂いただけです」


 右手を胸に当て、わざとらしく鍵森が腰を折って深くお辞儀をする。こいつ、どこまで馬鹿にすれば気が済むのか。

 もはや怒りを通り越して呆れてくる。無駄にした時間は犬にでも噛まれたと思って諦めよう。


 再び背を向け、今度こそ立ち去る。「おや、もうお帰りですか?」と性懲りもなく鍵森から声がかかるが、もう振り向く事もない。


 思えば、昨晩の一件から一睡もしていない。流石に疲労も無視できない。一眠りすれば、この酷く淀んだ気分も少しはマシになるだろう。帰ろう、家に。



            ◇



 疲れた様な足取りで歩いていく月宮の背中を見えなくなるのを待って、鍵森が口元を歪める。


 準備は全て整った。いよいよだ。


 白く濁った夜が来る。紅く染まる夜が来る。満願成就の夜が来る。


 二十年願い続けた。四年かけて準備をした。そして様々な偶然と多少の幸運、それが重なりあって場は整った。この時を待ち焦がれていた。


「招待状は確かにお送りしましたよ、月宮一葉。では、また今夜」


 そしてもう一度、鍵森が言葉を零す。大地に向かって。いや、この街に住まうもの全てに向けて。


 蜘蛛の餌には、何が良い?


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ