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蜘蛛の糸

 刷毛で塗りつぶしたような闇が広がっている。

 お茶の間はまだゴールデンタイムを少し過ぎた辺りの時刻だというのに、この東京の片田舎は既に深い眠りに落ちていた。


 隣街とこの街を繋ぐ鉄橋の橋げたに腰掛けて時を待つ。足元には真っ黒な川がさらさらと音を立てて流れている。


 戦闘に備えて着替えて来た黒いトレーニングウェアの懐から一冊の文庫本を取り出し、目深にかぶったフードを剥ぐ。そして頭上に据え付けられた電灯の明りを頼りに、ページを捲り始めた。


 世界の果てのような暗闇のなかで、紙の擦れる音と電灯の唸り声だけがやけに大きく夜に響く。

 次のページを捲ろうと手を伸ばす、しかし不意に降り立った頭上の重みにその動きを止められた。


「……ちょっと。いま良いところなんだけど。っていうか乗らないでよ」


 私の文句を気にした様子もなく、シャックスが小さく一鳴きする。


『本当に一人デ良かっタのカ?』

「一人の方が気楽なの……よっ!」


 頭上のシャックスを叩き落とそうと手を振るが、小賢しいカラス野郎は器用にそれを避けて再び私の頭に乗っかった。この黒曜石のように美しい髪が傷んだらどうしてくれるつもりだ。


『来ルかナ。あノ兄ちゃン』

「来るわよ。私、意外とくじ運は良いの」


 運が良イ、ネぇ。と含むようにシャックスが呟く。まぁ運などに頼らずとも、五坂はここに来るはずだ。

 二扇警視達には黙っていたが、今この街を囲っている魔法陣は、十夜雪咲が持っていた若草色の本の最終ページに記されていたものと酷似していた。手順通りに描くなら次はこの場所で間違いないのだ。


 大きくため息をつき、今度こそページを捲ろうと手を伸ばす。が、またもそれが叶う事は無かった。

 闇が微かにざわついた。腐った水のような瘴気の匂いが、地を這うようにして広がってくる。


『来タ……か』


 シャックスの声には応えず、本を置いて橋げたから飛び、河川敷に降り立った。柔らかい芝生と土の感触を足裏に感じる。

 やがて闇の向こう側から、滲みだすようにして若い男性の姿が現れた。


「こんばんは、五坂。お姫様の世話を放り出して夜のお散歩かしら」


 両手を軽く開き、五坂に軽い挨拶を向ける。しかし俯いたままの五坂は何も応えない。

 ずるり、と何かを引きずりながら五坂がもう一歩を踏み出す。その手に掴まれたものを見て、思わず顔を顰めた。


 男としては少し細めの五坂の指の隙間から、長い黒髪が無数に溢れ出ている。そして掴んでいるのは髪だけではない。頭部があり、胴体がある。紛れもなく人間の女性だった。


『手遅れだナ』


 右肩に降り立ったシャックスが耳元で囁く。


「……(なに)(よう)だ」


 地の底から響くような、底冷えのする声音だった。それが五坂の口から発せられたものだと理解するまで、すっかり数秒を要するほどに。


「その身体を返して貰いに来たのよ。無理に追い出されるのはそちらも痛いでしょう。どうかしら、大人しく明け渡してくれない?」


 まずは動きを止め、体内から五坂に憑いた禍津神、〝腑喰らい〟を祓い落とす。私に憑物落としはできないが、二扇警視と亀子さんにでも引き渡せば首尾よく取り計らってくれるだろう。


 ともかく、無事に私の所へ来てくれてよかった。あの二人は危険と感じれば憑物を無理に捕えようとはせず、〝腑喰らい〟ごと五坂を始末に掛かるだろう。決して二扇警視と亀子さんが冷徹なわけではない。禍津神に憑かれた者を捕えるという行為は、それほどまでに危険なのだ。


 五坂――いや、五坂に取り憑いた〝腑喰らい〟からの返答はない。まぁ大人しく捕まってくれるとも思っていなかったけれど。


「仕方ない、骨の二、三本は覚悟してもらうわよ」


 腰を落とし、古狼の力を全身に巡らせる。爆発するように湧き上がった霊力が、周囲の芝生を巻き込んで旋風のように立ち上る。


「おや? その霊力は」


 呑気な〝腑喰らい〟の言葉を待つことなく、一息に肉薄して五坂の右肩を狙って爪を突き出す。だが私の腕は空中に〝縫い付け〟られ、完全に動きを封じられてしまった。


「なっ!? くっ、なにこれっ……!」


 突然の出来事に理解が追いつかず、激しくもがいた。無理に動かそうとした左腕に何かが食い込み、鮮血が噴き出す。私の腕を封じていた何かに血液が伝い、その姿を浮き彫りにした。


「糸……!?」


 軽く曲げた人差し指を口元に当て、相変わらずの低い声で、しかしまるで女性のような仕草で〝腑喰らい〟がくつくつと笑い声を漏らす。


「遊んでおるのか? 古狼よ」


 右手の爪で絡んだ糸を切り払い、後ろに跳んで距離を取る。

古狼? 確かに古狼と言ったか。五坂に憑いている〝腑喰らい〟は古狼と顔なじみなのだろうか。それにこの流暢な語り、相当の上級であろう。それにしても……。


「糸なんていつの間に? そんなそぶりは無かったのに」


 刻まれた左腕の痛みに耐えながら低く唸る。


『おイ、狼の嬢ちゃン。眼ヲ使っテ良く見てみロ』


 古狼の力を瞳に漲らせ、紅が差した眼で闇夜を睨む。〝腑喰らい〟の周囲に細い霊糸が張り巡らされているのが見えた。糸をかけるような物が何もないこの河川敷に、しかし網のようにしっかりと張られている。妙な術だ。


「厄介ね……」


 どう攻める? 糸の強度は身を以て示したばかりだ。無策に突っ込めば解体されかねない。


「何を驚いたような顔をしておる。幾度となく()りあったわらわの術、千の時を経ようとも忘れる物ではなかろうて」


 妖艶な微笑を湛えながら、〝腑喰らい〟が糸に絡みついた私の血液を指ですくい、口に含む。


「……人の霊力、だと? いやしかし、古狼の霊力も確かに本物。貴様、一体〝何〟だ」


 人か、それとも精霊なのか。〝腑喰らい〟が眉根を寄せながら問うてくる。


「私はただの〝ツキモノ〟よ。焼き祓え! 炎符!」


 懐から一万八千円(税別)……では無くて、私が唯一扱える呪符である〝炎符〟を取り出し、霊力の網に向かって投げつける。

 炎符は飛翔半ばで破邪の力を孕んだ紫の炎に包まれ、一つの火炎弾と化した。そして網に触れると同時に炸裂し、闇夜が紫の閃光に満たされる。


「符術……! 貴様、祓い屋か! 古狼を喰ったというのか!?」


 紫炎の向こう側で〝腑喰らい〟が声を張り上げる。


「半分貰っただけよ! 人を悪食呼ばわりしないで欲しいわね!」


 霊糸の網が焼失したことを確認し、腰を落として駆けだす。刺すような熱を感じながら紫炎を潜り抜け、〝腑喰らい〟を目視で確認する。まずは腕を狙って無力化を図る。


『伏せロ!!』


 シャックスの声で攻撃に集中していた意識が解け、眼前に迫る霊糸に気が付くことができた。


「ちょ、のぅわぁぁぁ!!」


 まさに間一髪。リンボーダンスのように上体を仰け反らせ、霊糸の下を掻い潜る。それでも捕えられた数本の前髪が宙に舞った。あぁ、私の美しい髪がっ。


「ふん。あと一歩で首を落とせたものを」


 口元を手で覆い隠し、口惜しそうに〝腑喰らい〟が呻く。

 一体どうなっているのだ。また何の動きも無しに空中に霊力の糸が張られた。どんな術にも予備動作が存在するはずだ。どのようなカラクリだと言うのだろう。


「もう一度聞くぞ。小娘、貴様は何だ? どうやって古狼の力を手に入れた」


 攻めあぐねる私に〝腑喰らい〟が不機嫌さを剥き出しにして問いかける。


「……小さいころに、滑落事故に遭ってね。崖下で死にかけている所を古狼に助けられたのよ」

「人助けだと? あの戦闘狂がか? 信じられぬな」


 言葉を交わす間にも、〝腑喰らい〟とその周囲を注意深く観察する。どのようしてあいつが糸を張っているのか、そのヒントを必死に探す。会話は時間稼ぎだ。


「はっきりとは覚えていないけれど、〝強くなり過ぎて退屈している。お前がまだ生きたいと思うなら、霊力の半分を魂ごとくれてやる〟って言っていたわよ」

「はぁ、なるほど。あやつらしい破天荒さじゃな。こちらは肉体をとうに失って、苦労続きだと言うのに……」


 額に指を当て、呆れたと言うかのように〝腑喰らい〟が首を振る。


「まぁよい、そろそろ仕舞にしようか。貴様を古狼の霊力ごと喰らえば、我の顕現も即座に成就しよう」


 微かな風切り音と共に、霊力の糸が眼前に迫る。切り払おうと右腕を振るうが、宙に舞う糸を断ち切るのは容易ではない。逆に爪に絡みつき、動きを封じられてしまう。

 まごつく私を追い立てるように、次々に糸が飛んでくる。禍津神は指一本動かしていないと言うのに。


「くっ――!!」


 炎符に霊力を宿らせて呪力とし、私の真上に放り投げる。そして、指を鳴らして起爆した。

 視界が閃光で真っ白に塗りつぶされる。破邪の紫炎が術者を焼くことは無いが、発せられる熱は別物だ。左腕で頭を庇い、歯を食いしばって熱波に耐える。果たして私に迫っていた糸の全ては焼き払われ、風に消えた。


「ほぅ? 無茶をする」


 〝腑喰らい〟は相変わらずの女性的な仕草で余裕たっぷりに嗤う。くそっ、いちいち癇に障る奴ね。

 いつの間にか逃げていたシャックスが私の肩に舞い戻る。


「どこかに行っていて良いわよ。邪魔だから」


 本当に邪魔でしかないカラス野郎に嫌味たっぷりに言う。


『冷てぇナ。さっキ助けタじゃネぇカ』


 そりゃまぁ、そうだけどさ。


『そレに逃げたクても出来ねェんダ。見えナくらイの細い糸ガ、空にマで張り巡らさレてイやがル』

「空……?」


 眉を潜め、腑喰らいを視界から外さないように留意してその頭上を睨む。

 注意深く見てもはっきりとは確認できないが、確かに糸のような物が……? あんな場所にも糸を張っているのか。一体何の為に?


 いや、上空だけではない。右にも左にも、縦横に極細の糸が張り巡らされている。

 その時、極細の糸の上を何かが走った。物凄く小さい。米粒よりも少し大きいくらいか。


 更に強く古狼の力を瞳に漲らせて、睨む。細い針のような物が八つ生えている。よくよく見れば、その小さな何かが無数に闇夜の向こう側で蠢いている。


 ……嫌な予感が……。


「よし、見なかった事に」

『しチゃ駄目ダろウ!? ドう見てモ蜘蛛ダ! 糸はアいつ等が張っテたんダ』


 種が解れば単純な話だ。禍津神は何もしていないように見えていたのではない、真に何もしていなかったのだ。あの小さい蜘蛛の禍津神は、五坂の身体を乗っ取っている〝腑喰らい〟の分体か。


 まずは本体が見えないほどに細い霊糸を広大な範囲に張り巡らせ、そこに分体の小蜘蛛を這わせる。次に、その小蜘蛛が攻撃用の糸を張る。簡単な話だ。


 思えば、警察署内の遺体安置所で〝腑喰らいは群体の禍津神〟だと言ったのは私自身ではないか。なぜ失念していたのだろう。自分でも気が付かないうちに、五坂の一件では私はそれなりに動揺をしていたらしい。


 ともあれ、こうなれば話は解りやすい。あの小蜘蛛を焼き払って一気に肉迫、〝腑喰らい〟を無力化する。

 群体の禍津神と言う物は、本体を倒せば分体も全て無力化される。全体で一つの禍津神なのだ。攻撃は分体が、その指揮は本体が、といった具合だ。最近では登校初日に私を襲った〝影の刃〟が群体の禍津神だと言える。


 しかしここで唯一にして、最大の問題が立ちはだかる。


「蜘蛛怖い……蜘蛛嫌い……。って言うか、虫がもう無理……」

『言ってル場合カ!?』


 シャックスが鋭く突っ込みを入れてくる。そう、私は虫が大ッッッ嫌いなのだ。

 周囲を小さい蜘蛛に囲まれていると思うだけで、全身を撫でるような怖気が止まらない。


「うぅ……。し、仕方ないわね。一秒でも早く終わらせましょう」


 懐から炎符を三枚取り出し、霊力を宿らせて〝腑喰らい〟の頭上へ向けて投げ放つ。

 握りこぶしから人差し指と中指だけを立てた形の印を作り、宙に三角を描いてその中央を突く。


「散らせ。洛陽(らくよう)散華(さんげ)


 三枚の呪符が飛翔半ばで紫の火炎弾となり、何かに引っ張られたかのように突如その軌道を変えた。三つの火炎弾はそれぞれが別の方向へ、私と〝腑喰らい〟を包んでいた極細の糸を焼き払いながら飛び回る。

 糸に燃え移った破邪の紫炎が、天幕のように広がる。一瞬の煌めきに〝腑喰らい〟の苦虫を噛み潰したような表情が照らし出された。


「おのれ! 気づきおったか!」


 はらり、と地に落ちた糸の隙間を縫って〝腑喰らい〟に肉迫し、爪を突きだす。今度こそ――。

 って、あら?


「わらわ一人ならどうとでもなる、とでも思っておったか? 浅はかよの」


 〝腑喰らい〟が腕を振るい、古い蝶番が軋むような音が響く。またも私の腕は空中に縫い付けられた。あぁもう! 


「このっ――!!」

「おっと、そうはいかんな」


 左腕に絡んだ糸を切り払おうと右腕をあげたところで〝腑喰らい〟の指から伸びた糸に絡め取られてしまった。そのまま腕を吊りあげられ、宙に磔にされた。

 こいつ、予想以上に……。


 強い――!!


 トリッキーなようで迎撃型の正攻法。技に頼っているようで、力強い。古狼の力と符術を駆使して、こうまで届かないとは。一体何者だ。


「借り物の身体のくせして、結構やるわね」


 動揺を悟られ無いように、余裕たっぷりに微笑む。

 戦いの最中に、弱気を覗かせる事は絶対にしてはならない。それは相手を勢いづかせるだけだから。お師さまの教えだ。


 ぼとり、と重い音を立てて足もとに何かが落ちてきた。糸に絡め取られたシャックスが、もぞもぞと芋虫のようにもがいている。


「…………。何やってるの」

『……面目無イ』


 どうやら絡んだ糸を切ってもらう事は望めないらしい。本当に役に立たないわね、この地獄の大侯爵様は。

 洛陽散華も呪力が尽きたし、さてどうしよう。奥の手に頼るしかないかな。後は、それを使うタイミングだが……。


「さて、今宵の食事は女子(おなご)一人に半端者が一人。そして悪魔殿がお一人、か。悪くは無いのぅ」


 汚泥のような笑みを浮かべながら、〝腑喰らい〟がにじり寄る。やめろ、その身体でそんな顔をするんじゃない。


「そういえばお主、おかしな事を言っておったな。この身体を返せ、だったか?」

「そいつの帰りを待っている人が居てね。連れて帰らなくちゃならない。そういう契約だから」


 ふむ、と〝腑喰らい〟が首を傾げる。


「持って帰ってどうするのだ?」

「どうするって……。というか、持って帰るって何よ」


 〝腑喰らい〟が不意にシャツを捲って、腹を見せてきた……はずだった。しかしそこにあったのは、黒い〝何か〟であった。黒いインナーでも着ているのか。

 眼を細めてその黒い何かを睨む。そしてその正体に気が付いたとき。


「いっ――!? ひぃ!?」


 思わず喉の奥から情けない悲鳴が溢れ出た。

 黒いインナーだと思っていたそれは――腹の中で蠢く、無数の小蜘蛛だった。



「このわっぱの身体なぞ、とうに喰ろうてしもうたわ。ここにあるのはただの抜け殻よ」



 ……はっ? え、今、なんて?


「く……くっ、た。喰った……って……?」


 小蜘蛛が〝腑喰らい〟腹から湧き出し、腰から脚へと伝い、煙のように周囲に広がっていく。

 いや、腹からだけではない。口、耳、鼻。そして瞳から黒い涙のように。穴という穴から小蜘蛛が雲霞のごとく這い出してきた。


『やバいゾ狼の嬢ちゃン! 主に俺がヤばイ!』


 シャックスが悲鳴を上げながら、小蜘蛛の海に沈んでいく。しかしその声も私の耳には届いていなかった。


 死――、死んで、いる? 五坂が? 本当に?


「何を呆けた顔をしておる。気が付かなかったはずは無かろう? あの地下蔵で、この河川敷で、生きている人間の気配を感じたか?」


 制御には時間が掛かったがな、と微笑を湛えて〝腑喰らい〟が耳元で囁く。確かに五坂の声であるはずなのに、脳髄の芯まで凍り付かせる様な冷たい声音だった。


 〝腑喰らい〟が右腕を軽く持ち上げる。するとそこへ腹から這い出した小蜘蛛が集まり、黒い槍のような姿になった。その切っ先を私の腹部に当て、一息に振り上げる。

 身に着けていたトレーニングウェアが切り裂かれ、私の白磁のように美しい肌がさらけ出される。腹部から胸の谷間まで一筋の赤い線が走り、熱のような痛みに襲われた。


「この蜘蛛達をお主の腹へ直接捻じ込み、生きたまま五臓六腑の全てを喰らい尽くす。せいぜい良い声で鳴くがよい」


 ざわざわと蠢く黒い槍の先端を私の腹部にあてがい、〝腑喰らい〟が冷笑を受かべる。腹部から胸にかけて刻まれた傷から血液が一筋流れ、黒い槍に吸い込まれていく。


 〝腑喰らい〟の腕に力がこもり、槍の先端が皮膚の下へ潜り込んだ。一瞬の鋭い痛み、そして傷口をヤスリで削られるような激痛が次いで私を襲う。


「いっ――たっ……!!ぐ、このっ……!!」


 傷口を押し広げて小蜘蛛が私の中へ侵入しようとしている。もう猶予は無い、ここの奥の手を使わなければ私は終わりだ。しかし……。


 なおも迷っていると、不意に腹部から痛みが遠ざかった。黒い槍が離れたのだ。一体なぜ、と思っていると、〝腑喰らい〟が苦悶の表情を浮かべて呻き始めた。


「ぬっ!? 腕の、制御が、利かぬ……! わっぱ、まだ、抵抗するか……!」


 震える右腕を抑えて〝腑喰らい〟がもがく。何か起きている?

 困惑しながら五坂の顔を見つめる。濁っていたその目に、ほんの少しだけ光が宿るのが見えた。


「や、やれ、やってくれ……! 頼む、から……っ!!」

「五坂……? 五坂!? あんた、まだ意識が!?」


 私のすがり付くような声に、しかし五坂はぎごちなく首を振る。


「とっくに、手遅れ、だよ……。こいつが〝抜け〟れば、僕も……」


 それは、その通りだろう。

 今、五坂の身体を動かしているのは、入り込んだ〝腑喰らい〟だ。その禍津神が消え去れば、五坂の身体はすぐに耐えられずに死に至る。


 いや、もうとっくに死亡しているのだ。今こうして話ができているのは、その魂がまだ縛り付けられているからだ。もはやどうにもならない。ならば、一刻も早く終わらせてやるのが情と言うものだろう。


 しかし、頭ではそうと解っていても、心がそれを許さない。

 なぜだろう。迷っているのか。他人の死など、何ともないはずなのに。手遅れと判断すれば、人質ごと禍津神を倒すことも厭わないはずの、この私が。


「や、れ……」


 五坂の瞳が瞬く。〝腑喰らい〟の支配がその力を取り戻しつつあった。


「やれ! 終わらせてくれ!」

「五坂……っ!!」


 瞬間、五坂の瞳から完全に光が消え去った。支配を取り戻した〝腑喰らい〟が憤怒の表情を浮かべる。


「えぇい! 潜んで機会を伺っておったか、小賢しい! だがもう手遅れよ!」


 〝腑喰らい〟が黒い槍を私の腹に突き立てようと腕を振り上げる。

風を切って迫る切っ先。しかしその先端が到達する前に光の線が地面を走り、闇に沈む河川敷に巨大な五芒星を描き出す。


「符術!? 貴様、あらかじめ地面に仕込んでおったな!?」

「……燃え尽きろ、紫炎呪爆殺(しえんじゅばくさつ)


 震える指を弾き、起爆させる。閃光と共に一帯が破邪の紫炎に包まれた。

 ガラスを爪で引っ掻くような悲鳴を上げながら、小蜘蛛の海が塵に還っていく。そして紫炎は、五坂の身体に入り込んだ小蜘蛛も例外なく包み込んだ。


「グ、おォぉォッ!! お、オのレ、半端者、風情がァあぁァァァ!」


 破邪の紫炎にまかれながら、〝腑喰らい〟がもがぎ狂う。元は隙を作る事のみが目的だったので、威力を抑えるために広範囲に炎符を配置した。結果、倒し切るだけの火力が無いのだ。

 そのせいで〝腑喰らい〟が。いや、五坂が苦しんでいる。


「えェイ、あヤつメ! こンな、扱い、にクイ身体を! 寄越しオっテ! アと、一歩ノ――グっ……!?」


 糸が焼き払われて自由になった爪を、五坂の胸へと突き立てる。


五坂の身体から黒い霧のようなものが立ち上り、風に消えた。そして崩れ落ちるその身体を抱きしめるようにして受け止め、紫炎のチラつく地面にそっと寝かせる。


「……なんて、顔をしているんだい。せっかくの、美人が、台無しじゃ、ないか」


 切れ切れに、苦しそうに、五坂が言葉を紡ぐ。


「……ごめん……。私……」


 五坂が力なく首を振る。


「謝る、のは、こっちのほう、だよ。つらい事、ばかり、押し付けて……」


 震える唇で、無理やりに笑顔の真似事をして見せる。そうしなければならないと思った。


「安心なさい。お代は他からしっかり頂くわよ」

「はは。そっちの、方が……、月宮さん、らしいや」


 ごぼり、と五坂の口から血液が溢れ出た。いよいよ終わりが近づいている。


「頼みたい、事と、伝えたい……事がある」

「……聞きましょう」


 赤黒く濡れた唇を歪めて、五坂が微笑む。


「あいつを、雪咲を、頼む。我がままで、意地っ張りで、臆病で……。でも、良い娘なんだ。本当に」

「そうね。もう一つ、世間知らずって言葉も追加したいけれど」


 二人の掠れた笑い声が重なる。


「それと、この街を、喰らおうと……している、禍津神だ」


 眼を細めて五坂が言い募る。身体の支配権を奪われまいと抵抗しているとき、一体化しかけていた禍津神の意識が流れ込み、その正体を知ったというのだ。


 その名は――。


 とさり、と力なく五坂の白い腕が落ちる。

 細く密やかな息遣いが遂に消え、ほのかな気配が天に吸い込まれていく。

 願わくば、その旅路が穏やかであらんことを。


『アぁー、危ナかっタ。危うク焼き鳥にナる所だゼ』


 甲高くしゃがれた声でぼやきながら、シャックスが私の肩に舞い戻る。相変わらず空気が読めていない。

 シャックスの身体が小刻みに上下する。地獄の大侯爵様は首を傾げ、そのくちばしで私の頭を小突いてきた。


『なんダ。狼の嬢ちゃン。まさカ、泣いテいルのカ?』


 ……泣く? この私が? ありえない、そんな事。


「馬鹿言ってんじゃないわよ。この怒りをぶつける相手の名前が解って嬉しいだけよ」


 先ほど倒したの〝腑喰らい〟は、その禍津神が飛ばした〝影〟だ。まだ本体は健在である。


 牙をむき、その名を呟く。

 散々私をコケにしてくれた、憎むべき敵の名を。



「大禍津神――、土蜘蛛……!!」


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