地獄門
屋敷の正面玄関の扉をくぐると、地面の上で一羽の黒い鳥が私を待ち構えていた。
眩い太陽の光を背に、ぽっかりと空間に穴が開いてしまったかのような漆黒。額に備えた三つ目の瞳がきらりと光る。
『話ハ聞こえたヨ。なるホど、兄ちゃンは捕らわれたカ。見つからなイわけだナ』
「それより、十夜雪咲に何も変わった事は無いって言っていたわよね。どういうこと?」
シャックスが嘴を器用に振るわせて『カカッ』と呻く。もしかしたら笑ったのかも知れない。
『第二体育館とヤらに通うのハあの嬢ちゃンの日課ダ。いつモ通りダろう。そこデ起きた事なんテ俺はしらねぇヨ』
思わず額に手をあて、ため息をつく。何とも融通の利かない事だ。しかしそれも仕方ないのか。精霊に人間の常識など通用しないのだから。
「地下蔵の〝繭〟について何か情報は? 学園に現れた〝影〟と関係はあるのかしら」
『その〝繭〟の何かガ外の様子を見るタめに飛ばした〝影〟だろうナ。先に言っテおくガ、何者カ、なんて聞いテも解らネぇからな』
腕を組んで考える。手当たり次第に探しても五坂は見つかるまい。それより、私もその〝繭〟を一度直に見ておく必要があるのではなかろうか。何か得る物もあるかもしれない。
近くのバス停まで歩き、時刻表を確認する。学園へ向かう次のバスが来るまで三十分以上の間があった。これなら歩いたほうが早い。そしてそれが結果的に正解だった。
道の彼方にうっすらと白藤学園の正門が見えてくると、その前に三台の黒くて大きいワンボックスカーが停まっているのが見えた。目を凝らすと、その車両の周辺に見知った顔がいくつかある。特災の構成員だ。そしてその中にはグレースーツに一部の隙もなく全身を包み込んだ七尾亀子の姿もあった。指揮を執っているのだろうか。
なんにせよ、隠し事をしている今はあまり顔を合わせたくない相手だ。
仕方なく学園の裏手にある、学生寮などで使う各種品物の搬入口へと回り込むことにした。
『正面から入れネぇなラ、良い場所がアるゾ』
シャックスにそういわれて行き着いた先は、ぐるぐるにツタ植物が絡みついた古い鉄格子だった。一応監視カメラらしきものは鉄格子の右上で睨みを効かせているが、その役目を果たしては居ないだろう。
「ここは?」
正門と搬入口の丁度中間あたり、学園を取り囲む高い塀に沿って広がる雑木林に顔を突っ込んだ辺りに、その鉄格子は存在していた。
『あノ嬢ちゃンが夜中に使ってイる出入り口ダ。ここを抜ケればすぐに第二体育館だヨ』
錆びついた鉄格子に手を掛け、引いてみる。ツタ植物に絡みつかれて古びた見た目とは反して、軋みもなくするりと開く。
「何のために存在しているのかしらね、この裏口」
『速度重視ノ雑な工事だっタからナ。造ったハ良いガ、使わずに放置されテいルものが沢山ある。第二体育館もその一つダ』
図面を引き直す手間よりも、金を掛けることの方を選んだという事だろう。山一つ切り崩すのも厭わないほどに。しかし飾っているのは目に見えるところばかりで、細部にはまるで気が配られていない。この錆びついた鉄格子や放置された第二体育館がそれを物語っている。
壁をすり抜けるネズミの気分で学園の敷地内に踏み入る。目の前に現れたのは階段が片側だけについた小さなアパートのような建物。部室棟だ。こんな所に繋がっているとは。
ちょっとした探検気分を味わいながら、第二体育館を目指して歩く。数分もしないうちに辿り着いた鉄製の扉は、金属製のチェーンと南京錠で封印されていた。
この程度の施錠を破壊することは簡単だが、どこかに十夜雪咲の使っている出入り口があるはずだ。
第二体育館の壁に沿って歩いていくと、地面から八十センチほどの高さにある換気用小窓の一つが少し開いている事に気が付いた。サッシの土埃も少ないように見える。指を掛けると抵抗もなく開いた、本来あるはずの格子もない。
一応周囲に人が居ないことを確認して身体を滑り込ませる。息を吸い込むと、重く濁った埃臭い空気が胸に満ちた。
軽くせき込みながら、周囲を見渡す。体育倉庫の方から微かな呪力の流れを感じた。
倉庫の中に入ると何一つ物のない、がらんどうな空間であった。暗がりに目を凝らすと、床下収納の扉のようなものが見える。人一人がやっと身体を通せるような小さなものだ。呪力はそこから漏れ出てくる。
『そこガ地下蔵へノ入口みてぇだナ』
右肩に降り立ったシャックスが耳元で言う。緊張しているのか、それとも私に気を使ってか、ひどく小声であった。
「埋め立てるのも手間がかかるし、かといって完全に蓋をしてしまうもの気が引けてこんな半端な処理になった……って所かしらね」
扉を開き覗き込む。が、ただただ闇の塊が渦巻いているのみで何も見えない。そっと手を入れてみると指先に木の感触。下に降りる階段はあるようだ。
携帯電話の懐中電灯機能を頼りに足を踏み出す。入口は狭いが、それを抜けてしまえば後は意外にも広い空間が広がっていた。両腕を広げながら歩いても指先が触れないほどの広い通路を進んでいく。壁には煉瓦が敷き詰められ、天井には曇った電灯がぶら下がっている。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。胸をざわつかせる、すえた臭いが充満している。これは染み出て腐った地下水のものか、あるいは禍津神の瘴気によるものか。
「地下蔵というより、防空壕みたいな作りね」
『実際ソの通りかもナ。結構奥行きモあるミたいだゾ』
過去の大戦中にも十夜家の邸宅はこの場所にあったはずだ。有事の際に避難する防空壕を自前で用意していても、何ら不思議はない。
不意に視界の端で影が走る。初登校の日に私を襲った、あの影の刃と同じ気配だ。ここから這い出て来たものだったのか。どうやらここを巣としているらしい。
『待て。そコの角ノ先に何か……いヤ、誰かイるゾ』
携帯電話のライトを消し、息をひそめる。次第に目が暗闇に慣れ、壁の輪郭程度なら判別がつくようになった。
気配を殺し、曲がり角の向こうを覗き込む。道の先は広めの部屋のようになっていた。そこにあったのは高さ三メートルを超えようかという何かの塊。細い糸のようなものが辺りに張り巡らされ、空中に貼り付けにされているように見えた。あれが例の〝繭〟だろうか。
そしてその前に、膝をついて首を垂れる人影が目に入る。闇のせいで体型や表情は判然としない。しかしその匂いは間違えようもなかった。
「……五坂だ」
五坂敬祐は身体を丸め、ピクリとも動かない。微かに背中が上下している、死んでいるという事は無さそうだが……。
『ドうしタ、行かネぇのカ』
「何もトラップが無いわけないでしょ。下手には近づけないわよ」
脳裏に白い腕で埋め尽くされた細い通路が思い出される。ああいうのは生理的に受け付けない、できれば二度とお目にかかりたくなかった。
しかしここで眺めていても何も始まらない。声の一つでも掛けてみようかと口を開きかけた瞬間、五坂の影が立ち上がり、首をこちらに向けてくる。気づかれているのか。
覚悟を決め、曲がり角から全身をさらけ出す。まっすぐに五坂の影を見据えて口を開く。
「こんなところで油を売って姫様を泣かせるなんて、駄目なナイト様ね。さ、早く帰りましょう。それとも――」
軽く腰を落とし、手の爪先に古狼の力を巡らせる。
「もう、人としての意識は無いのかしら」
五坂は何も答えない。身じろぎもせずただこちらを見つめている、ように感じる。
肩の上のシャックスも息を殺して事態の成り行きを見守っている。下手に動かれないのはありがたい。
不意に、ゆらりと五坂の影が揺れた。そして一歩後ずさると、そのまま闇の中へと溶けるように消えていった。
『逃げるゾ!』
「解ってるわよ!」
弾かれたように駆け出した私の身体は、しかし五坂の元へたどり着くことはできなかった。
良く磨かれたガラスに飛び込むように、見えない壁な様なものに行く手を阻まれたのだ。思い切り頭から突っ込んでしまった。頭の中に満点の星が輝く。
「いっ――たぁぁぁ!! なにこれ、結界!?」
まったく油断していた。まさかこんなシンプルな方法で防護しているとは。もっとえげつないトラップを警戒していたというのに。そのせいで裏をかかれてしまったのか。
『……大丈夫カ? 狼の嬢ちゃン』
いつの間にか私の肩から飛び立っていたシャックスが私の頭の上に降り立つ。そんな所に乗るんじゃないわよ。
「全然大丈夫じゃない! 世界遺産級の私の美貌が台無しよ!」
鼻を押さえながらがばり、と立ち上がり、怒りを込めて結界へと爪を突き出す。しかし渾身の一撃は激しい金属音を上げて弾かれてしまった。相当に硬い結界だ、ハンズマンの胴体部分と同程度と言うところか。目を凝らしてみれば、そんな結界が何重にも張り巡らされているようだ。これを突破するのは骨が折れる。
「ああもう、腹立だしい! 上に戻るわよ!」
踵を返し、出口へと向かっていく。頭の上のシャックスが声を掛けてくる。
『良いのカ? 嬢ちゃんナら無理やリ突破するコともできルだろウ。繭を破壊しチまえバ早い話じゃねぇカ』
「それをすると十夜雪咲に反動が向かうのよ。恐らく命は無いわ」
『ジゃあドうするんだヨ。あの兄ちゃんノ行き先に心当たりでモあるのか?』
「人間には人間のやり方ってのがあるのよ。って言うか、いつまで頭に乗っているつもりよ」
頭の上を払うと、シャックスは器用にそれを避けて再び私の肩に収まった。なんか腹立つ。
肩にカラスを乗せた制服姿の美貌の女子高生、という奇妙な出で立ちのまま次に向かったのは学園の第一図書室だった。大型の市立図書館のように広大なこの図書室には、インターネットでも中々探せないような小さな地方新聞の記事も丁寧に保管されている。
『何を調べてイるんダ?』
普通の人間からは姿が見えないように透明化したシャックスが耳元で問うてくる。
「例の通り魔事件とハンズマン、そして腑喰らいと五坂の件が一本に繋がったからね。ならば根元から手繰り寄せて行けば、次の動きが先読みできるかも知れない」
『へェ、人間ってのハ色々と考えルもんだナ』
「ああもう、うっさいわね。あんた、喋るの嫌いなんじゃなかったの?」
犬歯を剝いて威嚇してやると、カラスの癖に器用に肩を竦めてシャックスが黙り込む。
これでようやく静かに……と思っていたら、通りかかった司書の教員が訝しげにこちらを見つめる視線に気が付いた。授業中の時間にも関わらず図書室に入って来たのは見逃しても、激しく独り言を言っている(ように見える)様子はよほど奇妙に映ったのだろう。
何とも言えない居心地の悪さを感じ、かき集めた資料を抱え込んで少し離れた第二図書室へと逃げ込んだ。無断で持ってきてしまったが、後できちんと返せば問題ないだろう。
嗅ぎ慣れた古紙とインクの匂いにホッと息をつく。いつ来てもここは静かで良い。
「まったく、あんたのせいで恥をかいたじゃないの」
『狼の嬢ちゃンが勝手に騒いダだけじゃネぇか』
肩を払う私の手を、またも器用に避けて書架の上へと逃げるシャックス。
「あれ、そういえばまた他の精霊たちが居ないわね」
『しばラく前カらだナ。どこに行っチまっタのやラ』
そうねぇ、と生返事をし、運び込んだ新聞記事に目を落とす。通り魔事件の現場は全部学園周辺……か。よくある通り魔事件のように唐突に違う市内に舞台を移すこともなく、全てこの東京の片田舎に集約されている。
一見するとなんの変哲もない事件だが、特徴的なのは駅周辺の都市部とは学園を挟んで反対側の、農村や山林が広がる地域でも同様の事件が起きているという点だ。
こういったものは人の集まる地域に被害が集中しそうなものだが、その頻度は同程度と言ったところだ。そういえば、嘉手納達の遺体でも一つだけ山奥の採石場で発見されたものがあったか。
あらかじめコピーしておいた学園周辺の地図を広げ、通り魔事件とハンズマン事件の事件現場、あるいは遺体の発見現場を赤丸で印をつけていく。何か規則性が見いだせるかもしれない。
赤丸の数が十五を超えたあたりで、強烈な違和感に襲われる。事の全てはこの白藤学園が始まりだ。つまり、そこを中心点と見なして直感のままに赤丸を線で繋いでみる。
「いやいや……。そんなベタな」
思わず苦笑いがこぼれる。いや、正確には笑わなければやってられない、というような気持だった。
地図の上には、この白藤学園を中心とみなさなければ気づきはしなかったであろう図形が現れていた。学園を中心に三角形、その周りに四角形。さらにその周囲に六芒星。またその外に、九芒星が完成しつつある。
「この街全体を生贄にした召喚魔術……」
胸が締め付けられたように苦しくなり、唇が戦慄き、冷や汗が頬を伝う。残された星の頂点は三つ。もしこの召喚陣が完成すれば……。
地上に、地獄が現れる。