軽率の代償
二つ目の事件を引き起こした禍津神は〝腑喰らい〟と呼称される事となった。安直だが、こういうのは解りやすさが肝心なのだと二扇警視は言う。
遺体の発見現場は、私がハンズマンとやりあった再開発地区の廃ビルの一つ。帰宅途中の所を襲われたとみられる、という事だ。
禍津神の目的は捕食と思われる。殺害そのものを目的としていたようなハンズマンとは、ここが最大の相違点だ。捕食は、禍津神が人を襲う理由としてはもっとも一般的なものだ。一般的、という表現がこのような場合に正しいのかは私には判断できないが。
特災はこの〝腑喰らい事件〟をハンズマンとは別物として扱う事を決めたようだ。つまり、現時点で二つの事件の関連性を疑っているのは私一人という事になる。
問題は私の身の振り方だ。常識的に考えれば、全てを正直に二扇警視達に話して、十夜雪咲からの聴取と五坂敬祐の捜索を願い出るのが筋と言うものだろう。
だがなるべくそれは避けたい、というのが私の本音だ。次の犠牲者が出るのは何としても避けなければならないが、この事件は恐らく私の責任だ。ならば、私が自らの手でケリを付けるべきであろうと思うのだ。
街の警戒は二扇警視達がやってくれる。彼らもプロだ、新たな犠牲が出る事はその威信にかけて阻止してくれるだろう。そして五坂の捜索はシャックスに任せた。空からの捜索に加えて、精霊たちのネットワークを駆使しての捜索だ。期待できるのではなかろうか。
そして私はと言えば、朝が来るのを待って、直接話を聞き出すために再び十夜雪咲の自宅を訪問していた。
インターホンを押すが、応答がない。二度目、三度目も同様だった。はて、留守だろうか。
「まぁそれならそれで、勝手に調べさせてもらおうかしらね」
一応辺りに人目がないのを確認してから、フェンスを飛び越える。軽い衝撃と共に、足裏に柔らかい芝生の感触。いよいよ泥棒にでもなった気分だ。
どこから中に入ったものかと屋敷を眺めていると、二階の窓の一つが薄く開いている事に気が付いた。
その開いている窓の真下まで歩いて行き、膝を屈めて飛ぶ。右手で淵を掴み、左手で窓を引いて広げる。そうして開いた窓から、身体を屋敷の中へ滑り込ませた。ちょろいもんだ。
さて、どこから調べて行こうか。屋敷としては小さ目と言っても、この三階建ての屋敷の広さは一人で調べて回るには手に余る。
「とりあえずは、やっぱりあの書斎かしらね」
一人呟いて、歩き出す。まるで切り取って張り付けたのかと思えるほどに、同じような扉が続いている。鈍く光る金属製のドアノブにも、手垢が少しも付いていない。多くの部屋は、ほとんど使われていないのだろう。しかし、どの扉の向こうにも強大な呪力の塊が渦巻いている。本当に倉庫なんだな、と私は心の中で呟いた。
やがて、いつか見た飴色に艶めく両開きの扉の前に行き着いた。他の扉よりも倍は大きい。
扉を少し開いてみる。鍵は掛っていない。
書斎は相変わらず古書で溢れていた。
四方の壁という壁には、足もとから天井まで書架になっており、ぎっしりと本が収められている。本の壁だ。スライド式の二重書架になっている。しかしそれでも収まりきらなかった本たちが床に平積みにされ、あちこちで本の塔が作られていた。
よく見れば、前回よりもほん塔の数が減っている。崩されているのだ。何かを調べるためにひっくり返して、また積み上げるだけの時間も惜しんだ、という所だろう。
視線を書斎の奥にある机に向ける。完全に本で埋まっている。まるで本で城壁を拵えたお城のようだ。
「あぁ、そういえばシャックスが屋敷に引きこもっているって言っていたかしらね」
城壁の向こう側を覗き込むと、十夜雪咲が開いた本に突っ伏して静かな寝息を立てていた。しかし眠り姫の眉根は寄せられ、何か悪夢に苛まれているようにも見える。
十夜雪咲の左手側には様々な魔術書。そして右手側にはあらゆる言語の辞書が山積みになっている。何事かを調べていたのだろうか。
魔術は万能ではない。知らない物は使えないし、解らない物は下手に使えばどうなるか知れたものではない。劇物や毒薬と同じようなものだ。正しい知識と技術をもってこそ真価を発揮する。
十夜雪咲の左手に押さえつけられている魔術書を取り上げてみる。文字は読めないが、記載されている魔法陣から察するに何かしらの召喚術に関する書物のようだ。
二つ、三つ目と手に取り、ページを捲る。相変わらず文字は読むことができない。しかし全て召喚術の指南書や解説書であろうことは、魔術の基礎知識を持つ私には判別ができる。それはつまり、この書物を集めた十夜雪咲も基本的な魔術知識は持っているという事だ。まぁ天使降霊陣が描けるくらいだしなぁ。
さて、誰かに師事していたのか、はたまた夢見がちな少女の独学か……。
「ん。んぅ……。あれ……」
十夜雪咲がむっくりと頭をあげる。動きは緩慢で、瞼も半分以上がまだ閉じたままだ。
「天使……?」
柔らかいバターのような声で十夜雪咲が呟く。
「ありきたりな口説き文句だけど、悪い気分じゃないわね」
そう答える私の声にも、十夜雪咲は首を傾げたままだ。やがて朝日が昇るように、その瞳に意識と精気の光が灯り始める。そして現実と微睡の水平線が重なった瞬間、身体を跳ね上げる様に椅子から立ち上がった。衝撃で崩れ落ちた書物が音を立てる。あぁ、貴重な本ばかりだろうに。
「あっ、あの、月宮さん。私――」
「落ち着いて。質問はこちらからするから、それに答えてくれればいいわ」
手のひらを下げるような仕草で着席を促す。十夜雪咲は静かに従った。
「昨晩、明らかに異常な遺体が見つかった。十中八九、禍津神の仕業よ。何も知らない……なんてことは無いわよね」
十夜雪咲がびくりと肩を震わせる。
「そ、その遺体って、まさか」
「一応言っておくけれど、五坂じゃないわよ」
私がそういうと、十夜雪咲はどこか安心したように小さな肩から力を抜いた。
「……すいません。ほっとして良いような話でないのは、解っているのですが……」
「その口ぶりからすると、貴方も五坂の行方は知らないみたいね。そして、この件に巻き込まれていることを知っている」
十夜雪咲が小さく頷く。
「私とここで話をしてから、何があった? 一連の事件とどう関わっているの? 今度こそ話してもらうわよ」
腕を組み、薄く埃の積もった窓の縁に腰を預ける。全て聞くまで帰る気はないという意思表示だ。
十夜雪咲は眼を泳がせ、喉を詰まらせたように呻いて狼狽えている。目の下の隈とこけた頬が何とも痛ましい。精神も肉体も疲労し、摩耗しているのが一目でわかる。
「月宮さんと、昼食をご一緒したその日の晩に、私、学園に行ったんです」
ゆっくりと、十夜雪咲が色を失った薄い唇を震わせ始める。
「夜に学園に行くこと自体は珍しい事じゃなくて……。正確には、第二体育館の地下に十夜家の地下蔵がそのまま残されていて、そこに用事があるんですけれど」
「その地下蔵に何がある?」
「そ、それはその」
言いにくそうに十夜雪咲が言葉を詰まらせる。しかし、沈黙は長くは続かなかった。
「死者蘇生の魔法陣です」
思わず目つきが険しくなる。死者蘇生、ときたか。
「なんだって、そんな馬鹿げたものが。もしかして、それもこないだの本から?」
「はい……私が、描きました。ハンズマンの件で描いた天使降霊陣も、その死者蘇生陣の力を強めるための補助として必要なのだと、あの本に書いてありました」
「そして、その世迷言を信じて実行してしまった、と」
十夜雪咲が細い首で力なく頷く。銀糸のような髪がさらりと流れた。
「初めは、上手くいっていると思ったんです。本にはこうありました。〝この魔法陣により召喚された天使は、罪を犯した者に罰を与える。そしてその浄化により、天の国から死者を呼び戻す魔法陣の力が増していく〟と」
つまるところ、ハンズマンを召喚していたあの複合魔法陣は、巨大な魔術を行使する為の呪力や霊力を集めるための装置だったというわけか。なんとも臭い言い回しだが、確かに罪人の血液は質の良い呪物になる。
「悪事を働いた人たちに罰が与えられて、それで死者が――、お母さんが帰って来てくれるなら、こんなに良いことは無いって思ってたんです。そのうちに、死者蘇生の陣の上に小さな繭みたいなものができて、私、本当に帰ってくるんだって、嬉しくなって」
十夜雪咲の声が次第に水気を帯びていく。
「私、それから毎日のように繭の様子を見に行ったんです。でも次第に繭が大きくなるにつれて〝罰〟の頻度や規模が拡大していきました。やがて、ハンズマン事件という名前まで与えられて……。いよいよおかしいと思っていたところに、本家から連絡がありました。良くないことになっているのは知っている。手練れを送るから後は自分で何とかしろ……と」
「何とも唐突な話ね。それに、その手練れってもしかして私の事?」
沈黙を返答として、十夜雪咲は静かに指を組む。
「なぜ本家が事情を知っているのかは、教えてもらえませんでした。聞けたのは月宮さんの名前と外見的な特徴だけ。結局のところ貴方が何者なのかも解りませんし、本当に頼って良いのかと悩んで手をこまねいている間に、嘉手納君たちが……」
ぽたり、とかさついた手の上に一滴の涙が落ちる。この娘はなぜ泣くのだろう。嘉手納達の死を悼んでか、あるいは原因を知りながら止められなかった自責の念からか。
「遺体の状況を聞いて直感しました。あぁ、手遅れになったんだって。すぐに動かないとは思ったけれど、素性の解らない月宮さんにどこまで話して良いのか解らなくて」
それで調査依頼、なんて半端な形になったのか。私が信用に足る人物かの見極めを行っていたのだ。
「そうこうしているうちに次の被害者が出てしまい、焦って――私をあのビルに誘い出した、とか?」
「調査をお願いしてからすぐに月宮さんの事を調べさせて頂きました。その能力も。きっと見つけてくださると思っていました」
「危険だと解っていて、私をハンズマンにぶち当てたって訳ね」
別段非難したつもりはなかったが、ごめんなさい、と十夜雪咲が小さい肩をさらに縮める。
「あの召喚陣を自分で消そうとも思ったんです。でもハンズマン達が近寄らせてくれなくて」
召喚あるいは使役、または錬成された禍津神は基本的にその主である術者に危害を加える事は無い。あの廃ビルの中で十夜雪咲が階段に仕掛けられたトラップをすり抜け、ハンズマンを前にしても傷一つなかったのはそのためだろう。
「複合召喚陣を見た時の〝こんなの知らない〟って言葉はそういうわけね。ハンズマンを目の当たりにしても平然としていたくせに、あの魔法陣だけには過剰に反応して見せた。それは何者かに天使降霊陣に手を加えられていたから、と」
その時に初めて知ったのだろう。この事件はハンズマンの暴走によって引き起こされたものなどではなく、何者かの手によって仕組まれたものだという事を。
「まぁ平たく言えば、利用されていただけって事でしょうね」
「そう……ですね。でも月宮さんがハンズマンを倒してくれたおかげで、その誰かの目論見も崩れたのだと思っていました。後は、私が死者蘇生の陣を破壊してしまえば全て終わるのだと」
しかし、その決心もすぐにはつかなかった。心のどこかではまだ信じていたのだろう。死者蘇生の可能性を。そんなものは存在しないというのに。
「私の魔術知識など微々たるものですが、地下蔵の魔法陣が簡単に処理できるような代物ではないという事は感じ取れました。無理やり破壊すれば、私自身も無事では済まない事も」
「しかし私に例の本を見つけられ、もうやるしかないのだと決心したというわけね」
「はい。反動がどれほどのものか想像もつきませんでしたが、それで少しでも罪を償えるのなら、命を失っても構わないと思っていました」
十夜雪咲の声は冷たい。心の芯の奥まで冷え切って、魂が凍り付いてしまったかのように思えた。
「それで夜の学園に忍び込んで――、どうなった?」
「見た目はいつもと変わりませんでした。でも、私が魔法陣を消してしまおうと近づいた時に、突然いくつもの魔法陣が現れて触れることもできなくなってしまいました」
その死者蘇生の魔法陣とやらを守るために、何者かが仕掛けたトラップだ。
つまり、自ら魔法陣を破壊しようとする十夜雪咲の行動すら見透かされていたというわけか。
「それでも何とか破壊してしまおうと色々と頑張ったんです。でもどうしようもなくて、途方に暮れていたところに……。あぁ、なんで気が付かなかったんだろう」
ぽたり、と再び涙が力なく合わせた手の上に落ちる。今度は一滴では止まらず、見る間に手の甲が涙で濡れていく。
「なぜか後をつけていた五坂敬祐が現れた、とか?」
十夜雪咲は私の言葉に答える代りに、掌で顔を包み込む。
「危ないって、すぐに解りました。ハンズマンの召喚陣にもあった、あの静かな狂気みたいなのがあの繭からも発せられていたんです。だから私、すぐに敬祐を連れて逃げようと、したのに……」
私は深くため息をついた。後の顛末はもう聞かなくても解る。
おそらく、その〝繭〟は蘇生された死者などではなく、大量の供物を必要とするほどに強大な〝何か〟だ。そしてそこに居合わせた五坂敬祐はその〝何か〟に憑かれてしまったのだろう。そして姿を消した。
十夜雪咲が街を探し回らずに書斎に引きこもったのは、足で探しても意味がないことを感覚的に理解したからか。まずは地下蔵で召喚されかけているものが何者であるのかを突き止め、そのものを滅してしまった方が確実だという事を正しく認識しているのだろう。だけれど……。
「誤魔化しても意味がないから、はっきり言う。生きているとは思えない」
濡れた瞳で、十夜雪咲がすがる様な視線を向けてくる。だがそれに応える事はできない。
「禍津神には容赦というものがまるでない。おそらくは――」
とっくに、供物にされているだろう。
「で、でも」
震える声で十夜雪咲が呻く。
「繭の〝何か〟はその場で敬祐を殺さなかった。操って、どこかへ連れ去った。何か意味が、目的があるはずです。それさえ突き止められれば、あるいは」
なるほど、そういう捉え方もあるか。けれど……。
「もしそうなら、それこそ最悪よ。操られた五坂。そして昨晩に見つかった異常な遺体。この点を線でつなぐなら、それは繭の何かが五坂を使って、自ら供物集めを始めたという事に他ならない」
元々白かった十夜雪咲の顔から、さらに血の気が引いていく。もはや白を通り越して、そのまま消えてしまいそうなほどに。
「わ、私、どうし、どうしよう。さ、探さなくちゃ。敬祐を見つけないと」
全身を震わせながら十夜雪咲が立ち上がり、書斎の出口へと歩を進める。しかし床に散らばる書物に足を取られ、盛大に転倒した。
骨ばった手首をつかみ、引き起こしてやる。その肌は冷えて、そして焦燥で汗ばんでいた。
「この件は私にも責任がある。何も約束できることは無いけれど、後は私に任せておきなさい。だから」
銀糸のような髪を指で梳く。
「だから貴方は、少し休んでいなさいな」