第二の事件
「うーわ。これはまた……」
まるで倉庫のような警察署内の遺体安置所の中で、遺体に掛けられたシーツをめくる。
むせ返るほどの血の匂いと共に最初に目に入ったのは、苦痛に悶えながら死に至ったと思われる男性の苦悶の表情。まだ若い、二十台半ばと言った所か。無念だったろうな。
腕は……付いている。二扇警視の話では禍津神の仕業という事だが、またハンズマンが現れたという話では無さそうだ。
「もう少しめくってみろ。腹の所までだ」
二扇警視に言われるままシートをめくると、不意にぽっかりと空洞が現れた。
一瞬、思考が停止する。目にしたものを理解するのにたっぷり二秒も掛ってしまった。
「……エグさが増しているわね」
遺体の腹部は空っぽだった。みぞおちから下腹部に渡って、赤黒い空間が広がっているばかりだ。
「両手足に細い糸で縛られたような跡があった。察するに、吊るされた状態で腹部を食い破られたと思われる。……生きたまま、な」
獲物を吊るし、あらん限りの苦痛を与えて殺害する。そういった行為をする禍津神には心当たりがあるけれど……。
「耳や鼻に欠損は無いわね。逆吊りにされた形跡も……ないか」
遺体の頭部を観察する。あの雪に埋もれた温泉街で嫌というほど見てきた逆吊りにされた遺体の特徴は、目の前の被害者には見られなかった。
「お前が真っ先にそれを疑うのは無理もないが、逆吊り蟷螂ではないだろうな」
それより、と二扇警視が眉を潜める。
「よく平然とそんな遺体を見ていられるな。流石の俺でも背筋が寒くなるぞ」
「トモキさんにでも温めてもらえばー?」
ぐ、と二扇警視が息を詰まらせる。いい気味だ。とはいえ、確かに人の死に慣れ過ぎているかも知れない。いちいちビビっても居られないが、人としてちょっとどうなんだろう。憑物の祓い屋としてはこれで正しいのかも知れないけれど。
遺体に鼻が触れるほど顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。
脳にまで浸みこむような、血液の鉄さびに似た濃厚な匂い。そして腐った水のような瘴気の香り。それと――。
「なんとなくだけど、私の嫌いな匂いがする。たぶん昆虫系の禍津神だ」
二扇警視が目を細める。
「昆虫系で……獲物を吊るして内臓を喰らう、腑喰らいの禍津神か。もう少し詳しく解るか?」
「うーん……」私は赤黒い空洞へと鼻を移す。「一体じゃないわね。小さくて……数が多い奴だ。群体の禍津神?」
「そういった禍津神にはいくらか心当たりがあります。今回は、ハンズマンのような作られた禍津神ではなさそうですね」
二扇警視の隣に控えていた亀子さんが言う。
「そうね……。召喚、錬成、使役を同時に行う複合召喚陣なんておいそれと用意できるものじゃないし、今回は別件かも知れないわね」
「だとしたら残念だな。あれほどの代物を描ける魔術師は脅威だ。今回の件にも関わっているなら、絶対に尻尾を掴んでやるのに」
二扇警視の眼鏡が光る。真面目にしていればそこそこイイ男なのにな。
「その魔術師が召喚か使役の陣を使って、禍津神を操っている可能性もあるでしょう。ハンズマンの件じゃ後手に回りっぱなしだったんだから、今回はしっかりお願いするわね?」
私はそういって二扇警視の肩を拳でつつく。そのまま踵を返して遺体安置書の出入り口へと向かった。
「送りますよ。もう時間も遅いですし」
「ありがとう。でも遠慮させてもらうわ。ちょっと考え事しながら帰りたいから」
亀子さんの申し出を辞する。この人は色々なところに気が利く人だ。変わり者が多い祓い屋の世界では貴重な存在と言える。
「月宮」
扉をくぐったところで、二扇警視の声が背中に触れる。
「どうも嫌な予感がする。気を付けるようにな」
「ご心配どうも」
ひらひらと手を振りながら遺体安置所を出て、警察署からも退出する。
ふとした気配に視線を上げると、電線の上に一羽のカラスがとまっていた。額には三つめの瞳がある。白藤学園に住まう精霊たちを取りまとめる〝主〟だ。
二日前、十夜雪咲との約束を交わした後すぐに学園に立ち寄り、この〝主〟に十夜雪咲の監視を依頼していたのだ。
軽く拳を作るようにして手を上げると、その上に音もなく三つ目のカラスが降り立ってくる。爪を立ててはいるが。痛みも重さもない。
「丁度よかった、呼び出そうとしていたところよ。十夜雪咲の動向は?」
しかし手の上の三つ目カラスは首を捻るだけで答えようとしない。そうだった、イエスかノーで答えられる質問にしなければならないのだった。
言葉を話せる精霊は少ない。白藤学園には私に黒い影の存在を教えてくれた精霊を初めとして、人の言葉を話せる精霊が何体か居たが、その姿もここ数日見かけていない。通訳的な仕事を依頼できれば、意思の疎通ももう少しスムーズに進むのだが。
この三つ目カラスになんと問えば良いのかと頭を捻る。聞きたいことは色々あるのだ。
あれ? なんとなくだけれど、この主、こないだと少し匂いが違うような。
『アー、めんドくせぇナ。あノ小娘なラ、家に引きこもっタまマ出て来てネェぞ。狼の嬢ちゃン』
思わず目を剝いた。
「あ、あんた喋れたの?」
『当たりメぇだ、オレをそこらの低級と一緒にするンじゃネぇよ。疲レるから、喋るノが好きジャねぇダけだ』
一山いくらの低級ではないとは思っていたが、これには驚きだ。これほどスムーズに言葉を話す精霊などそうは居ない。余程の上級だったのか。
「ま、まぁ手間が省けて有難いわ。それで、名前はあるのかしら」
『シャックスだ。マァ名前なんてドうでも良いカら、アメくれよ、アメ』
ポケットから小瓶を取り出して、私の血液で赤黒く染まった飴玉を一つ咥えさせてやる。するとシャックスと名乗った三つ目カラスは、首を上げて飴玉を丸呑みにすると満足そうに一つ鳴いて見せた。
シャックス……。マジで? 地獄の大侯爵じゃん。
「そんな大物が、どうして裏山の主なんてしていたのよ」
『悪魔にも色々あンだよ。それより、十夜雪咲とか言う嬢ちゃンをずっト監視してイたが、学園内デ少し目を離シた以外は何モ無かったゾ。怪しイ事は何モねぇナ』
色々、ねぇ。地獄の大侯爵が日本の片田舎で小さなお山の大将になった経緯には多分に興味があるが、とりあえず後回しだ。
「目を離した時間はどれくらい? というか、何故目を離したの」
『ソりゃお前ぇ、便所トか着替えとか、色々あンだろうがよ。時間は……まぁ合わせテも二〇分くラいか?』
「本当におかしな事は無い?」
『あア、いつも通りダ』
それはそれで不思議な話だ。十夜雪咲のあの様子では、三日以内絶対に何かしらの動きを見せると思っていたのに。まだ準備中なだけか?
いや、もう〝後は行動を起こすだけ〟という感じだった。十夜雪咲の秘密を黙っているという約束を私が反故にする可能性を警戒しているなら、その日のうちにでも何か動きがあるはずだ。
考えられるのは、十夜雪咲はただ誤魔化したいだけで、嘘をついている可能性。
どうだろうか。いや、もしそうなら期限を設ける理由がない。
既に行動を起こしている可能性は? それをシャックスが見逃していたとしたら。
いや、見逃しは……ありえないか。目の前のカラスが私の知る〝シャックス〟であるならば、そんな甘い存在ではない。仕事はきっちりこなしているはずだ。
それと、あまりにタイミングよく起きた第二の事件。
この事件は、本当にハンズマンや十夜雪咲とは関係ないのかな……?
『そうイえば、あの兄ちゃンをしばらく見てネぇな。ほラ、あの小娘にいツもくっ付いてイるあの兄ちゃンだヨ』
不意にシャックスがそんな事を言う。
「もしかして、五坂敬祐の事?」
ああ、そんな名前だった、とシャックスが人間臭く頷いて見せる。
『狼の嬢ちゃンが俺に仕事ヲ依頼シた晩に、学園の中デ見かケてから一度も見てネぇな』
「なに? 夜の学園に何の用事があったのかしら」
『さぁナ。そこまでは知らネぇよ』
忘れものじゃねぇの、とシャックスが喉を揺らして笑う。本当に人間臭いやつだなぁ。
「うーん、ちょっと気になるわね。あ、それと私の名前は月宮一葉よ。覚えておいてね」
『あいヨ。狼の嬢ちゃン。じゃ、まタ連絡に来るヨ』
そういうとシャックスの身体が揺れ、夜の闇に溶け込むように消え去った。後には独特のしがわれた声の残響のみが残された。
星々の囁き合う夜空を見上げる。澄んだ夜風が頬を撫でた。
起きてしまった新たな事件。内臓を食い荒らされた遺体。行動を起こさない十夜雪咲。姿を消した五坂敬祐。そして先日のハンズマン事件。
これらは別々の事柄? それそれが独立した物事だろうか。
「そんなわけ……あるか!」
白く塗られた街灯を殴りつける。あまりの衝撃に鉄柱は歪み、電球部分が砕け散る。
関係無いわけがない。無関係であるはずがない。そんな偶然は重ならない。
この新たな事件は、私の甘さと要らぬ欲が招いた。
胃の中で熱湯が渦巻くようだ。胸が締め付けられ、背筋が強張る。
こんな気持ちになったのは、本当に久しぶりだ。