信頼のお値段
「コーヒーか紅茶でも淹れようか」
食事を終え、片付けをしながら五坂が首を向けて私に聞いてくる。
「じゃあコーヒーをお願い。文字が書けそうなほど濃いやつね」
「……インスタントでも良いか?」
構わないと伝えると、微妙な表情をしながら五坂がワゴンを押して廊下へ消えた。
「ちょっとお手伝いしてきますね。月宮さんはごゆっくりなさっていてください」
お辞儀をして十夜雪咲も食堂を出ていく。これはなんとも都合が良い。
「さて、と……」
天井をふり仰ぎ、睨む。正確には、その先にある呪力の塊を。
食堂の扉から首をだし、辺りを伺う。なんだか泥棒にでもなったような気分だ。
少しばかり気が引けるが、ハンズマン事件はまだ完全には終わっていないのだ。プロとして、気になる事は全て調べておく必要がある。
しばらく歩いた先に階段を見つけ、昇る。そして食事中にずっと気になっていた呪力の塊へ向かって歩を進める。
たどり着いたのは飴色に艶めく、重厚な両開きの扉。
ゆっくりとその扉を開けると、僅かに開いた隙間から呪力が激しいうねりとなって噴き出してきた。前髪が跳ねあがり、鳥肌が立つ。まるで禍津神の巣にでも入り込んだような凄まじさだ。唯一の違いは、漂ってくるのは腐った水のような瘴気の香りではなく、焼けた砂のような古紙とインクの香りだという点だ。
そして、やはりそうだ。
食堂に居た時から気になっていたが、ハンズマンの複合召喚陣から感じた呪力に近い物がここからも微かに感じられる。これは一体……。
扉の奥は書庫になっていた。いや、本に埋もれてはいるが机がある。書斎と言うところかな。
うっすらと靄のようなものが漂っている。視認できるほどに濃い呪力の靄だ。普通の人間なら即座に気分を悪くしてしまうほどの濃度である。
そこかしこに書物が山積みになっている。申し訳程度に通路のみを確保された書斎の中をゆっくりと歩いていく。
どうやらこの書物たちを集めた主は、ただ集める事こそが目的であったようだ。ざっと見ただけではその中身までは解らないが、どこぞの神殿にでも奉られていそうなほど神聖なものから、厳重に封印されて然るべきなほどの邪気を放つ書物もある。うっかり開いたら魔人が顔を半分だけ出して、死の呪文でも唱えてきそうだ。
しかし、そのとりとめもなさこそが、この空間を辛うじて人間界のもの足らしめている。様々な呪力が絡み合い、反発し、あるいは引き寄せ合って均衡を保っている。下手に書物のバランスを崩せば何かの〝門〟でも開いてしまいそうだ。それが天国に通じるのか、はたまた地獄へ続いているのかは解らないが。
書斎の奥にある机にたどり着き、その上に積まれた書物を確かめる。
「これは死霊術の魔術書、こっちは錬金術か。……え、パラケルスス? いやまさかね……」
つい両手で丁寧に扱ってしまう。そこらに転がる書物の一つをとっても値が付けられないほどの代物だ。爪を引っ掛けることですら恐ろしい。
ふと目端に若草色の本が映った。
まだ新しい。数百年、もしかしたらそれ以上の時を過ごしてきた書物たちの中にあって、それは不自然なほどに若い本だった。
手にしていた書物を置き、その本を拾い上げる。ふわりと、十夜雪咲のほんのり甘い香りが漂ってきた。
何度も読み込まれた跡があるが、やはり新しい本だ。ここ数年以内に刷られた物だろう。たぶんこの書斎で印刷の本はこれだけじゃないのかな。しかも日本語、それも現代語で書かれている。著者名は無い。
内容は初心者向けの各種呪術の指南書と言った所だ。初歩的な部分を網羅している。書店なんかでもたまに見かけるわね。
ただ、それらと違うのは――ここに書かれているものは、どれも本物の魔術だという事だ。
手軽に行えて、解りやすい成果を得やすい初歩呪術たち。時間を持て余していて、オカルトに憧れている少女を虜にするには十分だったのではなかろうか。
ぱらぱらとページを捲っていく。後半に入るにつれ、その内容は徐々に高度になってきた。
そして終盤、とある魔法陣が目に留まる。
「……ビンゴ、とはね……」
あの廃ビルの地下に描かれていた、ハンズマンの複合召喚陣。その基礎に使われていた天使降霊術の魔法陣が、そこに記載されていた。
似ているだけか……? いや違う。この三重円に六芒星、独特な記述。見間違えようもない。
「あら月宮さん。こんな所にいらしたんですか」
声の方向に目を向けると、十夜雪咲が入り口に立っていた。
「探しましたよ。敬祐が〝コーヒーが冷める〟って眉を八の字に……あら、その本」
見られちゃいましたか、と十夜雪咲が微笑みながら肩を竦める。
「ちょっとガードが甘すぎるんじゃないかしら」
「疑われているとは、思っていませんでしたから」
照れくさそうに十夜雪咲が笑う。なんだ、この緊張感の無さは。
「随分と軽い反応ね。いたずらじゃ済まないのよ?」
「ええ。それは……解っています」
十夜雪咲が目を伏せる。明るかったその表情に影が差す。
「それにしても意外ね。あれほどの複合召喚陣を描けるような魔術師には見えなかったけれど」
「メ、イ……? いえ、私が描いたのは基礎の部分だけです。その本の通りに」
「加筆をした魔術師が居ると?」
「ええ……。それが誰なのかは、解りませんが」
ふぅむ。二扇警視達の見立て通りか。そしてそれが誰かは解らない、と。あくまでも十夜雪咲の話を鵜呑みにするのであればだが。
「じゃあこの本はどうやって手に入れたの?」
「送られてきたんです。どこの誰が送り付けた物かまでは、解りませんが……」
思わずため息が出た。解らないことばかりで埒が明かない。
「まぁいいわ、聴取は私の仕事じゃないもの。詳しくは二扇警視達に任せましょうかね」
「たしか特災という、ハンズマン事件などの超常の事件を担当する部署の方でしたね。……警察は、困ります。今はまだ」
特災については、先日亀子さんに聴取を受けた際に説明をさたのだろう。
「言ったでしょう、いたずらでは済まないと。知っていて放置は――」
伏せていた目を上げ、十夜雪咲が何かを覚悟するように瞳を細める。
「見逃して、貰えませんか」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
「…………。何を馬鹿な――」
「ずっと、とは言いません。一週間……いえ、三日でも良いです。その間、この事を黙っていて頂くことはできませんか」
「い、いやいや。頷くわけがないでしょう。それに、三日黙っていたところでどうなるって言うのよ」
「責任を、果たさなければなりません」
身体を強張らせて、十夜雪咲が決然と言い放つ。
「ハンズマン事件はまだ終わっていません。しかし、事がここまで至った原因は私にあります。だから」
「自分で終わらせたいって? 何をするつもりか知らないけど、それこそプロの特災に任せれば良いじゃない」
「月宮さんの言っていることは正しいです。そうするべきだという事も。でも、それは逃げなんじゃないかって、自分の責任から目を背けているだけなんじゃないかって、そう思うんです」
十夜雪咲は白く細い指を組んで、胸の前で手を合わせる。まるで何かに祈りを捧げるかのように。
「本当は迷っていたんです。怖かったんです。でも、もう決心がつきました。他の誰に任せてもいけない。私が自分の手で終わらせるべきなんです」
私は腕を組んで黙考する。さて、どうしようか。
ハンズマン事件は終わっていない。それはつまり、〝アレ〟を召喚した明確な目的が他にあるという事だ。そしてそれを十夜雪咲は知っていて、阻止しようとしている。
詳しく話を聞き出そうとしても十夜雪咲は口を割らないだろう。頼みを無視して二扇警視達に引き渡しても、自分でケリを付けるために何も言わなかったら? ハンズマンを召喚した目的がどんなものかは想像もつかないが、後手に回って得することなど一つもない。
泳がせて、様子を見るか。うまく事が運べば大きな儲け話になるかもしれない。
「タダってわけには行かないわよ?」
「お金……ですか? どうして貴方はそうお金ばかり」
大げさに肩を竦めて見せる。さて、一芝居だ。
「解らないかな? 信頼を売ってやろうと言っているのよ。私がここで〝解った。黙ってる〟と言ったとして、それを信用できるの? もし特災の誰かにタレこまれたら、と心配にはならない?」
「そ、それは……そうかも知れませんが」
気圧されたように十夜雪咲が眉根を寄せる。やはり押しに弱い。
「百万。その額で私は特災を裏切ろう。貴方に私を信頼させてあげよう。高くは無いはずよ? 祓い屋というやくざな稼業の私が、国家権力である特災に秘密を作ることがどれだけのリスクを伴うか。それは良く理解できるはずよね」
頭上から覆い被せるように、一息に言い放つ。十夜雪咲は凍えているように肩を小さくしている。心の揺れ様が目に見えるようだ。
「わ、解りました。でも、支払いはすぐに、と言うわけには行きません。敬祐に知られるのは避けたいのです」
それはそうだろうな。下手にまた大金を動かそうとすれば五坂が気が付かないはずはないし、理由を知ればあの頼りないナイト様は小さくて細い剣を振りかざすだろう。
「別に急がないわ。それより、もう一つ条件がある」
「な、なんでしょう」
十夜雪咲が怯えるように顎を引く。
「もし自分の手に負えないと思ったら、ちゃんと私に連絡すること。絶対よ? 良いわね?」
「え? あ、はい……」
何を言われるのか、と身構えていた十夜雪咲が気の抜けたような顔をして何度も頷く。
「よし、じゃあ戻りましょうか。これ以上コーヒーが冷めたら、五坂に何を言われるか解ったものじゃないものね」
これで良い。多少予想外の事が起ころうとも、大きな事にはならないだろう。
この時はそう思っていた。
本当にそうであれば、どれだけ良かったか……。
■
幽霊屋敷、ではなくて十夜雪咲邸での食事会から二日が過ぎた。
特に予定も入っていなかった私は、家でオンラインゲームをしていた。仕事でそう毎日はログインができない私を、ネットの仲間たちはいつも暖かく迎えてくれる。顔も本名も正確な性別も知りもしないが、掛け替えのない仲間たちだ。この仲間たちのとの間に利害などと言うものは一切ない。素のままで接することができる得難い存在だ。
リアルでこんな風に仲間を作ることは難しい。近くに居れば、どうしたって禍津神とのいざこざに巻き込んでしまうから。
今日は調子が良かった。敵大型モンスターの動きが手に取るように解る。意識せずとも自然と攻撃を避け、反撃を叩き込む。現実の私と同じくらい、動きにキレがある。
「そろそろお風呂行ってくるね……と」
ご一緒しようか、という仲間のいつもの軽口を受け流しつつ、接続を切る。ここで相手をするとズルズルと会話を続けてしまい、夜が明ける事もよくある。
風呂場に向かいながらシTシャツの裾に手を掛けたところで、不意に携帯電話が鳴り響いた。覗き込んでみると、そこには〝ド変態〟の文字。二扇警視だ。
まったく、タイミングが良いのか悪いのか。シャツから手を放し、電話を取る。
「もしもし? ちょっとこれからお風呂に入るところだから、またあとで掛け直して――」
『悪いが、それは少し待ってくれ』
私の言葉を遮るように、二扇警視のいつになく硬い声が響く。
『変死体が発見された。状況からして……間違いなく、禍津神の仕業だ』