月下決戦
夕飯代わりの大豆バーを齧りながら、夜の街を跳ねる。
呆れるほどに月が明るい。この輝きでは、どこからでも私の影がはっきりと見えてしまうだろう。しかも今回は昨晩よりも時間が早いこともあって、道にはちらほらと人影もある。
人というものは意外に頭上で起きる出来事には鈍感だ。現に頭上を見上げる者は一人もいない。だがそれでも、結構目撃されているんだろうな。隠蔽工作頑張れ亀子さん。
ほどなくして再開発地区までたどり着く。五坂の匂いを追って鼻をひくつかせ る。
それなりの速さで移動しているようだ。私を待ちきれずに自力で十夜雪咲を探し回っているのだろう。人を呼びつけておいてじっとして居ないとは。相当焦っているようね。
五坂にはすぐに追いついた。常人がどれだけ全速力で駆けようとも、私の脚に敵うはずがない。
なおも辺りを見回しながら駆けまわる五坂の鼻先を抑えるように、その眼前へ降り立った。
「おぉうわ!? え、ど、どこからきたんだ?」
目を見開きながら、五坂が息を切らせて声を上げる。
「まぁそれは良いじゃない。それより、その様子じゃまだ見つかっていないようね」
あぁ、と苦々しく五坂がうなずく。姫様に振り切られるとは、情けないナイト様だ。
「解った。じゃあ後は私に任せて」
「え、い、いやしかし」
苛立ちを隠さずに舌打ちをする。まったく、男ってのはこれだから。
「足手まといって言ってるの。見たんでしょ? 禍津神。ならもう、あんたに何とかできるようなレベルの話じゃないわ」
「じょ、冗談じゃない! このまま帰れるか! 二人で手分けしたほうが効率が良いだろう!?」
一つで済むかもしれない死体が二つに増えるだけだ。と言ってやろうと思ったが、おそらく逆効果なので黙っておく。
義務感? それとも責任感? あるいはただ格好付けたいだけなのかな。実力も伴っていないくせに言葉だけは一人前だ。いや、半人前かな。見つけた先の事を考えていない。
十夜雪咲が禍津神を追っていったのなら、行きつく先には当然そのハンズマンがいるはずだ。もちろん、十夜雪咲が振り切られて見つけられていない可能性もあるが、その場合は五坂に連絡の一本もいれているだろう。それがないという事は――。
くそ。こんなところで押し問答をしているような場合ではないというのに。しかし、五坂を危険に巻き込んで万一があっては困る。私への支払いは誰がするというのだ。
「じゃあこうしましょう。警察署に居る特災の二扇警視を訪ねて、現状を伝えてきて。何とかしてくれるはずだから。ここから二十分も掛からないでしょう。ほらほら! 早く早く!」
解ったようなそうでないような、曖昧な表情で五坂がうなずき、駆け出していく。
ちょろいものだ。冷静さを欠いている人間には方向性を示してやり、そのうえで少し急かせば何も考えずに走り出す。
私は仕事用携帯電話の電源を落とす。あと数分もすれば、冷静さを取り戻した五坂から「それって電話すれば良いだけじゃないか!?」と突っ込まれるのは明白だ。
「さて、と……」
首を巡らせて気配を探る。微かにだが、生臭い瘴気の匂いが漂っている。それと、微かに感じる甘い香りは十夜雪咲のものだ。これを辿っていこう。
地面を蹴って駆け出す。すぐに匂いが強まっていく。そう遠くない。
走りながら私用の携帯電話を取り出す。走りスマホは良くないと思うけど、仕方ない。緊急事態だ。
「うげ……」
着信十八件、留守電メーセッジも多数。そしてメール九件。発信者、全て七尾亀子。
亀子さん、絶っ対怒ってる。 このメッセージとメールは封印指定にしておこう。開いても心臓に悪いだけだ。かといって消すのも、それはそれでなんか怖いし。
嫌だなぁと思いつつも、仕方なしに亀子さんに電話を掛ける。コールが一つなる前に通話が繋がる。
『月宮さん! 一体何をしているんですかっ!! 警告しましたよね、あなたが思っている以上に見られているから気を付けろって! しかもこんな早い時間にっ! もう二〇件以上も屋根や電柱の上を飛び回る不審な影を見たって通報を受けているんですよ!? この忙しい時に何してくれてんですかー!!』
ひぃぃ!?
携帯電話のスピーカーから予想以上の暴風が溢れ出してきた。あまりの声量に、まるで殴られたかのように頭が跳ねる。
「ちょ、おち、落ち着いて!? 事情を説明するから!」
『いくら電話しても全然出ないですし、あなた一体何をやって――。じ、事情、ですか?』
こほん、と一つ咳払いして亀子さんが声を整える。
『良いでしょう。話して御覧なさい。もし、くだらない内容だったら……解っていますね?』
なんというプレッシャーだろう。喉がひりついて息が苦しい。胃が無理やり掴まれたように痛む。こんなに怒った亀子さんは久しぶりだ。帰ったら胃薬を飲もう。
「ええと。十夜雪咲っていう、この事件に随分と入れ込んでいる娘がいてね……」
私は要点だけを絞って亀子さんに事情を説明する。契約の件に関してはぼやかした。普段、亀子さんが私のやり方について口を出すことはないが、この状況で人の弱みに付け込むような真似をしたことまで馬鹿正直に話したら、更にお説教タイムが始まりかねない。
『十夜雪咲、ですか。あの呪物マニアで有名な十夜光雲に、お孫さんがいらっしゃったとは』
考え込むように亀子さんが声を潜める。ちなみに〝十夜光雲〟とは十夜家の現当主だ。
『誰かさんのおかげで手一杯ですが、数名そちらに向かわせます。五坂さんをこちらに寄越したのは賢明な判断です。まったく、男性というのは窮地に陥るほど〝男らしさ〟だなんて謎理論で格好付けたがりますからね』
言葉の端に多分に棘を感じるが、ひとまず協力は得られそうだ。何が起こるか解らないこの状況では、掛けられる保険は全て掛けておくべきだ。
それにしても、男性観なんて変な所で意見があうものだ。私と亀子さんって意外と似ているのかな。
「よろしくね。じゃあ十夜雪咲を見つけたら改めて連絡を――」
『あぁ。携帯電話の電波を拾って場所が解りますから、連絡は不要ですよ』
さらっととんでもない事を言い出した。携帯電話を持っている限り、相手がその気なればどこに居ても補足されるという事だろうか。
私はげんなりしながら通話を切る。携帯電話を投げ捨てようか少し迷った後、ため息と共に胸元へしまい込んだ。
「ここ……かしら、ね」
一人と一つの匂いを追って、建設途中で放棄されたと思わしきビルの前へたどり着いた。どこの街にも無数に存在する、何かの事務所や街医者が診療所を構えるのであろう、カステラの箱を立たせたようなビルだった。こんな事でもなければ気に留める事も無かっただろう。
このうち捨てられた地区にはそのような建物が無数に存在している。それはまるで、巨人の墓が立ち並んでいるように感じられた。目の前のビルは、それらの中でも一際大きい。
トタン板で作られたような簡素な防護壁に張り付いた、文字のかすれた掲示物に目を向ける。完成予定日から既に五年の月日が過ぎ去っていた。しかし、もはやこのビルが完成する事はあるまい。剥き出しのコンクリートと鉄骨に風雨が沁み込み、劣化が始まっていた。
防護壁に沿って歩いていくと、錆びた金網で作られた門へ行き着いた。足もとには錆びの塊と見分けがつかない南京錠とチェーンのなれの果てが転がっており、門は薄く開いている。
鉄の軋む音を聞きながら門を開き、内部へと入り込む。
積み上げられたまま放置された資材が点在するビルのロビーは、湖の底を思わせる静謐な空気に満ちていた。天井は無く、斜めに鋭く差し込んだ月光に細かな塵が宝石のように輝いている。
空間の隅にわだかまった闇に注意を払いながら一歩踏み出す。靴底が地面をこする音が壁や鉄骨に反響し、どこまでも登っていく。
「(匂いはするのに、気配がない。手遅かしらね……)」
二つの匂いがここにあるのは間違いない。ともかく、隅々まで見て回ろうと歩を進める。そして太い鉄骨の前に差し掛かった。
濃い瘴気の匂いを近くに感じて、浮いた足を地につけずに踏み止まった。その時。
鼻先数ミリを、空気を切り裂く音を響かせながら、汚物の塊と変わらない錆びた大鉈が掠めた。
瞬間、腰を落として身体を時計回りに回転させ、全身のバネを使いながら左下から右上へ向かって全力で左腕を振りぬく。
古狼の爪が金属を無理やり破断させる、鈍く甲高い轟音。それと共に、激しい火花と禍津神の穢れた血肉が月明かりの中へぶちまけられる。
それは一見すると人に近い。しかし頭部があるべき場所に生えた第三の腕、もはや奇形と言えるほど張った逆三角形の上半身。冗談のように着込まれたカジュアルな洋服。
見間違えようもない。禍津神〝ハンズマン〟だ。
夏場に放置した生魚のような悪臭を撒き散らしながら、ハンズマンが地に伏せる。その身体はすぐに崩れ始め、天日干しにされたミミズのようになり、やがて土の塊へと成り果てた。
「昨日と同じく待ち伏せ……? いや、それにしては」
首を巡らせて周囲を見渡す。しかし今の所他のハンズマンが出てくる気配がない。反応が鈍すぎる。こちらに構っていられないという事かな……?
「十夜雪咲ー! どこに居るのー!?」
声を張り上げ耳を澄ませて反応を探るが、残響が渦巻くだけでやはり何者の気配も感じられない。
やはり既に……? いやそれにしては血の匂いも感じないし……。
「――みや―さん!?」
微かに何かが聞こえた様な気がする。と言うか、確かに十夜雪咲の声のようだ。
それにしても声が随分と遠かったけど……、まさか地下? 地下室でもあるのかな。
闇の中に目を凝らして見回す。そして半開きになった扉を見つけ、駆け寄る。
物々しい電子ロックが付いた扉の先は、地下へと降りる階段になっていた。しかしあまりに暗い。どれだけ目を凝らしても、先がどうなっているのかは確認できなかった。
「そこに居るのー!?」
闇の塊に向かって声を投げかける。まるで穴に向かって話しているような気分だ。しかし返事は帰ってきた。
「やっぱり月宮さんだ! なんでここに……って、そんな事より、魔法陣みたいなのを見つけたんだけど、ハンズマンに邪魔されてて近づけないんです!」
はぁ!? 魔法陣みたいなのって、まさか召喚陣? というか何その状況。
「下手に動くんじゃないわよー!? すぐに行くから!」
むしろまだ無事な事が驚きだ。禍津神には遠慮も慈悲もない。獣よりも攻撃的だ。なぜ十夜雪咲は襲われないのか。
まぁそんな事よりも、まずは合流する事の方が先決だ。
「しかし、ここを降りるのかぁ……」
黒い壁のような闇を睨んで唸る。ふと思いつき、腕を広げて左右の壁を探る。指が何か硬い物にあたった。探し求めていた電灯のスイッチだ。
つくはずが無いよね。と思いつつもカチリと音を立ててスイッチを押す。果たして、電力を供給された電灯が輝きを放ち、私の行く先を文字通り照らし出した。
って、電気通ってるんかい! まぁありがたいけど!
視界は確保できた。十夜雪咲の元へ向かうべく足を踏み出す。そして階段を半分ほど降りたところで急に空気の質がガラリと、あるいはドロリと変わった。
やはり、そうか。そう来るか。
召喚陣へと続く一本道。何も無いはずはないと思ってはいたが……。
「これはちょっと、ねぇ」
視界を、階段を埋め尽くす腕、腕、腕。
左右の壁から、天井から、そして足元の階段から無数の腕がずるずると不快な音を立てて伸びてくる。そのあまりにも悪趣味な光景に思わず息を呑んだ。気持ち悪すぎて背筋がざわつく。
シンプルだが有効な防衛方法だ。この無数に生えた腕を掻い潜って行くことは困難だろう。
不意に背後からずるり、と何かが這うような音が聞こえた。
ハッとして振りかえる。今しがた降りてきた道にも無数の腕が生えつつあった。まずい、このままでは退路を断たれる。
一瞬だけ迷い、舌打ちをして来た道を引き返す。
背後から私を捕えようと追いすがる腕、腕、腕。
目の前に現れた精気の無い白い腕を爪で切り払いながら、全速で階段を駆け上がる。
弾かれるように扉から飛び出す。身体を反転させ、体勢を整える。私を追って這い出した無数の腕がイソギンチャクのようにうねっていた。気持ち悪すぎる。
悪夢のような光景に眉を潜めていると、耳の後ろにちり、と痛みが走った。
急激に空気が張り詰める。
――何か、来る。
いや、何かって事はないか。流石に解りきっている。
全身に古狼の力を巡らせて戦闘態勢を整え、全方向に気を這わせる。その瞬間、足もとからまるで爆発するように瘴気が湧きあがった。
水分を含み過ぎた果実のように地面に亀裂が走る。強烈な殺気を感じ、身体が勝手に大きく後方へ跳躍した。その刹那、人間の胴回りほどもあろう太さの腕が生え、私を握りつぶそうと向かってきた。
危ない所だった。一瞬でも反応が遅れていれば脚の一本も取られていたかもしれない。
巨大な腕は私を捕まえ損ねた事を悔しがるように指をくねらせる。まったく、一々気持ちの悪い。
しかし、本当に気持ち悪いのはその先だった。同じ巨大さを誇る腕が更に二本生え、地面からその腕が繋がっている巨体を引きずり出す。
「……うーわ。解っかりやす……」
まるで巨人だ。白藤学園の正門と同じくらいの大きさだろうか。他の数倍では効かないほどの巨大なハンズマンが地面から〝生えてくる〟。もうやだこの禍津神。
さらにふざけたことに、こいつもチェックのネルシャツにクリーム色チノパンというカジュアルスタイル。緊迫した場面だというのに、まるでシュールなギャグアニメのような光景だ。
召喚者はよほど捻くれた性格なのだろう。相手の神経を逆なでするためにこのような仕掛けをしているのだとしたら、その目論見はため息が出るほどに成功している。
群れで行動する禍津神にはコアと呼ぶべき個体が居る様に、召喚された禍津神にも心臓と言えるような最重要の個体がいる。それは例外無く強力であり、正面からやりあう事は避けて召喚陣の破壊、あるいは解呪を優先するのがセオリーだ。
この巨大なハンズマンがその最重要個体である事は間違いない。漫画やアニメでは体格の大きい者は、大抵が見かけ倒しで弱い場合がほとんどだ。しかし現実ではそうではない。
体格が大きければ単純に力が強い。そして筋肉も厚いので致命傷を与えにくい。そして逆に、相手のどんな攻撃でも一撃喰らえばこちらは致命傷になりかねない。
さてどうするか。普通なら撤退する場面だ。ほどなくして援軍も来るはずだし、一旦引くのが妥当だろう。
しかし、十夜雪咲はどうなる。
なぜまだ無事なのか不思議なくらいの状況だ。一刻の猶予もないとみるべきだろう。
むしろこれはチャンスだ。この巨大ハンズマンを倒せば召喚陣を一時的に無力化できる。あの塞がれた地下への通路も開くだろう。きっと私にはそれが可能だ。
青白い月明かりを背に受け、渦巻く殺気を放つ巨大ハンズマンを睨んで腰を落とす。そして仕掛けようとした瞬間、更にあちこちから気配が湧きあがる。
闇の中から、鉄骨の影から、地面から、壁の中から次々に通常サイズのハンズマンが姿を現す。その数、三十……いや、四十。まだ増える。私を一気に押しつぶすつもりか。気が付けば退路も塞がれていた。
相手は多数。そしてこちらは一人。かなり絶望的な状況。普通なら辞世の句でも詠む場面だろう。頬を一筋の冷汗が伝う。
ハンズマンたちが自らの体内へその腕を突き入れる。胸や腹の深くまで入り込み、やがて引き抜かれたその手には、それぞれに汚らわしく錆びついた刃物が握られていた。
それは刃の欠けた包丁であり、折れた刀であり、朽ちた鎌であったりと様々だった。
私に向かって穢れた者共が殺到する。全方向から私の首や心臓を狙って錆びた刃物が突きだされる。身を沈めてそれを躱すと行き場を失った切っ先が同士討ちを引き起し、数体のハンズマンが倒れ伏した。
やはりこいつら、知能は低い。獣以下だ。まぁ文字通り頭もないしね。
次々に刃が迫ってくる。それを避け、爪で受け、あるいは受け流しながら駆け抜ける。そしてすれ違いざまに両腕の爪でハンズマンたちを踊るように切り裂いていく。まるで熱したナイフでバターを切るような感触だ。月明かりの下に穢れた血華が咲き乱れる。
やがてビルの端まで行き着いた。壁を蹴って身を躍らせ、宙返りをしながら戦場を俯瞰する。
おかしい。十二、三は倒したはずだが、数が減っていないように見える。
答えはすぐに示された。壁や地面からハンズマンたちが次々に湧き出てくる。これではキリがない。
「やっぱり、あのデカブツを何とかしないと駄目かぁ」
着地と同時に両手の爪で、二体のハンズマンを真ん中の腕から股下まで一気に切り裂く。
放り出された錆びた出刃包丁をつかみ取り、巨大ハンズマンへ向かって放り投げた。
胸元へ迫るその錆びた刃を、巨大ハンズマンは前方にいた数体のハンズマンごとその腕で打ち払う。巻き込まれた哀れな者どもは不自然に肉体を歪ませながら地面に転がり、やがて土に還った。予想通り、こいつらに仲間意識などと言う上等なものは無いらしい。
突然吹き荒れた生臭い死の暴風。そのおかげで私からハンズマンたちの注意が外れた。
狙い通りに隙と巨大ハンズマンへと続く道が生まれた。一直線にその開かれた胸元に向かって駆ける。
近くにいたハンズマンを踏み台にして跳躍する。あれだけの巨体だ、ちまちま刻んでも意味が無いだろう。狙うなら急所。
渾身の力を込めて、巨大ハンズマンの左胸へ爪を突き立てた。金属がぶつかり合うような鋭く甲高い音が響き、激しく火花が飛び散る。
「硬っ!? くっ……!」
果たして必殺を期して放たれた私の一撃は、その桁外れに硬い皮膚によって防がれた。
地面に着地したところで、反撃の一撃が振り下ろされた。大きく後方に飛び、私を押しつぶそうと打ち下ろされた平手を避ける。
しかし反撃はそれで終わりではなかった。巨大ハンズマンは、巻き込まれ押しつぶされたハンズマンたちの死骸を掴み、私に向かって投げつけてきた。
「うぅぅえぇぇぇ! うっそ!?」
ミンチになった禍津神の血肉とはらわたが眼前に迫る。思わず身を固めて防御態勢を取った。――取ってしまった。
潰れた禍津神たちの肉体は、私に届く前に悪臭を振りまく土くれに変わり果てた。ドロドロにされなかっただけまだマシ……と汚された顔を上げたところで、背筋に冷たいものが走る。
いつの間にか、周囲を錆びた刃物を振り上げるハンズマン達に囲まれていた。
声を上げる間もなかった。全身を錆びた刃が走る。
錆びて朽ちたその歪な刃は、私に強烈な苦痛と激しい出血を強いた。
「いぃっ――ったいわねぇ!」
両腕を一閃し、周囲にいたハンズマンを薙ぎ払う。
脚から力が抜けていく。一度に攻撃をもらいすぎてしまった。激しい出血に古狼の回復力が追いつかない。
どうする。どうする……?
この禍津神、やはり強い。知能は無いが連携が取れている。武器がバラバラなせいで間合いが掴みにくいのも問題だ。そしてあの巨大ハンズマン、急所を守る皮膚が硬すぎて爪が立たない。このままでは……。
「やりたくないけど、やるしかないわね……」
胸元から呪符を取りだし、扇子のように一振りして広げる。五枚の呪符は腕で守っていたおかげで傷一つない。
符術を得意とする月宮家。その当主たる月宮寂星から教わったのは、古狼の力を生かすための体術ばかりではない。
邪を打ち払う、数々の符術を叩き込まれた。と言っても、私にそちらの才能は無かったようで、扱えるのはこの炎符だけだったりする。
一枚、一万八千円(税別)の炎符をまじまじと見つめる。この期に及んでもまだ使うのを躊躇ってしまう。しょうがないじゃん。だって一万八千円よ? 自分じゃ書けないし。
意を決して、五枚の呪符を放り投げる。放たれた炎符は頭上六メートルほどの地点に停止し、輝きを放ちながら炎符同士が光の線で繋がれた。その光景を禍津神たちは首から生えた腕を向けて見入っている……のだと思う。目が付いているようには見えないけれど。
警戒しているのか、生意気にも腕を交叉して防御姿勢を取るハンズマンも居るが、甘い。既に陣は成った。その程度で防げるような代物ではない。五枚合わせて九万円(税別)の力を舐めるな。
炎符で紡がれた五芒星の中心へ腕を振り上げ、叫ぶ。
「燃え尽きろ! 紫炎呪爆殺!」
閃光と共に、破邪の力を孕んだ紫色の炎が空間を埋め尽くす。紫炎にまかれたハンズマン達がもがき苦しむように転げまわり、やがて動きを止め、土くれに変わり果てる。
うめき声の一つも上げてくれれば雰囲気も出るだろうに、口が無いから無言でそんな事をするので、かなりシュールな光景になっている。なんだか、まるで私が魔女みたいだ。
問題の巨大ハンズマンも紫色の炎に全身を包まれている。だがやはりというか、苦しむようなそぶりは見せているのだが、倒し切るには至らないようだ。その前に炎符の呪力が尽きるだろう。
しかし手はある。私にとっての切り札は符術だけではない。身体に負担が大きいので、できることなら使うのは避けたいが……。
一番近くに居るハンズマンの生き残りに肉薄し、武器を持つ両腕を切り飛ばして無力化する。
そして、残された首から生える第三の腕に――大きく口を開け、歯を立てて噛みついた。
粘土のような歯ざわり。どろりとした舌触り。腐った水のような悪臭。
こみ上げる吐き気を何とか抑えながら、一気に噛み千切って飲み込む。目の端に浮かぶ涙を指で弾き、取り込んだハンズマンの呪力を起爆剤にするべく体内に巡らせた。
身体を巡る異質な呪力に古狼の力が反応し、それを喰らおうと胸の奥から湧き上がる。負担を抑えるために普段は眠らせている力までもを、無理やりに引き出した。
野山を駆け巡り、目につくものは精霊も禍津神もお構いなしに食い散らかす古狼の力が全身を駆ける。
引き裂け。噛み千切れ。殺せ。喰らえ。
脳内に声が響く。
全身の傷が見る間に塞がっていく。髪は白く染まり、瞳が朱に塗りつぶされる。爪は更に鋭く伸び、犬歯も鋭利さを増していく。身体が、思考が、魂のありようが古狼のそれに近づく。
もはや私は精霊でも禍津神でもなく、ましてや人でもない。
魂の半分を流浪の大精霊〝古狼〟と共有する化物。半人半霊の、ただ一体の〝憑物〟だ。
紅い目を細め、巨大ハンズマンを睨む。図体だけのうすのろめ。その作り物の魂、今すぐに喰らってくれる。
地を蹴り、一直線に巨大ハンズマンへ向かう。踏み込みの瞬間に膝の関節の軋む音がしたが、気にはならない。
紫炎に包まれたままの巨大な掌が、私を押しつぶそうと振り下ろされる。くだらない。そんなものが通用するか。
正面からその巨大な掌を迎え撃つ。渾身の力を込め、右腕の爪を振り上げる。
筋肉の裂ける音がする。骨の軋む音が、砕ける音が聞こえる。
それはどちらの腕のものか。おそらく、両方だ。それがどうした。
不意に腕から重い抵抗感が消えた。同時に巨大な腕が宙に舞い、重く湿った音を立てて地に落ちる。
ぼろ雑巾のようになった右腕を一瞥し、舌打ちをする。脆い、脆すぎる。五分は使い物にならないだろう。人間の身体はこれだから困る。
しかし、脆いのはあちらも同じだ。硬いのは胴ばかりで、それ以外はそうでも無いらしい。
横合いから、残されたもう一方の太い腕が横なぎに振り払われる。
地を這うように身を沈め、やり過ごす。頭上数ミリを暴力の突風が過ぎ去った。こいつ、力は強いが大振りすぎる。腹も胸もがら空きだ。
無防備なその腹に向かって跳び上がり、身体ごと被せる様に襲い掛かる。
「せぇぇぇあぁぁ!」
全ての力を左腕の爪先に結集させ、巨大ハンズマンの腹に振り下ろす。
しかし、やはり胴体の皮膚は硬い。激しい火花が青白い月明かりの中に広がる。
鈍い音を立てて爪に亀裂が走る。肘の関節が潰れる嫌な感触が骨を伝って脳髄に響いた。
「硬っ――た過ぎんのよ! このデカブツがぁぁぁぁ!」
僅かに爪先が食い込み、やがてバキン、と分厚い鉄板が割れるような重厚で金属質な音が響く。
鋼鉄をも引き裂く古狼の爪を防ぎ続けた巨大ハンズマンの強固な皮膚が、ついに限界を迎えて砕け散る。
生ぬるい腐肉のなかへ腕を突き入れるような不快感を左腕全体に受けながら、その最奥まで一気に突き入れる。やがて背骨と思わしき硬い感触が爪に走るのを感じ、〝置き土産〟を挟んでいた親指を開いた。
巨大ハンズマンの腹下を足裏で蹴り、その反動を利用して一気に距離を取る。
よろめき、膝をつく巨大ハンズマン。しかしこの巨体だ、少々腹に穴が開いた程度ではどうという事もないだろう。
だが、そんな事は私にも解っている。そのための〝置き土産〟だ。
「燃え散れ。蠢く汚物の塊め」
吐き捨て、拭った指をパチンと鳴らす。
生木を割るようなその音が響き渡ると同時に、巨大ハンズマンの体内から紫に輝く破邪の炎が吹き上がる。そう、置き土産とは私が唯一扱える呪符、炎符だ。一枚一万八千円(税別)だ。
破邪の紫炎は見る間に巨大ハンズマンの全身へ燃え広がる。松明のような有様になった巨大ハンズマンは、残された腕を滅茶苦茶に振り乱しながら苦しみ悶えた。 壁や鉄骨に腕やその巨体がぶつかり、重い音を立てる。あちこちで風化の始まったコンクリートの壁が砕けて落ちる気配がする。大丈夫かな、このビル。
やがてこと切れた巨大ハンズマンが、地響きをあげながらその巨体を地に沈めた。
注意深く周囲に視線を這わせる。心臓とも言える最重要個体を失ったハンズマン達は、その存在を保てなくなり土に還っていった。
「……くーっ! 勝ったぁ!」
腕を広げ、差し込む青白い月明かりの中に仰向けになって身を放り出す。
敵を屠り終えたと見た古狼の力が鎮まっていく。それと引き換えに麻痺していた怪我の痛みが湧き上がってきた。
あ、やばい。痛い。腕も脚もやばいくらい痛い。
「~~~っ! くぅぅがぁぁああもぉぉぉ!」
脳髄を焼くような激痛が駆け巡る。喉がひりついて呼吸もままならない。これだから嫌なのよ、全力を出すのは。
両手足が駄目になっているので身悶えする事も叶わない。どうしようもない苦痛に月明かりが涙で滲んだ。
あぁ、それにしても……。
「身体も痛いけど、炎符六枚の出費も痛いなぁ……」
そんな私の嘆きは、静謐さを取り戻した美しい夜にふわりと舞って、一筋の風に消えた。