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日課とシャンプー

「二百四十八……、二百四十九……」


 腹部に掛る負荷を意識しながら、ゆっくりと上体を起こす。日課の筋トレだ。ちなみに今は腹筋中。別にお札を数えている訳ではない。


 腕立て、腹筋、スクワットを各三百回づつ、毎日欠かさず行っている。最近では普通の筋トレにも飽きてきたので、壁に取り付けるタイプのぶら下がり器を買い、懸垂や足掛け懸垂なども行っている。

 あまり筋肉質な体型になってしまうのは流石に避けたいけれど、祓い屋は身体が資本。特に私は戦闘事案が多いから、この程度のトレーニングは必須なのです。いざと言う時に体力切れで動けなかったら命を落としかねない。


 五坂と学園の食堂で別れた後、昨晩の戦闘での疲れと睡眠不足で宙に浮きかけた意識を必死に留めながら授業を乗り切り、瀕死の怪鳥のような足取りで何とか家路についた。

 そのままベットに潜り込みたい衝動を必死に抑え込んで筋トレに勤しむ。どんな状態でもしっかりこなしてこその日課。一度サボると癖になりかねない。


 額に滲む汗を感じながら、ふと今日の昼休みの事を思い出す。

 いつものように第二図書室で読書でもしようと向かったら、立ち入り禁止になっていた。何事かと中に居た図書委員に話を聞いたところ、今朝に司書そしている教員が第二図書室の鍵を開けて中を確認したところ、何者かに荒らされた形跡があったらしい。


 貴重な稀覯本もある図書室なので被害額も相当なものだろうと思ったが、なぜかただ荒らされているだけで盗まれた書籍は無いらしい。まぁ、それでも損傷した書籍も多いので被害なし、とは流石に行かないようだったけれど。


 それよりも私が気になったのは、第二図書室をたまり場にしている学園の精霊達の気配がまるでなかった事だ。

 はて、どこに行ったのか……。まぁ概念的な存在である精霊の心配をしても仕方がない。より強い力を持つ精霊や禍津神に喰われるか、祓い屋に調伏でもされない限りどうにかなるようなものでもないし。 


「よっ! ……っと」


 最後の一回で振り上げる様に状態を起こし、そのまま腰を引いて立ち上がる。体調は良くないけれど、身体機能のほうは問題なさそうだ。


 汗にまみれたシャツとスパッツを脱ぎ、姿見の前に身体を晒す。大きな鏡に汗でしっとりと濡れた裸体が映し出された。


 首筋から足先、背中に至るまでじっくりと点検する。

 うん、今日も美しい。女性らしいふくよかさを残しつつも、すらりと均整のとれた絶妙な身体つき。すっと筋の入った腹筋に引き締まった二の腕。艶めかしいうなじにハリのある尻と太もも……ってそうじゃない。気にするべきは傷のほうだ。


 見たところ、傷は全て一筋の跡すら残さずに完治したようだ。痛みはおろか、皮膚が突っ張るような感覚もない。後は疲労さえ取れれば万全だ。


 下着を脱ぎ、シャツとスパッツを掴んでシャワールームへと向かう。洗濯機へ衣服を放り込み、浴室に入りシャワーの蛇口を捻る。

 水が湯になるのを待って、頭から一気に被る。頭皮から湯の暖かさが沁み渡り、じんわりと首や肩まで広がっていく。汗と一緒に疲労や寝不足の不快感までもが洗い流されるようだった。


 目を閉じてぼうっとしていると、色々な思考が浮かんでくる。その中の一つに、今朝の食堂で出会った十夜雪咲と五坂敬祐の顔があった。

 安仕事に終わると思われた今回の案件は、あの二人のおかげで少しは稼げる仕事になりそうだ。しかし、追加の五百万……どうかな。払うかな。


 十夜家における五坂の立場はどの程度か。それは知り得ようがないが、あの気真面目そうな性格なら知らん顔して突っぱねるという事はしないだろう。たとえ今すぐに回収する事ができなくとも、とりっぱぐれる心配は薄そうだ。


 それにしても、なぜ十夜雪咲はこの件に入れ込むのだろう。と言うか、やはりどう考えても得体の知れない存在であるはずの私に、ポンと三百万を寄越して見せたのはおかしい。

 五坂は私が祓い屋である事を知っている様子だったし、やはり十夜雪咲もそれを知っていたのだろうか。


 だとしたら、どうなる?


 十夜雪咲は私が祓い屋である事を知っていて、この件の調査を依頼した。であれば、なぜ知らないふりをしたのか。

 祓い屋や精霊の存在を知らないふりをしていたかった。つまりこの件とは〝興味があるだけの無関係な立場〟で居たかった、と言うのはどうだろう。


 何かを隠そうとするとき、そこには必ず秘密がある。

 十夜雪咲は何を隠している? 何を秘密にしている。


「ま、考えても仕方ないか」


 推測しようにも情報が圧倒的に足りない。知らないものを考えても答えは出ない。そもそも、私は頭を使ってあれこれ考えるのはあまり得意じゃないんだ。この件は二扇警視と亀子さんに相談して探りを入れてもらおう。


 だが秘密は解らなくとも、十夜雪咲の目的は想像がつく。五坂と同じく、この事件の解決だ。あの子のお財布に万札が何枚入るのかは知らないが、野次馬根性で三百万は出さない。それでも支払ったという事は、それなりの理由があったという事に他ならない。


 しかし五坂と違うのは、私に全てを丸投げする気は無さそうだという点だ。

 十夜雪咲が私に依頼したのはあくまでも〝調査協力〟。あのお人形な様な女の子が何をするつもりか知らないが、もしかしたらこの事件を自分の手で解決させようとしているのかも知れない。


 いや、流石に飛躍しすぎかな。ただの金持の道楽かも知れない。というか、そう考えたほうがしっくりくる。


 ……どうやら相当疲れているようだ。考えても仕方ないと思いつつも、駆け出した思考が止まらない。そのくせ、まるでまとまらない。

 これは寝付けない夜のそれだ。汚泥に似た不安が胸中を駆け巡り、頭の深い部分がじん、と熱くなる。眠れぬ事に焦りを抱き、心は疲弊するのに意識だけが覚醒していく。今の私はそうなる一歩手前だ。


 蛇口を捻り、シャワーの湯と思考を止める。

 こういう時は気分転換をするに限る。今日は特別にアレを使おう。


 普段使いのシャンプーを端に寄せ、その奥から一際可愛らしいボトルを取り出す。特別な時様に買った、超が付くほどの高級シャンプーだ。

 こぼさないよう慎重に、ポンプを一押しする。むせ返るほどの華やかな花々の香りが浴室を満たした。

 

 桃色が見えそうなほど濃密な、それでいで重さのない甘く可憐な香りを胸いっぱいに吸い込む。張りつめた神経がほぐれるのを感じる。まるで柔らかな香りが心にまで染み込んでいくようだ。


 そうそう、こうでなくっちゃ。と胸中で一人呟き、鼻歌などを歌いながらシャワータイムを満喫した。




 微かな電子音と振動で目を覚ます。それが携帯電話の着信だと気が付くまでに数秒を要した。

 薄く目を開けると、部屋の中は真っ暗になっていた。うたた寝をしている間に夜になってしまったようだ。


 ぼんやりと浮かび上がる光を頼りにして、仕事用携帯電話を手に取る。

通話ボタンを押す。耳に滑り込んできたのは、切迫した様子の五坂の声だった。


『は、祓い屋! 今どこにいる!?』

「名前で呼びなさいよ、名前で。家に居るけれど?」


 ただ事ではないな、と思いつつ冷静に声を返す。寝ぼけていた頭が急速に目覚めていく。


『雪咲と一緒に事件現場を巡ってて、そしたら雪咲が〝ハンズマン〟を見つけたといって走り出して、必死に追いかけたんだけど見失って……!』


 駄目だこりゃ。


「待って。少しは落ち着きなさいよ。ええと、つまり? 十夜雪咲と事件現場を巡ってあちこち調査をしている最中に、十夜雪咲が何かを見つけて駆けだした。貴方は必死にそれを追いかけたけれど、見失ってしまった。困窮した貴方は私を頼って電話をしてきた。それで良い?」

『あ、ああ。そうだ。祓い屋は駅の近くに住んでいるんだろう?』

「あれ、なんで知っているの?」

『雪咲に聞いたんだ。そんなことより、探すのを手伝って――』

「へぇ。彼女にも言った覚えはないけどね。まぁ事情は解ったわ。んじゃ、おやすみー」


 携帯電話を耳から離し、通話終了のボタンに指をかざす。「ちょ、ま、待った!」という五坂のくぐもった声が聞こえてくる。仕方なしに携帯電話を再び耳に当てた。


「あのね、電話する相手を間違えているわよ。先に十夜雪咲の使用人とか、あんたの家族とかさ、連絡を取るべき相手がいくらでもいるでしょう」

『それはできない。雪咲は生まれのせいで立場が弱い。ただでさえこんな田舎に取り残されているんだ、何か問題でも起こしたら、それこそ勘当されかねないだろう』


 なんて的外れな事を言うんだ、この男は。


「知ったこっちゃないわよ、そんなの。祓い屋を便利屋か何かと勘違いしているんじゃないでしょうね」


 ため息交じりに言う。ただでさえ睡眠を邪魔されて機嫌が悪いというのに。


『む、無理を言っているのは解ってる。だけどほかに頼める人も居ないのも本当なんだ。……見たんだよ。僕も』


 五坂が見たものとは、言うまでもなく三つ腕のハンズマンの事だろう。なるほど、それが本当なら確かに私の仕事だ。でも――


「五百万」

『……やっぱり、そうくるか』


 それはそうでしょう。弱みに付け込むのは交渉の常套手段。これは緊急事態をいう付け入るスキを作り出し、あまつさえそれを私に晒して見せた五坂のミスだ。


「言っておくけど、十夜雪咲に何かあったらその支払いもなくなるんだぞ、なんて脅しは効かないわよ。別に私はどちらでも良いんだから」


 本当は全然良くないけれどね。

 あの娘を死なせるのはまずい。契約の件もそうだが、それ以上に十夜雪咲を失う事は、大きな損失になるのではないか、という予感がある。それが何故かは、巧く言葉にはできないが。


『ぐっ……。解った、解ったよくそったれ! どんな手を使ってもお金は用意する!』


 怒りを多分に含んだ声で五坂が呻く。

 なんで怒るのかしらね。人助けに金銭を要求しているから? それが卑しい事だとでも? 

 私に言わせれば、他人の善意に勝手に期待して、無償の救いを求めるほうがよっぽど卑しくて傲慢だと思うけれど。

 ギブ・アンド・テイク。世の中はそれが全て。それを理解しようとしない輩が多すぎる。


「とりあえず、交渉成立ね。それで、今どこの辺りにいるの?」

「ええと、駅から事件現場の河川敷に向かってしばらく歩いた辺りで、雪咲が走り出して……」


 頭の中で街のおおまかな地図を展開する。なるほど、再開発地区のあたりかな。あの場所は、建造途中で計画がとん挫して放置されたままのマンションや商業ビルがひしめいている。

 死角が多く、人通りが少ない。禍津神の件がなくても女の子が夜中に一人歩きして良いような場所じゃない。


「もういいわ。後は〝匂い〟で探すから」

『は? に、匂いだって?』


 困惑したように五坂が言う。


「説明するのは面倒だから割愛させてね。五分で行くから」


 そういって通話を切り、ベットを飛び出す。

 明かりを付けて適当に動きやすそうな服を選び、手早く着替えて部屋を後にする。目指すは屋上。移動手段は例のアレ。


『ごめん亀子さん、隠蔽工作よろしくね』とメールを送り、返事を待たずに私は夜の街へと飛び出した。


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