人間の野生
「やっぱり、夜とは随分と雰囲気が違いますね」
「んう?」
車窓の外を流れる、朝露に濡れて春風に踊る青い稲穂を眺めていた私に、運転席から不意にそんな言葉が投げかけられる。
「元気に跳ね回っていたじゃないですか」
「え、見ていたの?」
そうじゃないですよ、と亀子さんが小さく溜息をつく。
「いくら街に人の気配が無くったって、監視カメラはそこらじゅうにありますし、建物の中には人だっているんですからね。ここは人里離れた山奥ではないのですから」
考えてみればそりゃそうだ。いくら郊外とはいえ、ここは夜七時に全ての商店が閉店する田舎などでは無い。駅前にはコンビニだってあるし、電柱よりもベランダが高いマンションなどいくらでもある。
「もみ消すのは結構大変ですからね。貴方自身が都市伝説の一つになりたくなければ、あまり派手な行動は慎んでください」
「……気を付けます」
確かに、私のような美少女が夜中に街中を飛び回っていれば、あっという間に噂になってしまうだろう。あまり良い事ではない。全てはこの美貌のせいだけれど、そこは私自身が気を使わなければ。
「やはり、夜になると血が騒ぎますか?」
血、とは言うまでもなく私の身体を流れる古狼の血の事を言っているのだろう。
「どうしてもその性質に引っ張られている感じはするわね。月が昇ると狩りがしたくなるわ」
「さらっと物騒な事を言いますね。古狼は平和的な大精霊だと聞いていますが」
「とんでもない。廻った土地の力ある者を狩り尽くしてしまうから、その地域では争いが起こらないってだけよ。〝剪定〟されてしまった土地の精霊も禍津神も、目を付けられては敵わないとしばらくは大人しくしているからね。それが人の目には平和に映るんでしょう」
「祓い屋にとって割と衝撃的な事実が出てきましたね。まぁ、人の世のためになっているのなら文句は無いですが」
そう言って亀子さんが肩を竦める。
「祓い屋と言えば、例の事件絡みで虎洞会が黒川、長谷部の両家と契約を結びました」
「……えっ? は、はぁ!?」
え、ちょ、なんで。まだお葬式も済んでいないだろうに。祓い屋のルールからも、人の常識からも外れた行為じゃない。
「前々から地道に営業をかけていたそうです。両家とも名家ですからね。虎洞会の名前に覚えくらいはあったのでしょう。あっさり決まったそうです」
溜息をつきながら、思わず前のめりになった身体をシートに深く沈める。ボスンと背もたれが音を立てた。
「……嘉手納家のほうは?」
「特災に直接連絡を入れて来るくらいですからね。祓い屋に依頼する気は無いようです」
何てことだ。頭痛を通り越して吐き気がする。
一つの案件に対して、祓い屋が複数の依頼人と契約を交わす事は良くある事だ。そして、一人の依頼人に対して複数の祓い屋が契約を交わす事も良くある。営業次第ではまだ潜り込める余地があるかもしれない、が……。
競合相手は業界最大手の虎洞会。対して私はフリーで女子高生。挑むのも馬鹿馬鹿しい。
あぁまったく。何が〝邪魔をするな〟よ。とっくに抱え込みが済んでいるんじゃない。
だとしたら、何のためにわざわざ出てきたのか……。嫌味を言いたかっただけ? 嫌な奴!
「月宮さん、やはり私たちと行動しませんか?」
腕を組んで唸っている私に、亀子さんが言う。
「うーん、確かにこのままじゃタダ働きだけど、でもなぁ……」
「やはりお金、ですか?」
「そりゃそうよ。世の中お金。他の全てはおまけでしかないもの」
そう言い放つ私に、亀子さんは困ったように呻く。
「前々から聞いてみたかったのですが、どうして月宮さんはそこまでお金に拘るのですか?」
またこれだ。一年に一回くらいは必ず聞かれる。それも憐れむような顔で、あるいは小馬鹿にしたような薄ら笑いで。
「逆に私から聞きたい。なぜお金に拘らない?」
「世の中お金だけではないからです。特に精霊や禍津神に関わる者たちは、人々の平和な暮らしを守って」
「その考え方が私は間違っていると思うのよ」
言い終わるのを待たずに言葉を被せる。そんな事はもう聞き飽きている。
誰も彼もが異口同音に口にする。〝世の中お金だけじゃない〟と。
「そうじゃない。私はもっと根底的な話をしているの。人が人として生きていく上で絶対に必要なもの、それはお金でしょう。何も犯罪的な事など起きなくとも、禍津神に命を狙われるような事が無くとも、人はお金が無ければ生きていくことはできない」
「お金に拘らすとも、人は支えあって生きていけます。世が平和なら働いて生きていく程度の賃金は得られるでしょう」
私の言葉に亀子さんが反駁する。
「ぬるい。甘い。人は人を支えない。平和でも一度レールを外れた人間にまともな仕事は無い」
そう、これだ。お金に拘る物は心が貧しいと考えている者は、大抵が他人に過剰な期待を寄せている。人の根は善だと、どこか盲目的に信奉している。
「私の生家にはお金が無かった。だから、私の中に流れる古狼の血を求めて、次々に押し寄せる祓い屋たちから逃れる事もできなかった。引っ越すお金なんてないし、逃げた先でまともな職がある保証もない」
「それは……。しかし、それならどこかに保護を求めれば良かったのでは?」
「毎日毎日、脅されたり嫌がらせされたり攫われかけたりでそんな事考えもしなかったし、どこを頼っていいのかもまるで見当がつかなかったのよ。当時は二扇家や月宮家の存在なんて知らなかったし、一家離散は避けられない状況だった」
愛や幸せはお金では買えないと、人は言う。
しかし愛も幸せも、それを維持するためにはお金がどうしても必要だ。
お金が無い者には自由もない。世の中お金じゃないと言いながら、人生の大半をかけて好きでもない仕事に従事する。何のためか、それはお金のためでしょう。
そんなふうに身を削らずとも、お金さえあれば好きな事ができる。大切な物を得る事も、創る事も、守る事もできる。
それだというのに、なぜ人はお金から目を背ける。なぜ、真っ直ぐ手を伸ばそうとしない。
「月宮家が瓦解したのだって、最終的にはお金のせいだしね。誰も彼もがお師さまが残した遺産にわき目も振らずに飛びついた。そのせいで内部分裂すると解っていても止められなかった」
お金が無いと嘆く者は、金という物をまるで理解していない。
お金は水や空気のように湧いて出るものでない。人の作り出した、限りある物だ。ならばそれを手に入れるのには、他人から奪い取ってでも〝稼ぐ〟しかない。
貧しい者は、消費する事を前提として金銭を欲する。
アレが欲しい、食べたい、したい。あるいは、単純に生活費として。故に、ひとまずその欲求を満たす程度の金銭を手にすればとりあえずは満足してしまう。
しかし人生の成功者と言われるような、裕福な人間は根本から考え方が違う。
消費するためではなく、ただ〝稼ぐために稼ぐ〟。
その欲求に際限は無く、より稼げる方法を日夜探し求め、更に稼ぐ。
言葉にすればたった一言だが、この二つの差は驚くほど大きい。
「そこまで人の強欲に翻弄されておきながら、貴方自身も強欲であろうとするのはなぜですか」
言葉の端に憐みを感じ、思わずため息が出た。
「勘違いしないでほしいのだけれど、私は過去の苦労話をしているつもりはないわ。そりゃ辛い思いもしたけれど、むしろ私にとっては〝人間の野生〟とはいかなるものかを教えてくれた、貴重な経験だったわ」
「人間の、野生?」
「人間にとってのお金は、獣にとっての肉のような物だと思うのよね。生きていく上で必要不可欠で、不足すれば牙をむき出しにして、命をかけて奪い合う。だから、人がお金を欲しいと思う衝動はきっと本能。人間の野生よ」
私の言葉に、亀子さんがゆっくりと首を振る。
「人と獣は違います。人間はもっと理性的な生き物です」
「それは野性を抑え込まれているだけでしょう。本能のままにお金を荒稼ぎし、人生の成功者と言われるような人たちは口々に言う。人間はお金だけじゃないと。でも本当は違う。それでもそんな事を言うのは、誰も彼もが野性を剥き出しにしてお金を稼ぎだしたら自分の取り分が減るから、お金に固執する事は恥ずかしい事だと言って、他の人間の牙を抜こうとしてるんだ」
その最たる例は〝宗教〟だ。
決して相容れる事の無い数多の宗教。しかしただ一点、金銭を不浄の物とし、それに固執する事は愚かしく罪であるという部分は驚くほど共通している。
「人間社会という物は、私に言わせれば動物園と変わらない。牙を抜き、檻に閉じ込め、働かせてお金を稼がせ、それを搾取して、餌として僅かな給与を与える。不満を言おうものなら〝野性を知らぬお前が外で生きていけるものか〟と脅し、諦めさせる。それでも檻を抜け出た者はのたれ死ぬか、また別の檻に入るだけよ」
しばしの静寂。細く唸るエンジン音と、タイヤがアスファルトの上を滑る音だけが飾り気のない車内に響く。
「つまり、貴方は野生の人間でありたいと、そう願うのですか?」
喉から押し出すように亀子さんが言う。
「そりゃそうよ。私を縛る物は何もない。そして力もある。これで野性を振るわずにどうするのよ。第一、牙を抜かれて大人しく過ごすなんて、ちっとも面白くないね」
わざと大げさに肩を竦めて答える。「そうですか」と小さく声が返ってきた。
「貴方の言う事にも一理あると思います。ただ、あまり無理はしないでくださいね。古狼の力は負担が大きい。過度に使いすぎれば身体を壊します」
「あら。心配してくれるの?」
亀子さんがくすくすと肩を揺らす。
「貴方に何かあると、うちの馬鹿が仕事をしなくなりそうですから」