状況整理
ペンキの剥がれが目立つジャングルジムによじ登り、女性の遺体を見下ろす。
無残にも手足をもがれた遺体の周辺には大きく血痕が広がり、ある形を作り上げていた。
ゆったりと膨らんだ二枚の前翅。その下に位置する、一回り小さい後翅。
赤黒い翅をゆったりと広げるその姿は、紛れもなく蝶のそれだった。
「おい月宮、急にどうした」
下からの声に目を向けると、二扇警視が遠慮がちにこちらを見上げていた。別にスパッツ履いているから問題ないのに。
「こっち来てみなさいよ。悪趣味の極みだわ」
これを登るなんていつ以来かなと呟きながら、二扇警視が私の横に並ぶ。そして息を呑み、不愉快そうに眉をひそめる。
「偶然……ってことは無いな、流石に。綺麗に左右対称だ」
現場の様子から言って、恐らくは別の場所で手足を切断し、胴体と血液をここに持ち込んで翅を描いたのだろう。怖気がするほど悪趣味だ。そして通常、こんな印を残す禍津神は居ない。
「蝶、ねぇ。何の意味があるのかしら」
「さぁな。蝶の形そのものには意味がないかも知れんぞ」
「印を残す事に意味があると?」
「それも解らん。だがこれで確定だ。この事件には人間が関わっている」
捕えた獲物を逆さ吊りにする禍津神がいるのだから、手足を持ち去る奴がいても不思議ではない。だから今まで、遺体の状況に違和感を覚えつつもそれが自然発生的ないわば〝事故〟なのか、人為的な〝殺人〟なのか判断できなかった。
しかし、今回の件ではっきりした。
この事件は、確固たる悪意を持って引き起こされた人間による殺人事件だ。普通の殺人事件と違うのは、凶器が禍津神である、と言う点だ。
こうなると大きく事情が変わってくる。これが事故ならば原因となる禍津神を狩り尽せば事態は収拾できるが、人間が絡む事件となるとそれだけでは終わらない。
つまりは犯人の捜索、確保。場合によっては殺害もありうる。
召喚され使役された禍津神を止める最も確実な方法は、他ならぬ術者の殺害だからだ。
そしてもう一つはっきりしたことがある。それはこの件が一人ぼっちである私の手には余る案件だということ。
どうあがいても私は一人。禍津神の討伐と術者の捜索を同時に行うことは難しい。召喚陣を見つけ出せれば話は早いが……、片手間に探して見つかるような場所に敷いているとは思えない。
思わずため息が出た。どんどん事態が都合の悪いほうへ流れていく。
「しかし解せんな。なんだってこんなものを」
二扇警視が呆れたように言う。
「挑発、じゃないかな」
「なんだと?」
「いや、なんとなくだけどさ。わざわざ手の内を晒すようなこの行為。かかってこいって言われているような気がしない?」
少し考えるように目を伏せた二扇警視だったが、すぐに諦めたようにかぶりを振る。
「情報の少ない現段階で、あれこれ考えても仕方がないな。そもそも、理由もなく正義と平和に唾する奴ってものそれなりに多いもんだ」
そう言い捨て、近くにいた鑑識に声をかけてジャングルジムからの俯瞰写真を撮るように二扇警視が命じる。鑑識と入れ替わりに地面へと降りる。頭上から鑑識の驚いたような声が聞こえてきた。
「言うまでもないけど、報道規制はしっかりお願いね。動きにくくなるから」
「当然だ」
平和な国に生きる日本人は常に刺激を求めている。解りやすい悲劇などは大好物で、みな寄って集って関わり、嘆きたがる。今回のような、蝶の印などという滑稽なほどあからさまなものなど格好の餌食だろう。マスコミにでも知られれば、しばらくはこの話題で持ちきりだ。私はやらないので良く解らないが、ツイッターだかフェイスブックだかで騒がれようものなら不用意に現場に訪れる者も多く現れる。当然、邪魔くさい。
「朝っぱらから、しかも勤務中にジャングルジムで公園デートですか。お盛んでやがりますね。いっその事、そのまま昇天されてはいかがですかクソ警視」
聞きなれた声に目を向けると、そこには七尾亀子が腕を組んで立っていた。
「おぉ来たか。お前も昇ってみるといい。面白いものがみられるぞ」
「どんだけ堂々とセクハラしてやがるんですか。後で写真だけ見せてもらいますよ。この下に何も履いていないんですから」
そういってタイトなスーツスカートをつまむ。
「な、何も、だと……!?」
「変な妄想してるんじゃねーですドクサレ警視! さすがにパンツくらいは履いていますからね!?」
亀子さんがこほんと一つ咳をし、場を整える。
「とりあえず車に行きましょう。どこで誰が聞いているか解らないですし、野次馬も集まり始めています」
そうして、三人は連れだって歩き出した。
「さて、情報交換だ。司法解剖の細かい結果なんかは必要か?」
車内に入り助手席に座るや否や、二扇警視が口を開く。
「いや、そういうのは良いや。私には必要ない」
「ではこっちだな。この土地に残っている伝説、伝承、民話や手毬歌に至るまで調べさせたが、手足を持ち去るような存在に関する記述はなかった。土着の禍津神による犯行、という線は無さそうだ」
「さっきの状況からみてもそれは確定でしょうね。禍津神を余所から召喚して、それを使役している人間の手による仕業ね」
二扇警視が小さく頷く。
「そうだな。あとは禍津神の姿形が解れば良いのだが」
「ああ、それなら昨日やりあったわよ。しかも待ち伏せされた」
運転席に座っている亀子さんが、私の座る後部座席へ首を向ける。
「本当ですか。どんな奴でした?」
「人型で体格は男性のそれに近い。上半身がやけに発達した逆三角形。頭部があるべき部分に三本目の腕が生えた変なやつよ」
ふむ、と二扇警視がうなる。
「月宮。この地域で頻発していた通り魔事件の事は知っているか」
私は頷いた。通り魔事件。もしかしなくても〝ハンズマン〟の事だろう。
「それの目撃情報と一致しているな。まぁ地元警察は全く取り合わなかったそうで、詳しい情報は無いのだが……」
それは当然だろう。三本腕の化け物に襲われた。被害者がそんなことを口走れば、気が動転して幻を見たのだと誰もが思う。
「問題はそれだけじゃなくてね。奴ら、武器を使ってた。錆びてボロボロだったけれど。それに服まで着てたわよ」
昨日の夜、対峙した禍津神の事を思い出す。
あろうことか、奴らはそれぞれが錆びて朽ちた剣や鉈などの刃物を手にしていた。
禍津神は文明を持たない。
自身の持つ力が剣や鎧のような形をとることはあっても、金属で作られた武具を手にすることなどありえない。武器という概念を持たない禍津神は、通常はたとえそれらを手に入れたところで使用する事はない。しかし奴らは違った。
であるならば、武器という概念を与えた何者かがいるということだ。それを可能とするためには、一から禍津神を作り上げなければならない。それはつまり――。
「人工精霊、ですか。そんなことができるのは相当な術者だけですね」
まさか虎洞会が、という考えが一瞬脳裏を過ったが、直ぐにそれを打ち消した。流石に飛躍し過ぎだろう。
「なんだか話が入り組んできたな。〝魔術師〟絡みか……」
亀子さんの言葉に、二扇警視が小さくため息をつく。
「入り組んできたといえば、虎洞会までこの件に絡んできたぞ。わざわざ嫌味を言いにきやがった」
「私の所にも来たわよ」
「それはお互いご苦労様だな。ところで、錆びた武器と言ったか? まさか切られていないだろうな。破傷風などは平気か」
「心配しなくても大丈夫よ」
本当は結構やられてしまったが、それは黙っておく。元々、古狼の血が流れるこの身体に感染症の心配など不要だ。
「そうか? 不安だな。よし、俺が全身くまなく調べてやろう」
「全身くまなく刻まれたくなければ黙ってろ」
まったく。こういうのがなければ普通に良い人なんだけどな。
「狭い車内でじゃれないでください。内装がピンクになっちまうじゃねーですか。ともあれ、ますますもって一般の捜査員の手におえる案件ではなくなりました。応援を要請しておきます」
亀子さんの言葉は正しい。普通の人間に禍津神による凶行を止める手立てはない。
ふと感じたことはないだろうか。
いつもの帰り道なのに、なんとなく別の道を行きたくなるような感覚を。
どう考えても遠回りなのに、何も考えずに自然と足がそちらに向かってしまうということはないだろうか。
もしそういった感覚に襲われた経験があるならば、それはその日、その時、その場所に、人を遠ざけようという意思を持つ精霊や禍津神が存在していたに違いない。
力のある精霊や禍津神には意識的に人間を遠ざける、人払いの力があるのだ。
ちなみにこの能力は人間側にもある。その性質は全くの逆だが。
たとえばホラー映画を見た夜中のトイレ。あるいは心霊スポットなどでの肝試し。
何も出てきてほしくないと強く思えば思うほど、人は雑多な精霊を引き寄せる。しかし姿形を持たぬ下等な精霊を人はそのままでは認識できない。だからその瞬間に強く心に抱いているイメージ、たいていは出会いたくないと思っている恐ろしい者の姿をその精霊に投影してしまう。これが俗にいう幽霊や妖怪の正体だ。
「本格的な捜査は応援が到着してからだな。一般の人間に精霊の目撃情報を聞いても意味がない」
「目撃情報で思い出したけど、風蛇に聞いたら学園の近くで嘉手納たちを襲ったのも、その三本腕で間違いないみたいよ。その時は連れ去っただけみたいだけれど」
二扇警視が目を見開く。
「おいおい、風蛇といえば自然神の一種だぞ」
「そうなの? 意外と話しやすい奴だったわよ」
「流石、と言うべきなのだろうな。ともあれ貴重な情報だ」
感心したような。あるいは少し悲しそうな微妙な表情で二扇警視が言う。この人は私が精霊の話をするとよくこんな表情をする。
「なんとなく見えてきましたね。一旦状況を整理しましょう」
亀子さんの提案に、私と二扇警視が同意する。
「まずは、例の通り魔事件と今回の殺人事件の関連性だ。この二つに関わっていると思われる三本腕の禍津神は同じ者だろうか」
二扇警視が口火を切る。
「それはそうでしょう。むしろ関係なかったらそっちの方が驚きよ」
私の言葉に亀子さんが「そうですね」と同意する。
「その通りだと仮定するのであれば、この二つの事件を引き起こしている犯人が居る事になります。しかし、なぜ〝傷害〟から〝殺人〟に移行する必要があったのでしょう」
「召喚した禍津神を使役しきれなくなり、暴走した結果というのはどうだ」
二扇警視が言う。私はすぐに反駁した。
「無い無い。もし制御しきれていないなら、あの蝶の翅を描いたのは誰よ。禍津神を召喚して使役しようって奴が、わざわざ自分であんな手間を掛けるとは思えないし」
「事件を起こす事そのものが目的というのは無いでしょうか。傷害程度では満足できなくなり、殺人までエスカレートした、とか」
亀子さんの言葉を受けて、二扇警視が答える。
「真っ当な意見だ。禍津神を召喚して使役する力があるが故に、それを試してみたくなった、などと言う話はわりと聞く」
確かに、筋の通った解りやすい理由だ。今回のような演出過多な事件は、得てして事件を起こす事そのものが目的という事が多い。
しかし本当にそうだろうか。この過剰な演出が実は必要な行為だとしたら、それは何か大きな意味があるのではないだろうか。そう考えると、この件を単なる愉快犯の仕業と断定するのは危険な気がする。
「そう言えば、虎洞会はかなり早い段階から通り魔事件に禍津神が絡んでいる事を察していて、今回の事件も同列の物だと断定していたような事を言っていたわよ」
ほう、と二扇警視が興味深そうに目を細める。
「それは一度話を聞いた方が良さそうだな。嫌な顔をされるだろうが。しかしだ、なぜ虎洞会は禍津神の関与を察した?」
「白藤学園に現れた不穏な影を調査しようとした矢先に通り魔事件が起きて、何か関係があるのだろうと調べていた……とかなんとか」
「影、ですか」
亀子さんが呟くように言葉を零す。
「ちなみに影は私もこの目で確認しているわよ。でも、なんていうか……。見えているのに存在していないというか、テレビ越しの戦争を見ているような、嫌な気配はするのに現実感の無い影だった。禍津神だとは思うのだけど、確信が持てない」
にわかに二扇警視と亀子さんが息を呑む。なんだろう?
「……そう言った物には心当たりがある。こちらで調べておこう。もしそうなら最悪の事態だが、まだその程度であるなら直ちに影響はないだろう」
滲み出る頭痛を抑え込む様にこめかみに指を当てたまま、二扇警視が唸るように言う。
「とにかく、事件は二日連続して起きました。三日目もあると考えてしかるべきでしょう。動機などはさておいて、まずはこれ以上事件が起きるのを防ぐために態勢を整えるべきです」
「そうだな。手配はこのまま任せていいな?」
いつも通りやっておきますよ、と亀子さんが面倒そうに答える。
「じゃあ私は召喚陣、召喚者の捜索。合わせて見つけ次第、禍津神の討伐……ってところかな」
「ええ、よろしくお願いします。こちらも体勢が整い次第合流しますので」
亀子さんの言葉に「期待しないでね」と手を振って応える。
「さて、俺はもう一度さっきの遺体を調べてくるか」
そう言って二扇警視がドアを開けた。
「美人だからって、いたずらするんじゃねーですよ?」
「俺にネクロフィリアの気は無いよ」
そう言ってドアを閉め、ひらひらと手を振りながら二扇警視が歩き去る。
「まだ登校には早い時間ですね。一旦家までお送りしましょうか」
少し考え、口を開く。
「今帰ったら二度寝しちゃいそうだし、このまま学園まで送ってくれる?」