Epilogue
剣道は好きだ。
夏の耐え難い暑さの中でも、冬の凍えそうな空気の中でも、誠ちゃんの表情は変わらない。
きっと僕が見られなかった一年も、今と同じ真剣な顔で打ち込んでいたのだろう。
僕は純粋にその姿を見るのが好きだったのに、僕らを取り巻く環境がそれを邪魔した。
今頃になって考えてみると、ただそれだけだった気がする。
僕は実里ちゃんに拘り、誠ちゃんは和意先輩に拘っていた。
忌憚なく言い合える幼馴染と思っていたのは事実。
いつの間にか互いに遠慮が出てきて、完全にすれ違い、見えない相手の感情に振り回されて、自分の自信を失っていった。
それが今に繋がるのなら悪くもない。
恋人になるまでのカウントダウンの日々だとすれば、カウントダウンが終わった今、あの頃には戻らないで前だけを向いていけばいい。
「待たせたな」
頭の上から声が降ってきた。顔を上げると、制服姿の誠ちゃんが真後ろに立っている。
「あれ? もう着替えたの?」
いつの間に部活が終わっていたんだろう。
目を瞬かせていると、誠ちゃんの手が頭に落ちてきた。撫でるように動くその手を握ってから立ち上がる。
板の間に正座をしていたから、さすがに足が痺れて痛い。
「大丈夫か?」
「うん。でもゆっくり歩いて」
頷いた誠ちゃんは、床に置いていた僕の荷物も手に取った。自分の胴着とかで重いはずなのに、歩いてもよろめく気配はまったくない。つくづく僕とは体の造りが違うと思う。
「今日は随分ぼんやりしてたな」
「見てたの?」
「時々な。何を考えてたんだ?」
声が少しだけ低くなる。それが心配しているときの誠ちゃんの癖だと分かっているから、不謹慎だと思うけれど、嬉しい。
「中等部の頃を思い出してた」
「あの頃か」
「そう、あの頃」
形のいい眉が顰められるのを見て、僕は笑った。
誠ちゃんにとってはまだ単純に「過去」として割り切れないらしい。その気持ちもわかるから、僕は苦い顔をする誠ちゃんをただ見つめるだけ。
一年を無駄にしたな、と思うことは今でもある。
けれど、「現在」が存在するためには必要な時期だったと考えれば自分を納得させられた。
騒ぎに騒いだ一年生と剣道部の一部には、意外なことに生徒会からもお咎めがあったらしい。
「君達のやっていることはただの集団虐めでしかない」と断罪された彼らは、抗議の声もあっさりと黙殺されたようだ。
このお咎めは全校生徒が知るところとなり、周りの生徒からも当然だと冷ややかな目で見られて小さくなっていた。
それ以来僕は時々だけれど剣道部へ顔を出している。気まずそうな部員もいるけれど、迎えてくれる人たちのほうが多いのは素直に嬉しい。
そしてもうひとつ。
あれだけ苦しめられた実里ちゃんの名前も、紐を解いてみたら何のことはなく。
『自分よりでかくなった男に“ちゃん”付けで呼ばれたくないだけよ。誠吾に呼ばれると自分が年下になった気分になるんだもの』
腕を組んでいたのも、学校の友人達に見せたのも、すべて告白される煩わしさから逃れるためだったらしい。
『ちょっとしつこい男子がいてね、面倒だから“彼氏”を見せちゃおうって思ったの。ついでに聡里たちのカンフル剤になればいいと思って。でも聡里が勘違いしすぎたときにはどうなることかとドキドキしたわ』
弟の想い人が男だとかは気にならなかったのだろうか。
その前に、いつから僕達のことを知っていたのだろうか。
あの時聞けなかった質問は、今でも聞けないまま僕の中にある。最初は凄く気になって、でも今は聞かなくてもいいような気になった。
実里ちゃんに反対されていない。それがわかるだけで十分だと思えるから。
「どうした?」
「……なんでもない。ね、それより文化祭の試合に実里ちゃんも来るって。負けたら恐いよ?」
「普通医学系の大学は忙しいんじゃないのか?」
「都合つけるって言ってたよ。僕もお願い事したしね」
「お願い?」
「そう。これは誠ちゃんも当日のお楽しみ」
「当日に試合の俺は見られるのか?」
「ダメそうだったら考えるよ。とにかく今は内緒なの」
内緒で押し切ると、誠ちゃんがつまらなそうな顔をする。
思わず笑っていると、ふいに誠ちゃんの手が差し出された。荷物があるはずなのにと見れば、持った荷物を全て片手にまとめている。
「ほら」
促されて、僕は迷うことなくその手をとった。
僕よりも大きく、暖かい手。
この手を取れることの幸せを改めて感じる。
もう二度と失くしたくないと思うから、一つ一つをゆっくり積み重ねて。
「誠ちゃん」
「ん?」
「大好き」