第二話 行き倒れ
狼は森の中を、獲物を探して走り回った。
さっきから全力で走っているのに全く疲れが出てこない。身体の芯から無限に力が湧いてくるのだ。
彼の狙う獲物は、あの人間のメス=紺である。
彼女を探す途中で、強い血の匂いを感じ取った。彼の嗅覚は、変異前よりかなり強化されている。そのため結構な距離にあるその匂いを、敏感に感じ取ることができた。
それは紺の匂いとは違っていた。だが狼はどこか予感めいたものを感じ、その匂いの方向に走り出した。
河の岸辺に沿って、相変わらず紺は歩いていた。この河はいったいどこまで続くのだろうか?
空腹はもう満たしたようで、もう腹の虫は鳴っていない。だが彼女の表情はとても気持ち悪そうで、今にも吐き出しそうなくらいだ。
また紺の衣服は、血で真っ赤に染まっていた。それは彼女自身の血ではない。
火を起こす道具も調理器具もない今の状態で、あの巨大兎の死骸をあの後どうしたのか? あいにくそれは深く考えない方がいいだろう……
「あれは?」
河原の岸辺で、また何か見つけた。今度は動物ではない。だが自然の物ではない。
近づいてみると、それは前向きに倒れている甲冑だと確認できた。現代日本では時代劇でしかお目にかかれないような、和風の黒塗りの甲冑である。
更に近寄り、すぐそばまで行くと甲冑だけではない事に気がつく。籠手の部分から白い指の骨が見えているのだ。これは甲冑を着た人間の白骨死体である。
それに気づいた紺は、これはどこかから不法廃棄された、お化け屋敷の備品だと思いたかった。だがそれにしては、この甲冑は精巧に出来すぎている。
「こんなのがあるってことは、もしかして私タイムスリップしちまったとか?」
神社の井戸から時代を越える、犬半妖の少年漫画を思いだし、紺はそんな言葉を出した。
紺は遺体の腰の部分に注目した。
(刀もある……)
遺体の腰にあった日本刀に手をかけた。深い意味はない。ただ剣道をやっている上で、本物の真剣を持ってみたいと、何度か思ったことがあるのだ。
日本刀を腰にかける紐も一緒に、遺体から引き離す。黒塗りの鞘で、銀製の紋様がいくつも付けられている。柄の部分も素人目から見ても、かなり良い素材を使っているように見える。
この甲冑の見た目といい、結構身分の高い者の遺体なのかもしれない。ならば何故こんな所で、野ざらしにされているのか疑問だが……
鞘から刀身を引き抜いてみる。シャキン!と綺麗な音が鳴り、初めて見る真剣の刃が紺の目に映った。
刃渡り70cm程。刃文は直刃。刃こぼれ一つない綺麗な刃が、太陽の光に反射して美しく輝く。紺はしばらくその光に見惚れていた。そしてその刃を振るってみたいという感情が沸き起こる。
ブンブンと日本刀を振ってみる。剣道を習っているにしては、お粗末な振りだが、竹刀と真剣では握り具合が大分違うので、初めて振るう分には仕方がない。
少し慣れてくると、近くにあった小石に刃を当ててみる。小石はいとも容易く真っ二つに割れた。
斬った感触はほとんど無かった。まるで豆腐を切るように、小石を簡単に両断したのだ。
今度は近くにある岩に狙いをつけた。人間ぐらいのかなり大きな岩だ。紺はそれを迷わず斬りつける。
シャン!
その岩は見事に斬れた。横向きに両断された岩が、斬れた方向に崩れ落ちる。切断面はとても綺麗に平になっている。その一方で、使用した刀は刃こぼれ一つついていない。
これには斬った本人も驚いた。
「……刀ってこんなに斬れるんだ。知らなかった」
無論そんなことはない。どんな業物でも、こんな大きさの岩石にぶつければ、折れるか刃こぼれするのが当然である。これはこの刀自体が規格外すぎるのだ。
紺は鞘についた下げ緒を自分の腰に巻きつけ、刀を自分の体に固定させた。
紺は下げ緒の結び方など知らない。色々な結び方を試して、どうにか身体にうまくくっつけるぐらいのことはできた。
何故こんなことをするのかというと、当然この刀を完全に自分のものにする気だからだ。
紺は遺体に手をかけ、横からひっくり返した。何kgの重さがあるかもわからない甲冑を着た遺体が、細い女の腕に簡単に持ち上げられ、倒れる方向を変えられる。
その結果、いままで地面にくっついて見えなかった、この鎧武者の前面があらわになった。
「鬼?」
遺体の顔を見た紺の第一声がそれだった。遺体の顔の部分、額の両脇に二本の角が生えているのだ。
最初これは被っている兜の一部かとも思ったが、それは違った。牙のように鋭く尖った角が、ちゃんと頭蓋骨にくっついているのだ。
「何だよこれ!? 人間じゃないのか!? 本当に私はいったいどこに来ちまったんだ!?」
己のこれから先に、更なる不安にかられることとなった。
「!?」
ふと嫌な気配を感じ、森の方向に目を向けた。森と石の岸辺の境界線に何かかがいる。
「グルルルルルルルッ!」
そこにいたのは一頭の狼だった。銀色の毛並みで、引き締まった強そうな肉体を持つ狼が、こちらをご馳走を見るような目で、ゆっくりと近づいてくる。
(あれはどう見ても野犬じゃないよな? でも日本の狼はもう絶滅してるし。やっぱりここは日本じゃないのか?)
これの存在は、紺の中の疑惑を確信に変えた。だがこの個体が、昨日会ったやせ細った狼と、同一とまでは考えつかなかった。
紺は狼に警戒したが、昨日ほどの恐怖は感じなかった。何となくだが、今の自分はこいつにも勝てる、そんな自身がどこからか沸いてきた。
ある程度距離を詰めると、狼は一気に飛びかかってきた。
距離を詰めたといっても10m以上の差がある。それを一回のジャンプで飛び越え、紺に向かって牙を向けてきた、信じられない身体能力である。
「遅い!」
だがその攻撃を、紺は横にそれて難なくかわした。狼は最初に紺がいた位置の、後ろ数メートルの位置に着地する。
狼の攻撃は止まず、次々と噛み付き攻撃を仕掛けてくる。だが紺は視線を狼から外さぬまま、右へ左へ素早く動いて難なく回避。更に僅かな隙を突いて、拳で一発食らわした。
「キャイン!」
犬のような悲鳴を上げて、狼は十メートル以上も吹き飛ぶ。どれほどの力で殴れば、あんなに飛ぶのだろうか?
だが狼はすぐに立ち上がり、再度突進してきた。
紺の方は、狼が吹き飛び立ち上がるまでの時間に、腰の刀に手を当てて、臨戦態勢をとった。
狼はその動作にも構わず、こちらに突っ込んでくる。そして間合いに入った同時に、勢いよく刀を鞘から引き抜いた。
テレビで見た程度の知識の、見よう見まねの居合斬り。太刀筋に荒さはあったが、攻撃は見事狼に命中した。
ズバ!
狼の血しぶきが、紺の体に大量に付着する。狼の身体は、正面から横筋に真っ二つに切断されていた。二つに分離した狼の肉体は、小石が敷き詰められた地面に墜落し、二度と動くことはなかった。
紺は自分の殺した狼の死体をじっと見つめた。巨大兎の時もそうだったが、殺しはあまり気分のいいものではない。
河の水で刀についた血を洗い流すと、紺は何かに決心したかのように一言喋った。
「もう歩くのやめよう」
それは移動するのをやめるという意味ではない。さっきの戦闘でもう一つ、はっきりと確信できたことがある。
一つ深呼吸すると、紺は一気に走り出した。
「はりゃぁああああああああっつ!」
気合を入れるためか、変な掛け声を上げて疾走する。
その速度は凄まじく、おおよそ時速50km。自動車並みの速度だ。石だらけの足場の悪い地面でなければ、もっと速度が出たかもしれない。
紺の身体能力は、以前とは比べ物にならないくらい強化されていたのだ。彼女はとてつもない速さで、人がいる場所を求めて、下流へと走り抜けていった。
走り始めてから10分も経たないうちに、目的の場所は見つかった。
石の岸辺が途中で途絶え、河は一つの町の真ん中を切り裂くように流れている。河の上には橋がかけられて、その上を何人もの人が渡っている。
周囲の建物は全て木造・瓦屋根で、これもまた時代劇でしか見たことがないような、日本の昔の町並みだった。
(問題なのは私が入っても大丈夫なのかだよな?)
壁に木陰に隠れながら、町の様子を見ると、住人の姿は紺の認識からすれば、あまりに個性的だった。
住人の服装は皆和服だった。色などは個々それぞれだが、それは日本の和服そのものだった。現代日本でも、和服で町を歩く人は時々見かけるが、住人全員揃ってそうなのはほとんどない。
ちなみに髪型などは、江戸時代のようなちょんまげ一色ではなく、現代日本と同じように思い思いの髪型になっている。
いや、そんなことは些細なことかもしれない。もっとすごいのは彼らの姿。
住人達の容姿は日本人に近い形をしていた。だが肌の色は似ても似つかない褐色で、まるで黒人種のようである。また髪の色は全員が銀髪であった。
さらに彼らの頭には、2本の鬼のような角が生えていた。あの河原で見つけた遺体と、同じような感じである。まさにここは鬼の街であった。
ある程度予測はしていたので、紺はこれにさして驚かなかった。課題はどうやって町に入るかである。
(入った直前に異端審問にかけられる、なんてことはないよな?)
漫画やアニメで飽きるぐらい見た、異種族の差別問題の話を思い起こす。亜人などが出てくる物語で、差別や確執が描かれないものは結構珍しい。
もしここが人間を敵とみなす風潮だったとしたら、一体どうなるのだろうか?
(悩んでもしょうがない。やばかったら全力で逃げるだけだ)
自分の身体能力に自身がついていた紺は、堂々と町に入っていった。とりあえずどうやって人に声をかけようか?
「すいません。ちょっとお伺いしたいんですけど」
丁寧な物腰で、道行く住人たちに声をかける。住人たちは、突然町中に現れた紺の姿に、一斉に注目した。
(あれ? やっぱりやばそうな雰囲気?)
紺は即座に逃げの姿勢に入る。だが住人たちの反応は予想外だった。
「大変だ! 人が血を流してるぞ!」
「医者だ! 医者を呼べ!」
「君、大丈夫か!?」
「え!? ええ、まあなんとか?」
多くの住人が騒ぎ立てて、紺に向けて心配の声をかけてくる。そのまま流されるままに、紺は町の病院に連れて行かれてしまった。
本人は忘れていたが紺の姿は、あの巨大兎や狼の血で、全身真っ赤にずぶ濡れ状態である。
何も知らないものが見れば、これは彼女自身が出血して汚れているようにも見えたのだ。