第一話 狼と兎
その昔、この大陸は枯れ果てていた。
度重なる戦乱と、自然の乱獲によって、大地そのものの力が弱り果てた。森は枯れ、水は汚れ、獣たちは姿を消していく。
当然人々の生活も脅かされることになる。作物は取れなくなり、山の獲物がとれなくなり、多くのものが飢えに苦しんだ。世界は絶望に包まれた。
そんな時、天空から、猪に跨った一人の女神がこの大地に降り立った。黄金色にたなびく髪と、この世のものとは思えぬ美貌は、多くの人々の心を魅了した。
その身に無限の魔力と生命力を宿した女神は、水に、大地に、空気に、この地のあらゆる生き物に、自身の力を分け与える。各地で土地神を務めていた精霊や霊獣にも、多大な力を与え、世界全体の力のバランスと供給を命じた。
大陸は再び活力を取り戻し、人々のこれまでにない繁栄を謳歌した。どんな悪天候でも農耕の結果は毎年豊作。海には魚たちが活き活きと泳ぎまわり、常に大漁が約束された。
だが女神が与えた強すぎる生命力は、思わぬ異物を生み出した。魔物である。
大地に染み付いた女神の力を、強く受けすぎた一部の生物が、力強くなりすぎて、魔物という危険な存在になる者が現れ始めたのだ。彼らは獣以上に凶暴で、人々に災厄をもたらした。
女神は己の剣と魔法を駆使して、それらを次々と滅していく。それだけでなく人々に魔物に対抗する力を与えた。
ある者には鬼のように強靭な肉体を、ある者には様々な薬草を生み出せる草花の力を、ある者には強力な魔法を扱える龍のような神秘の力を与えた。
それによって大陸は再び安定を取り戻していく。
女神は三人種の中から一人ずつ、三人の若者に不老不死の力を与えた。
そして復活させた大地と、そこに生きる人々を、彼らにまとめ上げさせた。その者たちはそれぞれ、鬼王・龍王・葉王の三賢者と呼ばれた。
鬼王は圧倒的な強さを持つ剣士だった。そしてその剣技の力を高める魔剣を作り出せる、有能な鍛冶師でもある。
龍王は生命を操る魔法に長けた魔道士だった。その力はどんな病も治し、また多くの農作物に優れた改良を行い、国を栄えさせていく。
葉王は心に干渉する力を持つ、精神魔法の使い手だった。その力を以て、多くの汚れた魂を持つものに、裁きの浄化を行った。
この三人のもとに、永遠に続くと思われた繁栄。だがある日、女神は人々にある言葉を残し、姿を消した。その言葉とは……
日が天高く登る時刻、森の中を一匹の動物が歩いている。それはやせ細った一匹の狼だった。
身体のあちこちに傷があり、栄養失調でもあるようで、歩行は弱々しい。この狼は自然界の弱者淘汰の掟の犠牲者であった。
群れの中で一番弱かった故に、獲物の分け前も充分もらえず、仲間の狼たちから毎日のようにいじめられ、遂には群れを追い出されてしまった。
この哀れな狼の末路などもう見えている。だが彼の生存本能はまだ完全に失ってはおらず、河の水の流れる方向に向かって歩いている。もしかしたらそこに、魚の死骸等が打ち上げられているかもしれない。
ゆっくり歩きながら徐々に近づいていく中で、狼は思いがけない匂いを感じ取った。それは新鮮な血の匂いだった。
まさかと希望を抱き、ようやく河原の岸にたどり着くと、そこには大量の血と肉片が、潰れた果汁のように散乱していた。それは何かと問うまでもない。訳も分からず理不尽に空に投げ出された少女=渡辺 紺の成れの果てである。
狼は歓喜した、絶望の中でまさかこのようなご馳走に出会うとは。彼は紺の肉をどんどん貪り始める。よほど腹が減っていたのだろう。その食欲は凄まじいものだった。
だがその幸福の時間に異変が起きた。狼がまだ食べきっていない肉片が、突然光り始めたのだ。
「!?」
あまりに突然の出来事に、狼は動転し固まってしまう。
肉片は蛍光色のように淡い緑色に光っている。やがて光りに染まったそれは、空中に浮き上がった。無数の光が、ホタルのように舞い上がり、それは一点に収束していく。
一つに固まった大きな光は、アメーバのように形を変形し、少しずつ大きくなっていく。その形はやがて人の形に定まっていった。
やがて光は、ライトのスイッチを切るように、一瞬で消えた。さっきまで光があった場所には、どう考えても有り得ない存在が座っていた。
「はれ?」
それは間の抜けた声を発する。それはつい6時間ほど前に、ここで原型を留めずに砕け散り死亡したはずの人物、渡辺 紺が正座して座っていたのだ。
その身は全くの無傷。衝突の際に同じく破けた、白いセーラー服も同じく元通りになっている。セーラー服には染みや汚れ等一切無く、再生前よりも綺麗に新しくなっているように見える。
砕けた紺の肉体の一部は、さっきそこにいる狼の腹の中に入ってしまっている。だがそこの消失した肉体部分も、しっかり補填・修復されている。
質量保存の法則も含めて、この世のありとあらゆる常識をぶち破って、紺という人間は見事復活を果たしていた。
この光景に狼は、事が理解できず未だ硬直し、紺自身も困惑の表情を浮かべている。
「どうなってんだ、いったい?」
それはこの世のあらゆる者が突っ込みたい言葉だろう。
紺は近くにいる狼の存在に気がついた。
「野犬!? やばっ!」
紺は即座に背中に手を付けるが、そこにいつも背負っている竹刀はなかった。
冷や汗を垂らしながら、相手を刺激しないよう、ゆっくりと逃げる動作をする。だが心配はいらなかった。自分が逃げる前に相手が先に逃げ出したからだ。
「なんで?」
怪物にでも出くわしたかのように自分に怯え、弱った身体を無理に動かして逃げる狼に、紺は困惑した。ともかく危機は去った。
紺は周囲を見渡す。そこは上空からも見た、河と石の岸辺が広がっている。自分の周囲には、大きく広がった多量の血痕がある。
(落ちたのは……夢じゃなさそうだな? 何で生きてるんだ。それにこの血。もしかして獣の食事場に落ちたか?)
紺はこの血痕が、自分自身の血であるとは微塵も考えなかった。
身体を曲げたり、首を振ったり、自分の健康状態を確認する。感じた限りでは、どこもおかしな所はない。それどころか、以前よりも全身に力をみなぎっている様な気がする。
「うん?」
身体のあちこちを確認しているうちに、自分の右腕の部位を見て、明確におかしな部分を発見した。
「治ってる? 嘘……」
紺の右腕には、子供の頃鉄線に引っ掛けてできた、大きな切り傷の跡があった。だがそれが綺麗さっぱり消えているのだ。
「訳分からんわ。もういいや」
紺はついに、細かく考えるのを放棄した。ともかく人のいる場所に行きたい。とりあえず河の流れる方向、下流へ向けて歩き出した。
太陽が沈み、月が上がり始めた時刻、森の中にある狼の群れのねぐら。そこは今惨劇の場所となっていた。20を超える狼の死骸が、無残に噛み砕かれて横たわっているのだ。
その中で、一頭だけ無傷で立っている狼がいた。
「クォオオオオオオオオオオン!」
狼は真上の半月を見上げ、歓喜に満ちあふれた勝利の雄叫びを上げた。
その狼は今日の昼頃、紺と遭遇し逃亡したあの狼であった。
この狼は、元々群れの中で一番弱かったはずだった。それどころ今日の昼までは、飢餓状態で死ぬ寸前でもあったはずだ。
それが今はどうだろう。やせ細った身体は、実に太く逞しくなっており、全身から凄まじい生命力を発散させている。
変調が起こったのは、彼が紺から逃亡した直後。身体についていた傷が、ものすごい速度で治っていき、今まで貧弱だった身体の底から、物凄い力が湧き上がってきた。
これなら勝てる。今なら誰にも負けない。そんな感情まで沸き起こり、彼は自分を追放した群れに戻ってきた。
初めに彼は群れの長に襲いかかった。群れの中で一番強かった長は、今まで自分が見下してきた相手に、手も足も出ずに敗北。頭部を頭蓋骨ごと噛みちぎられ、命を落とした。
これを見た群れの仲間たちは、彼を次の長に迎えようとした。だがそれを彼自身が受け入れなかった。
彼は、今度は群れのかつての仲間たちにも襲いかかった。狼たちは束になってかかっても彼には敵わず、瞬く間に殺されていった。
オスだけではない。群れのメスも、まだ幼い赤子の狼も関係なく、彼は殺し尽くした。あまりにむごい、一方的な殺戮だった。
彼は更なる力を求めた。思い起こすのは、あの奇怪な人間のメス。
あれの肉を食べてから、自分は大きく変わった。あのメスの肉をもっと食べれば、自分はもっと強くなれる。彼はそう確信していた。
彼は紺の匂いを追って、森の中を走り出した。
「ああ~、腹減った」
紺はお腹をさすりながら、そう呟いた。
太陽はもう空の天辺にいるから、時刻は昼頃のはずだ。昨日紺が復活したのも昼頃だったから、ちょうど歩き始めて一日の時間が経過しているはずだ。
場所は河川の石の岸辺。左側には大木が大量に並ぶ、深い森がある。何だか奥から恐竜でも出てきそうな雰囲気の森である。そして昨日から、そんな周囲の風景は全く変わっていない。
途中で河の水を飲んでいる、一頭の鹿を目撃したこと以外では、道中何も起こらず退屈は一日だった。
(それにしても私って意外と凄かったんだな。丸一日歩き続けてるのに、足が全然疲れてないよ)
紺は昨日の昼から歩き続け、夜が更けて暗くなり始めると、即行でその辺の木の根元に眠り込んだ。そして朝日が昇って目覚めると、またすぐ歩き始めた。
今朝から今日の昼現在まで、一時も休まず歩き続けていた。時間はおそらく七時間以上になるだろう。途中で疲れたらその辺の岩場にでも休もうと考えていたが、いつまで歩いても疲労感は出てこず、こうして長時間歩き続けていた。
いくら日頃からそれなりに練習しているからといって、自分がこんなに体力があるとは思わなかった。
だが疲労感はなくても、空腹感はある。グゴ~という分かりやすい虫の音を聞いたのは、本当に何年ぶりだろうか?
紺は河に目を向けた。流れる水の中には魚が何匹も、肉眼で確認できた。相当豊かな河のようだ。
だが残念ながら紺は泳げない。いや泳げたとしても、勢いよく流れる水の中に飛び込んで、魚を捉えるなど到底不可能だ。
(うう……いっそ森の中に入って食い物を探してみるかな? でもうっかり迷ったりしたらやばいし)
現時点、絶対に位置を失わないといえる道筋は、この河だけだ。水辺の近くには集落がある可能性が高い。そう考えたからこそ、紺はこの河を沿って歩いているのだ。
岸辺の岩石は、足を進めるごとに細かくなり、そして数が増えている。上流から中流へと、着実に下っている証拠だ。
(ていうかこの辺り、本当に人住んでんのか? ここが日本かどうかも怪しいし……そもそも何で私がこんな目に? あの神社何だよ!? 私が何かバチが当たるようなことしたか? イノシシを追いかけただけで流罪か!? ……うん? 何かいるな?)
見ると石の岸辺の真ん中に動くものを見つけた。そっと近づいてみると、それは黒い毛玉であった。もっとよく見てみると、それは黒い体毛の兎である気づく。しかもただの兎ではない。遠くから見ても、かなり大きい。豚と同じぐらいあるのだろうか?
(あんなデカイ兎いるもんなのか? もはや怪物じゃないかよ)
紺は動物に関してはあまり詳しくない。だが前に出くわした鹿は、普通に日本にもいそうな姿と大きさだった。
だが今目の前にいる存在は、日本レベルではない。いや地球上のどこにいても見つからないのではないだろうか?
そう考えている内に、巨大兎は紺の存在に気がついた。巨大兎は紺の、飢えに満ちた眼差しに危機感を覚え、即座に逃亡を図る。
「ああっ、待て! 私の飯!」
やはり喰う気だったらしい。紺は巨大兎の後を追いかける。
巨大兎は、その巨体に似合わずとても速く走った。もしかしたら馬にも匹敵するかもしれない。
だが紺はもっと速かった。
計測器があれば、時速五十kmという驚異的な記録を出しただろう。世界トップランナーも顔負けな走行速度で、どんどん巨大兎との距離を詰めていく。
そして巨大兎の両足を、手で掴んだ。
「!!??」
巨大兎は足に何かに捕まった感触の直後に、急に全身から浮遊感を覚えた。
「おりゃあ!」
バキ!
紺は、体重100kgはありそうな巨大兎の身体を、軽々と持ち上げ、そのまま近くの岩に叩きつけたのだ。
骨と肉が砕ける音が聞こえ、巨大兎はあえなく絶命した。
「おし!」
右手を握り締めガッツポーズを上げる紺。
そして目の前にいる、血を垂らしながら痙攣している巨大兎の姿を見て、今の自分の行動を思い返してみる。
空腹の感情から、勢いでやってしまったとはいえ、生き物を殺した罪悪感もある。だがそれ以上の問題がある。
(なんで私、こんなでかいのを持ち上げられたんだろう? しかもさっき走ったときのタイム、いったい何秒だ?)
ついさっき自分がした芸当は、とても今までの自分の力でできる技ではない。いやそれどころか人間に出来る限界を超えているのではないだろうか?
「……私まだ人間だよね?」
自分でやっといて、自分の行動に恐怖を感じながら、目の前の死骸をどうするか思い悩んだ。