鈴森呉葉にまつわる、弟と同志の話。
作中の他界観や食物連鎖は、唐子なりの消化をして表現しているので、学術的に筋違いや勘違いがあるかもしれないです。
一言でいえば、フィクションです。
海は凪いでいた。
雲のむこうには薄い空色が透けて見える。でも風は冷たくて、湿った潮風に吹かれるたび葉市の体は細かく震える。コートもマフラーも病院に忘れてしまった。
三月の砂浜に他の人影などなく、波の音と、時折トンビの高い声が聞こえる。
しゃらしゃらひいていく波の音に、色の変わった砂を踏む。
さくり。さくり。じっと下を向いていると次の波が寄せてスニーカーをぬらした。
「寒くない?」
とうとつに。
その声は背後からかけられた。ゆるゆると顔をあげ振り返ると、髪の長い女の人が、こちらを見ている。
大きくてあたたかそうなストールを体に巻きつけて立っている。大人ではない。でも少女でもない。中途半端な女の人。
知らない人だ。こくりと首をかしげ、彼女は言葉を接いだ。
「呉葉の、弟よね。寒くないの?」
葉市の見知らぬ彼女は、葉市の兄の知人らしい。ぶっきらぼうな声が口をつく。
「寒くない」
「そう?でも、見てるこっちが寒いから、こっちに来ない?」
にこりともせず、でもストールの前を開いてこいこいと手招く彼女を、葉市は怪訝に見返す。足をぬらす波は指がちぎれそうなほど冷たい。それでも素直に彼女のもとに行くには不審すぎて、一歩波から離れ佇立する。
「兄さんの知り合いですか」
「そう。友人で、おさななじみで、同志。理解者とも言えるかしら」
同志。
その単語に、葉市はふと彼女の全身を頭からつま先まで観察した。華奢な、折れそうなくらい華奢な体。聞いたことはあった。
まさか。
彼女は微笑む。ついと視線をはずし、青い青い海を見た。
「海、好きなの?」
「……別に、好きでも嫌いでもない」
「そう」
沈黙。しゃり、と音を立てて、彼女が座った。葉市も座る。斜め後ろの彼女が、独白のように、歌うように、言葉をつむぐ。
「凪いでいる時もあれば、嵐のときもある。暗く沈んでいる時もあればきらきら眩しい時もある。
海はまるで人間みたいねぇ。生も死も内包して、ただそこにある」
「……死?」
聞き捨てならない単語に、葉市は反応する。ふいと視線だけ振り返れば、彼女はただ目の前の海を見てショールの中に丸まっている。
ひょうひょうと吹く風の声に乗って、か細い彼女の声は途切れることなく葉市に届いた。
「海底には魚や海中生物の死骸が沈む。死骸は分解され、プランクトンになり、潮の流れに撹拌されて生き物の糧となる。そうして育った生き物はまた死んで、海底に沈む。海の中だけで一つの生態系が巡る。
もちろん地上とだって密接にかかわってはいるのだけど、海が生物の起源ていう説は有力よね。生まれて、死んで、そこからまた生まれて死ぬ。海が内包する生死の記憶はあまりに膨大で、無駄がない。
ねぇ、ニライカナイという言葉を知っている?」
「……しらない」
「沖縄の伝承で、はるか遠い東の果てや海の底にあるという楽園のことなんだけど。
東洋思想の中で、海の果て・海の彼方・東方の地は、極楽浄土、不老不死の世界としてよく伝わっているの。海上他界の有名どころは仙境や桃源郷、沖縄のニライカナイ、浦島太郎の竜宮伝説ね。
古来日本では、海というところは地上と切り離された別世界としてとらえられてきた。それは、海の向こうからやってくる人々や、技術や、さまざまに漂着するモノだったりが与えた恩恵が由来したりするんだけど、私はそれらが、人にとっての『希望』として映ったからだと思う」
『希望』
葉市は口の中で小さく反芻した。そんなもの、葉市にはない。
ここにだって、海の向こうにだって希望なんて無い。そんなあやふやなものにかける期待すら無駄に思える。
未来は確定して、終着にあるのは『死』。これからイレギュラーなことがない限り、葉市の未来は確定している。
真綿でくるまれたように守られながら、死を待つ。兄のように。
それを知りながら、なぜこの女の人はこんなことをいうのだろう。
「……呉葉と昔、話をしたわ。死が近い未来に確定としてある、どんなふうに生きるべきか」
葉市は振り返る。彼女はひたりと視線をあわせて、葉市と見つめあった。
「私は、自分が生きたと、自負できるような生き方をしたらそれでいいと答えた。呉葉は違った。
彼は、『遺したい』と言った。生きた証を、遺して死にたいと。……実際その通りに行動したわね」
「……それは、お姉さんのこと?」
少し前、兄と病室で話した内容を思い出した。
兄は見つけた、と言っていた。言って、幸せそうに笑ってた。同志、というのなら、彼女がそうなのだろうか。
微笑む彼女はふるりとかぶりをふる。
「いいえ。でも、知ってた。見てた、近くで。呉葉が生きようとしている。邪魔なんてできない。
事実、生きようとして生きはじめた彼は、医者が驚くほどの活力を見せて、表情も行動もすべてが変わった」
潮風がひゅうと吹き抜けた。長い彼女の髪をあおって、ふわりと持ち上げた。
「呉葉は、生きようとして生きはじめた呉葉は。ふつうの男の子と変わらなかった。
わがままで、したたかで、笑って怒って泣いて拗ねて、全力で欲しいものを手に入れようとしてた。
見つけたのね。『希望』を」
『希望』
あの、兄は。恐怖も絶望もうわまわる、そんな喜びを。
知った分だけ辛くなるなんて、幼い葉市にはまだわからない。
ただ兄を、うらやましいと思う。うれしいと思う。
呉葉は、喜びを知って死にゆくのだと、それがわかってうれしい。うらやましい。悲しい。
死は容赦なくやってきて、葉市や呉葉の小さく小さく灯る命の火はかすかな風ですらゆらいで鋭い刃になる。
葉市の未来は決まっているのだ。でも中身は呉葉とまるで違う。
呉葉は『呉葉』として生きた。葉市が呉葉と同じ道を踏襲しても、歩くのは葉市で、その中身はまるで違うもの。
葉市は『葉市』として生きて、死ななければならない。
葉市は葉市の『希望』を、『生き方』を見つけなければ。
涙がにじんだ。葉市の涙を見ながら、女の人はまっさらにした表情で、葉市を見つめる。
次第にこらえきれなくなって、葉市はうずくまり慟哭した。
なんで。
なんで。どうして。僕が。兄が。この人が。
どうして死はこんなにも、すぐ隣に、内側に。多くを奪って。
ようやく見つけたものすら、奪っていって。
それなのに、どうやって生きて、どうして生きていけば。わからない。兄さん、兄さん、にいさん!
ふんわりと、あたたかな空気が葉市を包んだ。
女の人が、いつの間にか立ち上がり葉市の傍まで来て、ストールの内側に包み込む。
葉市の頭を抱え込み、砂のついた髪の毛を、ゆっくり梳いた。
細い指だった。冷たい指だった。細い腕だった。
嗚咽は簡単に止まらない。次から次へあふれ出てくる涙が彼女の洋服にしみてゆく。
無意識ですがるように葉市は彼女を抱きしめた。洋服ごしでもわかる、痩せて骨の浮いた体だった。
あたたかかった。潮の匂いがした。花の匂いがした。母の、匂いに似ていた。
「・・・・・・母さんが、泣くんだ」
嗚咽でくぐもった声は小さく彼女の耳朶を打った。
「夜中に、泣くんだ。兄さんや僕や万葉の前では絶対泣かないのに、泣くんだ。父さんがなぐさめてもだめなんだ。『ごめんなさい』って。『丈夫に産んであげられなくて、ごめんなさい』って。泣くんだ。母さんのせいなんかじゃないのに。僕たちのせいで、朝から晩まで働きづめなのに。疲れてるのに。僕たちの世話を嬉しそうにするんだ。嘘じゃないんだ。僕にだって、嘘はわかる。僕たちのために一生懸命なんだ。なのに、謝るんだ。謝るのは、悪いのは・・・・」
病気をもって生まれてきた、僕のほうなのに。
言葉は呑みこまれた。
言っていいことと悪いことの区別はできている。
恐らく彼女は、呉葉や葉市と同じ病にかかっている。
海の近くの病院で、この病気にかかっているのは葉市と呉葉とあと一人しかいない。
そして呉葉と同年代の彼女の命の期限は、きっと葉市より残り短い。
「『海の果て』よ」
ささやく声は、あわかった。
「生も死も内包して、私たちは生きる。ねえ、それでも君は、『しにたい』なんて思わないんでしょう?」
葉市はうなずいた。その通りだった。
両親の負担や、兄の闘病に未来の自分を重ねて、『死にたい』と、一度も思わなかったはずがない。思っては打ち消した誘惑だった。でも、できなかった。
自殺、なんて。
してしまったら、両親の愛を、兄の生き様を、否定してしまうような気がして。
彼女がほほ笑む気配がする。さらりと頭をなぜられ、葉市はのろのろ顔を上げた。
「この病気で死ぬより早く、別の原因で死ぬ可能性だって、皆無ではないわ。死は平等ね。健康な人にも、病気の人にも、若い人にも、老人にも、等しく身近にある」
歌うように、残酷で何のなぐさめにもならないことを言う。
思わず睨みつけるように見つめていて、彼女は困ったように苦笑した。
「……て、思えたら、どんなに楽でしょうね」
「おねえさん」
「『海の果て』には『希望』がある。そう思わないと私にはやってられなかった。でもね、本当の『希望』は、もっと身近なところにあった。私が必死でみないようにしていた部分に、私の希望があった。
呉葉の言うとおりね。生きた証なんて、紙上の記録からはわからない。覚えていてほしいんだわ、人に。だから、人と、関わるんだわ」
徐々に泣きそうな、笑いだしそうな、嬉しそうな、いろんなものがないまぜになった顔で、涙で汚れた葉市の頬を細い細い指で拭う。潮風に乾いた涙がはりはりと頬からはがれた。
「人の体も、海に影響されてるって、知ってる?」
「え?ううん……」
「涙は、最小単位の海なのよ」
だから『希望』だって、人の中にあると、そう思わない?
こじつけだ、と葉市は思ったけど、口には出さなかった。
希望はまだあるという、彼女の気持ちがうれしかった。
無理やり笑う。涙と潮風にさらされた顔はひきつってうまく笑えてないだろうけど、意図は伝わったみたいで彼女もにっこり笑った。
葉市の心臓がおおきくはねる。とても、綺麗な笑顔だった。
「君は、呉葉と全然似てないね。呉葉が落っことしてきた優しさとか諸々を、君が拾って生まれてきたのかな」
「・・・・・・葉市だよ。僕の名前は、鈴森葉市」
砂に指で名前を書く。指先まで冷えて、上手に書けない。
次いで女の人の細い指が、葉市の名前の隣にさらさらと書き加えた。
『寒河江 密』
「さがえ、ひそかと読むのよ」
ひっそりささやく声に、なんてぴったりの名前だと葉市は思う。
砂浜のむこうから、彼女の名を呼ぶ低く通った声が波の音に負けずに耳に届いた。
二人同時に顔を上げる。男の人が近づいてくるのがわかった。密が小さな小さな声で、「ぜん」とつぶやいた。密と葉市は立ち上がり、服についた砂をはらう。
「・・・密さん、のおむかえ?」
「呼び捨てででいいわ。そうね、こっそり出てきたの、ばれちゃったみたい」
「あの人が『海の果て』?」
彼女は驚いたように目を見張り、笑った。
うっそり笑ったその顔は、さっきの笑顔とまったく違って。
密はすい、と小腰をかがめて、葉市の頬に口づけた。カッ、と熱がその部分に集まった。「しょっぱい」と言って密は笑う。
「見つけてね、葉市の『希望』」
さくりさくりと歩き出す。長い髪が風になびく。
男の人が密に追い付き、自分のマフラーを彼女の首に巻いて、手をつないで歩き出す。
その背中が大分離れてから、はっと気づく。口づけられた頬に指を這わせながら、葉市はつぶやいた。
「僕は……海の中で死にたい。密」
密は振り返らなかった。
***
鈴森 葉市 呉葉の年の離れた弟で、同じ病気を持っている。
寒河江 密 呉葉と同年で一学年上の、同じ病気を抱えた少女。
鈴森 呉葉 享年17歳。まだこの時は生きている。
全 密の『海の果て』。『希望』。
という、鈴森呉葉にまつわる、弟と同志の話。
時期的には、藍夏と呉葉が最後に会った後。
最初で最後の邂逅。
少女が語った『希望』の話。
少年が見つけるのは、もう少し後の話。