5、“異”世界(1)
「むにゃむにゃもう食べられないよー」
「なに寝ぼけたこと言ってるんですか。さっさとお起き下さい」
エルシリア――エリスはカーテンを大きく開けながら呆れた風に口にする。
いやだって寝起きでしてよあたくし……。
「今日は畑の様子を見にいらっしゃるんでしょう? さあ、顔を洗って目を覚まして下さい」
「えー、エリスやって~」
小さい頃はこうやって良く甘えたもんだ。そうすると「全く甘えん坊ですね」とか言いながらも、エリスは優しく濡れタオルで顔を拭ってくれて……
びしゃっ、と冷たいものが飛来し、寝ぼけ眼にぶち当たった。
「ご自分でどうぞ」
…………。
ひ、酷くない? ねえ酷くない? エリスって私付きの侍女だったよね? 私達小さい頃からの付き合いだよね?
「エリスさん、年々私への態度が厳しくなってませんか……?」
「お嬢様は甘やかすと際限なく怠ける方ですから」
しれっと答え、私が寝台から出るのを待っているエリス。
……仰る通りでございます。
リネンのタオルで顔を拭い立ち上がると、“本日のお召し物”を持ってエリスが目の前に立った。
「失礼致します」
ぼーっと立ってるだけで着替えが終わる。いつも畑のカカシみたいだなと思うけど考えてみればそれはカカシに失礼だった。彼らはああ見えてちゃんと仕事してる。
因みに、私は記憶が蘇ってからも、他人に身の回りの世話を任せることに何ら抵抗を覚えなかった。
考えてみてほしい。帰宅は深夜の三時、翌日は普段通り仕事で起床は七時、そんな日々を三日でも送ったことのある人間ならば必ず思うはずだ。一分でも多く寝ていたい、布団から出たくない、ああ、洗顔・着替え・食事・歯磨き全てを勝手に行ってくれる全自動マシーンがあればいいのに――と。少なくとも私は考えた、うん。
突っ立ってるだけで、他人が何もかもやってくれる――これはあの夢の全自動マシーンの再現ではないか?! というわけで、私は抵抗感なくそれを受け入れたのだった。
促されるまま鏡台の前に座れば、今度は髪のセットと化粧が始まる。
私は、鏡の中で“ワルトのお嬢様”として完成していく自分をぼーっと眺めていた。
もちろん毎日こんなことやってるわけじゃない。一日館の中で過ごす日は普段着だから着替えだって自分でやる。だけど今日は領内とは言え外出するので、ちゃんとした服装に化粧が必要だ。
貴族って大変。
と、完璧他人ごとで用意が完了するまでぼーっとしていた。(実際大変なのは私じゃなく用意する侍女達だし)
「……今は構いませんが。領民の前に出るときは、そのぼんやりした間抜け顔は引っ込めておいて下さいね」
ひどい。チャンスがあればすかさずぼーっとしたい人間にそんなこと言うなんて!
「じゃあ私はいつぼーっとすればいいの?」
多分今日はお昼寝も出来ない。エリスは硬質な美貌に諦念を浮かべてため息をついた。
「馬車の中でならお好きなだけして下さって結構ですよ」
鬼や、鬼の子がここにおる……!
内心愕然としながら、私は鏡の中のエリスから視線を逸らした。
この子どこをどう間違ってこうなっちゃったんだろう……昔は厳しさの中にも不意に零れる優しさが素敵な幼女だったのに……あれか、ツンいやクーデレの黄金比8:2を体現しようとでも言うのか。しかしエリスのクール:デレ比はどう見ても9:1、悪くすると10:0である。クール通り越してツンドラだよ。これがホントのツンデレか。上手いこと言った私、いや上手くない。
どことなく元の世界のスイスに似たワルトの風景と相まって、最近の私はロッテンマイヤーさんに苛められるハイジの気分。なるほど、つまりロッテンマイヤーデレ、略してロマ:デレ=10:0の状態なんだな、今は。
ってダメじゃないかそれ、ダメじゃないかっ。結局どう名称を変えてもデレ分が0ってどういうことだよーおおおーあの懐かしき美幼女の君よ、帰って来て!
「また下らないこと考えてらっしゃいますね」
ひくりと喉を引き攣らせ、鏡に視線を戻せば、元クーデレ8:2現ロマデレ10:0の美少女がこちらを厳しい表情で見据えていた。
曖昧な笑みを口元に浮かべてみせると、エリスはもう何も言わず再び手を動かして髪を結い始める。
何と言う読心術。さすが、たかが二歳と言えども年の功といったところか。それとも私が分り易いのだろうか……。
私達きょうだいには、いわゆる乳兄弟がいない。私もフィーネリアもアストリアも、全員お母様の母乳で育った。ただ、私に限っては、小さい頃から少し年上の子どもを侍従として付けられ、多くの時間を共にしてきた。私が領主となった時、唯一無二の臣下となるように。それがエリスだ。
エリスはこれまで、きちんとその仕事を全うしている。私を甘やかさず、疎まれることを厭わず諫言を献じる。私は彼女のその姿勢を尊敬してるし、……もうちょっと仕事に不熱心でもいいんじゃないかとは思うけど……、向こうがどう思ってるか不明だが私にとってエリスは家族にも等しい存在だ……けどもう少しオブラートに包むということを試みてくれてもバチは当たらないよと……思ったりもするけども…………
「大事なくてようございました」
幼馴染にも等しい侍女との関係性について、当てのない思索の波に溺れそうだった思考を、ぽつりと低く抑えられた声が引き戻す。彼女の視線は鏡の中。そこに映るのは、寝台の横、サイドテーブルに飾られた花。
「うん」
白い陶器の花瓶を彩る花々は、目を楽しませるだけでなく、心も弾ませてくれる。
菜の花に似た、薄紅色の花。淡い水色の薔薇に、桔梗のような白い花。夏空色のひな菊と夕焼け色のミモザ。
それは、勇敢な妹が種を集め、聡明な弟が咲かせた何よりの贈り物だった。アストリアの髪の毛に絡む根を屋敷の家人総出でほどいたのも楽しい思い出だ。一時はどうなることかと思ったけど。大事にならなくて良かった。
思わず息をつくと「老けますよ」と手厳しいお言葉。零れた苦笑に返ってきたのは、琥珀色の無味乾燥な視線。
エリスが私の頭の中を覗けるように私はエリスの考えていることを分からないけど、それでもアストリアのことを心配してくれているのは本当だと思う。
夜明けの神に愛された私の弟――アストリアは、生まれつき体が弱い。魂が大きすぎるため、らしい。
お化粧も終わり、促され食堂へ足を向ける。
今日は、私主導で植えた作物の様子を見に行くのだ。そろそろ収穫のはず。
お父様は既に出勤されていていらっしゃらなかったので可愛いきょうだい達と朝食をとる。
フィーネリアは一緒に来たがったけど、昨日の罰でアストリアとお留守番。
窓から見送ってくれる二人に手を振り返し、私は馬車に乗り込んだ。
説明回前哨戦。




