またあうひまで
「よろしいのですか」
落とした言葉の余韻も消えて、たっぷりの沈黙が満ちた後、お姉さんは尋ねる。
「……私さぁ」
私は笑って答えた。
「今まで、それなりに頑張って生きてきたと思うんだよ。命をかけて、とはいかないけど、自分に出来る力で、人並みには努力して生きたと思うんだ」
「はい」
静かな相槌が背を押す。
「そんで、また生まれたら……それまでのこと忘れて、普通に転生したら、また頑張るんだと思う。出来るだけの力でさ……」
どうせ、死んじゃうのに。
その言葉は、存外重く響いて、私は慌てて語を継いだ。
「だから、今度はあんまり頑張らないで生きてみよっかなーって思って。異世界の方に転生すれば、何かそういうふうにしてくれるんでしょ? 特約とかつけて貰って」
すごく後ろ向きな理由だ。何故か私に好意(?)を持ってくれているらしいお姉さんにこんなことを告白するのは恥ずかしかったけど、でも。
私はもう、ちょっと……疲れてしまった。
諦めないけど、少し休みたい。気だるさが胸の辺りにたゆたっていた。
「では、そのお話をいたしましょう」
お姉さんは無感情な白い視線を真っ直ぐこちらへ向けて、そう言った。
* * * * * * * *
「先ほどお話しした通り、此度、異世界へ転生する方には特別に便宜を図らせて頂きます。
出来る限りそちらの意向に添うように致しますが、何か希望はございますか?」
私はきっぱりと告げた。
「一生お金に困らないようにして下さい!」
ややあって、お姉さんは困惑したように眉根を寄せた。
「ええと……それは」
「じゃあ一生楽して過ごせるようにして下さい!」
何往復か、白い床に視線を彷徨わせていたお姉さんは、やがて面を上げ、若干眉尻を下げたまま口にした。
「少し、整理しましょう」
*
「転生にあたり、こちらが裨益することが可能なのは、大別すると四つになります」
分かりやすく、四本指を立ててくれるお姉さん。
「まず一つ目ですが、前世……現在の記憶を引き継ぐかどうか。これが今回最も特別な措置となります。通常の転生と同じく記憶を消去することも当然可能です」
ふむふむ。
「二つ目、転生先。どのような世界を希望するか、ということですが、これには制限があります。希望に適う転生先が存在しない場合もありますし、また、希望を満たしていても、その方自身に資格が無ければ転生出来ない場合もあります。他の方と転生先が被る場合もありますが、それはご了承下さい」
ははぁ。
「三つ目は、生まれです。その世界でどのような立場、人、家に生を成すか」
ほほぅ。
「四つ目は……ご自身についてのことです。優れた容貌、頭脳、特別な能力。そういったものも、ある程度は希望通りにすることが可能です」
へー至れり尽くせりだぁ。
呑気に相槌を打つ私へ、お姉さんは何か言いかけ、けれど結局そのまま口を噤んだ。
「その三つを細かく決めなきゃだめってことかー」
「いえ、だめということではありません。ただ、そちらの希望とこちらの認識が食い違うことがありますので……おすすめは、しません」
私は頷いて、じっくり考える。せっかく忠告してくれたんだから、無駄にしてはいけない。
「……平和な世界がいいな。なるべく戦争とかが無くて、無理なら最低私が生きている間は大きな戦争が起こらない世界がいい」
お姉さんは生真面目な顔でこちらを注視している。
「両親は優しい人が良い。ある程度裕福なお家で、贅沢しなければあくせく働かなくても食べていけるくらい。あ、でも政略結婚とかは勘弁してほしいから、両親は余り野心のない人だと嬉しいかも」
すっ、と視線を合わせた。
「それくらいかな」
白い睫毛に縁どられた瞳が丸くなり、何度か瞬いた。
「……それだけ、ですか?」
他に何かあったっけ。首を傾げれば、澄んだ声が矢継ぎ早に続いた。
「整った容姿は? 怜悧な頭脳は? 特別な力……“魔法”や“超能力”、“妙なる加護”、特出した身体能力、“唯一無二”の力、そういったものは必要ないのですか?」
何だかおかしくて、思わず苦笑を零す。
そんなもの“一生お金に困らない”“一生楽して過ごす”には不要だ。
「特に希望はないのでお任せします」
告げてから、少し考えて付け足した。
「特別丈夫でなくても構わないんですが、病弱なのも困るので体は人並みの健康体でお願いします。それから、変なふうに目立つと嫌なので、もの凄く頭が良いとか美人とか、逆にもの凄く頭が悪いとか不細工とかはやめて頂けますか? 魔法や特別な力も、あってもなくてもどっちでも良いです」
「どっちでも良い……」
その呟きは妙に幼く響いてどこか可愛らしかった。
「その力が無いことで悪目立ちするようならください。反対にその力があることが特異な場合はいりません。とにかく悪目立ちしたくないので」
そして、私は今度こそ、平穏無事に人生を全うするのだ。
分かりました、とお姉さんは瞳に強い光を宿し頷いた。
ふと思いつき尋ねてみる。
「そう言えば、今より進んだ世界に転生することって出来ますか?」
ある意味、それは私が死んだ後の世界、生きることの叶わなかった世界に近いんじゃないだろうか? ちょっと見てみたい。
「可能ですが……記憶の保持は出来ません」
今の記憶を持ったまま進んだ世界に転生するには、資格が必要で、私はそれを満たしていないんだそうだ。“魂の練度が足りない”と言われてしまった……なんかちょっとへこむ。
まあ、どうしてもと言うわけではないし。
気持ちを切り替えて、立ち上がった。
「それじゃあ、お願いします」
そっと私の手に触れながらお姉さんが訊いた。
「記憶は……?」
「そのままでお願いします」
お姉さんは何も言わない。触れられた掌は何の温度も感じず温かくも冷たくもなくて、なのに触れられているのが分かる。不思議だったけど、それを問うことは、私にはもう出来なさそうだった。
ゆっくりと、自分の周りがとけていくのを感じる。
“多田文”という殻は融けて、心を守る綾はほどけ、やがて魂だけの姿になるのだ。
言葉を紡ぐことすら出来なくなったので、私は感謝の気持ちをこめて、
ただ、笑った。
――――。
* * * * * * * *
行ってしまった、と、「それ」は小さく震える息を零した。
彼女が最後に残していった光が頼りなげに揺れている。
その、僅かな灯火を抱き寄せる。それは淡く胸に滲んで消えてしまった。
――“ありがとう”……。
彼女の言葉が、「それ」の体にじわりと染み渡っていく。
睫毛の先から雫が幾つか震え落ちた。
「それ」は、人であった時“聖女”と呼ばれていた。
人を救い、導かんと身を投げ出し、人に絶望して、二度と人であることをやめた。
人をやめてから、初めて目にした生が“彼女”だった。
小さな虫に生まれた、新しい魂。
「それ」が彼女の生を問うことは、彼女が生まれた時から決まっていたので、「それ」は彼女が生まれてより見守ってきた。
その呼吸ひとつ、触覚の動きひとつ見逃さまいと、息を詰めて見つめていた。
彼女の終わりは、今でも良く覚えている。
捕食者に肉を吸い出され、震えていた脚が、やがて動かなくなるまで。
その後、「それ」はたくさんの命を見、生を問うた。
何度か彼女にも遭った。
「それ」は嬉しかった。
六、という回数は決して多い方ではない。
何十、何百、何千と生まれ直しを繰り返す魂たち。
そして、消えていく魂も、同じだけ。
遍く草木への回帰を望むものたちは少なくない。特に、一度人として生きたものは、傷付き疲れ果てて、心なく意思のない生へ安息を求めることが多いのだった。
彼女もまた、疲れているようだった。
だけど、彼女は。
魂を見守り続ける、永遠に等しい時間。たくさんの生に触れ、「それ」は思った。
――なぜ自分は、もっと生きなかったのだろうか。
導きも、救いも。きっと要らなかったのだ。ただ、普通に、彼女と同じように自分の精一杯で生きれば良かったのに。
知らせが届く。
また一人、死んだ。彼女と同じ、他の世界への転生者。もう何人目だろうか。
魔法が存在する世界、貴き血、大きな魔法の力を望んだある者は、母親の胎内から出てすぐ、息をする間もなく“処分”された。
その世界には確かに“魔法”が存在したが、それは悪魔の力とされ、彼の生家は聖性を是とする家系だった。
異性を惹きつける魅力を願ったある者は、平民でありながら王の心を射止めるに至ったが、王は彼女に狂って政を疎かにし国が乱れた。
彼女は、人心を惑わす魔女として火あぶりの刑に処された。
底のない膨大な知識、思い浮かべたものを現界させる能力を手に入れたある者は、他に比類無き聖人として人々の尊敬を一身に集めた。
しかし、その生は、手足を切り落とされ瞼を縫い付けられ、ただ死ぬまでを永永と他が求める知物を産み出し続けるに終わった。
身に余る力は自身を滅ぼす。
なぜ人はそのことを忘れてしまうのだろう。
なぜ彼女のように平穏を幸福にし得ないのだろう。
「それ」は目を閉じ、彼女の安寧を祈った。何の力も望まず、脆弱なただ人として生まれるであろう彼女の。同時に、まだ自分に誰かを案じる気持が残っていたことに気付く。
永い時の中に身を置き、感情は随分と薄れてきた自覚があった。彼女以外の者の死を知っても、心は湖面のように静かだ。
それが良いことか悪いことかは分からない。
ただ、今回はまだ感情が消えてしまわないでいて良かったと思う。彼女を助けることが出来た。
ひょっとしたら、聡い彼女には自分の助けなど要らなかったかもしれないが。
他の者――「あれ」の言葉を是だろうが否だろうが結局のところ諾々と受け入れた者達の、次々届く死の報せ。であれば、きっと自分は余計な世話を焼いて良かったのだと「それ」は考えることにした。
自分達は、斟酌しない。人々がわざわざ口には出さない“当然”や“常識”を。
それでも今回の人々は運が良かった方だ。予め“人”への転生は決まっていたのだから。
例え、適応不可能な世界に産み落とされ、生まれた瞬間に命費えたのだとしても、きっと苦しまずに済んだのだろうから。
前世の記憶、高い知性、特出した能力を持って蛆に転生し発狂して死んだ者もいたと聞く。
「あれ」はもう使いものにならない。今は他の「もの」が代わっているだろうから、少しは死の報せも減るだろうか……
「それ」は再び瞼を重ね、彼女のことを想った。
彼女は長く生きられない。魂が、普通よりも小さいためだ。
ならば魂の輝きも弱く卑小でさえあれば良かったのに。
それなのに。
彼女の魂は、強く強く輝く。
だからいつも彼女の命は、その輝きに焦がれる他者によって摘まれてしまうのだ。
「どうか……」
神などいないと、とうに知っている。
何に祈っているかなど、自分でも知らない。
それでも、人であった頃“聖女”と呼ばれていた「それ」は、彼女の幸せを、ただ一心に祈った。




