18、秋(7)
迫る地面を認識出来るほどの余裕も無かった。
宙に投げ出された体が本能に従って丸く固まる。
ぎゅっと瞼を瞑り、ただ落下の衝撃に備えた――――。
「………………」
「………………」
「……………?」
いつまでたっても痛みは襲ってこない。
衝撃も、土の匂いも地面の冷たさも。
寧ろ温かく、人肌に抱かれているような…………ッ?!
「おー、やっと目ぇ開けた。どっか痛む箇所はあるか?」
「はっ?! えっ!?!」
まさに私は抱かれていた。逞しい腕の中、赤子のように。
服越しとはいえ、ぴったりくっついた体と至近距離にある顔が恥ずかしい。首から上に、凄い勢いで熱が集まってくるのが分かった。
「なっ、なんっ、足っ」
――を踏み外した筈だ、私は。いったい何がどうなっているのか。
「ああ、足やっちまったのか。ちょっと我慢してくれな」
彼はそう言って私をそっと木の根の上に降ろすと、足首にゴツゴツした掌を当て問うてくる。
「痛いか?」
私は首を振り、それから慌てて語を継いだ。
「いえっ、あの、怪我はしておりません! 大丈夫です!」
「そうか? まああんまり無理はしない方が良いぞ」
いっくら腹が減っててもよ、と続けられた言葉に、私は思わず羞恥に染まった頬を俯ける。
そんな私の態度をからっと一笑し、彼は言った。
「ところで嬢ちゃん、迷子じゃねえよな?」
と。
*
「いやー助かった助かった! 腹が減って食いもん探しに森ん中入ったはいいが、迷っちまってな」
ゆらゆらと、彼――あの時、ワル鳥から私とフィーネリアを守ってくれた男性の背に、私は揺られていた。
「あ、そちらです」
とりあえず馬車に戻ることにして、彼の背中越しに時折道行きを示しながら――私は安堵していた。
おんぶで良かった、と。
恥ずかしいけれど、この体勢なら顔を見られることもない。
男性に負ぶわれるなんて、お父様以外では初めてで、なんだかドキドキしてしまう。もしかしたらまた顔が赤くなっているかも。
怪我があるわけじゃなし、自分も歩くと主張したのだけれど、「念のため念のため」とお日さまみたいな笑顔で言われて、何故だかそれ以上反駁出来なかった。
一つに結んだ稲穂のような髪が視界の端でちらちらと揺れるのをどこか気にしながら、そっと彼の顔を盗み見る。前を向くその表情は分からない。
もみあげから続くもじゃもじゃの無精髭は、髪と同じ黄金。日に焼けた肌は意外に若いのが、近くで見るとよく分かった。年齢は二十代中盤から後半くらいだろうか?
先ほど正面から合わせた瞳は、綺麗な緑色をしていた。私のような暗い緑ではない、芽を出したばかりの萌芽の黄緑――……
「このまま真っ直ぐで良いのかい?」
はっとして応諾を返した。……声が上ずってしまったかもしれない。気付かれていないといいけど。何だか恥ずかしい。
触れ合った部分から感じる服越しの体温、汗の匂い。
それが不思議に嫌ではなくて、どくどくと脈打つ自分の鼓動を感じながら、どうしてだろうと考える。
そんなことを考えているうちに、林を抜けていた。
*
見知らぬ男性に負ぶわれて帰ってきた私に、三人とも目を丸くしていたけれど、私が事情を(アケビの件はやや誤魔化して)説明するとそれ以上追求はされなかった。
私の誤魔化し説明をちょっと面白そうな顔で聞いていた彼に、今度はこちら側の事情を説明する。荷馬車が泥にはまって動けなくなってしまったことを。
ふむ、と彼は顎の無精髭をじょりじょり撫でて呟いた。
「俺もちっとばかし協力するか」
疑問符を浮かべる私たちをよそに、彼はすたすたと荷馬車の側面まで歩いて行く。つい追いかけてしまった私を、「危ないから離れてな」と制止すると、向こう側のヘイカーたち三人に声をかけた。
「爺さんたち、俺が合図したら三人でそっち側を持ち上げてくれ。いいか? いくぞー」
向こう側の慌ただしい空気と、彼の、せーの、という掛け声が重なる。
そしてその瞬間、澄んだ黄緑色の瞳が赤く輝くのを、私は目撃した。
ぐわら、と荷馬車が浮いた。
ヘイカーたちも私も、ぽかんとそれを見上げる。
秋の遠い青空へ、猛々しく掲げられた荷馬車の片脚を。
彼が担当する側だけが大きく持ち上がった荷馬車の車輪から、土くれがぽとぽとと落ちる。
「そのままそのまま。ちょい移動させんぞー」
薄っすらと彼の全身から赤い蒸気のようなものが立ち昇っていた。“オーバードライブ”だ。
四人は声を合わせて荷馬車を移動させ、慎重に下ろす。意外なほど静かに、あっけなく荷馬車は泥濘より救出された。
「んじゃ、気を付けてな」
そう言うと、礼を言わせる間も与えず、ひょいと片手を上げて去っていこうとする彼を慌てて引き止める。
二度も助けられてきちんとしたお礼もしないまま恩人をいかせるなんて、ワルトの名が廃る!
「いや、別に俺ぁ大したことは……」
「当家の沽券に関わります! 何卒! 何卒!」
若干眉尻を下げ、それでも行こうとする彼。そうは問屋が卸さねえぜ! と私は彼の服の端を掴み、令嬢としての分別も忘れて踏ん張った。
「おっかしな嬢ちゃんだなあ」
くしゃり。
彼は破顔した。心臓が小さく跳ねて、思わず服の裾から手を離してしまう。
「んじゃまあ、そこまで言うならちょいとお世話になるか」
ポン、ポン、と無骨な掌が宥めるように頭に触れる。
「あ、あのっ! 私、もう成人しております!」
熱い頬を誤魔化すように、子供扱いに異議を唱えれば、
「そうかそうか、そりゃ悪かった」
と、微塵も悪いとは思っていないだろう笑顔が返って来る。
それにやや不満を抱えながらも――「お手をどうぞ、令嬢?」
馬車に乗り込む際、茶目っ気たっぷりに微笑まれては、差し出された掌を拒むことも出来ず、私はそのゴツゴツした硬い手を取るのだった。
*
「そう言えば、ご挨拶がまだでした。私、グリーヴ・フルツ・ワルトと申します。
ここ、ワルト領を預かるワルト伯の長子に御座います」
ものっそい今更手遅れかもしれないが、背を伸ばし、貴族らしく精一杯の澄まし顔で自己紹介を行う。
「こいつはご丁寧にどうも。俺はライオネル。苗字はない、見ての通り平民だからな」
絶対嘘だ。
馬車内の人員は三人。私、ライオネル・ナナシ(仮)氏、そしてジョン。
馬車にもう一人増えると知った時、ジョンはあからさまにほっとしていた。
さすがに床に座るのはやめたけど、それでも私の隣には「そそそ、そんなこっだら出来ねえ!」と言って絶対に座ろうとしなかった。
結局、対面の座席――体の大きなライオネルさんの隣に、縮こまるようにして座っている。
……まあ、多少大げさ過ぎる気もするけど、貴族と接し慣れてない普通の平民の反応なんてこんなもんだろう。
鑑みて、ライオネルさんの態度は“普通”じゃない。
隠そうとしていないのか、それともこれで“普通の平民”の振りが出来ていると本気で思っているのか……ひょっとして結構天然とか?
う~ん、勘当された貴族の三男坊四男坊とかかなあ。それとも、断絶した貴家の家系とか……。
名前の響きからすると、アヌメリィ帝国の向こう、東にあるロメイン王国の人っぽいけど……偽名とか、改名してる可能性もあるしな~。
まあ、分からないことをいつまでも考えていても仕方がない。私は思考を打ち切って、再び馬車の中へ意識を戻した。
道中は、楽しいものだった。
自称の通り、ライオネルさんが『さすらいのきこり兼剣士』かどうかは置いておくとして、各地を旅してきたのは本当のようで、彼が語る私の知らない様々な土地の話には興味が尽きなかった。
彼は話上手で話題豊富で、話の合間合間に挟む私とジョンの質問にも心易く答えてくれた。おかげで馬車の中に漂う空気は、数時間前とは比べようもないほど柔らかい。
…………というか、なんでだろう。私とよりジョンとの方が話が盛り上がってる風なのが若干腹立たしいような。
等と、謎の苛立ちを得る私の前で、「実は吟遊詩人やってたこともあるんだぜ」というライオネルさんの言に、ジョンは目を丸くし口をぱかんと開けていた。
……ライオネルさん、さすがにそれは盛りすぎだと思います。
* * * * * *
空腹にとっては、いつものご飯もご馳走だ。だけどこの湧き上がってくる唾の理由はそれだけではない。
「うわぁ何それ!」
食堂に飛び込んできたフィーネリアは、テーブルの真ん中に堂々と鎮座し湯気をあげる物を見つけ嬉声を上げた。
おーい、ここにお客様がおりますよー。
「フィーネリア!」
お父様の厳しい声に飛び上がり初めて客人の存在に気付いた妹は、しかし彼を見上げてぽかんと口を開けた。
普段はゆるゆる甘々なお父様の眉頭に皺が寄る。
お父様、礼儀(特に人前での)には厳しいからなぁ……。
だが、ナイスミドルなお髭の口元から叱責が飛び出すことはなかった。いかにも楽しげな、弾む言葉が割って入ったからだ。
「いやぁ、実は俺も先程からその黄色いものが何なのか気になっていたのです! 宜しければ教えて頂けませんかな?」
家の主人の言葉も待たずに食事内容に言及するなんて、ほんとはとってもマナー違反なんだけど、そもそもまずお客様に挨拶なしっていう失礼を働いたのはこっちなので、これはマナー違反をマナー違反で相殺するという高度な紳士的行動……。何というジェントル……。
そして私は、ライオネルさんが茶目っ気たっぷりにフィーネリアにウィンクしたのを目撃してしまった。う、羨ましくなんかないんだからねっ。
小さな咳払いに、穏やかで優しげでちょっと頼りなさそうな声が続ける。
「ええ、こちらは“パンプディング”といいまして、実は当家の上の娘が発案したものなのです」
そう。やっぱりね、どうしても向こうの味が恋しくなる時がたまにあって。
あと、料理で町おこし! とか血迷っちゃったこともあって。
向こうの料理とかお菓子を再現できないかなーって試してみた時期があったんだけど、早々に諦めた。
だって、こっちでの料理ってめちゃくちゃ大変なんだもん! 向こうでも料理人=職人って感じだったけど、こっちじゃもう明確に職人。
材料が違うとか手に入らないとかそんな単純な話じゃない。
お菓子、特に洋菓子は材料の分量が凄く大切で、きっちり守らないと大概失敗するんだけど、まず、向こうでの100gがこっちの計りの何gなのか分からない。
じゃあ分量比が1:1のお菓子……例えばパウンドケーキなら簡単じゃないのって思うでしょ。でもね、材料混ぜてハイ焼きましょうってなったら、『180度のオーブンで20分~』って、それはこちらの薪窯の、火がどのような状態になった時がイコール180度なの? って。全然全くこれっぽちも分からないよ! しかも薪窯の火は天候や湿度や使った薪によって毎回微妙に違うし! 窯自体、作りも統一されてないからご家庭で再現しようとしても難しいし!
こっちのオーブン料理ってほんと難しい。というか洋菓子って化学的な反応を利用したものだから素人がやろうとしてもほぼ無理! ってかプロの料理人でも薪窯使い慣れてない人はたぶん無理! 無理無理! これ無理!
……ってなって諦めた。
で、無理ってことが分かるまでの間に再現出来たものも幾つかあって、その一つがパンプディング。
プリンじゃないよ、パンプディングだよ!
うちは黄パンか白パンなんだけど、領内の平民はみんな黒パン食べてて、黒パンってすぐカッチカチになるから、パンプディングなら硬くなった黒パンも柔らかく食べられていいかなって。
「パンと卵液に肉や様々なものを入れ火を通した料理でしてな。これがなかなかどうして……」
お父様のそれっぽいうんちくを、ライオネルさんはふんふんと聞いてあげている。
プディングだから別に何入れてもいいし塩味でもいいんだけど、やっぱり甘いもの食べたいじゃない……甘くあってほしいじゃない……。だから私は木の実や果実や蜂蜜や砂糖を入れたあむぁぁあ~いのを提案したんだけど、贅沢すぎる! って料理長(というか給食のおばちゃん)に却下された……。
というわけで、うちのプディングは塩味で、木の実とかお肉とか入ってるやつ。
うん、いいんだけどさ。美味しいからいいんだけどさ……。
「親の口から言うのも面映いものですが、本当に当家の子どもたちはよく出来た子で。特にこのグリーヴなど……」
あ、お父様が恒例の親馬鹿子ども自慢に移行している……!
「小さい頃は心配をかけられ通しでしたが、例えばあれは何歳の時だったか……」
げっ、げげぇー! 小さい頃の恥ずかしい失敗談フェーズに移行!! エマージェンシー! エマージェンシー!
「お父様、せっかくのお料理が冷めてしまいます。お話はお食事を召し上がりながらでも宜しいのでは?」
内心の焦りを微塵も感じさせないよう、努めてにこやかにさりげなく自然に割って入る。
「おお、そうだな! ……と、このようにグリーヴは気遣いも出来る子で……」
もうやめて! 私のHPは0に近い!!
「ご主人、それにはいたく同感なのだが、そろそろ俺の腹も限界だ」
助け舟を出してくれたのは、またもやライオネルさんだった。し、紳士……!
普段周りにこういった紳士な大人の男性がいないので(お父様は完璧にジェントルだけど子どものことになると度を越すし)、いちいち感激してしまう。
「では頂くとしようか。皆、森の恵に感謝を!」
「感謝を!」
復唱が広間に響き、続いて食器を取る音、給仕の音でやにわ騒がしくなる。
「それで、ご主人。先程の娘さんの小さい頃の話ですが……」
前言撤回。これっぽちも紳士ではなかった!!




