15、秋(4)
「ハァアアッ!」
「ひえぃひぃっ」
「ヤアァァッ!」
「あひゃあー!」
素晴らしい秋晴れの空の下、澄んだ声が響き渡る。
動き易く身だしなみを整えた侍女たちが、携えた長物を相手に向かって一斉に繰り出せば、ここが屋敷の中庭だということも忘れてしまうような熱気だった。
「トゥエェェイ!」
「いひゃひんっ」
――そこまで!
鋭い声にピタリと動作を止め姿勢を正す彼女らの中、ただ一人私はよろよろと地面にへたりこんだ。
「お嬢様は何と言うか……本当にセンスというものがありませんなあ」
「壊滅的に運動能力が無いのは仕方ないとしても、その情けない叫び声何とかなりませんか。気が抜けます」
短く刈り込んだ顎髭を撫でながらしみじみと評したのは、同性愛者村村長アガットさんに紹介して貰った武術の先生、通称テン老師。
老師の言葉に、上がった息を整えつつエリスがこちらを見下ろしながら続けた。M男垂涎のその視線も私には氷の矢のように突き刺さるだけだ。美少女の見下し視線って辛いよぅ……。
「もう邪魔なので端の方で座ってて下さい」
ち、ちくしょー! 嫌がる私の参加を無理矢理決めたのはエリスじゃないか! なんたる言い草! 全くうちの侍従は主人に対する態度がなっとらん!!
と、心の中で拳を振り上げながら、現実にはこれ幸いと四つん這いで逃げ出す私。
「御立ちなさい!」
「はいっ!」
途端に飛んでくるオルガの叱責に条件反射で答えたものの、元気が良いのは声だけで、得物に縋ってようやっと立ち上がる始末。
「シャンとする!」
「ひゃいっ!」
エリスの追撃に再びの反射で背筋が伸びる。
「キビキビ歩く!」
「ひぇいっ!」
もうやめて、私のライフはとっくに0よ! オルガとエリスで交互に叱りつけてくるのはやめてー!!
ヨタヨタする足取りへ必死で制御を試みるが、打ち込まれる打撃を受けて耐えに耐えるのみだった手足はどうにもいうことをきいてくれない。
……情けないと言うなかれ。だって皆強いんだもの! あんなに気が弱いミミュウでさえびっくりするほどの力強さなんだもの! どういうことなのうちの侍女たちは! 私が弱いんじゃないよ、皆が強すぎなんだよ! こんなの絶対おかしいよ!!
地べたに腰を下ろそうかと思ったけれど、何やら背中に厳しい視線を感じ途方に暮れる。
中庭とは言っても、ここは昔々練兵場だった場所だ。季節の花々が咲き乱れ噴水が光を弾き蔦の這う東屋でティータイムなどといった、いかにもなお貴族様のお屋敷のお中庭ではない。なんか畑とかつくっちゃってるし、洗濯物干してあるし、時々子羊が迷い込んでメエメエ鳴いてるし(可愛い)、風向きによっては畜舎から動物の臭いが漂ってくるし、つまり休憩するための場所ではないから椅子なんか置いてないわけで。た、立ちっぱは、立ちっぱは勘弁でごわす……!
「お嬢様、こちらへどうぞ」
今日も一糸乱れぬ執事服のジュリオ。彼に流れるような所作で手をとられ、導かれた先は中庭の一角。そこには、綺麗にテーブルクロスを敷いたティテーブルとチェアがあって、お茶の用意が万端整えられていた。
ふ、ふおぉぉ……!
感激のあまりため息のようなものを漏らした私を椅子に座らせ、ジュリオはカップにお茶を注ぐ。芳しいキール茶の香りが湯気にのって立ち昇った。何故ここにとかいつから居たとかそんな些末事はこの瞬間どうでも良くなりました。ごっつぁんです! ごっつぁんです!
それから彼はテーブルの上の瓶詰めを手もなく開け、中に匙を差し込んだ。――コ、コケモモのジャムだー!
とろりと日光を照り返す赤がカップの中に落とされる。
おおお、何てマメな男なんだ、ジュリオ! こいつあータラシに違いない、うちの妹には近付かないで下さいね!
差し出されたそれを受け取り感動しながら口を付けようとした矢先。
「お嬢様は桑の実のジャムの方がお好きです」
うわあびっくりしたー!
エリスがいつの間にか背後に立っていた。
「え、エリス、あっちは良いの?」
熱心に得物を振るう皆の方を視線で指し示すが、無視。エリスの眼は真っ直ぐジュリオに向いていた。臆すこともなくそれを受け止め、ジュリオは片眉を上げる。
「お嬢様はコケモモのジャムがお好きと伺ったが?」
「ええ、お茶請けにはね。キール茶に入れるなら桑の実のジャムの方がお好きです」
そうでしょう、と水を向けられ、思わず頷いてしまう。いや、間違ってはいないけど否とは言わせない迫力があったわ。
ジュリオは皮肉げに口端を上げた。
「ほう、それは良いことを聞いた。次は桑の実のジャムを調達するとしよう」
ビキリ、とエリスの秀麗な容貌が強張った。
あッ! いま亀裂が、空間に亀裂が入った気がする!
カップに口をつけながら上目使いで盗み見れば、視線を逸らした方が負けとでも言わんばかりの光景がそこにある。ひぇっ。
私は素知らぬ振りで目を伏せた。嫁姑問題で板挟みになる夫の気分である。ううん、これは私がジュリオを窘めるべき……なのかなぁ? でもなあ。
基本的に、領務館に勤める人間と領主館に勤める人間は互いの分を侵さない。
領務館は領主が仕事をする場所で、政務を司る場所。領主館は領主の家で、心と体を休める場所だ。仕事の内容も全く違う。領務館では、政務の補佐をするのが使用人の主な仕事で、領主館では領主の身の回りのお世話をするのが使用人の仕事。
今のジュリオの発言は、領務方の分を超えた宣戦布告――“お茶を淹れる”というお前の仕事を取るぞ、という宣言に他ならない。本当なら、出すぎたことをするなと私が釘を刺すべきなんだろう。……だけど、私、エリスには出すぎたことをしてほしい、って思ってるんだ。
エリスは頭が良い。回転が早いっていうのかな。よく気も付くし、将来的には生活面だけじゃなくて、仕事の方もサポートしてほしいと思ってる。お父様は政務面のサポートはジュリオに担当させる考えのようだけど、私はジュリオとエリス、2人で協力し合いながらって考えてるんだよね。
だけど、エリス本人はあくまで侍従としていたいみたいだ。
いつからだろう。授業が始まる前に、エリスが部屋を出ていこうとし始めたのは。
何年か前までは、私が家庭教師の先生に授業を受けている間、部屋の隅に座ってじっと耳を済ませていたのに。
そう言えば、書棚の本をこっそり読むのもいつの間にかやめてしまったようだ。
いったい彼女に何があったのか。自分にはそんな知識は必要ないと、自分の勤めは領主方だと全身で主張しているみたい。
いずれきちんと話さなくちゃと思うけど……。エリスが引いた一線を無粋に踏み付けて通るようなジュリオの行動は、ある意味私の思惑と重なっている。ということで、私は彼を咎めないことにした。
なんとな~く、エリスが立ってる方から無言の圧力を感じるけど、無視。
気付いてるけど察しない。察して動くのは侍従の仕事。AKY、AKY。澄まし顔でゆっくりゆっくりお茶を飲む。沈黙は雄弁なり、ってね。
カップをソーサーに戻したところで、遠くから昼時を告げる鐘が聞こえた。
今日は本当にいい天気だ。太陽は雲に遮られることもなく、明るく温かい光を注いでくれている。
けれどさすがに森の中、しかも水辺では、太陽の恩恵を十分に受けることは叶わず、肌寒い。
「お嬢様、こちらをどうぞ。支度はもうすぐ整いますので」
エリスが肩にショールをかけてくれる。
修練で汚れた体のまま食卓につくわけにはいかない。ということで、私たちはぞろぞろと近所の森までやって来た。森の中の小さな湖の畔には、領家専用のサウナ小屋がある。
ワルトでは、基本的に入浴の習慣はない。カラッとした湿度の低い気候なので、必要もないようだ。その代わりワルトの人々はサウナが大好き。日常的には体は拭くか水浴びするかだけど、汗をかいた時、特に汚れたり疲れた時は必ずサウナに入る。
熱した石に水をかけて蒸気を発生させるだけの簡単な作りのものだけど、サウナに入った後のごはんは格別、その後の昼寝がまた気持ちいいんだー!
サウナ小屋に火が入り、隙間から白い湯気が漏れてくる。オルガたちは衝立で小屋を囲うと、シーツを被せ簡易の更衣室を完成させた。男衆が見張りに立つ。
お待たせ致しました、とオルガに促され、衝立の中へ。このサウナに入るのは私一人だけ。小さい頃はエリスも一緒に入って世話を焼いてくれたけど、今はもうそんなことはない。
私が領家専用のサウナに入っている間、侍女のみんなはどうするかと言うと、使用人用のサウナ小屋が別にあって、そっちに入りに行く。安定の一人ぼっち。服を脱いでいると、少女たちの弾んだ声とオルガの叱責が衝立越しに聞こえた。
……別に寂しくはないんだけど。行き帰りとサウナの中でみんな恋バナとか楽しくお喋りしてるんだって、いいなー。
リネンのタオルを体に巻きつけて、小屋の中へ。扉を開けた途端、タウヒの匂いの熱気がむわっと吹き付けてきた。
うひー。さて、ここから勝負の始まりだ。
うおぉ……熱い……。
中のベンチに腰掛け、じっとりとした熱気に身を浸す。額に汗が浮いてきて、やがてぽたりと、顎を伝った汗だか水蒸気だかが太ももに落ちた。
よし、出よう! たぶんまだ10分も経ってないけど!
大量の蒸気に塗れながら扉を開けると、待機していたエリスが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
「……エリス、みんなと一緒に行ってきていいんだよ?」
「結構です。お気遣いなく」
侍女たちは二つに分かれて交代でサウナに入りに行くんだけど、エリスだけはいつも控えていてくれる。侍女頭のオルガだって行ってるんだから、エリスが遠慮すること無いと思うのにな……。いや、手をとって木のベンチに座らせて貰って肩にタオルをかけて貰ってエリスが水差しから注いでくれた水を飲みながらの私が言っても説得力ないのかもしれないけども。
このやりとり自体もうお馴染みだ。「体は拭いてきたから大丈夫」とか「後で入ります」とか、毎回エリスはそんなこと言って結局ずっと私の傍を離れない。
「みんなでサウナでお喋りとかさぁ、楽しそうだよねぇ」
「そんなに私によそへ行って欲しいんですか」
またぞろ良からぬことを企んでいるのじゃないだろうな、と横目で睨まれ、つい情けない声が出る。
「ち、違うよぉ。ただ……エリスはみんなとお喋りするの好きじゃないの?」
「必要ありません」
ひ、必要とかそういうことではなくてだね。心の潤いというか、軒を同じくする仲間との円滑なコミュニケーションがだね……だめだこりゃ。冷然とした横顔に語を重ねるのを諦め、私は衝立の向こうを見るともなしに見つめた。
ときおり梢をそよがせる風が、火照った頬に気持ちいい。そのままぼんやりしていると
「……あちらに行きたいんですか?」
「え?」
見上げた先で、琥珀色の透明な眼がじっとこちらを見下ろしている。何かを図るようなその視線の意味など、分かる筈もなく。
「……いや、いいよ。エリスがいるし」
そうですか、と私の美しい侍従はそれだけ答えて、視線を外した。




