やがて忘れるはなし(前)
室内は白かった。
壁も床も何もかもが真っ白で、なのに目に痛くないのが不思議だ。
「どうぞお座り下さい」
広い白い部屋の中央に白い事務机があって、白い服を着た人が事務机の向こうからこちらを見つめていた。机の向かいにある白いソファに、言われた通り腰を落とす。
「多田文さん、貴女は亡くなりました」
男の発言に、私はびっくりした。……筈なのに、どこか落ち着いていた。奇妙に年齢の判然としない顔付きをした男の、淡々とした言葉が、すとんと胸に収まった。
男は書類らしきものを机上から取り上げ、その白い紙に視線を落としながら続ける。
「今回の事はこちらの不手際です。ついては、貴女には別の世界への転せ」
「お断りします」
男が、ゆっくりと白い頭を上げた。
さっきまでずっと冷たかった体に温度が戻って来るのを感じる。指を一本ずつ折るごとに脳味噌の部分部分が再起動するような感覚。
たぶん、原動力は、怒り?
「そちらの不手際だと言うのなら、元の場所に戻して下さい。生き返らせて」
「それは出来ません」
「どうしてですか?」
白い瞳がじっとこちらを見据える。落ち着かない。
「貴女には、別の世界へ転生して頂く事が決まっています」
「お断りします」
ぐしゃり、と男が紙を握り潰した。けれど無表情のまま。
「貴女が断る・断らないの問題ではありません。既に決定していることです」
「ですから、お断りします。ミスの埋め合わせには、本来こちらが得る筈だったものと同等の対価及び派生した損害への補償が然るべきですが、“異世界への転生”、これはそれを満たすものとは思えません」
「この決定は貴女の意思で覆るものでは」
「だいたい」
男の言葉を遮る。
「“異世界への転生”が“覆ることの無い決定”ならば、何故このような場を設け、私に確認しているのですか。それこそ、有無を言わさず転生させれば良いでしょうに」
ぎしり、と何かが軋む音。
「出来ないんでしょう? 勝手に転生させることは。つまり、私には選択の自由がある。違いますか?」
「五月蝿いんだよ、塵が」
変化は、急激だった。
視界いっぱいに広がった男の顔は、人には有り得ぬほどの大きさに膨らんでいた。白髪には闇が四方から触手を伸ばしぐるぐると渦巻いている。
その下の額には憤怒の皺が刻まれ、眉間、鼻、頬、顎と目に付くところには押しなべて皺が寄り、冷ややかな双眸は醜く歪んでいた。
「貴様のような屑が! この俺に! 意見するな!!」
上下に引き裂かれた薄い唇の奥は唾液を引いて赤い。
「お前など死ね! 地獄に落ちろ!! 醜く歪み、枯れ果てて死んでいけ!!!」
死ね、死ねと唾を飛ばしながら臭気にまみれた口は呪詛を吐く。
「お断りします」
冷たく、冷たくなっていく指でソファの端に爪を立てる。
二度目の急変。
白い眼に血が交じった。
「死ね――――!」
言い差し、
「ぎゃあああああ!!」
男は、絶叫と共にもんどりうった。
白い床の上を、普通の大きさに戻った頭を抱えてのた打ち回る。
「申し訳ありません」
いつの間にか、もう一人、白い人が隣に立っていた。白い顔に悲しみをたゆたわせ、男を見下ろしている。
「この者が大変失礼を致しました。お詫び申し上げます」
深く下げられた白い頭には、何故か重苦しい寂寥が漂っていた。




