幕間:彼女の肖像1 ~護衛隊の人々~
馬上に尻をおさめ、ユーリはほっと息をついた。
彼はこの秋から、スターク・フルツ・キュスト・ティエティシエ殿下直属護衛二番隊に任ぜられたばかりの少年である。
貴玉の盾たらんところの直属護衛二番隊は、その使命とはかけ離れた意味で社交界では密かに有名だった。
端的に言えば、未来のティエティシエ公夫殿下候補隊として。
何故自分がそんなものに選ばれたのか、彼には分からない。
ある日突然下命を賜り、あれよあれよと言う間に気付けばここにこうしている。
そして、自分や先輩たちが本当に姫の配偶者候補として集められたのかも、彼には分からなかった。
姫君本人から、またはそのお父上であられるティエティシエ公からもそのような言葉を賜った覚えはない。しかし、自分の両親――少なくとも父は、はっきりとそういう心算だったようだ。事実、スターク様を誑かせ――(などと不敬極まりない言を父が直截に口にすることはなかったが)、家を発つ際、そのような意味の婉曲な激励を貰ったことを、ユーリは思い出す。
そして、気の弱い母が、とにかく心配していたことも。くれぐれも、まかり間違っても、絶対に殿下にご無礼のないようにと、何度も繰り返していた。
自分ももう十四、来年には成人を迎える身だ。母のその様相はいささか度が過ぎると思っていた。
――――殿下にお会いするその日までは。
「おーい、大丈夫か~?」
間延びした声で我に返る。見れば、隊長のアンバーがいつの間にか隣に馬を寄せ並歩していた。
「操馬中にぼーっとすんなよ。落ちて死んでも知らんぞ」
「す、すみません」
子ども相手にする類の注意を受け、恥ずかしさで顔に血が上る。
「隊長があんなふうにユーリのことをからかうからですよ」
そうフォローを入れたのは副隊長のレナスだった。
殿を務めていた筈の彼は、わざわざ二人に並んで続ける。
「ユーリは隊長と違って純情なんです。あんまりからかっちゃだめですよ」
「おい、それじゃまるで俺が純情じゃないみたいじゃないか。純真無垢の塊こと俺を捕まえてお前」
「気持ち悪いこと言わないで下さい。あんたが無垢ならシルトーの商人たちだって赤子の如き汚れなさでしょうよ」
あちこちで吹き出す音が聞こえ、それはそのまま小さな笑いの波になっていった。
笑っていいものなのか、唇は曖昧に描きかけの弧を保ったままユーリは二人を眺めた。
隊長のアンバーは十八、副隊長のレナスは十九と、年齢も生家の格式もユーリのそれより上だが、時に兄のように時に友のように接してくれる尊敬すべき先輩たちだ。
私兵と言えども、王族の護衛隊という性質を鑑みれば、この隊の異質さはユーリにもよく分かる。
何と言うか、二番隊は…………ゆるい。
今はお守りするべき殿下がいらっしゃらないのを差し引いても、余りに緊張感がなさすぎる。
そもそも、公的な行事の護衛は全て一番隊が取り仕切っているし、二番隊が中心で担ぎ出されるのは、せいぜい殿下のお遊びに付き合わされる時くらいのものだ。
一番隊も二番隊も、どちらもティエティシエ家の私的な衛士だが、二番隊は殿下のより私的な――則ち、玩具、に近い。
寒風が胸内に吹きこむかのような心持ちになって年若い少年の顔は沈んだ。
「いいじゃないか、ユーリだって満更じゃなかったろ」
「またあんたはそういうことを」
自分の名前を聞き留め少年が面を上げると、
「で、実際のところどうだ」
揶揄うような声が割って入った。
ユーリの指導係、ダーヴィトが精悍な顔つきに人の悪い笑みを浮かべて少年を観察していた。首を捻った状態でも馬足が乱れないのは流石だ。
「どう、とは?」
要領を得ない少年へ、ダーヴィトは肉食獣のごとき笑みを深める。
「だから、グリーヴ様だよ、お前的にはどうなんだ。有りか、無しか」
ユーリは、幼さの残る容色をボッと夕焼け色に染めた。館でのやりとりを思い出したのだ。それを、周囲は面白げに見遣る。
「意外ですね。ユーリはまだそういう方面に興味はないと思っていましたが」
「ち、違います! 僕は別に、そういう……っ」
「いいからいいから。いやそうか、お前も男だったんだな~!」
囃し立てられ、ユーリは真っ赤になって叫んだ。
「じょ、女性の部屋に入ったのは初めてで、物慣れなかっただけで! 別にグリーヴ様のことをどうとかこうとか、僕はそんな不埒なことは考えていません!!」
一瞬の沈黙の後、どっと笑いが起こった。
ユーリは熱い頬を伏せ手綱を握る指に力を込める。上層階級では、よほど親密な間柄でない限り、血族以外の異性の私室へ立ち入ることは滅多に無い。少年にとって初めて目にした“女性の部屋”は、彼に鮮烈な印象をもたらした。
柔らかなバタークリーム色の壁に、薄緑の蔦が這う模様。
つやつやに磨かれ抜かれた、深い飴色の家具。
背の高い本棚にところ狭しと並べられた書物の数々と、大きな鉢植えの植物。
室内に鉢植えが置いてあるのは初めて見た。あれは、この地方の習慣なのだろうか。それとも……
進行方向へ視線を落とし、ぼんやりと物思いにふける少年の様子をどう見たのか、ダーヴィトは幾許かトーンを落として言葉をかける。
「……まあ、そういうのもアリなんじゃねえのってことだ」
「そうですね、よく考えれば年齢も家柄も釣り合いがとれているし、いいんじゃないですか?」
馬上へ意識を引き戻した少年を、さらりとした穏やかな声が追い込む。
常は抑え役であるレナスの追従にユーリは焦った。拍車をかけるように、締まりのない、明らかに面白がっている声色が会話を引き継いだ。
「なんだ、グリーヴ様じゃ気に入らんのか。全く我儘な奴だなぁ、どこがダメなのか言ってみろって。顔か? 体か?」
「失礼ですよ!!」
ほとんど悲鳴のような咎めは、アンバーの爽やかな笑顔にぶち当たって消えた。全く堪えていない様子で隊長は続ける。
「ひょっとしてお前、殿下に操を立てているとか……」
「やめて下さい!」
今度こそ本当に悲鳴が少年の喉から飛び出した。真恐ろしげに顔を引き攣らせるユーリの脳裏には、姫君との初めての邂逅が蘇っていた。
窓際に置かれたカウチソファへしどけなく横たわる、小麦色の肢体。
ブラッディブロンドの緩い巻き毛が縁取るほっそりした顎の上には、小さな形の良い唇が鎮座しており、その赤い、濡れたような瞳に映されるのは、この上もなく栄誉なことであるように思われた。
――――新しい衛士? ふーん、そう。じゃあ……
これを拾っていらっしゃい。
一幅の絵画がごとき貴き美へ、ぼうっと見惚れていた少年の耳がその意味を拾う前に。
繊手が気まぐれに閃いた。
下手な装飾品より見事に細指を飾り立てていた紗の扇は、曲線を描いて飛んでいき、テラスの向こう側へ消えた。
ぼちゃん、と悲痛に響く水音。
半泣きで池を浚い続けた間の水の冷たさ、鎧の重さ、辛い気持ちは記憶に新しい。
スターク様は、意地悪なお方ではない。人の惨めな姿を見て笑うような、根性の悪い方ではない。
先輩諸兄は口を揃えて言う。
その証拠に、寒さで震える両手へ扇を載せ、精一杯恭しく差し出したユーリを一瞥し、殿下は仰った。
「それ、何?」と……。
殿下は決して自分に無体を働こうとなさったわけではない。ただちょっと、暇だっただけなのだ。
ユーリは、グラグラ揺れる価値観の相違という海溝の中で、それを正確に理解した。
これが、“王族の姫君”というものなのだと。
貴血の姫は、数刻前に手慰みに蹴り飛ばした道端の石のことなど覚えていない。
そして少年は、母親が何を心配していたのかをも正確に理解した。
スターク様は、意地悪なお方でも、根性悪なお方でもない。
ただ、我々の手に負えない方なのは確かだと、後に先輩諸兄は口を揃えて忠告してくれた。
ぷるぷると震え始めたユーリを目にしたところで、アンバーの軽口が噤むわけもなく。
「――ああ、まさか本気で殿下狙いとか? やめとけやめとけ。社交界の噂を真に受けても碌なことにならんぞー」
苦い記憶に打ちのめされ反応を返せなかった少年をどう思ったのか、レナスは些かの懸念を瞳に浮かべた。
「まさかとは思いますが、信じているわけではありませんよね? この二番隊が、公配殿下を選ぶために作られたなどという話を」
「あ、いえ、その」
はっと正気に戻った少年は慌てて肯定を返そうとしたが、言葉が詰まって上手くいかない。確かに父はそのつもりだったようだが、自分は半信半疑だった。こうしてはっきり告げられてしまえば、やっぱりなと腑に落ちれども残念に思う気持ちは無かった。それを伝えたいのだが、語を重ねるほど逆効果のようで気ばかり焦る。
「ま、だから婿入り先は今から考えとけってわけよ!」
「わあっ!」
助け舟のつもりなのか、ダーヴィトが馬上でありながら乱暴に肩を組んできた。
「や、やめて下さい! 落ちるっ」
ユーリにとっては落馬つまり真剣に死の危機だろうが、じゃれ合いを始めたようにしか見えない二人に、レナスは軽く息をつく。やがて何とか悪腕から逃れたらしき少年が、レナスの隣に馬首を並べてきた。大丈夫かと問えば、乱れた呼吸の合間に肯定が返って来る。
「ダーヴィトじゃありませんが、そういう考えを持っておくのも悪いことではないと思いますよ。君も私も……うちの隊は皆そうですが、継嗣ではありませんから。結婚に限らず、今から将来の身の振り方を考えておいた方がいい」
それは、二番隊の存続の不確かさを示唆する言葉だった。
幼さの残る容貌を凍らせる少年へ、レナスは自らの失言を悟り苦笑を零した。
「すみません、余計なことを言いましたね。我が隊がどうなるか、私たちも公から何か伺っているわけではないんです。ただ……」
「公のお考えになっていることなど、俺らには分からんさ」
妙にはっきりと、その言葉は響いた。
アンバーが、遠く夕焼けに包まれる常緑樹の林に、彫像のような横顔を向けていた。影になりその表情は知れない。
気付けば皆が耳を傾けている気配があって、ユーリには以前からそれが不思議だった。アンバーの言葉には、人の意識を吸い付ける何かがある。だからこそ、彼が隊長を務めているのかもしれなかった。真面目で誠実なレナスではなく、適当で軽口ばかりの彼が。
「だからなぁ、ユーリ。とっとと吐け」
「えっ?」
「グリーヴ様のどこが良いと思った。顔か? 体か?」
絶句し、少年は再び頬を紅潮させた。さり気なく先ほどとは真逆の意味に質問を変えているのが厭らしい。
「何が“だから”なんですか! 先ほども言いましたが、僕は別にそういう……」
「おいおいまだ言うか。あんだけガチガチに意識しといてなぁ」
「っ、それは! 先輩方が散々脅すから、緊張してたんです!!」
「はぁ~?」
先輩方、というよりも主にダーヴィトとアンバーが、だが。殿下のご友人、グリーヴ・フルツ・ワルト嬢とは初対面の少年へ、二人は折りにつけ脅しをかけた。しかしお約束と言うべきか、当の本人たちは全く覚えがないらしい。首を傾げる両人へ、少年は形の良い眉を吊り上げる。
「ある意味スターク殿下より恐ろしいお方だとか! 男の尊厳を守りたいなら絶対に目を付けられないようにしろだとか! 何があるか分からんぞとか! あれほど“ご忠告”下さったじゃないですか!!」
“お前覚えてる?”“全然。”そう言った意味の視線が、二番隊いい加減人間代表二名の間で交わされるのを目にし、少年の若さ故の生真面目さは、彼らの適当さの前にがっくりと膝を折った。
「もういいです、僕が馬鹿でした……」
「隊長たちのような人間に真面目に付き合うことはないんですよ」
レナスの慰め、しかし微かに笑い含みのそれにもユーリの意気消沈ぶりは変わらない。
「いえ、本当に……グリーヴ様が“忠告”通りのような方でなくて逆に良かったです」
愛馬の鬣へ視線を落とす少年は気付かなかった。馬上の面々が顔を見合わせたことを。鼬の撃退臭を鼻先に噴きかけられた熊のような面で、ダーヴィトが唇を引き結んだことにも。曰く言いがたい空気が流れ始める中、少年は続ける。
「こんな言い方は不敬に過ぎるかもしれませんが、正直驚きました。殿下のご親友と伺っていたのでてっきり……とてもお優しそうな方ですね」
「…………まあ、あの方は“スターク殿下の最後の良心、そして防波堤”だからな」
その言葉に含められた意味を、世慣れない少年が察することは終ぞ無かった。
何を思ったのか、彼はふと顔を上げる。
「そう言えばグリーヴ様にはご兄弟がいらっしゃるとお聞きしていたのですが、お姿を見かけませんでした」
「殿下がいらっしゃる時は表に出さないようにしてんだろ。まあ、懸命だな」
「ご友人のご兄弟でいらっしゃっても、無条件に親しまれる方ではありませんしね、殿下は。何か粗相があるよりは、という配慮でしょう」
「そうなんですか……」
一人っ子のユーリには、“きょうだい”というものの想像が余りつかない。間近で盗み見た、グリーヴ嬢の温かな暗緑色の瞳を思い浮かべながら考える。
あの柔和そうなご令嬢のことだから、きっと良き姉であることだろう。睦み合う“きょうだい”の風景を少しだけ見てみたかった。
「そう言えば隊長、そろそろ休憩にしませんか」
「頂いた白ワイン、今日こそは俺にも回してくださいよ!」
「あそこん家のティレット旨いんだよなぁ」
僅かに残念そうな様子を見せた後輩には気付かない振りで、二番隊の面々はさり気なく話題の転換を図った。
――しまった。焚きつけ過ぎた。
そのような共通の認識があったかは不明だが、それでこの話題はお終いになった。
もしも本当に少年と令嬢の間で婚姻が成されたら、真面目で気の良いこの少年に今以上の受難が振りかかるのは想像に難くない。
つまりこれは、先輩諸兄から後輩への思いやりの一つであった。既に遅すぎたかもしれないが。
“スターク殿下の最後の良心、そして防波堤”
グリーヴ・フルツ・ワルト嬢は、ユーリ以外の隊員にそう認識されている。色々な意味で。
良心は、法に拠らず善悪を判断する最後の砦であり、防波堤は、津波から民草を守る最初の砦である。
問題は、この良心かつ防波堤が、一人の人間であり、意思を持っていること。
彼女の意思一つで、無為の民は波に飲まれ善悪の彼岸に翻弄される。
つまり、グリーヴ嬢が“是”と言うとき、騒動は坂道を転がり落ちるが如く悪化の一途をたどる。
そしてその被害は、たいていが護衛隊に降り掛かってくるのだった。
我らが後輩殿の前途に幸あれ――――。
野営の準備を始めた青年たちが、宵星にそう祈ったかどうかは、定かではない。
元々は拍手お礼として置いてた話ですが、長くなりすぎたので本編へサルベージ。
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