案山子
噂は、ひとりでに、歩き出す。
山に囲まれたその村は、鳥たちにとっての楽園であった。
四方を緑の壁に守られ、中央に広がる水田は、秋になれば黄金の粒を惜しみなく差し出す。
ついばめばついばむほど、米は増えるようにさえ見えた。だが、それは鳥の眼から見た景色にすぎない。
村人にとって、田は血と汗の結晶であり、半分以上を奪われることは、冬の飢えを意味した。
葉物を継ぎ足した薄い粥を、夜ごとすすりながら、人々は黙って耐えた。案山子を立てる以外に、鳥を遠ざける術などなかった。
毎年、無駄と知りつつも、田の隅々に人形を並べた。鳥たちはもう、それに慣れきっていた。風に揺れるボロの袖など、恐れもしない。
村の外れ、日当たりの悪い細長い岩場に、与五右衛門の家があった。
妻のみい、娘のおあき、そしてその年に生まれたばかりの息子、与吉。わずかな田から得られる米は、いつも足りなかった。
みいの乳の出が細くなるたび、おあきは夜中に起きて、小さな案山子を作った。
自分の髪を一本一本抜き、藁に編み込んだ。ひと編みするごとに、頭を垂れて願った。
「どうか、豊作でありますように」
与五右衛門は、その姿を見て、ふと口にした。
「もし、うちの田だけが鳥の害を受けずに実ったら…おあきを、やる」
案山子が、かすかに頷いた気がした。
その年、村は凶作だった。どこもかしこも、雀とカラスに食い荒らされた。だが、与五右衛門の田だけは、黄金の波を揺らしていた。
村人たちは驚き、与五右衛門の家族は、初めて腹を満たした。しかし、その夜、おあきの枕元に、案山子が立っていた。
「十日後に、迎えに来る」
声は聞こえなかった。だが、おあきは喜んだ。嫁入りの支度を始めた。着物を整え、髪を結い、静かに待った。
与五右衛門は、夜ごとに田へ出ては、案山子の位置を確かめた。一日ごとに、家へ近づいている。約束の日に、ちょうど門口に着く足取りだった。
恐れに耐えきれず、与五右衛門は夜半、案山子に火をつけた。藁は乾いており、すぐに炎に包まれた。
村人たちは遠巻きに見て、ただ首を傾げた。
約束の日が来た。おあきは、家の外に出て、空を見上げた。風が止み、虫の声が消えた。突然、彼女の体を、淡い炎が包んだ。
炎は熱を持たず、ただ、ゆらゆらと揺れた。次の瞬間、おあきの姿は陽炎のように薄れ、空へ昇っていった。
案山子の影が、彼女を導くように、どこかへと消えていった。村人たちは、その光景を黙って見ていた。
それから、噂が広がった。
「案山子を燃やし、娘を捧げれば、豊作が約束される」
食うに困った年には、誰かが娘を連れて田へ行き、案山子とともに炎に投じた。煙が上がると、次の秋、その家の田だけが実った。
村人はそれを「神の加護」と呼んだ。
誰も、消えた娘たちの行方を語らなかった。ただ、夜ごとに、田の向こうから、髪を編む音が聞こえるという者もいた。
与五右衛門の家は、その後も静かに残った。
みいは乳を出し続け、与吉は無事に育った。だが、与五右衛門は、秋になるたび、田の案山子を見つめ、口をつぐんだ。
風が強い夜には、まだ、誰かが髪を一本一本、編んでいる音がする。
――いつか、また、迎えに来る、と。
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