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雨音のアリア

作者: 桜海冬月
掲載日:2026/06/19

 しんしんと降りゆく雨。ふうっと息をつくと灰色の煙が雨にかき消されてゆく。


「相変わらず好きだねここ。でも喫煙は喫煙室でお願いします」

「うひゃ!」


 耳元でささやかれた心臓に悪い低音にびっくりして、思わずたばこを落としてしまった。火は雨音にかき消されてしまう。これじゃあもう吸えない。一本無駄にしてしまった。

 私を驚かせた張本人、藍沢を睨みつけた。


「ちょっと。今どきたばこ一本だって高いのよ。もっと言い方があるでしょう?」

「喫煙室以外で吸うお前が悪い」

「……うっ。社長から許可は取ったし」

「社長も相変わらず甘くないか。いくらエースだからって限度があるだろう」

「雨の日限定だもん」

「なんだそのこだわりは……」


 藍沢は肩を竦める。呆れた、とでも言いたげなその仕草に何となくイラっとする。いや、藍沢の存在そのものが何だかイラっとする。

 仕事はできる。けれどこいつは頭が固いのだ。規則や規律を必要以上に重んじて融通が利かない。もちろん、組織で動く以上はそれなりに従う必要はあるけれど、それに拘って固執して組織に不協和音をかき鳴らしているのにいい加減気付いた方がいい。


「ほれ、お詫びだ」


 そう言って彼はガーデンファニチャーの反対側に腰掛けて缶ジュースを置いた。イラストから見るにフルーツジュースだろうか。初めて見る。珍しいもの新しいものが好きな藍沢らしいチョイスだ。

 

「たばこの恨みは大きいわよ。まずかったら許さない……おいしい」

「そりゃどうも」


 当たり前だろとうるさい顔をしている。悔しいことにこいつのセンスは抜群に良い。甘いものが苦手でコーヒーばかり飲む私でも気に入るようなチョイスをどこからか見つけてくる。

 

「……なんか悔しい」

「悔しいなら嘘でも不味いと言えばいいのに。お前、そういうことしないよな」

「何の意味があるのよ。失礼じゃない」

「相変わらずだな」


 分かった気になっているのがむかつくけど間違っていないのがさらに悔しい。


「で、何の用?面倒ごとなら受けないわよ」

「用がなくちゃダメか?」

「そんなに仲良くないでしょ私たち」


 藍沢とは研修の頃からことあるごとに対立を繰り返してきた。根本的に私たちは合わないのだ。仕事に対するスタンスも好きな食べ物も趣味もことごとく正反対。優秀さ以外藍沢の正反対の人間がいたら私とその人はこの上なく意気投合するに違いない。


「まぁな……仕事の話だ」

「後にして。せっかく雨を楽しんでいるのよ。仕事の話を持ち込むなんて風流じゃないわ」

「たばこをふかしておいてよく言う」

「いいでしょ別に!私は雨にたばこの煙がかき消されていくのが楽しいの!」

「奇遇だな。俺も雨の日は気分が乗って仕事が捗る」


 呆れた。この仕事人間に打つ薬はない。気分が乗ってするのが仕事の話題なんてありえない。だいたい、晴れの日も曇りの日も風の日もこの男は仕事ばかりしているのだからただの日常ではないか。


「たまには休むことを覚えた方がいいわよ。人間はいずれ老いるの。仕事もどこかでやめるんだから趣味のひとつくらい持っておいた方がいいわよ」

「趣味か……ヴァイオリンでも弾いてるさ」

「あなたヴァイオリン弾けるの?」

「……教養だ」


 そういえば藍沢はいいとこのお坊ちゃまだと聞いたことがある。楽器を習っていても別に不思議ではない。ついでに20代とは思えない草臥れた渋さの彼には落ち着いた趣味が似合っている。

 ムカつくほどお似合いだ。すまし顔にパイでも投げつけたいくらい。


「ヴァイオリンでも不協和音を奏でていやしないでしょうね」

「安心しろ。独奏だ」


 それは別に安心することではないのではないだろうか。


「そう……ところでいつまでいるつもり?私はひとりで雨を楽しんでいるんだけど?」

「そうか。ではもう話しかけるな」

「帰ってって言ってんの」


 ほんと気が利かない!語気を強めて直接伝えれば流石に帰ってくれるだろうと思っていたのに、彼は一向に席から動こうとしなかった。


「……ああ。そうだな。だが残念ながら、ふたのない缶ジュースのオフィスへの持ち込みは社内規則で禁止されている」

「そうなの?」


 なんでも、昔いた甘い飲み物が好きなある社員が何度も床を汚し、それに怒った先代の社長が決めたらしい。とっくに死文化している社内規則だけれど、彼にとっては重要なのだそうだ。


「じゃあさっさと飲み干しなさい」

「無茶言うな。ゆっくり味わうからこそおいしいんだろう。どうせ仕事の話もあるんだ。お前と一緒に戻る」

「それってもしかして、私と一緒に居たいの?」

「!……ばっかお前!」


 思い付きで口にしたからかい文句。適当にあしらうと思っていたのに反応は予想とあまりにも違っていた。規則にうるさい堅物が柄にもなく慌てて、おまけに頬を朱に染める。手にしていた缶ジュースは辛うじてこぼさずに済んだもののかなり大げさに揺れて、まずいと思ったのか勢いよくテーブルに置いた。


「コホン……そんなわけないだろう。効率だ効率。なんだってお前みたいなのと一緒に居なくちゃいかん。一緒にいるだけで気が休まらん」

「またまたー」

「諄い」


 あ、これ楽しい。もともと藍沢は顔は悪くないのだ。人間性が面倒臭いだけで。つまりはからかいの対象としては結構ありだ。渋い男がたじたじになるのは結構面白い。

 まあでもやりすぎると後が怖い。この辺りにしておいてやろう。


「藍沢は雨は好き?」

「なんだ急に……まあいい。嫌いじゃない。雨音が喧騒をかき消してくれる」


 へぇ……初めて意見があった。しんしんと降りしきる雨はとてもやさしくて、雨の間は絶え間なく私の心を包み込んでくれる。渇ききった心に潤いをもたらしてくれるオアシスのようだ。

 誰にも邪魔されない私だけの空間を作ってくれる。


「邪魔が一人いるけどね」

「あ゛?」

「事実でしょう?……っぷ、あはははは」


 雨音はやさしくパラソルを打ち付けていた。

ぽつぽつ、しんしん

梅雨特有の穏やかな雨音って素敵ですよね

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