絶望の中
夜中にふと思い出したことがある。
高校の古典の授業。
あれは「伊勢物語」の「東下り」だったと思う。
主人公の男が旅の途中に和歌を詠むんだけれど……。
とある和歌を現代語訳すると「現実にも夢にも貴方に会えない」ことを意味していて……。
現代では、夢の中に恋い慕う人が出てくると、自分が相手を意識している方向に捉えられるのに……。
平安時代は相手が自分を想っているから、夢に出てくるという逆パターンだったことが印象に残っていた。
もしそれが本当なら。
夢で会えない香織は、今の僕のことを何とも想っていないのだろうか。
僕に愛想を尽かしてしまったからなのか。
もしくは、香織に対する僕の気持ちが十分に足りてないからなのか。
僕が何をしたら、香織に会うことができるのだろうか……。
仕事にちゃんと行っているし、建前上は患者さんとも向き合っている。
強いて言えば、白衣は前と比べたら皺になっていて、香織が見たら「みっともない」って呆れた顔をさせてしまうかもしれない。
食欲はさらに落ちてしまって、睡眠もしっかり取れているのかも定かではない。
随分と情けない姿になってしまったが……せめて夢でもいいから。
一目でも香織の姿を見たい一心だった。
***
間接照明だけを点け、広すぎるソファーに小さく腰掛けていた僕。
テレビや音楽もつけず、静まり返ったリビングで、一点だけ見つめながら黙って発泡酒を飲んでいた。
人付き合い程度でしか飲まない酒に手をつけるなんて、僕には異常なこと。
四十九日の帰り、荒れ狂った心をどうにかしたくて行きついたのが、スーパーのアルコール飲料が並んだ場所だった。
酔った勢いで香織のこと、お父さんとの会話を忘れたくて。
死んだように眠りにつきたくて。
右から左まで並ぶアルコール飲料を買い物かごに入れていき、そそくさと家に帰った。
スーツ姿のまま、爆買いした飲み物をテーブルに出し、味わう気すらなく体に酒を流しこんだ。
愚かにも、たった1回の行動でアルコールという魔力を体が覚えてしまい、地獄へ堕落した状況から2週間が経とうとしていた。
酒に溺れるとは正にこのこと。
眠れない夜を、僕はあと何日過ごすことになるのだろう。
死ぬまでこんな夜を毎日迎えなければならないのだろうか。
何もまとまらない頭の中で自暴自棄になっていた。
香織にこんなにも会いたいのに、会えないなんて……まったくもって夢にすら出てこないのはどうしてだろう。
香織と一生を約束したのに、僕はこれから何を抱いて生きていくんだろうか。
「……香織、本当は聞こえているんだろ?」
返事がないと分かっていても、香織の名前を何度も呼んでいた。
涙が出る度、泣くことに反発するようにアルコールを体に流し込む。
何か言葉にしてしまうと、余計に心が裂けてしまいそうになるから……。
今の僕にとって、口はアルコールを入れるためだけの機能に過ぎなかった。
机、床には缶ビール、ボトルのウイスキー、梅酒、チューハイとありとあらゆるものが空になって放置していた。
ゴミ捨ての日が頭になく、恐らく2週間分も蓄積されていったであろう。
酒は飲む、眠れない、それでもケロッとした顔で仕事する。
悲惨なものだが、こうでもしないとやっていられない。
とうとう感覚がおかしくなってしまったのか、一昨日からテキーラに手を出していたのだった。
「自分が知っているお酒で、一番アルコール度数が強いのではないか」という考えで手にしたが……。
飲んでみると、喉の奥が一瞬にして熱を帯び、頭蓋骨から脳みそまで頭全部を回転させにくる。
予想通り強いなと思ったが、買って飲んだ後悔は微塵も無かった。
2週間前の自分では考えられないペースで飲み進めているが、そんなことなんて今はどうでもいい。
いつもなら、飲んでいる途中で眠ってしまうが、今日はやけに目が冴えていた。
「……はぁ……」
次の日が休みだと、無意味な1日を過ごし、あまりに大きすぎる喪失感を抱えながら時間が過ぎていくことが、僕にとって苦痛だ。
そう、明日は大嫌いな休みだった。
***
テキーラを飲み切ったタイミングで、この後のことはどうしようかと考え始める。
勿論、時間は遅い。
大人しく布団に入ればいい話だが、お酒を飲むか、他に何かしなくてはやっぱりどうにかなりそうだ……なので、外出することを試みた。
日付を越える時間に近づくと、点いていたマンション内の照明が少し減る。
明るくすぎなくて、今の僕の心境的には丁度よい。
道路に立つと、街灯と月だけの明かり。
僕だけしかいない空間が無性にありがたく感じる。
無鉄砲に家を出たので、目的地を決めていなかった。
マンションを出て、左へ曲がったところにコンビニがあるが、肝心な財布を持ってきていない。
掠れた声で「マジか」と呟く。
スマートフォンの電子決済で何とかなるかと思いきや、あと10パーセントしか充電がもたなかった。
仕事が終わって家に帰ると、欠かさず充電をしている僕。
スマートフォンの残り充電にすら気に留めていなかった。
無計画な行動をした不甲斐ない自分に嫌気がさし、スマートフォンの電源をオフにする。
外に出てきてしまった以上、引き返して財布を取りに行く気持ちは無い。
どうにでもなれの気持ちで右に曲がった。
普段は仕事や休日の外出で、駅に向かうときは左しか行かない。
マンションを出た右側は何があるかはあまり知らない、未知の領域だ。
自分の心と身体の重さは、家にいるよりもはるかに外の方が軽く感じるのだった。
こんなにも荒んでいるのに、仕事には行く。
そこの切り替えはかろうじて残っている。
外に出るという行動があれば、こうして心も落ち着かせられるのだろうか。
いや、落ち着いているのではない。
自分を殺めているのだ。
一体どっちが正解なのだろう。
気持ちのままに狂うのか、自傷行為のように押し殺すのか。
行先も無く、死にそうな心持で、生温い夜風を全身に感じながらとにかく進む。
適当な所で、右だの左だの曲がっていく。
夜中とだけあって、車の通りも少ないし、横断歩道の邪魔が来ない。
気持ちとは裏腹に、何とも平凡で、無常にも円滑に進むのだった。
一体、僕はどこに行こうとしているのだろうか……そもそもどこなんて決めていなかった……今の僕は滅茶苦茶なのだ。
「図書館?」
右へ曲がったところに急な登り坂があった。
看板を見てみると『阪峰記念図書館』という建物名が……。




