四十九日 3
僕の中では、お父さんからの話はこれで終わった気がしなかった。
運転するお父さんの後ろ姿を見つめながら、何となくそう察していた。
車の窓に雨が強く打たれ、外の景色がはっきりと見えない。
自分は今どの辺りにいるのか……何も分からないせいで、余計に僕の不安を倍増させる。
「戸塚駅でいいかな」
僕の不安をよそに、表情が見えないお父さんは平然としているように思えてしまう。
「はい、ありがとうございます」
僕はただ返事しかできなかった。
お父さんは今、何を思っているのだろう。
「話がしたい」と言われ、お父さんの発案をすんなり受け入れたけど……。
娘の四十九日を終えたばかりだというのに。
僕なんかと一緒にいていいのか……呼び止められたとき、正直そう思っていた。
彼女の同僚よりも、彼女のお父さんとのほうが何度も話したことがあるのに。
行きで乗ったタクシーよりも長い距離に感じる。
雨は激しさを増すばかり。
会話をするのも聞き取りにくそうな雨音だったせいか、駅が見えるまで、彼女のお父さんとは無言でいたのだった。
***
駅の近くまで来たと思いきや、ロータリーではなくわざわざ駐車場に車を止めた彼女のお父さん。
僕が感じ取った違和感の前に、向こうから話を切り出してきた。
「誠司くん。 これからのことだけど……」
やはり正面に体を向けたまま、彼女のお父さんは僕に告げてきた。
「当面、誠司くんと会うのは避けたいと思っているんだ……」
言われた言葉に対し、僕は意外と冷静だった。
「四十九日を迎えたけれど……娘がいない現実がどうしても信じられなくて……。 寿子は仏壇の前でずっと泣いているし、食欲も無い……僕や伊織がどうこう言っても駄目で……」
「……」
お父さんの言葉が重く感じる。
そして僕は冷静さを何とか保っていた。
「誠司くんの顔を見ると、あの子が誠司くんの隣にいる姿が浮かんできて……それが少し、辛いと感じてしまうんだ……」
優しいお父さんは「少し」と言ったが……。
本当は「すごく」だと悟った。
「お父さんのお話は……よく分かりました」
彼女の両親から僕の存在を否定されたみたいで、別の辛さが押し寄せてくる。
ただ、今の僕には言い返す気力さえない。
震えながら話す彼女のお父さんの言葉を飲み込むしかなかった。
「本当にすまないね……誠司くんに配慮ができなくて……」
こうしてフォローもかかさないお父さんの言葉がかえって心苦しかった。
声が出ない僕は、俯いたまま首を強く振るのが精一杯。
「……夕べ、夢を見たんだ」
突如、お父さんは話を変えてきた。
「行ったことのない、静かな別荘みたいなところ……喫茶店やパン屋とか、お店がいくつかあって……僕の他にもお客さんらしき人がいたんだ。 小川が近くに流れたところにテラス席があって、自然豊かな良い場所だった……」
急に何の話をしているのかと思ったが、
「……そこに香織が来たんだ」
『香織』という名前を聞いて、咄嗟に顔を上げた。
「香織が僕に言ったんだ。 『お父さん、今からみんなに挨拶してくるからね』って。 笑顔でそう言って、走り去っていったんだ……」
夢で言った彼女の言葉が、染みていくように頭の中で何度も繰り返した。
「香織が言った『みんな』というのは、その場にいたお客さんのことを指していると思うんだ。 でも、後で分かった。 『みんな』というのは、今日来た参列者のことなんだって……あの子は今日、みんなに挨拶してここを去ったんだな……って思ったんだ」
お父さんの目から初めて涙が零れた。
まるで、娘の言葉の意味を今になって気づいたことに、僅かな悔しさと憤りも見えた。
「朝、目が覚めてすぐ、そのことに気づけば良かったけど……最期に香織の顔が見られて……あぁ良かったって思ったんだ」
お父さんは拭いきれない涙を流しながら話を続けた。
「香織が交通事故に遭ったという連絡が入って……身元確認が必要だと言われたそのときに……顔の損傷があると言われたんだ……」
お父さんが言うように、車にぶつかった事故の衝撃で、顔の怪我が酷いとお姉さんから聞いていた。
「寿子と伊織は……見ないほうがいいだろうと思って、警察に行って……私1人で確認した。紛れもなく、香織であることは確かだった……そして、想像していた以上に……顔の状態が酷かった」
眉間にシワを寄せ、次から次へと溢れてくるお父さんの涙を。
僕はただ黙って見ていた。
「だから、夢に出てきたときの香織を見てホッとしたんだ……可愛い香織の顔だ……整った眉に、大きい目……寿子に似た高い鼻筋に、僕に似た少し大きい口……右頬の高いところにほくろがあるだろう? それもちゃんとあった……」
夢で見た香織の姿を目に焼き付けたのか、お父さんは詳しく話していた。
「死に顔があまりに酷くて……痛かっただろうな、代わってあげたかったけど……夢に出てきてくれたのが唯一、僕には救いだったかな……」
お父さんの気持ちは僕にもあった。
華奢な彼女の体で受けてしまった事故の衝撃を思うと、僕が変わりたかったし、その場に僕が隣にいなかったのがいたたまれない気持ちだ。
お父さんの手前、泣くわけにはいかないともあって、目を瞑って耐えていた。
雨の様子はさっきと変わりない。
お父さんが話す間や沈黙は、相変わらず強めの雨音が響いていた。
「君に渡しておきたいものがあって……」
お父さんは助手席に置いてあった荷物に手を伸ばした。
それは、僕と彼女で書いた婚姻届だった。
「警察から返されたバックの中に、入っていたんだ」
事故当時も持っていた割にはきれいな状態の婚姻届。
妻になる人の欄には「高坂香織」
間違いなく彼女の字だ。
指で彼女の筆跡を、彼女本人に触れるよう指でなぞっていた。
「どうしようか迷ったんだ。 僕らが持っているべきなのかって……でも、この紙を見るたびに、僕も寿子も辛い」
お父さんが漏らした葛藤をよそに、僕は婚姻届を眺めていた。
一緒に婚姻届を書いている日がいつだったかがすぐ出てこない。
現実を受け止めきれないからだ。
「僕は思ったんだ。 もし、この婚姻届を出した後に、娘が事故に遭う運命をたどってしまうのなら……婚姻届を出さなくてよかったのかもしれないと」
「お父さんそれは……」
「添い遂げる相手がもうこの世にいないんだ……誠司くんは平然を保って、突然いなくなった娘の葬儀の準備ができたのか?」
聞きたくない言葉だった。
それに、彼女のお父さんに言いたくないことを言わせてしまっている。
ずっと我慢していたが、目を瞑って涙を溢した。
「僕だってこんなこと……言いたくなかった」
お父さんは僕に話すのがやっとのようだった。
「……」
同情するにはお互い無理があった。
僕は生涯共にするはずだった伴侶を亡くし、お父さんは血を分けた若い娘を亡くした。
思いはそれぞれ。
自分の悲しみが深すぎる分、相手に同情できる器量が無かった。
「もう……出せないんですね、婚姻届」
そう呟くと、お父さんは僕の方に体を向けて婚姻届に視線をやる。
お父さんの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「……うぅ……」
お父さんの涙声が心を砕かれるように響いた。
これ以上ここにいては、本当に家へ帰れなくなると思った僕は……。
「送っていただきありがとうございました。 僕はこれで失礼いたします」
そう言い捨てて、降りしきる雨の中を歩いていく。
お父さんが僕を呼びかけたが、振り返らないまま、強く扉を閉めた。
婚姻届をジャケットワイシャツの間に入れ、雨を避けようとする。
傘を持ってきてないため、当然自分はずぶ濡れ。
やっとの思いで駅構内に入り、雨を凌げるところまで来たが、婚姻届の一部が濡れて字が滲んでしまった。
雨のせいだろうが、どのみち僕の涙で婚姻届に書いた字はさらに滲むだろう。
婚姻届ではなく、現実は死亡届を出したのだ。
彼女は、香織は、もうこの世にいない。
その現実からどうやっても逃れられないことに愕然として、人が行き交う駅の出入り口で声を抑えながら泣き崩れた。
家に帰るまで、なんとか耐えようと思ったが……もう限界。
せめて声は大きく出さないようにと、口を堅く閉ざし、無意識に出る涙は好き勝手にさせていた。
名前をどんなに呼んでも、彼女は僕の目の前には来ない。
明日から僕は何を頼りに、何を励みに生きていくのだろう。
そもそも僕はどうして今生きているのだろうか。
彼女を失った僕は、未来を生きていいのか。
嗚呼、いっそのこと、僕もどうにかなってしまいたい。
香織、聞こえているのなら僕のことも連れて行ってよ。
どうしてこんなにも早く。
僕のところから離れてしまったの。
もう二度と、決して会うことができない。
話すこともできない。
寝起きの悪い君を起こしにも行けない。
君の鼻歌だってもう聴けない。
僕の白衣姿を二度と見ることもできないんだよ?
今、こうやって僕を置いていったことを後悔していない?
僕は一生掛けてもしきれない後悔と、これ以上無い絶望に陥っているんだけど……。
どうしたらいい?
そう言っても、何も返事は来ない。
どうしたらいい?
そう言っても、何も返事は来ない。
だって……香織は死んでしまったから……。
「か……おり……」
呼吸を忘れていた僕は、苦し紛れに香織を呼んだ。
どう頑張ってもがいても、涙で滲む世界が視界に広がるだけ。
婚姻届は雨か涙かも分からないくらい、萎れていたのだった。




