辞令
図書館で過ごした夜から1週間が過ぎた。
あの日の泥酔を反省したせいか、アルコールの量が少しだけ落ち着いたが……。
それでも1日を生きていくことにはどうしても変わりない。
アラームの音で目を覚ますと、朝を迎えてしまったことに絶望しながら仕事へ行く。
何事も無かったかのように仕事をしてきて。
帰宅すると、平然を装っていた鎧を脱ぐようにシャワーで洗い流す。
その後、固形物はろくに食べず、寝るためにアルコールを飲み込む。
そうして気を失う。
このまま香織のところに行けたりするのかな。
何度もそう思っても、決まって朝日を見ることの繰り返し。
そういえば、寝室でちゃんと寝たのは最近だといつだったかな……。
***
ある日、薬局に1通の辞令が出された。
それは、片瀬の転勤を伝えるものだった。
「異動先、どこだっけ」
「長野」
「え? 関東エリアじゃないの?」
聞き慣れない地名に驚いてしまった。
目の先にいる片瀬は、僕のリアクションにさほど食いついてこない。
広すぎる背中を僕に向けたままだった。
「俺、全国転勤可って会社に言っていたし。 まぁ、新幹線で行けば1時間くらいで着くでしょう」
これだけだ。
普段はボケ散らかすくせに、今は淡々と異動の話をする片瀬。
付き合いが長いと「今の片瀬はそんな気分なのか」と自然に考えられる僕だが……。
できれば「異動するの面倒くさいなぁ。 代わりに野上が長野に行く?」みたいなボケが欲しいところだった。
「まぁ、異動の話が来るとは思ってはいたけど。 まさかこんなタイミングとはね。 ただでさえ心配が尽きないっていうのに……」
片瀬が言っている「心配」が何なのかは見当がつく。
溜め息交じりに話す片瀬は、少し苛立っているようにも見える。
「でも、僕がここの配属になって1年は経つし、誰かが異動することは想定内だし……」
僕らが勤務する薬局は年に2回の辞令がある。
去年の今頃、僕も異動の辞令が出て、今の店舗にやってきた。
当時、僕が入ったときは薬剤師の人員はプラスになっただけ。
前回の12月に動きは何も無かったので「もうじき誰かが他店に異動するだろう」と事務員さんの間で話になっていた。
僕の一言を聞き逃さない片瀬は僕のほうを見る。
「なぁ、野上。 本当に大丈夫なのか?」
片瀬の一言で全部を察する。
片瀬は僕を「心配」しているのだろう。
「え、大丈夫って? 大丈夫でしょ」
どうして片瀬が僕に問いかけるのか。
理由は言わなくても分かる。
咄嗟に「大丈夫」という言葉を使ったが、
「下手くそかよ、おい」
酸っぱいものを食べたような険しい顔。
片瀬の辛辣なツッコミが、今日は少し寂しさを感じさせる。
調剤室でこうして片瀬と話せるのは、今月末で終わるのか。
そんなことを思った。
他の病院が午前中の診察が終わりに近づくと、薬局も静かになる。
他の先生や事務員さんたちは休憩へ。
この日、僕と片瀬は後からの休憩だった。
ぽつりぽつりと会話をしながら、介護施設に届ける薬を準備していた僕と片瀬。
薬が分包された上部にマーカーで印を付けながら、片瀬は話を戻してくる。
「あれだよ。 休職のこととか、薬局長に相談しなくて。 特に今は繁忙期じゃないし、多少は融通が利くかと思って」
繁忙期とは、花粉症やインフルエンザが流行する時期のこと。
片瀬は休憩室で僕に「休職したらどうか」の話をしてからも、僕の勤務についてずっと心配してくれていた。
確かに片瀬の話を来たとき、休職を視野に入れようかと一瞬思った。
だが、四十九日が終わってからの精神的ダメージがあまりに大きすぎて、休職という選択肢は閉ざされた。
ここで休職してしまったら、僕そのものが二度と戻ってこない気がして……。
「うん。 大丈夫だって」
複数ある処方箋や、服用する薬が多いものをホチキスでまとめながら答えた。
「今月なら俺もまだいるし、せめて数日でも休んだら……」
「片瀬、大丈夫だから。 ね?」
「大丈夫」っていう言葉。
結構な頻度で言っていて、便利な表現だけど……僕が言うと薄っぺらく聞こえる。
心の底から「大丈夫」って言える人、地球上にどれくらいいるのだろう。
いつもは片瀬に流されるが、今の空気に飲まれてはいけないと体が言っている気がした。
「分かった。 これ以上、俺から言うのは止めておくよ」
不謹慎にも、片瀬の干渉が無くなることに若干の安堵を覚える。
しかし、気が緩んだのはほんの僅かだった。
「ところで野上、朝シャワーとか浴びてから来ている?」
片瀬の話題転換に心臓をゾクッとさせる感覚がして……少し間が空いたのち、返事をした。
「え、仕事から帰ってすぐシャワーしているから、朝は特に何も」
僕は素直に答えるのがお決まり。
「言わないでおこうか迷ったけど……酒の臭いがするぞ」
「イタッ!」
片瀬の言葉にびっくりして、誤って自分の指にホチキスの針が食い込みかけてしまった。
片瀬は別の薬を持ってくるついでに、僕のそばに寄ってくる。
「血色悪い顔しているし、近寄ると何とも言えない臭いするし。 普段酒飲まない奴が、そんな様子じゃ一発で分かるよ」
図星すぎて返す言葉が見つからず、
「まじか……」
これしか出てこなかった。
「あのさ、何年俺と付き合いあると思ってんの?」
大学からの付き合いで同期入社。
僕にとって、香織の次に頭が上がらないのが片瀬だ。
それがハッキリ露見し、片瀬のセリフに「そうだよなぁ」としか答えられなかった。
僕の気まずそうな様子を見て、片瀬は少しだけ口調を和らげて話し掛けてくる。
「酒、毎日飲んでいるのか?」
「まぁ……なかなか寝つけなくて」
輪ゴムに手を伸ばし、薬を束にまとめながら正直に白状した。
先週の図書館での出来事といい、何とも情けない話だ。
同期に仕事終わりのルーティンまで見抜かれているとは。
「酒飲むなら、俺のこと誘えばいいのに」
片瀬は前向きにそう言ってくれたが、
「片瀬とお酒飲むと大変なんだよ」
「え、何で?」
片瀬とお酒の組み合わせは、個人的に危ない匂いがする。
「片瀬ってすごい飲むじゃん。 だからペースについていけないかもって思って」
片瀬の酒豪ぶりはよく知っている。
運動に例えるとフルマラソン。
もしくは、野球の延長15回。
僕の体力を奪われるほどだ。
「そりゃあ、飲むときはとことん飲むよ!」
完全に飲める口の人だ。
「でもあれか。 野上は気遣い屋だから、自分から飲みに誘わないか」
付き合いの長い片瀬には、いい意味で気を遣っていないつもりだったが……。
『僕って、片瀬に対しても気を遣っているように見えるんだ』
片瀬の言葉を聞き、何だか申し訳なく思えてきた。
「基本的に俺から誘ってばっかりじゃない? 野上は優しいから、俺の誘いを断らないし」
大学時代は片瀬とのサシ飯によく行っていた。
恐らく、大学周辺のラーメン屋と定食屋は制覇していると思う。
「メシはよく行っていたけど、ちゃんと2人で飲むってことはなかったね」
「あのときくらいじゃない? 俺らが5年生のとき」
「あぁ、実習終わりに行ったね」
実習先が一緒だった僕らは、実習期間の毎週金曜日に飲み歩いていた。
疲れやストレスを解放させるために。
確か一度だけ、その場に香織も来てくれた。
思わず「懐かしいな」と僕が漏らすと、
「だろ? どうよ? 今晩飲んでく?」
僕を誘いながら、空になった箱を腕力で潰していく片瀬……だが、忘れてはいけない。
片瀬の飲み方は、何かを破壊しそうな感じ。
今は素面だが、アルコールを味方につけると、鉄の塊を砕いてしまいそうだ。
思い出しただけで悪寒がする。
お酒はやっぱり1人で飲もうと思った。
「遠慮しとくよ」
苦笑いしながら答えると「なんでだよ!」と軽快に突っ込まれた。
和やかな会話をしているようにみえたが……。
また少し間が空いてしまった。
僕が手に持っているホチキスの音と、片瀬が分包した薬に印を書く音。
急に静かになって、どうしようかと思っていた。
何でもいいから、他愛のない会話を僕からするべきか。
雑音だけがする中、先に口を開いたのは片瀬からだった。
「あー、薬剤師の野上に言うのも何だけどさ。 睡眠薬とか1回試したらどうだ? 副作用が気になるなら漢方もあるし」
僕のお酒事情に関する話は、終わっていなかったみたいだ。
「アルコールを過剰に飲んで、依存症になってからでは元も子もないだろ?」
片瀬にしては、優しい口調で僕に忠告してきた。
まるで、患者さんに対して接するかのような。
「だっ……」
いつものように「大丈夫だよ」と返したかったが、なぜか言葉が詰まる僕。
その直後、事務員さんが調剤室のカウンターに外来で来た処方箋を持ってきた。
それと同時に、休憩を終えた先生たちが続々と戻ってくる。
どうやら一時間も片瀬と調剤室に籠って喋っていたらしい。
「それ終わったら先、休憩に行っていて。 後から俺も行くわ」
僕の肩を軽く叩き、片瀬は受け取った処方箋を確認して、パソコンの画面と向かい合っていた。
情けない私生活を片瀬に知られてしまったこと。
自分自身が酒臭いこと。
勤務中なのに、薬剤師の同僚に服薬指導をされたこと。
この短時間で、随分と疲弊してしまった。
「あ……」
ちょうど目線の先には、不眠症の改善に用いられる漢方薬がそこにあった。




