香織エピソード 出会い
あの頃の僕はただ何となく、1日をやり過ごしていた。
香織に出会うまでは。
幼少期から大学生になるまで、僕はこれといった特技や趣味が無かった。
というよりも、自分に興味が無かったのだと思う。
強いて言えば、人より勉強ができたのかな、くらいで。
子供の頃『涼しい顔して、勉強ができていいよな』と周りから皮肉を言われたことがある。
僕自身は、勉強ができたことをひけらかしていたわけではない。
その反面、苦手なことや弱点に対して根強くコンプレックスを持っていた。
部活動に所属はしていても、レギュラー選手になることはなかったし、人との関わりは閉鎖的で人見知り。
片瀬のようにコミュニケーション能力が高くないので、一部の人とだけつるんでいれば十分だった。
とにかく、ずば抜けて優れたもの、自信を持てるものが無い。
ルックスも、コンタクトレンズが嫌で眼鏡を掛けて冴えない印象の僕。
恋愛面もそうだ。
告白は……覚えてすらいないし「どうせ振られて傷つくだろう」というネガティブが勝る。
例えば『背が高い』『誠実で優しそう』という見かけ上のプラスがあっても、僕のマイナスが邪魔してきて、誰かを好きになることすら無かった。
***
そんな僕の人生が変わったのは、大学2年生の夏休みに入る少し前の頃。
各授業の課題がすでに渡されていたため、それを終わらせようと、僕は休日に近所の図書館にいた。
大学内にも図書館はあるが、僕と同じように図書館を利用する学生は大勢いる。
人混みが少し苦手なのと、厳しい暑さの中、休みの日に大学へ行く気にならなかった。
僕の近所にある図書館は徒歩圏内、さほど大きい図書館ではないので意外と穴場。
一人暮らしの冷房代が浮くし、僕にはありがたい。
この日は、生薬学の課題に手を着けていた。
テーマを自分で決め、ピックアップした生薬についてまとめるものだ。
同じ学年の人はこぞって「生薬学」関連の本を借りていたが、僕は自前で購入した。
薬学にまつわる本との付き合いは長くなるだろうと思い、妥協して本を買うことができたから良かったけど。
「あぁ、やっぱり無い!」
突然、図書館にしては大きい女性の声が近くで聞こえた。
館内には『静かに』と紙で書いてあるはずだ。
何だろうと思った僕は、取り組んでいた課題から目線を外した。
他の利用者たちも「何があったんだ?」の表情で様子を伺っている。
それを感じ取ったのか、声を出したであろう女性は「すみません」と小さく謝っていた。
ペコペコお辞儀をしている動作から、かなり申し訳なさそうな様子。
きっと、無意識に声が出てしまったのだろう。
こんなにも静かな図書館で、自分の口から大きめの声が出てしまうと、かなり気まずいはず。
僕が女性の立場だったら、恥ずかしさのあまりに走って逃げるかもしれない……。
声の正体が分かったところで、僕は再び机に向かうことに。
ところが数秒後、横から人の気配を感じた。
誰かが通り過ぎたのだろうと思ったが、
「あの、すみません」
絹のような黒髪が一瞬、僕の視界に入ってくる。
見えた方向に体を向けると、女性が僕の真横に立っていた。
僕とは比にならないくらいの色白な肌。
左右均等に大きくハッキリした二重の目。
目力もあって、ずっと見つめてしまう。
普段は人見知りで、親しい人の目しか見られないのに……。
程よい艶感を持った少し厚みのある唇。
夏使用の白いワンピース姿。
丈が長く、露出しすぎない感じが好印象だった。
僕が通う大学のキャンパスで、こんな人いたかな。
いや、ここ大学の敷地内じゃないか。
「その本、次お借りしたいんですけど、まだ日にちかかりそうですか?」
女性の質問が上手く聞き取れなかった。
というか、違う。
今までに無い感覚が、僕の全身に降りかかってきて、質問どころじゃなかった。
「あの、聞こえていますか?」
「へ? あ、すみません。 えっと、何でしたっけ?」
「えっと、この本、次借りたいんですけど」
僕の間抜けな顔が面白かったのか。
女性は少し笑っていた。
指されたものは『薬用植物学』の本だった。
『僕』に用があるのではないのは確かだ。
「あ、これ! これはその、図書館の本ではなくて、僕のです!」
女性の質問に必死で応えようとしたせいか、無意識のうちに声が大きくなってしまった。
そんな様子に女性はまた少し微笑みながら人差し指を唇に当て、声のボリュームを落とすような素振りを見せる。
僕はすぐに「すみません」と小声で女性に謝った。
「そうでしたか……実は、ずっとその本が貸出中みたいで、なかなか借りられなかったんです。 すみません、私物のものを借りたいとか言ってしまって。 忘れてください」
申し訳なさそうに言いつつも、にっこりと笑っていた。
「お勉強中にすみませんでした」
礼儀正しく頭を下げて、僕から去っていこうとした。
「ちょっと待って!」
いきなり立ち上がり、さっき以上に大きい声を荒げてしまった僕。
さすがに周りの人たちも、仏頂面をしていた。
女性も眉間にシワを寄せ、静かにするようにと人差し指に唇を当て、慌てた様子を僕に見せたが……。
それとはお構いなしに、僕は女性を呼び止めるのに必死だった。
「僕のでよければ貸します! 何なら今からでも! それにあの、多分僕と同じ学部の人が借りていると思うんです。 今、大学生が課題に追われていて、こういう参考文献が必要なので。 僕も借りられないと思って敢えて買ったんです!」
思いつく言葉をどうにか並べて、女性に本を差し出したが、
「あああ、す、すみません!」
女性は周囲の人たちに向けて直角に頭を下げて、僕の手首を突然引っ張った。
頭の中で「しまった!」と反省するはずが、女性に導かれるように図書館の外へ走っていく。
心臓の高鳴りを感じながらも、女性にどう謝るかを走りながら考えていた。
***
エアコンが効いた館内から、湿気と熱気に溢れた外に繰り出され、掴まれえた手首が解放される。
残ったのは、反対の手にある本と罪悪感。
「あ、あの! さっきは、すみませんでした! いきなり大きい声で呼び止めちゃって」
考えた反省の言葉は、やはりぎこちなかった。
こんなことになるなら、机に置いてある鞄まで手に持って帰りたかったが……。
「ふふふっ」
背中越しに、女性の笑い声が聞こえる。
「すみません……いきなり引っ張り出してしまって。 図書館の中だと、気を遣って声が出せないなと思いまして」
僕のほうに体を向けて、女性は事情を話してくれた。
「本のこと、ありがとうございます。 でも、今は課題のために必要ですよね?」
間髪入れずに、女性は僕が持っている本のことを話してきた。
「そ、そうですね」
課題で必要なのは事実。
女性の問いかけに肯定するしかなかった。
僕の返答に微笑んだ女性は、
「大丈夫ですから。 課題、頑張ってください」
懸命に言葉を紡いだのが無駄に思え、がっかりしかけた途端、
「なので、終わってから貸してください」
「え!」
再び大きい声で驚き、端正な彼女の顔を見つめた。
「やっぱり駄目でしたか?」
僕の驚きが、否定に聞こえてしまったのか。
眉を下げて、困った顔を見せてきた。
初対面の女性に言ったら気持ち悪く思わせてしまうかもしれないけれど。
凄く可愛い、この人。
でも、可愛いだけじゃない。
ずっと目が離せない。
「いいえ! 貸します!」
感情が爆発寸前。
外が暑いのと、うるさい心臓のせいで汗が滴る。
「ありがとうございます」
とびきりの笑顔でお礼を言ってくれた女性のことを、昨日のことのように覚えている。
これが香織との出会いだった。




