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今宵、図書館で逢いましょう。  作者: さきみやめぐ
プロローグ

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最期の朝 1

「季節によって香りがある」


そんなことを彼女はよく言っていた。


詳しくは「日本には四季があるから、最低でも4回は香りを感じられる。嗅覚が敏感なら、4回以上の香りを楽しむことができるはず」だと。


僕の隣で体中の感覚を呼び起こすかのように目を瞑り、ゆっくりと深呼吸する彼女。

そんな彼女の横顔が美しいなと思い、ベランダの手すりに頬杖をついていると……。


「誠司?」


彼女は視界を遮っているはずなのに、体の横にも目が付いているのだろうか。

彼女に名前を呼ばれて、僕は分かりやすく驚いた。

僕の行動はいつも彼女にお見通しらしい。

挙動不審な僕の仕草に、彼女は小さく笑っていた。


体を正面に戻すと、重たそうな雲と小雨が降り注ぐ外の景色が映っている。

「今日も雨か……」と溜め息交じりに呟く。


雨を嫌っている訳ではないが、そろそろ晴れてくれないかと飽きていた。

おまけに少し風もある。

ロングカーディガンに包まった彼女を見れば、今朝の寒さがよくわかる。


「仕方ないよ。 もう少しで夏になるから、それまで待たないと」


もう少しと言っても、今はまだ3月下旬。

僕とは対照的に、彼女は前向きだ。

そこが本当に羨ましいし、到底敵わないなと思わせられる。

僕は一生、ポジティブ人間になれそうにないけれど、彼女の隣にいれば、そんな呪いから解放されそうな気がしていた。


自分のことをあまり好きではないが、彼女と一緒にいる自分は好きでいられる。

他人任せに聞こえるかもしれないが、彼女と7年付き合ってきた今もそう思う。


「せめて、明日は晴れてもらいたいかな」

「明日の天気、どうだったっけ」


僕よりも大きい目を開けて、彼女はスマートフォンで天気予報を検索していた。


「どう?」


眉間に皺を寄せて、いかにも天気がそうでもないことが伝わってくる。

そんな彼女の険しい表情も、不思議と面白く見えてしまう。


「……終日曇りだね。 しかもお昼は雨だよ」

「まじかぁ」


明日は僕らにとって大事な日であった。


「てるてる坊主、作っておこうか?」


子どもっぽい彼女の発想に吹き出した。


「僕ら今年で28よ? 作ったところで晴れるかね?」

「誕生日来てないから、まだ27だよ!」


そんな他愛のない会話を朝のベランダで交わした後、それぞれ仕事に行く準備に取りかかった。


僕はいつも通りの時間に家を出ようと動いているが、何だか気だるい。

珍しく午後からの出勤で、時間にゆとりのある彼女ともう少し過ごしたいというワガママが、僕の体を怠けさせるのだろう。


しかも、今日は仏滅の六曜日。

全部雨のせいにしてやりたかった。

歯磨きを終えると、寝室のクローゼットを開けて、スウェットから仕事用の服へ着替えていく。

ワイシャツのボタンを留めている最中、彼女が声をかけてきた。


「ねぇ、誠司。 その恰好だとちょっと寒くない? もう1枚着なくて大丈夫?」


彼女は眉を寄せて言ってきた。


「薬局に行けば、上に白衣着ちゃうし大丈夫。 新しくもう1枚出すのはちょっと面倒だよ」


僕の薄着を心配する会話は、毎朝繰り返される。

彼女は末端冷え性で極度の寒がり。

僕とは体温が明らかに違うのに、こうやって気にしてくれる。

でも僕は、彼女に心配されることが嬉しいなと思っていた。


「今日は一段と寒いよ。 朝から雨降っていて風も冷たい」


ここまで気にかけてくれると、調子に乗った発言がしたくなる。

小学生の男の子が、好きな女の子をからかうみたいに。


「確かに。 僕には涼しくて心地良いくらいだ。 あーあ、仕事休んで、ずっと寝ていたいなぁ!」


彼女の目を見ながら、わざとらしく言った僕に、彼女は嫌そうな顔をして一発叩いた。


「もぉ! すぐそうやってくだらないこと言うんだから!」

「ん? 本当は満更でもないくせに」


からかったせいで、彼女をさらに怒らせてしまう。


「この、エロ薬剤師!」

「おいおい、いつもより言葉が荒いなぁ。 お顔はこんなにかわいいのに」


背の低い彼女と目線を合わせるようにして、片手で彼女の両頬をつまんだ。


「せいじ……はなしてよ……」


喋りにくそうにさせられて、眉を寄せたまま僕をじっと見る彼女。

丸顔が嫌だと彼女は言っていたが……色白で大きな二重の目に、少し厚みのある唇。

正直、コンプレックスなんてどうでも良かった。


彼女の魅力的な顔のパーツを僕はすべて知っている。

愛おしさから、頬をつままれて尖った唇にそっとキスをした。

そして空いていた左手で、人差し指を彼女の眉間に軽く当てる。


「眉寄せる癖、直さないと皺ができますよ?」


不意打ちのキスに、瞬きもせず呆然とする彼女。

こうなると、どんな彼女も可愛くて仕方がない。

傍から見たら、胸焼けしそうなお惚気カップルのやり取りだけど……。

まぁ、他人の視線は気にしないことにしよう。


「……白衣、持ってくる」


彼女は小さくそう言いながら僕の手を払う。

その場から彼女が離れた途端、何かが僕の鼻孔をくすぐった。


「ねぇ、今日っていつもと違う香水使っている?」

「そうなの。 会社の施策品で作った香水で、ラベンダーとローズマリーのブレンドなんだ。 よく気がついたね」

「うん、いつもの匂いと違うなと思って」


普段から香水やハンドクリームを愛用する彼女は、特にラベンダーの香りがお気に入り。

今日はローズマリーというアロマが加わった香水らしい。

いい匂いだったのか、無意識にうちに彼女の後を付いていくようにリビングへ向かっていた。


「おぉびっくりした」


彼女が振り返ると、僕が真後ろにいたせいで、驚かせてしまった。


「ごめん驚かせて」

「あぁ大丈夫。 はい、これ」

「お、ありがとう」


渡されたのは、僕の仕事着である白衣。

綺麗に畳んであって、まるでクリーニングに出してもらったみたいだ。


自分の洗濯はもちろんできる。

けれども、彼女は率先して僕の白衣を丁寧に洗っては、アイロンをかけて、毎週月曜日にこうして持たせてくれる。

その生活がこれからも続くと思うと、心がものすごく満たされる思いだった。

嬉しさから白衣をじっと見つめていると……。


「そういえば私、誠司の白衣姿、見たことない」


彼女の言葉に呼び戻された。

「え? そうだったっけ?」と僕は考えてみるが、目の前の彼女は真剣な表情をしている。


「ねぇ誠司。 今、ここで着てみて」

「え?」


本音を言うと、せっかく綺麗に畳んである白衣を広げることが少し嫌だった。


「お願い誠司。 薬局行かないと白衣姿見られないし、仕事にお邪魔するのも悪いし、今見なかったら一生見られない気がするの」


彼女の言うことは分からなくもない。

白衣は仕事場で着るものだし、患者さんが集まる所に、彼女のように健康な人が遊びに来るところではない……。

だが「一生見られない」はいくら何でも言い過ぎだと思った。


「でもさ、せっかく綺麗に畳んであるのになんか悪いよ」


敢えて彼女の立場を思いやって言ってみた。

すると、満面の笑みを浮かべて「大丈夫! また畳んであげるから!」とあっさり返されたのだった。


「うーん、じゃあ……」


完全に負けたと思い、渋々白衣を広げる。

襟を整えて、ボタンもかけた。


「……」


着替えが終わると、彼女は口を三角に開けたまま、僕をじっと見つめたままでいた。

何も反応が無いので、かえって気まずくなってきた。


「もういいかな?」


脱ごうとボタンに手をかけようとしたとき、彼女の白い手が邪魔してきた。


「ちょっと待って! そのまま……そのままでいて」

「いや、もう仕事に行かないと」

「やっぱ、いいね。 うん、白衣かっこいい、似合っている」


僕を凝視する彼女。

ナチュラルに「かっこいい」と言われ、心臓がドキっと跳ね上がる僕。


「なんか恥ずかしいんだけど」

「本当にかっこいいよ?」


二度目の「かっこいい」発言に耐えきれなくなった。


「もう時間だから……」

「待って!」


その瞬間、ラベンダーの香りが僕の全身を包み込んだ。


「香織……」


どうやらラベンダーの正体は彼女であった。

ローズマリーの香りもするはずが、はるかにラベンダーの香りが強い。


「これからも末永く……よろしくね? あなた」


彼女は僕にしっかり聞こえるよう、言葉を噛みしめながらそう言った。


彼女の表情は見えなかったが……とても喜びと優しさが溢れるように微笑んでいただろう。

そう思うと、僕も同じような表情を浮かべる。


僕がこくりと頷くと、彼女は細身の両腕で力いっぱいに僕を抱きしめてくれた。

彼女の香りをもっと近くで堪能しようと、華奢な体をもっと引き寄せて顔をうずめてみる。


彼女が「苦しいよ」と言ってもお構いなし。

これが幸せというのだろうか。


「白衣、畳んでくる……」

「ありがとう」


彼女の名残惜しそうな声を聞いて、くっついていた体を離す。

健気な彼女は、僕から白衣を脱がし、手際よく元通りに畳んでいった。

温かい感触が消えないうちにリュックを背負い、玄関でスニーカーを履く。


「はい、これ」


小さめのトートバッグに入った白衣を彼女から受け取った。

さっきの熱量からすっかり落ち着いてしまった彼女に寂しさを感じながらも、白衣のお礼を伝える。

すると、彼女は優しい微笑みを返してくれた。


「傘、持っていってね」

「うん。 香織も仕事行くとき気をつけてね」

「うん。 ありがとう」


明日はお互いに休み。

それを励みに、今日の仕事を頑張ってこようと思える。


「考えたらさ、私ら今日で独身最後の日だよ」

「確かに。 それに香織は苗字が変わるからね」

「そうだった! 野上、香織かぁ……」


化粧をしていないはずなのに、チークでも塗ったのかというくらい顔を赤くして上機嫌な様子。

僕らは明日、大安吉日に合わせて婚姻届を提出する予定なのだ。


「明日は帰りに美味しいケーキでも買いに行こうか」

「行く! 絶対に行く!」


そうそう。

この、大きな目がさらにキラキラさせた彼女の顔がたまらなく好き。


「行ってくるね」

「行ってらっしゃい!」


外の雨模様に反して、僕は最上級の笑みを浮かべて、玄関を後にした。

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