土熊②
「出たな」
雄然が、細い目を糸のように細め、興奮を抑えきれない様子で唇を舐める。あわよくば鬼のされこうべを取り戻そうと、雄然は櫻子について来ていたのか。
火界呪を繰り返している夏陽と櫻子の背後に、深紅の気のうねりが現れた。それはまるで、不動明王の背負う迦楼羅炎のようだ。兄妹は、真言が百八回に達するまで、脇目も振らずに数珠を握っている。
橋姫は両手の中に青灰色の渦を作り、光の渦にされこうべを浮遊させる。
『さぁ、鵺よ。このされこうべを頭上に冠して、真の鬼の力を身につけよ』
橋姫が呪文を唱えると、光に包まれた鬼のされこうべが輝きを放った。
「なんと。外法頭を呪詛に用いるのではなく、化け物の身体の一部にするというのか」
雄然が感心したように嘆息する。橋姫は輝くされこうべを高く投げ上げ、それに向かって鵺が飛翔した、その刹那。
されこうべの右の眼窩から、ズドンと真っ直ぐに筍のようなものが生え出して、めきめきと大きくなる。眼窩を突き抜けた筍状のものに内部から押し広げられた頭蓋骨が、圧に耐えかねて割れる鈍い音が響いた。
「何ということ⁉」
橋姫が驚愕して金切り声を上げる。
「あぁ、せっかくの貴重な鬼のされこうべが……」
地上から見上げていた雄然も悲痛な声を絞り出した。一同が固唾を飲んで見守る中、ひびの入った頭蓋骨のすぐそばに、ドロンと煙が上がり、大きな蟇蛙の背に跨った、美しい十二単の女性が現れた。
「滝夜叉姫……」
「滝夜叉か!?」
瑞貴と雄然が同時に呟く。白縹の唐衣に海老色の長袴を穿いた滝夜叉姫は、束ねた長い黒髪を蝦蟇の背の上に垂らし、不遜な表情で眼下を見下ろしている。幼さを残しつつも勝ち気そうな美しい顔立ちが、冷徹さを際立たせる。滝夜叉姫が空中に浮かんだままのされこうべをそっと手に取り、右の眼窩から飛び出している筍のようなものを抜き取ると、それは手の中に収まるほどまで小さく縮む。
『やれやれ、妾の柘植の櫛の歯が、早々に役に立ったようだな。こうもすぐに召喚されるとは思わなんだ』
滝夜叉姫が呆れたように言い放つと、鬼のされこうべはその手の中でバラバラに砕けて霧散した。目標物を失った鵺がヒョーヒョーと鳴きながら、上空を飛び回る。それを見た雄然はがっくりと肩を落とした。
『おや、貂。髑髏に櫛の歯を仕込んだのはお主ではないか。こうなるのは知れたことであろう』
澄ました顔で高飛車に雄然を顧みる滝夜叉姫の妖艶な眼差しを受けて、雄然は何とも言えない顔をする。
『おのれ、怨霊の分際で人間の味方をするのか!恥を知れ!』
橋姫は憤怒に身を震わせ、赤い瞳を爛々と見開き、裂けた口に牙を剥いて、体中を真っ赤にして猛り狂った。滝夜叉姫は冷たい視線でそれに応じる。
『誰の味方をしようが、妾の勝手だ。そもそも、お主の妖術は無粋なのだ。醜悪な付け焼き刃の複合怪物で人間と渡り合えると思うてのことか』
『うちの鵺は完璧や。鬼のされこうべがのうてもな』
橋姫はヒステリックに叫んで両手を広げ、勝鬨橋のはるか下の隅田川の川面から水を吸い上げ始め、臨戦態勢をとった。滝夜叉姫は、不動明王の真言を唱えている法師陰陽師の兄妹を見遣り、鬼と武士たちの戦いを俯瞰し、再度、怒り狂った橋姫を正面から見据えて、溜め息をついた。
『まったく、優雅さが足りぬのだ。妾が本物の妖術というものを見せてやる』
滝夜叉姫は身軽に蟇蛙の背の上に立ち上がり、刀印を結んだ。逆光の中、長い髪と雅やかな着物の裾が風に靡き、美しいシルエットが浮かび上がる。滝夜叉姫が囁くように呪文を唱えると、戦いの繰り広げられていた車道の上に、落ち武者の骸骨の騎馬隊がばらばらと出現した。騎馬隊は地獄からの遣いのように禍々しく黒光りする甲冑に身を包み、馬の蹄の音を高らかに響かせている。落ち武者たちが馬上から火矢を放つと、車道は一瞬で火の海になった。陰陽師の式神たちは紙人形に戻って燃え尽き、傀儡妖怪たちは斃れ、鬼たちは周章狼狽して逃げ惑う。危うく火の手を逃れた瑞貴は、六花の護符で守られている反対側の歩道まで、タカネを連れて慌てて避難した。落ち武者の騎馬隊が、車道を一掃した炎とともに瞬く間に消え去ると、滝夜叉姫は矢継ぎ早にがしゃどくろを召喚した。
「『相馬の古内裏』だな」
橋の上に突如として現れた小山のような骸骨を見て、蒼が呟く。滝夜叉姫と言えば、歌川国芳の描いた、大宅太郎光圀との戦いでがしゃどくろを操る錦絵があまりにも有名だ。がしゃどくろは錦絵そのままに四つん這いで地面に屈み込み、勝鬨橋に大きな影を落とす。橋姫が両手から幾筋もの水を繰り出し、鞭のようにしならせて応戦するが、がしゃどくろの骨にはひび一つ入らない。
『がしゃどくろ。あの醜い怪物を撃ち墜とせ』
滝夜叉姫が命令すると、がしゃどくろは上空を旋回しているキメラ鵺に手を伸ばした。鵺も負けじと熊手と鉈を巧みに操り、がしゃどくろの指の骨を打ち砕く。鵺の蛇の尾から滴り落ちる毒ががしゃどくろの骨を伝うと、緑青色の煙を上げて骨が溶け、穿たれる。
『ようやった。その調子や、鵺』
橋姫が毒々しく笑って気を吐き、自らも大鎌の形の水の塊を、がしゃどくろの上半身めがけて撃ち込んだ。水の砲弾はがしゃどくろのあばらを抉り、肋骨がぐしゃりと音を立てて数本崩れ落ちる。炎に焼かれず歩道まで逃げ延びた数人の鬼たちが歓声を上げた。
『蟇よ。お主の気を少し分けてやれ』
冷静に言った滝夜叉姫を、蝦蟇蛙が上目遣いに見上げ、げっぷをするように黄土色の煙を吐き出す。滝夜叉姫が扇子を広げて煙をがしゃどくろに送ると、砕けた指やあばらの骨が元通りになった。
鵺はがしゃどくろの周りを執拗に飛び回って攻撃を続けた。がしゃどくろは蠅を払うように腕を振り回すが、繰り返される重く鈍い打撃に、まるで取り壊されているビルのようにところどころ崩れていく。
ようやく、夏陽と櫻子が同時に百八回目の火界呪を唱え終えた。夏陽が懐から短冊と筆を取り出し、さらさらと梵語を書きつけると、夏陽の背後の深紅の気のうねりが短冊へと吸収され、金色に輝く護符になる。一方の櫻子は、数珠を掛けた右手を鵺の方へと突き出し、大きな声で一喝した。
「調伏!」
すばしこい動きでがしゃどくろを翻弄していた鵺だったが、櫻子の術にかけられると、急に失速する。
『どうした、鵺。お前は、各々強力な技を持つ妖怪の集合ではないか。それしきのことに抗えぬわけがなかろう』
橋姫が鼓舞するのとは裏腹に、鵺は一度、空高く舞い上がったが、その体から蛇の尾が千切れ、毒を撒き散らしながら隅田川へと墜ちていく。
「形を保てなくなってる……」
鵺を見上げて洩らした六花の言葉通り、五体の妖怪が合体して生まれたキメラ鵺は解体が始まっていた。
『そんな……そんなはずは……』
橋姫は狼狽えて、再び青灰色の光の渦を作って鵺を修復しようとするが、鵺の虎の手足も猿の顔も溶け始め、翼はバランスを崩す。その隙を狙って、がしゃどくろが鵺を平手で打ち落とし、鵺は無残な姿でアスファルトに叩きつけられた。
『お前たち、怖気づくな。まだ戦えよう。まだ……』
橋姫は躍起になって、わずかに生き残っている鬼たちに向かって喚き散らした。それを冷たい表情で見下ろして、滝夜叉姫は扇子を閉じた。そして、自らの仕事は終わったとばかりに、蝦蟇とともにドロンと煙に巻かれ、姿を消した。
生ぬるい突風が吹き、突然、辺りに暗雲が立ち込める。
『もうよい、橋姫。汝の敗北じゃ』
雷鳴の轟のような、地面を揺るがすほどの野太い声が響き、黒い雲の中から漆黒の肌をした巨大な鬼が現れた。
『土熊様!』
雲の中の黒鬼の顔を仰ぎ見て、橋姫は叫ぶ。他の鬼たちは皆、怯えたように畏まり、地面にひれ伏した。橋姫は一人立ち上がり、懇願するように声を張り上げる。
『うちらはまだ戦えます。来たるべき鬼の帝国のために……』
『橋姫。これ以上、傷口を広げるな』
雲の中に現れた鬼が縋る橋姫を遮り、ぴしゃりと言い放った。
『けれど、土熊様……!』
『本意無し。時期尚早であったな、橋姫』
愕然とした表情の橋姫に向かって、夏陽が数珠を突き付ける。
「縛」
夏陽が唱えると、橋姫と配下の鬼たちは金縛りにかかり、微動だにしなくなった。黒い鬼は憐れみを込めた眼差しを残し、雲の中へと掻き消える。夏陽は金色に輝く護符を風に乗せて飛ばし、合掌した。
「蘇婆訶」
夏陽の最後の一言とともに、橋姫と鬼たちは消滅した。それと同時に橋姫の異層が破れ、勝鬨橋の上に現世の風が吹く。
「今後はおとなしく祀られていろ」
喧噪の戻った勝鬨橋の歩道の上で、夏陽が遠い目をして呟いた。
※カクヨムでも同じ作品を掲載しています。カクヨムでは章ごと、なろうではパラグラフごとの掲載です。




