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夜半の階梯 ―宵のハコブネ②―  作者: 朔蔵日ねこ
人魔相殺

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人魔相殺②

 あれだけの濁流に溺れかけて、熱も出なかったのは幸いだった。妖魔に襲われることへの免疫がだいぶついてきたようだ。橋を封じてもらったお陰なのか、橋姫からの追手がかかることもなく、瑞貴は平穏に過ごしていた。ぬらりひょんといちかからは丁重な謝罪があった。ぬらりひょんは再度、単身、橋姫の居城に赴いたそうだが、結界が強化されており潜入できなかったらしい。いちかは引き続き『洛中あやかし台帳』をフォローしていたが、ブログの更新も止まっていた。二人とも、自分たちがそばにいながら宝珠を失う事態にならなかったことで、刻一に感謝しているようだった。

『僕、寒月峰神社って、初めて行くんです』

「いや、一緒に行っていいって、言ってないですよね」

 夏休みが始まって、秩父へ行く特急の瑞貴の隣の座席に、なぜかカブソの刻一が座っていた。鮮やかな緑色ビリジアンのボウリングシャツを着た刻一は、大きなクロスバッグを抱えて爽やかな笑顔を浮かべている。

『そんなつれないこと言わないでくださいよ。僕は宝珠さんの命の恩人なんですから』

 自分で言うのはどうかと思うが、それを言われると、ぐうの音も出ない。瑞貴は黙って窓の外に目を向けたが、刻一はなおも嬉しそうに話しかけてくる。

『宝珠さん、人魔相殺はいつにしましょうか』

「だから、人魔相殺はまだできないって言ってるじゃないですか。中和のオーラがまだ作り出せなくて……って……」

 刻一を振り向き、少し語気を荒げて言った瑞貴は、きょとんとした顔で見つめられて、語尾が尻すぼみになる。

「……すみません」

『できますよ』

「えっ」

 真顔で即答した刻一を、瑞貴は目を丸くして見返す。

『言ったでしょう、助けに行った日に。思念が流れ込んできて、ピンと来たって。宝珠さんはもう、人魔相殺ができる力を備えてるはずです』

「いや、そんなこと……」

『僕はちゃんと感じたんです。時が満ちたって。だから、大丈夫です』

 確信的に言ってにっこりと微笑む刻一を、瑞貴は変な顔で眺めた。ふざけたり揶揄ったりしているようには見えない。刻一は純粋な眼差しを瑞貴に向けたまま、尋ねる。

『宝珠さんはいつまで秩父にいらっしゃる予定ですか?』

「何もなければ、お盆が終わるまでいるつもりですけど」

 今年も八月中の二週間あまりを秩父で過ごす予定だった。お盆には千歳も合流する。吏からは、去年に引き続き納涼祭で巫女舞を奉納するように言われていた。

『分かりました。じゃ、また頃合いを見て、お伺いしますね』

 頃合いということは、また思念とやらを覗きに来るのだろうか、と瑞貴は刻一の楽しそうな横顔を盗み見て、溜め息をついた。

 寒月峰神社までついて来るのかと思われた刻一とは、意外にも秩父駅で別れた。まずは秩父で観光を楽しむつもりらしい。ぬらりひょんといい刻一といい、優雅なものだが、彼らはどうやって収入を得ているのだろうかと、瑞貴は不思議だった。

 いつも通り、美弦に迎えに来てもらい、瑞貴は寒月峰神社に向かった。夏の暁父山は、よく晴れた青空の下、蝉の声が賑やかだ。山道は鬱蒼とした高い木々に守られて、風が青々とした香りを運んでくる。瑞貴が物心ついてから暁父山に戻ったのは昨年が初めてだったが、帰ってくるたびに懐かしさを覚えた。

「橋姫の根城に行ったのか。大変だったね」

 駐車場から神社まで山道を歩く道すがら、瑞貴は橋姫の居城でぬらりひょんやいちかとともに見聞きしたことを美弦に報告した。

「橋姫が妖怪を操る方法は分かったんですけど、どういう目的なのかは分からなくて」

「兵士って言ってたんだろう。それなら、やっぱり誰かと戦うつもりなんじゃないかな」

 美弦は蒼と同じことを言った。妖怪同士の争いなのか、人間に戦いを挑むつもりなのかまでは分からない。ただ、きな臭いことには変わりなかった。

 離れに到着すると、いつも通り蔦子が昼食を準備して待っていたが、晴海はもちろん、吏も不在だった。

「宮司様が、あとで拝殿に来るようにっておっしゃってたわ」

 蔦子から晴海の言伝を聞いて、昼食後に瑞貴は美弦と一緒に神社へと赴いた。瑞貴が来て早々に、晴海から神社に呼ばれるのは珍しい。参拝がてら拝殿の中を覗くと、晴海がちょうど一組の参拝客の御祈祷を終えたところだった。

 晴海は瑞貴と美弦を連れて、本殿に足を運んだ。神社の本殿は、一般的に拝殿の奥にあって御祭神を祀っている建物で、普段は神主でもみだりに立ち入ることのできない神聖な場所である。寒月峰神社の本殿に、瑞貴は一度だけ入ったことがあり、そこには神社の御祭神と並んで、先代の宝珠・祀が作り出した未完成の八葉の花が安置されている。

 晴海は本殿の扉の鍵を開けて中に入り、行灯に火を点ける。本殿の中の灯りは四隅にある行灯だけで、火を灯したのは一つだけだが、揺らめく炎が辺りを明るく照らした。中央に朱塗りの階段のついた厨子が浮かび上がる。階段の半ばの踊り場に瑠璃色の花瓶が置かれ、黒鉄の茎に鼈甲のような花びらをつけた花が直立している。花弁はまだ四枚しかなく、待ち侘びるように寂しげに花を咲かせていた。

 晴海は厨子と八葉の花に一礼すると、厨子の裏手に回った。奥の行灯に火を点けた後、晴海は徐ろに床に屈み込む。炎の揺らめきに合わせて歪む晴海の影が、本殿の床に落ちる。晴海が一メートル四方ほどの床板を外すと、地下へと続く階梯が現れた。

「下は蔵になっている。足元に気をつけろ」

 木でできた階梯の最上段に懐中電灯が備えつけられている。晴海はそれを手に取ると、先に立って階梯を降り始めた。瑞貴と美弦もそれに続く。古めかしい木の階梯は、一段降りるたびに軋んで心許ない。瑞貴は足で探り探り、踏み外さないよう慎重に歩を進めた。

 蔵の中はひやりとしていた。壁は石造りで、本殿よりわずかに広く、天井の四辺に一つずつ、小さな明り取りの四角い窓がついている。蔵には電気が引かれており、天井から裸電球がぶら下がっていた。晴海が裸電球を点けると、蔵の中は本殿よりも明るくなった。

 瑞貴は辺りを見回す。がらんとした蔵の中に、扉のない棚が設置されている。木の枠と板を組み合わせただけの簡素な棚に、大きさの異なる二十ほどの箱が保管されている。

「これは、今までに人魔相殺を受けた妖魔たちの奉納品だ」

 瑞貴ははっとして顔を上げた。話には聞いていたが、心の準備もないまま実物を目の当たりにするとは。瑞貴は一度、美弦の顔をちらりと見て、一歩踏み出した。

「人魔相殺した妖怪の身体の一部は、その者の寿命が尽きた時にともに消滅する。我々神職は年に一度、すべての箱の中身を検めるのだ」

 棚に沿ってゆっくりと瑞貴は歩いた。箱の蓋にはそれぞれ箱書きがあり、妖怪の在所や名前、日付などがしたためられている。狐狸など人間に化けられる動物妖怪のものが多いが、河童や天狗など色々な妖怪の奉納品がある。河童の箱には『皿』、雪女の箱には『髪』と記されており、中身も様々のようだ。その中に、『暁父山 瀬尾稲荷之狐』と書かれた箱を見つけたが、これは雪絵のものだろう。もちろん一番古いのは、『伊賀国 御斎峠之貂』と書かれた雄然の箱だった。瑞貴は感慨深げにその箱を眺めた。

「瑞貴。お前は、生まれ変わりたいと思ったことはあるか」

 唐突な晴海の問いかけに瑞貴は戸惑った。棚の箱の箱書きを読むのに屈めていた背を伸ばし、晴海を振り返る。

「……いえ、ないです」

 おずおずと答えた瑞貴に、晴海は頷く。眉間に深い皺の刻まれた晴海の顔は、威厳に満ちていた。

「妖魔がなぜ、人魔相殺の契りを交わしたいと願うのか、その理由を考えてみなさい」

「理由……ですか」

 最初に刻一に人魔相殺をしたいと依頼された時に、瑞貴は理由を尋ねた。それに対して刻一は、人間の感情を味わいたいと答えたのだ。その時、瑞貴はあまり深くは考えなかったのだが、それまでの自分を捨てて、別の生き物になるというのは、果たしてどんな気持ちなんだろう。雪絵は、そして雄然は、なぜ人間になりたいと思ったのか。

「考えたところで、答えは見つかるまい。妖魔によってその理由は異なるからな。だが、答えがないからと言って、考えずとも良いということではない」

 生まれ変わりたいと思ったことはあるか、という晴海の問いが、瑞貴の心を揺さぶった。人魔相殺を望む妖怪にとって、それは彼らの生活や環境や、ともすれば自我を棄ててまで手に入れたい何かなのだ。身体の一部まで捧げて、生涯を賭けるほどの何か――。

「一個の生命を預かる重みに気付くことだ。人魔相殺は、その妖魔の生き様と死に様に深く関わる契約であることを忘れるな」

 瑞貴は固唾を飲み込んだ。今まで、人魔相殺の方法や技術にばかり目が行って、人魔相殺とは何かということを考えたことはなかった。

 瑞貴はもう一度、目の前の棚に並んだ大小の箱に視線を移した。古びて黒ずんだ木の箱から、妖魔たちの決意が伝わってくるような気がして、瑞貴は大きく息を吸い込んだ。

※カクヨムでも同じ作品を掲載しています。カクヨムでは章ごと、なろうではパラグラフごとの掲載です。

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