人魔相殺①
『宝珠さん、大丈夫ですか?』
やけに爽やかで整った顔が、瑞貴を覗き込んでいる。
(誰だっけ……?)
朦朧とした意識の中で、瑞貴は考える。眼鏡をかけて、人懐っこく柔らかい微笑を浮かべている青年の名前を、思い出せそうで思い出せない。
『しっかりしてください。宝珠さんに死なれると、僕は困るんです』
「刻一さん……?」
ようやく、瑞貴は相手がカブソの刻一であることを認識した。覗き込む刻一の顔の向こうには暗くなった空が広がり、石の橋桁が見える。
(おかしいな……。まだ、昼間だったはずなのに……)
時間の感覚はなかったが、どうやらあの世ではないようだ。
全身が痛くて重くて冷たい。瑞貴はやっとのことで身を起こしたが、そこはまだ川の浅瀬の中で、水深は十センチほどだが、ふんだんにレースをあしらった瑞貴のドレスを今なお、川の水が濡らしている。
「ぬらりひょんさんといちかさんは……?」
瑞貴は辺りを見回した。どこの川かは分からないが、宇治川より川幅が狭く、両岸がコンクリート護岸になっていて、水量が少なく全体に浅いようだった。近くにぬらりひょんやいちかの姿は見当たらない。
『僕は、宝珠さんしか見つけられませんでしたけど』
と、刻一は首を傾げたが、すぐに笑顔を取り戻す。
『妖怪なら大丈夫です。みんな、身を守る術を持ってますから』
なるほど、そう言われれば、生身の人間は瑞貴だけだった。
「それにしても、どうして、刻一さんが……?」
瑞貴の背に手を添えていた刻一は、答える代わりに突然その場でポン、と姿を変え、赤い浮き輪になる。そして、くるりと回ると一度、カブソの姿になってから、元の爽やかな青年の姿に戻った。橋姫の水の渦に押し流されていた時に縋った赤い浮き輪は、刻一が化けたものだったのか。刻一は正面の頭上に見える橋を指さして言う。
『あの橋の横のベンチでコーヒーを飲んでたら、急に宝珠さんの思念が流れ込んできたので、異層を通って探しに行ったんです』
「思念……」
『すみません。僕、宝珠さんが人魔相殺できるようになったら、すぐに察知できるように、時々、宝珠さんの思念をモニタリングさせてもらってたんです。あ、ストーカーとか言わないでくださいね』
にこにこして恐ろしいことを言う刻一の顔を、瑞貴はまじまじと見た。監視されていたというのは初耳だし、あまり気持ちの良いものではない。しかしそのお陰で命拾いしたのは事実だ。
「いや、あの……まぁ、本当に死ぬかと思ったんで……ありがとうございました」
『どういたしまして。今回はピンと来て、すぐに探しに行ったんです。僕は水は得意なので。宝珠さんが無事でよかったです』
とりあえず礼を言った瑞貴に、刻一は事もなげにそう言った。やり方はともあれ、人魔相殺をそこまで心待ちにしている刻一を見ると、瑞貴は自分の力不足が申し訳ないとすら思えてくる。
『あ、でも……』
刻一は一瞬、その端正な顔から笑顔を消して、考え込みながら言い淀む。
『僕が迎えに行って、宝珠さんをあの濁流ごとぶち抜いてきちゃったんで、どこかの異層とこの川がつながっちゃいましたね』
「ここ……どこですか?」
瑞貴は川の浅瀬に浸ったまま、上の方を見上げた。橋の真下に近いところにいるので、その上がどうなっているのかはよく分からないが、高さのある護岸の上にはビルが並んでいるのが見える。右側の岸には、河原を模したような丸石を嵌め込んだテラスがあり、橋の脇から階段で上り下りできるようになっていた。背後の橋梁には時々電車が通過し、車の音もするので道路も近いようだ。どうやらそんなに田舎ではなさそうな感じがする。
『神田川です。高田馬場ですよ』
そこは、瑞貴が思っていたよりさらに都会だった。神田川は東京都心を横切って流れる一級河川だ。刻一の言った通り、宇治橋と神田川のこの橋がつながってしまったのだとしたら、どうなるのだろう。橋姫は橋を拠点にしている妖怪だ。橋姫が異層を通って簡単に東京に来られるようになったらと思うと、ぞっとする。
そんなことを考えながら、瑞貴は盛大なくしゃみをした。ウィッグは失ってしまったが、ゴスロリドレスのまま全身ずぶ濡れで、靴も履いていない。夜の都会とはいえ、こんな恰好でうろついていたら職質されかねない。ましてや、川の中にずっと座り込んでいたら通報案件だ。瑞貴は思い出したように、自分の持ち物を検める。いちかからドレスとセットで借し出されたエナメルのショルダーバッグは無事だった。ただ、中に入れていたスマホは濡れている。かろうじて起動することはできるが、SIMは駄目になっているようだった。
瑞貴はしばらく逡巡した。時刻は午後八時になろうとしている。刻一にスマホを借りて、いちかばちか陣野医院に電話をかけた。幸い蒼につながり、車で迎えに来てもらえることになった。
『じゃ、宝珠さん。また近いうちにお会いしましょう』
テラスから階段を上がり、柵を乗り越えたところにある駐輪場で瑞貴は刻一と別れ、まもなく蒼に保護された。
蒼は瑞貴をBMWの後部座席に乗せると、無言でタオルと着替えとホットココアの缶を渡して車を発進させた。座席には周到にブルーシートが敷いてあり、瑞貴は礼を言って濡れたドレスを脱ぎ、蒼の持ってきたスウェットに着替える。
蒼は近くのファミレスまで車を走らせ、駐車場で車を停めた。瑞貴はようやく着替えを済ませ、濡れた衣服を丸めてブルーシートに包んで、後部座席に収まっていた。その間、瑞貴は橋姫の居城で目撃したことや刻一に助けられて神田川まで戻ってきたことを蒼に報告した。
「兵士か……。戦争でも始めるつもりか」
瑞貴の話を最後まで聞いて、蒼は険しい表情をする。瑞貴がタオルで濡れた髪を拭きながらホットココアを開けて飲んでいると、蒼は徐ろに電話をかけ始めた。早速、今しがた瑞貴から聞いたばかりの話を誰かに伝えている。
「――ええ。高田馬場の神高橋です」
口調からして、相手は六花ではなさそうだ。蒼は低い声で手短に用件を伝えると、電話を切った。
「民保協ですか」
「ああ。佐竹統括だ。もし本当に宇治橋と神高橋が異層でつながったんだとしたら、橋を封じることも考慮しないといけないからな」
「封じる……?」
蒼は、運転席からちらりと瑞貴を顧みたが、すぐに前方に向き直って言った。
「今や民保協には、陰陽師がいるからな」
ああ、と瑞貴は頷いた。今邑夏陽は現在、国の管理下にあるが、民保協からの要請で陰陽師として出動させることが可能になったと聞いている。宝珠を仕留め損なった橋姫が追ってこないとも限らないが、陰陽師によって橋が封じられるのならば、多少は身の安全が確保される。それを聞いて瑞貴は少し安心した。
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